「んぅ~~~~~~~~~っ!?」
目を覚ました直後に降りかかったのは、消し去ることもできない羞恥だった。ベッドの上でうつ伏せになるアストレアは襲い掛かる己の所業に悶絶の呻き声を発しながら、両足をジタバタ。見慣れた本拠の自室で目を覚まし、壁にかかっている時計が朝の時刻を示しているのを理解して、ぼんやりとした頭から急激に昨晩のあれこれを思い出したアストレアはそれこそ声にならない悲鳴をあげて憤死寸前に陥っていた。
「わ、わわ、私はなんてことを……っ!?」
デメテルを抱きかかえて飛んで行った―正確には跳んだが正しいらしい―ベルにモヤモヤと嫉妬して、アミッドと途中から巻き込まれたミアハに自棄酒に付き合ってもらって、ベルに待望だった『お姫様抱っこ』&『お持ち帰り』してもらったり、その後は入浴代わりに身体を拭いてもらったり―その際には脱がしてもらいもしたし現在もまだ産まれたままの姿だ―仕舞にはお手洗いに連れて行ってもらったわけだけれど、ベルが出て行こうとするのをとてもとても寂しく感じてしまったアストレアちゃんはベルに抱き着いて阻止。耳を塞いでせめて聞かないようにしていた彼にこれまた抗議するように上目遣いになって潤んだ瞳で「どうして撫でるのをやめてしまうの?」なんて言ってしまって……。
「ァアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!?」
バチグソ恥ずかしいことを愛しい眷族にさせてしまってるぅー!
出て行かないで、置いていかないでみたいなこと言って困らせて抱き着いておきながらせめて聞かないようにと配慮してくれたにも関わらずそれすらやめさせて女神の『粗相』で耳朶を震わせてしまってるぅー!! 14歳の、年頃も年頃の男の子に、いい歳こいた
「神はどうして私から酔っている最中の記憶を消してはくれなかったの……!?」
ベッドの上はアストレアただ
「アルフィアごめんなさい、貴方の愛息子は…裸で用を足す女性に欲情してしまうという
らしくもなく、大人の女性というよりは少女なみに幼児退行しかけている女神は今は亡き少年の義母に心の底から謝罪する。もしこの場に彼女がいたのならば冷め切った目で、表情筋が絶滅したその相貌で見下ろしながら言うだろう。まず服を着ろ
「……こんなこと、誰にも言えないわ」
ぐすん。
恥ずかしさのあまり目尻から涙だって浮かんできて、弱々しく言葉が漏れる。こんな恥ずかしい話、たとえ眷族が知っていたって「お願い、墓場まで私の恥を持って行って。誰にも言わないで」なんてお願いして秘匿中の秘匿……ブラックボックス化してもらうしかない。というか、誰にも言えるわけがない。フレイヤあたりは鼻で笑って「あらあら、アストレアったらそういう趣味があったのね。あら?貴方が司っていたのは何だったかしら……ええと、そう、確か『性技』だったかしら?」なんて言われかねない。
「
自分が女神であることも忘れたか、もう
「……アストレア様、大丈夫ですか?」
いつの間にか件の少年が帰還していたことに。彼は汗を流してきた後なのか、皆が気に入っている白髪が湿ったままで肩にタオルをかけていて、ベッドの前で膝をついて覗き見るように―心配そうな眼差しで―アストレアのことを見ていた。ぱちくりと藍色と
「くぁwせdrftgyふじこlp…………うきゅぅっ!?」
声にならない声のような悲鳴をぶち上げ、アストレアは咄嗟でシーツで肢体を隠し尻餅をついたまま後退。しかしベッドのサイズを見誤ったか、そのまま後ろへとずり落ち、ごちんッと頭を打ち付けた。
「ア、アストレア様ぁーーーー!?」
目をぐるぐると回し、顔を真っ赤にし、肢体を隠していたシーツもベッドから転げ落ちたせいでずり落ちて、羞恥に羞恥を重ねて顔を真っ赤に染めたアストレアは悲鳴を上げて駆け寄ってきたベルに助け出された。そこから気を落ち着かせるのに10分近くの時間を要してしまった。抱きしめてくれるベル―取り乱したあまり抱き着いてしまった―に己の暴れ狂う胸の鼓動など筒抜けだろうが、彼は何も言わず背中を摩ってくれる。
(嗚呼…こんなに優しく育って……)
『お母さん』というよりは『お姉さん』な女神ことアストレアは、変に感慨に耽ってしまうのだった。
「だ、大丈夫ですか?」
「え、えぇ……ありがとう、ベル、その…見苦しいものをみせてしまったわね……」
ベッドのすぐ側、ベッドに腰かけて水の入ったグラスを両手で包むようにして持つアストレアは喉に水を流して心配するベルへと感謝と謝罪を贈った。
「
「ぐふぅっ!?」
言葉の意味をどう受け取ったのか、ベルの言葉に一々アストレアは動揺してしまう。しかしここは女神、動揺していては恰好が付かない。彼女はなんとか平静を装って努めて、落ち着いて、言葉を、紡いだ。
「そ、そそ、それより、ベル、貴方、け、けけけ、【剣姫】のところへ行っていたんじゃないかしら?」
「…行ってきましたよ?」
「きょ、今日はもう……いいの?」
「アストレア様を放っておけないから……今日は早めに終わらせてもらったんです」
「そ、そう……」
「…………」
「…………」
気まずい。
着替えも既に済ませて、くぴくぴと水で喉を潤しては、チラチラとベルの方を見るけれど部屋に漂う空気はとても気まずい。隣り合って座り、肩と肩が触れ合う距離で、ベルはアストレアをチラチラ、アストレアはグラスを持ったままの両手を股の上に持ってきてモジモジ……チラチラ。何かを言おうとして、けれど先程までの醜態もあってか目が合うとすぐに顔を逸らしてしまって碌に会話にならない。この光景を他の眷族達が見たならばもどかしさのあまり壁を殴っていたかもしれない。
「………」
「ア、アストレア様?」
無言で、アストレアは身体をわずかに傾け、ベルの肩に己の頭を乗せた。ベルはアストレアを心配しつつも退かせようとはせず、ほんのり紅潮させた頬を瞳に映して喉を鳴らした。
「……アストレア様、えと」
「?」
「アストレア様さえよかったら…なんですけど、一緒に、出掛けませんか?」
「…………はい?」
「いや、その、昨日のアストレア様、随分、落ち込んでたっていうか……だから、その……」
「…………それはつまり、『でぇと』の…誘いなの、かしら?」
「…………アストレア様の体調さえ、よければ」
頬を紅潮させて言外に「そうだ」と言うベルに、アストレアの胸が跳ねた。ベルからの『お誘い』なんて今まであっただろうか……そう思うくらいの出来事だ。酩酊していたことも、先程まで羞恥に悶えていたことも忘れて、アストレアは目を見開き、勢いよく立ち上がり、胡桃色の長髪を揺らしてベルに振り返る。そこには、花咲く少女の如く笑みがあった。
「今日……行きましょう」
「え?」
「今日が、いいわ」
「で、でも、体調は……」
「既に全快よ」
嬉しさの余り全快せしめたアストレア様はいそいそと支度をはじめる。
「ベル、南西のメインストリート、アモールの広場に集合よ」
「え、ちょ、アストレア様!? どこに!?」
嬉々として顔色を変えてアストレアは状況についていけないベルを置いて出て行った。何せ
アストレアが出て行って少しして、ベルもまた出て行くことにした。
「あれ、ベル、また出かけるの? さっきアストレア様がめちゃくちゃウキウキしながら出て行ったけど」
「え、あ、うん……アミッドさんのところに寄ってから、待ち合わせ場所に」
本拠内に誰かいないか、と部屋を覗いているとリャーナ―眼鏡をかけている―を発見。自室で何やら勉強でもしていたのかダンジョンに関係する書物や情報誌がテーブルの上に広げられていた。普段はつけていない眼鏡をかけたリャーナの姿は『女教師』や『家庭教師』なんて言葉が相応しく、顔を覗かせたベルに気付くと優しく微笑んでは「こっちに来る?」と手招きまでしてくる。隣に座り、アストレアがウキウキで出て行った理由やらこの後の予定やらを話す。
「へぇーベルから誘うなんて……初めてじゃない? いいなあ」
「うっ……やっぱり、まずかったですか?」
「いやいや、むしろいいことでしょ? 今度私も誘ってよ」
「ん? うん、わかり……ました?」
頬杖をして柔らかな微笑を浮かべて、ベルの頬を突くリャーナ。彼女はベルに「どこに行くか決めているの?」「冒険者墓地?……いや、
「リャーナさんでもこういうの読むんだ」
「そりゃあ、なかなか縁がなかったけど、世の恋人達はどういうことしてるのかーとか。自分だったらーなんて妄想したり……興味はあるわよ」
「ふぅん」
「何…ちょっとむくれてるのよ。安心しなさいよ私達がベル以外の男を選ぶことはないから」
「……別に何も言ってないですよ?」
「顔が言ってるわよ? お姉ちゃんとられたくなーいって」
「…………」
「はあー……ほんっと可愛い。弟可愛いわ、ムサイ冒険者は腐るほどいるけど可愛い系って希少だから……はぁー……アルフィア、ほんっとうにありがとう」
「??」
「こほん、なんでもないわ。とにかく
「う、うん」
ペラペラと
「いいんですか、帰ってこなくて」
「帰ってきてくれたら安心するけど……せっかくの逢瀬なんだし、どこかに泊るくらいしてきたら? 本拠に帰って来たらきっとアリーゼ達に何をしてたのかあれこれ聞かれるわよ?」
「む……確かに?」
「あー……でも、宿に泊まるくらいなら廃教会に泊る方が無難かもしれないわね」
「……どうして?」
「考えてもみなさいベル。2人きりで宿に泊りに来た……それこそ頬を染めたアストレア様なんて見られたら、次の日には尾ひれのついた噂が都市中に広まるわよ」
「た、例えば……?」
「例えば……そうね、本拠に帰らず2人きりで頬を染めて宿に泊る……」
「うん」
「聞こえるシャワーの音に、ベッドの軋む音……次の日にはどこか関係が進展した感のある雰囲気を纏ってるわけ」
「う、うん」
「宿の店主は思うでしょうね。ああ、このガキ、アストレア様とチョメチョメしたんだ……って」
「!」
「噂っていうのは広まる速度がすごいからねえ……広まってる間に神々にまで知られて、尾ひれや背びれがついてって……って十分、あり得るわ」
「そ、それは、よくない!」
「でしょ? だったらまだ、宿をとるんじゃなくってあえて廃教会に泊った方が安全。私達も2人がどこにいるのかだいたい把握できたら、何か都市で問題が起きた時に見つけやすいから安心できるし……」
リャーナはベルの手をとって立ち上がり、玄関の外まで送り出す。振り返ったベルの頭をぽふぽふと撫でて「楽しんでらっしゃい」と言って、どこに行くのか迷った時のために『
「ベルの方から誘うなんて、あの子も成長してるのねえ……」
なんて感慨に耽りながら、再び自室に戻ろうとするリャーナ。そもそもベルに発現した【
「………あの子、そういう趣味があったの?」
せめて紙袋に入れておくとかして隠しておきなさいよ、と眉間を摘まみ適当な紙袋を取り出して「ベルの」と書き、帰って来たら本人がわかるように
「性癖に口を挟むことはしないけど……人それぞれだし…頭ごなしに否定するのもよくない……でも、相手の同意を得てからにしなさいって帰って来たら教えてあげないと……でも、ねえ……ベルったら……そういうのがいいんだ……リオン、大丈夫かしら……」
× × ×
神聖浴場
一言で表すならば、そこは楽園であった。
「おぬし、やはり大きくなってはおらんか?」
「
下界の者――子供たちがこの場に居合わせれば、鼻から血を吹き出して倒れていっただろう。薄く立ち込める湯気の中、眩しい肢体のラインを、豊満な体付きを、何も身に付けていない生まれたままの裸身を、美貌を誇る女神達が惜しみなく晒している。そこは確かに男児たるものが一度は夢見る、天の楽園に違いなかった。
「あらアストレア、ベルは連れていないの?」
「デメテル……ここは神のみが入浴を許された場所よ?」
「うふふいいじゃないそんな細かいこと。あの子1人混じってたってバレないわ」
「バレるわよフレイヤ。貴方、過去にあの子を追い回して
「何、ベルは来ておらんのか!? 何故じゃ! あの熟れていない果実を皆で食べようと約束したではないか!」
「していないわ」
「涙目になって逃げ回る
「女神の手によって性癖を開拓されていく子兎……じゅるりっ」
「ううん……」
波を立てて剥き出しの肩までお湯に浸かるアストレアは、口端をひくつかせて
「ああそうそう、昨日は兎さんを貸してもらったわ。ありがとうアストレア」
「……どういたしまして、デメテル」
「あら、怒ってる?」
「いいえ、怒ってなんていないわ。ぜーんぜん、怒っていないわよ?」
並々ならぬ大きすぎる胸はデメテルの一挙手一投足に揺れ、水面を大きく震わせる。それに同性の女神達は「くっ……」「あれが豊穣……」「なんて凶器……!」と悔し気に歯を食い縛り、アストレアはそんなデメテルの胸と己の胸を見比べて、「大丈夫、あの子は十分、私がいいと言ってくれているわ」と何故か心の中で自分自身をフォロー。それを見抜いたのかフレイヤはクスクスと笑う。
「あの子ったらデメテルを抱いて……
「!?」
フレイヤの口から凄かった発言。
アストレアはあからさまに狼狽えた。
周囲にはアストレアを囲うように女神達が集まってきており、「おお、相変わらず良い身体をしておるではないか」「この乳にあの兎っ子は育てられたのか」「やはり逆光源氏だったのね?」「ちょっとアストレア、1年レンタルさせて」とお構いなしなことばかりを言っている。そこにフレイヤである。女神達もまた「デメテルを抱いた……だと!?」「これは私もワンチャン……?」「アストレアが本命ではなかったの!?」「浮気? 浮気なの?」と混ざる混ざる。
「私も……シてほしかったわ……あんなに
「!?!?」
腕を組んでそこに胸を乗せたフレイヤは言う。自分が見たものを。アストレアは狼狽える。デメテルを見て、フレイヤを見て、そしてまたデメテルを見た。
(抱いた? 力強く? 密着して? せいちょ……成長……!?)
「下手をしたら落ちて、壊れちゃって……送還されていたかもしれないっていうのに」
「お、堕ち!? そ、そんなに激しいことをしたというの!?」
両手で頬を覆い、アストレアは俯いた。ぱしゃっと湯が跳ねて、水面が揺れる。反射して映るアストレアの瞳はこれでもかと泳いでいて、脳内ではデメテル相手に激しいナニかをしている絵面を想像してしまっている。周囲の女神達もまた「あの子はあんなに可愛い顔をしていながら、豊穣の女神をひいひい言わせるほどのモノを!?」「可愛い兎だと思った? 残念☆ 狼でした! ってやつ?」「女神を堕とすほどのワザマエを……ごくり」「やばたにえん」とベルのあれこれを妄想しはじめ、中には鼻血まで垂らすものまでいた。ここに三大処女の1柱でもいようものならブチギレ案件だが、残念ながらここにはいなかった。
「デ、デメテル……大丈夫…………な、の?」
「ええ、何も問題はなかったわ?」
気持ちよさそうに湯に浸かり、弛緩した表情を浮かべているデメテルは話を聞いているのかいないのか、そんなことを言う。そう、何も問題は起きなかった。だって運んでもらっただけなのだから。間違っても豊穣の女神様×2との乱戦なんて起きてはいない。本当だよ? 本当なんだから。
「……………」
「それで、あの子も頑張ってデメテルの無茶振りを聞いてくれたから……ご褒美をあげたのよ」
「……………ご、ご褒美」
「……フレイヤ、あまりアストレアを虐めてはだめよ? あの子に嫌われても知らないんだから」
「もう、仕方ないわね……ごめんなさいアストレア。安心して、あの子の『初めて』は貰っていないわよ。ただ、デメテルを連れて来てくれたお礼に『
「『
「フレイヤ、貴方が虐めすぎるから勘違いしちゃってるじゃない」
「うふふ……『
「………き、清めないと……う、上書きしなくては……!?」
完全に焚きつけられてしまったアストレア。目に見えてわかるほどには動揺して、ふらふらと立ち上がった彼女は布で身体を隠すことも忘れて浴場を後にする。
「アストレア、本当に何もなかったのよ?」
「うぅ……うぅぅぅ……」
デメテルが後を追いかけてくるも耳に入っていないのか、呻き声が漏れ出る。そんなアストレアに「おお、正義の女神が無残なことに……」と女神達。
「……デメテル」
「な、なにかしら?」
「決めたわ」
「……?」
扉に手をかけて立ち止まるアストレアは悟りを開いたような微笑を浮かべて、目尻に涙を浮かべてデメテルへと振り返る。デメテルはアストレアの瞳に何か覚悟を決めたようなものを見た。
「………私で、あの子を上書きしてみせるわ」
「…………ま、まさか、アストレア!?」
「だ、誰にも、奪わせたりしないんだから……」
「つ、ついに……その時が来たというのね!? 手伝えることはある!? 宿の手配!? いいえ、何か、そう、割引の効くようなものとか、と、殿方との連戦が可能な各種
「……いいの、いいのよデメテル、気持ちだけ頂くわ。大丈夫、初陣で
「ごくり……戦果を、期待して、いいのね?」
アストレアは答えない。
浴場を出、身体から水分を拭き取り、衣に身を包み、待ち合わせ場所へと向って行く。デメテルはそんなアストレアの後ろ姿を見て、まるで戦場に向って行く英傑のようであったと……そんな感想を抱いた。なお、これは余談だが、アストレアに変なことを言って焚きつけたフレイヤは普通にベルに「嫌い」と言われた。
× × ×
アモールの広場
アモールの広場は、南西のメインストリートである大通りから一本の小路を通じて辿り着く。色とりどりの敷石で舗装された園内は、垣根を作る花の植栽もあり華やかな雰囲気を醸し出していた。仲睦まじく寄り添う二人組の男女が目立つ中、ベルは女神の銅像の前で肩身を狭そうに立っていた。
「ベル」
「あ……!」
自分を呼ぶアストレアの声に安堵した表情を作るベルは、女神へと駆け寄った。幼子が親にそうするように自然と抱き着き、女神もまた微笑みと共に抱擁を返す。周囲からの「あら~」というような視線など気にもしない。いや、少しだけ耳は赤くなっているけれど。
「良い匂い……」
「待たせてしまったかしら?」
「いえ、大丈夫です。アミッドさんのところに寄って来たので」
「……定期健診?」
「はい、時間がある時は必ず来るようにって言われてたので」
「そう、偉いわ」
風呂上がりの女神の温もりと匂いに包まれ、うっとりとした目をする子兎の頭を優しく撫でる。そうそうこれよこれ、こういう庇護欲をそそってくるのがいいの……とアストレアは胸の内でうんうんと唸る。
「じー……」
「ど、どうしたの?」
「アストレア様、目元が赤いですけど……何かあったんですか?」
「っ!?」
「……誰かに、泣かされたんですか? 例えば……フレイヤ様とか」
「!?」
「前にアキさんから聞いたことがあります! 『私は経験ないけど、聞いた話じゃ女子のイジメって陰湿で生々しいらしいわよ』……って」
「ち、ちがっ」
「で、でも、アストレア様……」
「え、ええっと…………えいっ!」
「むぎゅっ!?」
この子、妙に勘が鋭ーい!! アストレアは恥ずかしくなって「泣かされたの」なんて言えなくてベルの頭を抱きしめたまま、そのまま悩ましい胸へと、えいやっと押し込んだ。むぎゅ、むにゅ、とベルの視界は深い谷間の闇に塞がれる。ベルはこの時天界、すなわち天国を見た。
『至福』。
圧倒的な乳圧。
柔い、柔過ぎる。
周囲からの嫉妬と羨望の視線を感じ取ったベルが身を捩って脱出を図ろうとするが底なし沼のように脱出は叶わず、神の肥沃な大地は何度も形を変えてベルの顔を包み込む。鼻をくすぐるのは形容できない優しい匂い。この芳香を嗅げば、きっと人々は世界から争いを失くすだろう。断言したっていい。まさに慈愛の香り。このまま幸せに溺れてしまいそうになる。
「むぐ…………ぷはっ、アストレア様、どうしたんですか?」
「な、なんでもないわ……そ、それより、どこに行くか、決めているの?」
誤魔化すようなアストレアにベルは心配そうに見つめるも、教えてはもらえないんだと諦めて切り替える。ベルはリャーナから譲ってもらった『
「えと、色々考えてたんですけど……その、意外と行ったことある場所って多くって、普段と変わらないような気がして……」
「あら、そんなことはないわよ?」
アストレアも一緒になって、どこに行こうかしら? と『
「いたーっ!」
「アストレアがおったぞ!」
「子兎もいる! 相変わらず愛い顔じゃ~!」
「なっ、あ、貴方達……!?」
「覚悟を決めたような顔をしたアストレアを、わらわたちが見逃すと思うたか!?」
押し寄せる女神達。
彼女達はガッチリバッチリしっかり、神聖浴場を後にし『
「アルフィアの子を我が物に……!」
「あのアルフィアにして、この兎きゅんっ!」
「ギャップっていいよね~☆」
じわりじわりと迫ってくる女神達。
その場にデメテルもフレイヤもいないのは、彼女たちなりに弁えているのか自重しているのか、ともかく救いではあった。アストレアはベルの腕を取り保護者として女として、彼を奪われないように己の身を盾にする。
「ア、アストレア様!?」
「ベル……詠唱して頂戴。 脱出するには、それしかないわ」
「で、でも……僕まだ、並行詠唱は……!」
「時間は……稼ぐわ!」
「っ、わかり、ました……! 【雨の音、風の音、波の音、月の涙、雷の大笑、
そんな覚悟の横顔を見たベルは、くっと涙を飲んで詠唱を始めた。その時だった。
「テメェら、時間を稼ぐぞ! 女神達を取り押さえるだけでもいい! とにかく近づけさせんな!」
「女神様達がぞろぞろとどこへ向かっているのやらと目を光らせていれば……あらあら」
「本拠に帰った時にリャーナから話を聞いて、念のために張り込んでおいて正解だったわ!」
「「「「くっ、お前達は【アストレア・ファミリア】!!? 邪魔をするというのか!?」」」」
「「「「当たり前でしょうが!?」」」」
高所から、物陰から、見守っていたらしいライラ、輝夜、アリーゼ、他にも数名がアストレアと女神達の間に割って入り防衛線を敷いた。街の巡回中に大勢の女神達がアモールの広場へと向って行くのを怪しんで先回りしたり、豊穣すぎる豊穣の女神様に「アストレアとベルが
「あ、貴方達……!?」
「
「ここは任せて、行ってくれアストレア様」
「別に……
「ノイン、それ、フラグだから」
振り返って微笑む眷族達に女神はうるっと涙ぐんだ。彼女達は自分の知らないところで少年との逢瀬がうまく行くこと、なんならイケるとこまでいくように見守ってくれていたのだ。
「【傷を癒し、飢えを凌げ、この身を戒めるものは何もない】」
「む!? あれは『怪物祭』で使っていた魔法か!?」
「いいえ、神の勘が違うと叫んでいるわ!」
「くぅぅぅ、この
「自分の眷族にそういう目を向けてあげてくださいよぉ!」
「可愛いはレアなんだよぉ! ちょっとくらい味見させてぇ!」
「確かに可愛い系はレアなのはわかりますけど……! でもダメですって!」
「「「略奪愛とか燃える以外の要素ある!?」」」
「「「燃えんな!! 全員、お縄だ、覚悟してください!」」」
ぎゃーぎゃーわーわーと、『アモールの広場』は恋人達の待ち合わせ場所は混沌としていた。正義の戦乙女達が
「【
「あと少しよ、貴方達!」
「【
「皆、踏ん張って!」
「【
「くっ、魔法が……!?」
「【ビューティフルジャーニー】ッ!」
完成と共に解放された魔法が光を発する。決して眩しくはない優し気な光。ベルはアストレアの手を取るとそのまま、重心を後ろに右足のつま先だけで軽く石畳を蹴りつけた。
「行きます!」
「「「「いってらっしゃい!」」」」
「「「「と、とんだぁああああああああああ!?」」」」
ふわり、とした浮遊感に包まれるアストレアは目を見開き、ようやくベルが『宙』を跳ぶ時の感覚―ヘスティアやデメテルが体感したもの―をその身を以て感じ取った。姉達は軽々と地上を離脱した弟分を見送り、女神達は「これが最近噂のぉおおお!?」「兎が飛んだぁああ!?」などと驚愕の声を表す。無論、地上から高く飛びあがることは冒険者であれば何ら不思議な芸当ではない。それこそ3階建ての建物の屋根に飛びあがることもできれば、『ダイダロス通り』で迷子になってしまえば最悪、屋根に飛び上がれば対処できるほどだ。だから、別段、飛びあがること自体はおかしなことではないのだ。ただし、ベルの場合は違っていた。強く蹴りつけての跳躍ではなく、軽く弾む程度で悠々と跳びあがったかと思えば、何もない『宙』を蹴りつけてぴょんぴょんと高く高く跳び上がっていったのだ。これには女神達も開いた口が塞がらず、「に、二段ジャンプ……だと?」「いや、それ以上!?」「【
「寒くないですか、アストレア様?」
「え、ええ、平気よ?」
何もないところをゆったりと蹴りつけて移動するベルは横抱き―お姫様抱っこ―をしているアストレアを気遣って適当な高さで停止する。アストレアは落ちないようにベルへと抱き着く力を強め、ベルも彼女を落とさないようにしっかりと力を込める。どこに行こうかと円形の都市を眺めながら、ベルはとりあえず
「怖くないですか?」
「……正直に言えば、少し、怖いわ。ヘスティアやデメテル達にいいなと羨ましく思っていたけれど、ああ、ベル、急降下とかはやめてね?」
「さすがに誰かを抱えながらしませんよ……」
誰にも邪魔されることなく到着した
「大丈夫、ですか?」
「え、ええ……初めてだもの、仕方ないわ」
雲のある高さまで跳んだわけではないが、少なくとも都市全体を眺めることができる程度の高さにはいたのだ、怖いと思っても仕方がない。心配してくるベルにアストレアは何度も「大丈夫」と言っては微笑み返し窓辺から見える景色をその瞳に映す。冒険者の間でもこの
「
「夜景を眺めながらディナー……素敵だけれど、ここ、いくらするか知っているの?」
「500000ヴァリス以上はする……って聞きました」
「さすがにアリーゼ達を差し置いて高級ディナーを楽しむことはできないわ」
「リャーナさんにも、本拠を出る前に高額すぎるところはやめた方がいいって言われました」
それでも一応聞いてみたのだろう。決して貧しいわけではないが豪遊しようという気にはならないアストレアは苦笑を浮かべて断るに至った。
「やっぱり、食事は皆で食べるのが一番美味しいと思うわ」
「それも……そうですね」
「でも、聞いてくれてありがとう」
休憩もとって再びその場を離脱する。周囲を驚かせないようにそっと人目を盗むようにそろりと『宙』を蹴って、今度はオラリオの西区画へ向けてゆったりとした降下と共に進路を変更。アストレアも一息ついたのか、慣れたようにベルに身を委ねていた。
「風が気持ちいいわね、いつもベルはこれを感じているの?」
「いつもっていうか……発現してそんなに経ってないし、これでも全力じゃないっていうか……」
「……そういえば戦闘中ではないから、『
「全ての効果を使っているわけじゃないので、大丈夫です。念のために
「そう、あまり無理はしないでね?」
真下に見えるのは南西部に広がる交易所に網を張るように錯綜し、太陽の光をきらきらと反射する青い水面。雄大な水路。ベルの向かっている方向を見て、アストレアは次に彼がどこへ連れて行こうとしているのかおおよそ察した。『遊覧船ツアー』である。
巨大市壁に囲まれているオラリオであるが、地下水路を中心に水の流れは活発だ。都市北部にそびえるベオル山地から流れる河川は都市を掠め、都市南西の先にある
「私は今回の船頭を務めさせて頂く【セベク・ファミリア】のエナと申しますー。えっ、そんな【ファミリア】知らない? ですよねー、そうですよねー。ずっと前にオラリオでぶいぶい調子に乗って、セト様とかオシリス様とかと一緒に
気の抜けた船頭の声のもと、
「エナさーん!」
「あ、みなさーん。彼が、私の【ファミリア】を落ちぶれさせた要因でもある
「酷いこといわないでくださーい!」
船の後ろから追いつき、女神を抱える可愛らしい顔の少年に客達は目を丸くする。女神の中の女神と称されるアストレアがお姫様抱っこされているというのもあるが、彼が移動している場所が場所だったからだ。
「最近、空を飛べるようになったと噂が広がっていますがー、水面まで走れるんですねー。陸、海、空を支配しちゃいましたかー、やっぱり化物集団の置き土産も化物でしたねー」
「ベル、彼女とは知り合いなの?」
「えと、冒険者になる前に
水面を滑るように移動するベルにアストレアは驚きつつも「何もない場所を蹴って移動しているものね、できないわけではないんでしょう」と勝手に納得。
「それでー、【
「えと、その……」
「ああ、アストレア様と
「乗せてもらいたいんですけどー!」
「うーん……じゃあ、5割増しでーあとついでに私も囲ってもらってダンジョンに行かなくていいくらい豪遊させてくださいー。私、貴方のお姉さん達と比べれば貧相な身体ですが、自称尽くす女ですのでー。あ、
「ダメに決まってるじゃないですか!? 4割減!」
「えーでもー、【
「嫌な言い方しないでください! アミッドさんもアーディさんもアイズさんだって付き合いが長いだけです! 2割減」
「皆さん聞きましたかー。長い
「勘違いさせるようなこと言わないでくださーい!」
何故か棘があるような物言いをする
「アストレア様、掴まっててください」
「へ? え、ええ」
『ォオオオオオオオオオオオオオオオ!!』
「ふッッ!!」
『ギョアァ!?』
秒を待たずに迫り来る鋭い牙。
ベルは左足を軸に右足で蹴りを放ち、『レイダー・フィッシュ』を蹴り飛ばし壁に激突させた。壁面とモンスターに悲鳴を上げさせて無様に水中へと落ちていくモンスターは再び襲ってくることはなく沈んで行った。
「――はーい、拍手ー!! さすがオラリオ、さすが冒険者、さすが【
「コホン……ええと、この水路は、神様が降臨なされた千年前から築かれていたらしくて、つまり皆さんは今、大昔の人々と同じ視点でオラリオを見て回っているわけです」
「あ、ちなみにそこの橋の破壊痕、
ベルの
「エナさん、今回の
「通りませーん」
「通らないそうです……でも、おすすめの場所ですよ、実在した英雄達の像が並んでて、凄く、かっこいいですから」
船頭をしている
「私達の知らないところで、ベルはいろんなことをしていたのね」
「た、楽しかったですか……?」
「ええ、とても」
日はいつの間にか傾き、都市は茜色に染まっている。にこやかに笑みを浮かべるアストレアさえ美しくその肌を照らされ、照れているベルをドキリとさせてしまう。「よくできました」と頭を撫でてくるアストレアに目を細め、子ども扱いされたとむっと口を尖らせる。それがまた可愛らしく、母性をくすぐってきて仕方がない。アストレアから指を絡めてベルの手を握り、歩みを再開させる。
「夕食を食べて、どこかに泊りましょうか」
「あ、うん……はいっ、えと、どこに行こう……ええと」
「ふふ、十分エスコートしてもらったし、無理しなくていいのよ」
「……でも」
「繁華街で適当に食べましょう? ベルは食べ盛りだろうし……焼肉とかどうかしら?」
「えと、それはこの間、オッタルのおじ様とラウルさん達と食べたので」
「……変わった面子ね。たまにあなたの交友関係がわからなくなるわ。じゃあ、そうね……何か目に入ったものにでもしましょうか」
そう言って2人で魔石灯に照らされ始めた繁華街へと踏み込んで、屋台巡りのようなことをする。すっかり太陽が沈んで夜闇が広がり、都市が魔石灯の灯りに照らされきった頃には2人は宿……ではなく、廃教会の隠し部屋に身を移していた。
× × ×
星屑の庭
「これは……ベルの私物? 忘れ物か?」
本拠に帰還したリューは、仲間達がまだ帰還していない―リャーナは自室で眠っていた―ことを確認すると、団欒室に置き去りにされている紙袋の存在に気付き、それがベルのものだとわかると「彼が部屋に持って行くのを忘れるとは…珍しい」と嘆息する。
「随分厚みのある書物……英雄譚か冒険譚でしょうか?」
流石に勝手に内容を見るようなことはしないが、どんなものなのかは気になる。しかし、身内とはいえ他人の私物を物色するようなこと、潔癖なエルフのリューには中々できない。
「しかし、好奇心が……彼がどのような書物を読んでいるのか、気になる……」
そっと表紙だけ見て、そっと元に戻そう。そうだ、それなら誰にも咎められることはないはずだ。リューはそう自分に言い聞かせる。最も、ただ表紙を見た程度で咎められるようなことはそうそうないだろうが。
「よ、よし……ベル、少しだけ、失礼します」
いもしない彼に軽く謝罪して、紙袋の中から書物を掴み取る。丁寧な装丁が施されたそれの表紙を見て、リューは、金髪妖精のリュー・リオンは凍り付いた。
『ドキッ、オークでもできるエルフの堕とし方! ―金髪エルフ編!―』
「……………………………」
え? どういうこと? 彼は、その、あれか、凌辱的なものが……? あんなに優しい性格で? いやいやしかし、大人しい者ほど怒らせると手が付けられなくなると言うし……いやいやいや、そんなまさかまさか、ハハハハ……リューの脳内では様々なリュー・リオンが所謂脳内緊急会議を行っていた。これはきっと何かの間違いだ。だが、もし、これが本当に彼の趣味だったとするなら、私はなんて罪深いことをしてしまったのだろう……そんな罪悪感と、彼の趣味に対する戸惑いが織り交ぜて彼女をがんじがらめにする。
「か、かか、彼のことが……わからない………い、いったい、どこで道を違えた……? こんな、歪んだ性癖、あっていいはずがない……し、しかし、これがただ秘めたるものだったなら、わ、私は勝手にそれを覗き見たということに……嗚呼、なんてことだ……!!」
まさか、どこからどうみてもいかがわしい命題のその本が、『
「せ、せめて内容だけでも……いや、駄目だ、戻れなくなる……か、彼を、軽蔑したくはない……!」
許せ、ベル! そう言ってリュー・リオンはダンジョンに駆け込んだ。このぐちゃぐちゃになってしまった思考を冷ますために、自分を犯してくるかもしれないオークを絶滅させるために。リュー・リオンは勘違いから、オーク・スレイヤーとなったのだった。
× × ×
廃教会―隠し部屋―
僅かに明るさを絞った魔石灯の明かりのみがうっすらと室内を照らす。そこにいるのは2人の男女。片や女神、片や眷族たる少年。互いに身を清めた後で、女神はバスタオルで肢体を隠したままベッドへと仰向けになっていた。
「アストレア、様……」
「………いいのよ」
身体から水気を吸い取ったタオルは彼女の身体のラインをしっかりと写し取るようで、女性らしいなだらかな線を描く、けれどしなやかな肢体がより煽情的にベルの瞳に焼き付く。手の甲で口元を隠し、羞恥を隠すように顔を逸らす彼女は年頃の少年に身を委ねるように己の女を差し出していた。
「本当に?」
「ええ……好きにして、いいのよ」
ごくり、と喉を鳴らす少年は女神の誘惑に心臓の鼓動を高鳴らせる。痺れを切らしたアストレアが彼の手を取り、ベッドへと誘う。己の上に倒れ込むように覆い被さった彼の頭を撫でて耳元で甘く、優しく、囁く。
「………いいのよ」
瞼をぎゅっと閉じて、脳みそを蕩かしてくるような女神の声音にベルは己の心の中の
その日は、長い長い夜を2人は経験するのだった。