『知っているぞ、淫蕩のバビロン! 貴様が犯した悪行の数々を! 一体何人の男を誘惑し、陥れ、悲惨な末路へと導いた!? 恥を知るがいい、妖婦め!』
テーブルの上で
「ベ、ベル殿……自分もご一緒してよかったのでしょうか……」
「静かにしていろ
入館料は驚くなかれ、
「せっかくオラリオに来たというのに、仕送りのためにダンジョンダンジョンダンジョン……他の事にも目を向けてみろ」
「し、しかし……自分はこう、身体を動かしている方が……!」
「だから春姫とやらに他人扱いされるのだ」
「………っ、関係、あるのですか?」
「男神共に囲まれていたところを保護してやったというのに……こりもせずまた歓楽街に足を運んで……で? 目当ての娼婦に出会えたというのに『他人の空似でしょう。
「うぅ……」
「お前が娼婦だったとして、知己に会ったら正気でいられるか?」
「………ですが、自分は居ても立っても居られず……彼女から、話を聞かねばと」
「結果、逃げられたのだろう?」
「………うぅ」
静かな図書館で、ひそめられた2人の女の会話。歓楽街で初めて輝夜が
「面白かったか、
閉じられた本をするりと自分の元に滑り込ませた輝夜は、愛撫するように表紙を撫でた。長い時が流れたせいか本は既にボロボロで、開けば
本の
古き英雄の叙事詩であり、数々の冒険をしていく中で1人の娼婦と出会う物語だ。この本をとったのは単純な話、『娼婦は破滅の象徴』という春姫の言葉がベルの中に残っていたからにすぎない。この英雄譚に限らず、娼婦は悲劇的か、あるいは報われない末路を迎えるものが多い。無論、助言を与えたり、力を貸し共に戦う娼婦もいるにはいるが、真の意味で英雄と結ばれ、その隣に立つ者は、
「10万ヴァリスも支払ってもらって説教されるってどういう事なんですか?」
「聞こえていたのですか?」
「なんだ、聞こえていたのか?」
「ちょっとだけ……そりゃ、
「ベル殿、曲解しすぎではないですか!?」
「さすがに名指しで叫ぶのは……」
「違うんですベル殿ォォ!!」
ベル殿ぉ、ベルどのぉ、ベルどのぉ……と、
ストリートを歩く。
太陽が燦々と地上を照らす雲一つない天気。昼時、腹をすかせた者達がどこぞへと空腹を満たすためにえっちらおっちら。それは図書館を後にした3人も同じで、
「【アストレア・ファミリア】は金銭に余裕がおありなのですか?」
「どうした、藪から棒に」
「いえ、図書館に行ったのもそうですが……その、こうして自分の分までお昼を……」
「小娘1人程度の分まで出せんほど、我々は困窮していない。していたとしたら毎日のように野草のスープだ」
適当なベンチに腰を下ろして、『串焼き肉』やら『じゃが丸くん』を頬張るベル達―右からベル、輝夜、
「見ろ
「?」
串焼き肉を食い千切った輝夜は
「あれが派閥に加わった6歳の頃から、私達に
「貴女方が元凶ッッ!!」
派閥に加わったばかりの6歳の純粋無垢な幼兎は、それはもうお姉さん達―女神を含む―の母性やら何やらをズキュンしちゃったのだろう。
「何か買うのか?」
「
「まあ、否定はしない」
と右に左に視線を走らせていると、すぐに見つかった。外からやって来た商人の露店をしゃがみ込んで物色している
「ふむ、これは……」
次に足を運んだ露店は極東から来たのか、その地にちなんだ物が売られていた。髪飾り、羽織、菓子、エトセトラエトセトラ…。輝夜はその中から、
「買わないんですか?」
「……………はぁ」
「?」
わかってない、なぁーんにもわかっていない。そう言いたげにわざとらしく輝夜は溜息を吐き捨てる。自分で買うのは難しいことではないが、そうではないのだ。お前ももう14なんだから、気づけよ?と言外に告げるのは輝夜の瞳だ。
「女心は分からん、か……」
やれやれと輝夜は立ち上がる。
2人とその後を追いかける
× × ×
歓楽街
夜空には少しばかり顔を出した金色の月が浮かんでいた。通りに面する張見世の中で、春姫は上空を見上げる。青い宵闇と満月に近付いていく月影を一頻り眺めた後、視線を下ろせば、遊郭にはいつもの夜に負けない人通りがある。沢山の男とヒューマンや獣人を中心とした着物姿の女達。美しい娼婦達を視界に、正座している春姫は雑踏を右に左に注視した。
いないかな、いないかな。なんて胸の中で呟いて3日ほど前に出会った、白髪の少年の姿を
「旦那ー、私を買っておくれよー」
張見世の中ほどにいる春姫の斜め前、格子窓の側にいる遊女が、通りかかる男性客へ愛想良く笑いかけている。そんな彼女を見て以前、客に熱を上げていた
(もし、あの子が……)
幼少の頃より培われてきたたくましい想像力が、春姫に妄想を働かせる。少ない例であるが、この歓楽街には冒険者が『身請け』して出て行った娼婦もいるらしい。大抵はその後、冒険者は
『なんだその無様な恰好はっ!』
『三条家はアマテラス大神様に仕える由緒正しき家柄! その三条家の娘があろう事か娼婦となり下賤な輩と交わるとは何事か!』
『恥を知れっ!』
『汚らわしいその姿を、二度と日の下に晒すなっ!』
ふいに耳朶を震わせるのは父親の今の春姫を罵る幻聴。そこに父の姿はないというのに、身を強張らせて寒さに堪えるように震わせる。ごめんなさい、ごめんなさいと小さく呟く春姫のことを理解してやれる先輩娼婦などいるはずもなく、少なくない例として『人身売買』の被害にでもあったのだろうくらいにしか思ってはいないだろう。運のない少女の1人、というやつだ。
「……っ」
首に嵌められた黒い首輪に触れてうつむく。
賑やかな遊郭、笑みを浮かべる娼婦達に囲まれる中、自分だけが世界でひとりぼっちであるという感覚に支配される。いっそ、どうして自分がこんな目に、と叫べれば楽になれるのかもしれない。勘当されたきっかけを作った
「またそんな顔をしてっ。シャンとしなさい」
顔を暗くしていた春姫を、隣に腰を下ろしていた先輩娼婦が小声で叱る。反射的に背筋を伸ばし、自分を閉じ込める牢屋の外に向って顔を上げると、張見世に向って足を止める男がちらほらと現れ始めた。先日は幼い頃、屋敷から連れ出し外の世界を教えてくれた知己の少女に声をかけられたが、彼女に再会したと同時に春姫にまだ残っていた羞恥心が全身という全身を焼き焦がした。見ないでと叫びたかったし、刃物をもって己の汚れた肌を切り裂き、破り捨てたい衝動に駆られもした。結局は他人のフリして逃げたわけだけれど。
「あら、可愛い子」
「お嬢ちゃん、来るとこ間違えたのかい?」
「どこの娼館の
通り側、格子窓の前に立つ
「?」
自分を見つけていやらしい笑みを向けて遊郭に入って行く男達とは違う、いっそ仲の良い友人と再会したかのような笑みに近いものを向けてくる人物は、はて誰であったかと春姫は首を傾げつつも愛想笑いを浮かべて手を振り返す。その人物はこくり、と頷くとそのまま遊郭の中へと入って行った。
(なんだったのでしょう……)
他の娼婦達も春姫に振り返っては「知り合いかい?」なんて聞いてくるが、覚えがないので曖昧な返答しかできない。そんな春姫は数分と経たずに、
「春姫、お呼びだ」
「はい……」
困惑から現実へと引きずり戻される。ぶんぶんと頭を振って、張見世を後にし
「今日はみっともない姿を晒すんじゃないよ。
「…………え?」
呼びに来た褐色のアマゾネスの遊女はすれ違いざま事務的に告げる。彼女の言葉に耳を疑い、思わず立ち止まり振り返ったが「別に女が女を求めに来たっておかしなことじゃないだろう」とばかりにつっけんどんに言われるだけだった。
× × ×
???
暗い、暗い、場所で怪しげな人間達があちらこちらへと足を運んでいた。そこは広大な空間であり、中央の床は円柱状にくりぬかれており、中を覗けば巨大な女が何かを咀嚼していた。腰よりしたは牛そのものであることからソレは決して
「ふむ、いつ見てもこれが過去、俺達が下界に降臨する前に子供達に力を貸していた『精霊』の成れの果てとはな……いつ見ても下界の可能性には驚かされる」
前髪の一部が灰がかった黒髪の男神―エレボス―は眼下で魔石の山をスナックでも齧るように貪る彼女を見下ろしながら微笑を浮かべていた。隣に立つ男神―タナトス―はエレボスの言葉に「すごいよねえ」と肯定して肩を竦めた。
「しかし、イシュタルが
「歓楽街を仕切っている分、羽振りがいいからねえ」
白装束の人間達が彼女が暴走しないように細心の注意を払いつつ、己が餌にならないように気を付けつつ、作業に従事する中、2柱の男神達は笑った。
「これが7年前にあればなあ……」
「…………そうだなあ」
タナトスの言葉に、何か思案するように顎を摩るエレボス。現在、エレボスに眷族はいない。タナトスの眷族を護衛として借りることもあれば、赤髪の女にあれやこれやと言いくるめてお使いを頼むこともあるが、何分、一文無しだし居候の身であることに変わりはない。それでもタナトスがエレボスの行動を止めることもしないのは、それは一重に『面白い』からに過ぎない。神々は娯楽に刺激に飢えている故だ。
「何を考えているのか、聞いても?」
「さて……そうだな、例えばこいつを
「どこへ?」
「どこでもいい。海でも空でも大地でも……こいつが笑いながら走り回る様はさぞ壮観だろう」
「確かにそれは、面白いけど……難しいよ? 何よりこの巨体だから誰にも気づかれずにっていうのは……さあ」
「………ならいっそ花火でも打ち上げて地上の連中の視線を逸らしてみるか?」
「…………言っておくけど、
「おいおい俺とお前の仲だろう?」
「だーめ、だってエレボス、一文なしじゃん」
「それを言うなよ、タナトス」
「イシュタル以上の資金を持ってきたら、こっちもイシュタルに言えるんだけどさあ…無理でしょ?」
ふむ、と口元を手で覆うエレボスはタナトスから視線を切って彼女に向けて思案する。さてどうしたものか、面白いことを考えて、1人の少年のことを思い浮かべる。そして、薄く微笑を浮かべた。
「金………稼ぐか」
「…………まじ?」
エレボスは思い浮かべる。
怪物祭での少年の『冒険』を。
グランドデイの最中にあった少年の『破滅』を。
では、次は?
いいや、現在、あの少年にはどのような『物語』が?
【ゼウス】と【ヘラ】の置き土産、アルフィアの愛息子。見たい、是非とも見たい。怪物祭の時のような素晴らしい光景を。卵が孵り、英雄が生まれる瞬間を。『理想』の形を。であれば、当然『試練』を与えなくては。刺激を与えて、与えて、与えて……変化を促すのだ。
そのためには、まずエレボスがしなくてはいけないこと。
それは……。
「資金調達だ」
× × ×
遊郭
「旦那様は、お嬢様だったので?」
きょとん、とした春姫は困惑と共に問うていた。目の前に座るバニーガールは春姫が部屋にやってくるなり「こんばんは」と挨拶して手を振ってくれた。すぐに腰を下ろした春姫は自己紹介と共にお辞儀をして、謎のバニーガールさんの口から以前出会った白兎さんであったことを知った。当然、春姫は少年の恰好に理解が追い付かず「彼ではなく彼女だったのでしょうか?」と困惑。
「ちょっとその……明日には元に戻ってよくなるので」
「は、はあ……」
どういうことだってばよ、と言いたい気持ちをぐっと抑えて春姫は以前聞くのを忘れていた少年の
「それでは、その……夜伽のお相手を――」
言い終える前に、春姫の前にベルは物を置いた。黄金色の水差しの形をしたランプだ。
「
「!」
「あ、精霊は封じられてないですよ?」
くすりと冗談交じりに笑う彼に春姫の顔が熱くなる。太い尻尾は右に左にぱったぱったと揺れ動いては床を叩き、俯いた春姫の顔はとてもとても彼には見せられない。きっと、顔が赤いだけじゃなくて口元がにへらとだらしない笑みになっているからに違いないからだ。目の前にいる年下の男の子は今まで春姫の下にやってきた男達のように下卑た目を向けてくることもなければ、高圧的に要求してくることもない。むしろ逆で、
「こ、こほんっ、こほんっ……その、ベル様?」
「?」
煩い鼓動を落ち着かせるように胸元に手を当てて、深呼吸。そしてベルに
「あー………大丈夫です。ちゃんと、伝えてきましたから」
「………」
大丈夫では、なさそうだ。
微妙そうな顔をしていらっしゃる……と春姫は翠の瞳をおろおろさせた。
× × ×
少し時を遡って、星屑の庭―食卓―
「アストレア様」
「どうしたの、ベル?」
夕食時。
食事を終えたベルは手を止めて、隣にいるアストレアに声をかけた。何人かが夜警―ノイン、ネーゼ、アスタ―でいないため全員揃っての夕食ではないが、他の姉達もベルが珍しく女神に何かお願いをしようとしているのだと耳を傾けていた。
「この後、歓楽街に行ってきます」
「「「ブフゥッ!?」」」
「―――――」
口に含んでいたスープを吹き出しそうになり慌てて口元を手で押さえて大惨事を防ぐ正義の星乙女達。中には食べていた物が喉に詰まったか、咳き込み胸元を叩いている者さえいる。アストレアは当然、言葉を失い微笑を浮かべたまま凍り付いていた。
「女の子に、会ってきます」
「――――――」
「「「……終わった」」」
笑顔のまま凍り付くアストレアに、私達の恋愛は今、終わったのよ…とばかりに項垂れる姉達。彼女達が落ち込むのも無理もない話だ。ベルが幼い頃から手塩にかけて育ててきた弟分がどこの馬の骨かもわからない娼婦にとられたとあっては落ち込むなと言うのが無理があった。
「だから、また朝帰りになっちゃうかもしれないです」
「―――――そ、そう」
ようやく口を開いたアストレアであったが、微笑んだまま凍り付いているのは変わらず口元は痙攣している。現実を受け入れられないのだろう。輝夜は頭が痛くなった。こいつ、言葉が足りなさすぎる…と。心配させまいとこの後の予定を告げているのだろうが、もうちょっと言い方があるだろうにこのバニーさんダメダメである。
「き、気をつけて……ね……?」
「はいっ!」
「「「嗚呼、アストレア様がお認めに……終わったわ……」」」
完全敗北、燃え尽きたぜ、真っ白にな。
まるでそう言うかのようにお姉さん達は真っ白に項垂れた。最早食事も喉を通らない。輝夜は痛む頭を抱えたくなった。この後、私は皆に事情なり説明しなくてはいけないのかと思うと面倒くさくてたまらない。というかバニーガール姿で娼館に行くつもりか? 正気か? いや、まず、何を笑顔で「はいっ」と言っているんだ馬鹿者! 輝夜お姉さんはお説教したくなった。 食事の後始末をした後、ベルは支度を整えると本拠を後にした。
「ベル……気をつけてね」
「は、はいっ」
歓楽街へと出かけていく唯一の男の眷族に心底微妙そうな微笑を向けてアストレアは力なく手を振った。ベルはとても後ろめたくなって、何度も振り返った。
× × ×
現在―遊郭―
アストレアの微妙な微笑を思い返したベルは、今度埋め合わせをしようと誓う。おろおろと瞳を揺らして顔を覗き込んでくる春姫に、何でもないですよと言ってベルはグラスに注いだ水で喉を潤した。
「それで、ベル様は娼館にいらしたということは春姫と一夜を……?」
つまり、そういうことですよね? とベルに貪られる自分を想像して覚悟を決めて唾を飲みこむ。ベルが頷けば春姫は己の着物の帯を解き、すぐにでも
「いえ、僕、春姫さんに会いたくて来ただけなんです」
「―――――」
目を見開く。
会いたいがためだけに、こんなところに? と疑問が何度も浮上する。ここは『女の子と楽しくお酒を呑む場所』ではない。『女の子と愛を貪る場所』なのだ。何か、勘違いしているのだろうか?と瞳が泳ぐ。
「こ、ここに来る必要があるのですか?」
「? ここにしか、春姫さん、いないじゃないですか」
「………ぁ、ぅ」
そりゃそうだ。
春姫に会いたいなら娼館に行くしかない。本当にこの少年は私に会いに来ただけなのだと、春姫は再び熱くなった顔を隠すため俯いた。太い尻尾がへにゃりと揺れた。
「ど、どうして、でございますか?」
「うーん……」
言い淀むベル。
別れのあの時、何もかも諦めたような春姫の笑みに胸がモヤモヤしていたから、なんて言いづらい。春姫の言葉に言い返せなくて悔しかったとか、その首輪が気に入らないとか、色々理由はあるけれど、それを言語化して口にするとなると、難しい。
「春姫さんのことが、気になったから?」
「!?」
だから、お馬鹿な兎さんはお狐様をびっくりさせてしまう。俯くどころか身体を丸めて縮こまってぷるぷる震えだした春姫は、それはもう顔が熱くて煙が出ているのではないかというほど。傍から見れば、土下座をしているようにしか見えないかもしれないが、春姫はこの今までなかった初めての感覚に戸惑っているし、だらしない顔を見られたくないと必死だ。うぅ~と小さな呻り声まで聞こえてくる。
「だ、大丈夫ですか?」
「………だ、大丈夫ではございませぇん」
ずるい、貴方はずるい。私を抱きに来たわけでもないのに、欲望をぶつけてくるわけでもないのに、心がもう貴方を求めてしまっている。駄目だ、ダメダメダメ、素直になったところで待っているのは破滅だ。そんなの、目の前の男の子には、ダメだ。そう心の中で叫び散らして自制しようとする。震える春姫の背中を摩ってくれるベルに「はうぅぅ」とさらにさらに顔を赤くする春姫にベルはもう何をどうしたらいいやらと焦りに焦った。
「うぅー……」
蹲ったまま、ベルが持ってきてくれた
(だって、この方は空を……自由に……)
初めて出会った日、飛んで去って行くベルのことを春姫は今でも思い出せる。その感覚はどのようなものか、きっと彼にしかわからないかもしれないけれど普通に考えてそれはできないことで、御伽噺の中でしか許されない行為だ。だからベルが御伽噺の住人だと思い込んだって許されるはずで、だから、何の変哲もないランプに期待してしまうのも、外の世界を碌に知らない春姫にとっては仕方のないこと。
「何か、してほしいこと、あるんですか?」
「…………」
それを察したのか、願いを聞いてくるベル。春姫はピタリと震えを止め、けれどしなりと尻尾と耳を垂れさせた。思い描くことはあれど、それを口にする……ましてや叶えるなんて、汚れている春姫にそんな資格があるのだろうか、とそう思うからだ。
『お前は三条家の娘だ。 常にそれにふさわしい所作と行動を心がけろ。 はしたない行動は一切するな』
(そうです、誰かに要求するなど……はしたないこと、できるはずがありません)
『この父に口答えするようになった事自体、お前の言う
(父上に口答えしては、逆らってはいけないのです)
『この三条家を貶めようとする存在など、飢えと寒さに怯え震えて消え去るがいい!』
(でなくては、でなくては……)
瞼の裏に今も残っている怒りの形相を浮かべる父の顔。
怖くて怖くて仕方がなくて、声がでなくなってしまう。呼吸を忘れてしまうほどで、永遠とも言える時が流れたように思えた。
「春姫さん」
けれど、そっと触れられたベルの手の温もりに、優しい声音に現実に引き戻される。そこに父の姿などなく、かつて過ごした屋敷でもない。娼館であり遊郭であることは酷く悲しいけれど、ランプを持つ春姫の手を包むようにしてくれているベルの温もりに心が安らいでいく。忘れていた呼吸をゆっくりと取り戻して、せめて目の前の少年にだけはこんな醜態は知られないようにと努めようとして―――。
「春姫さん、外に出てみませんか?」
「―――――ぇ?」
「何に怖がっているのか僕にはわからないけれど……、怯えている貴方を、スイング・バイ、だ」
紡がれる歌は長く、けれどその光は優しい。完成した魔法は決して春姫を傷付けない。春姫の手を優しく包み、背後の窓辺へと背を向けながら後退するベルに震える瞳で春姫は戸惑うばかり。御伽噺の世界へ貴方をご招待、とばかりに遊郭の一室から出る間際。
『この部屋から一歩も外に出るな!』
ここにはいない筈の父親の怒声が耳朶を震わせた。
身体が強張り、動きが止まる。恐怖が、春姫の動きを止める。
「い、行けません旦那様……
「………春姫さんのお父さんは、
「…………」
動揺したように泳ぐ瞳に、ベルが訝しげな顔をする。ベルの問いかけに碌に答えられないのか、俯いたまま力なく頭を振って否定する春姫。
「大丈夫です春姫さん、僕は一晩、貴方を買いました。だから、大丈夫です」
安心させるように何度も「大丈夫」と言って、凍える手を摩る。
「それに――――」
ぐいっと春姫の身を引き寄せて、ベルは窓辺を蹴って地に背を向けたまま遊郭の外へと跳んだ。「ぁ」と短く零した春姫にベルは笑みを浮かべて言い放つ。
「誰も、人間が空を飛んでいるなんて信じませんから」