アーネンエルベの兎   作:二ベル

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水天日光⑧

 

 

「ゎ、ぁ――――」

 

 

口から零れたのは、言葉にならないもの。

落下すると思いきや、身体は浮遊感に包まれて、強く閉じていた瞼をゆっくり開いてみれば、翠の瞳に映るのは、夜の迷宮都市―歓楽街であるが―を俯瞰して見る景色、『夜景』だった。淫蕩な雰囲気が漂う『夜の街』。建物の壁や柱に設置される桃色の魔石灯の光が、上空からでもよくわかる。視線を下から前へ向ければ、歓楽街とは違う色の光が見えた。地理的に隣接する繁華街の灯りだろう。おまけに真上には、キラキラと輝く数え切れないほどの星々とほんの少し顔を出した『月』の光がある。年下の少年に抱き寄せられて、ふわりふわりと風に流されるように、けれどそれは()()()()()()()()()()()()に空中で停止したときには、彼は本当に御伽噺から出てきたのではと思ってしまったほど。驚くことばかりを、たった一夜でされてしまった。言葉を失って、瞳に映るものに心を揺さぶられて、春姫ができることといえば、落ちないようにとベルに腕に指を食い込ませるくらいのこと。

 

 

(『子供の國』の御伽噺の方でしょうか…)

 

 

確か、あれはどのような話だったか。

年を取らなくなった男の子が小さな精霊と共に冒険をする御伽噺。その少年は精霊の加護で空を自由に飛び、迷子の子供達のリーダー的な存在になり、悪さをする海賊を時々懲らしめるのだったか。ひょっとして彼はその架空の國の出身なのでは? なんてことを春姫は妄想する。そんなはずないのに、魔法だというのもついさっき詠唱しているところを見たばかりだというのに、どうしてもそう思ってしまって仕方がない。彼の横顔を見てみれば、彼は下ではなく上にある少しばかり顔をだした『月』を見つめていた。

 

 

「―――――」

 

 

ベルがどんなことを思っているのか、春姫にはわからない。その表情はどこか寂し気で儚げで、ベルは開いた片手、その指先で喉に一閃走った傷痕に触れていた。それでも『月』と『星』の輝きに照らされた彼の横顔は、処女雪のような白い髪は、綺麗で見惚れてしまうには十分。

 

「どうしました?」

 

春姫の視線に気がついて、顔を向けたベルにドキリとして右に左に顔をキョロキョロ。

 

「ぁ、ゃ……ぃぇ……」

 

か細い声。

ベルに聞こえているかもわからないほどに、小さい声。貴方に見惚れていたなどと、言えるはずもなく「なんでもございません」と言えばいいのに、何でもないわけがなくて、結局言えない。というか、連れ出されるままに空にいるけれど、ベルの横顔に見惚れていたけれど――――。

 

 

(この子……バニーさん、なんですよね……)

 

 

恐らくは『初恋』かもしれないこの胸のトキメキはしかし、ベルの身姿のせいで春姫の頭の中は大いに混乱していた。バニーさんが好きなのか、(ベル)が好きなのか、今こうして彼を直視できないのはバニーさんだからであって、普通の格好をしていれば普通に接することができるのか、そうじゃないのか。もしやもしや、春姫には女装した男の子……もとい、男の娘―と神々はそういうジャンルがあると言っていたのを聞いたことがある―に対して性的趣向があったのか。春姫の矮小(へっぽこ)な脳みそは理解困難(わけわかめ)状態であった。

 

「これが、迷宮都市……オラリオ……」

 

でも。

けれど。

ベルの格好なんて、そんなこと気にならないくらい、春姫は目を奪われていた。

 

「知りませんでした……。とても、綺麗……」

 

淫蕩な雰囲気漂う夜景ではあるけれど、オラリオの一部だけれど、それはこの地に訪れ住まうようになった春姫が決して知らないものだった。何も知らない赤子のような瞳で、自分の知らなかったオラリオの景色を、感嘆しながら、その瞳に焼きつけた。

 

 

春姫はこの日、自分でも信じられないほど目を輝かせた。

生まれて初めての経験だったし、地上ではない空中にいるのだから時折大きな声を出しそうにもなった。少年に再会して、空中散歩なんて経験することのない『初めて』をもらう少女は、耳朶を震わせ心を怯えさせる父親の幻聴のことさえ忘れ、限られた命の時間のことさえも忘れ、かつて幼い頃に出会った友人に言った言葉を自然と口にしていた。

 

 

――■ちゃん達は…物語の英雄さまみたいだね!

 

「旦那様は、物語の英雄様のようでございますね」

 

 

ベルは、何も言い返しはしなかった。

 

 

 

 

×   ×   ×

女主の神娼殿(ベーレト・バビリ)、神室

 

 

 

部屋は暗い。

灯された魔石灯の明かりは僅かで、そこにいるのは歓楽街を仕切っている女神イシュタルとその従者であり派閥の副団長である青年―タンムズ―だ。そこで何が行われていたかなど麝香の香りと乱れたベッドシーツ、そして女神の青年の身体を下たる液体からして察することはおおよそできるだろう。乾いた喉を潤すためにベッドを離れたタンムズは、広々と開かれた窓辺から見えるなんら変化のないいつもの歓楽街の夜景を瞳に入れ、歩を進め、そしてすぐに己の瞳に何が映ったのか確認するために、思わず二度見をした。

 

「どうした、タンムズ」

 

無論、そんな眷族の驚愕など主神のイシュタルには当然わかるものでベッドの上で裸体をそのままに寝転がり頬杖をついて彼女は問うた。傍から見れば二度見、三度見する者の動きはどこか面白いもので、そんなおかしな動きを見せたからには問わねば無作法というものだった。タンムズはイシュタルに問われて、どう言えば良いものかと言葉に迷ったのか、はたまた、やはり自らの眼球が快楽の余り疲れが溜まってしまっているのか眉間を摘まむようにして呻るようにして口を開いた。

 

 

「兎が………飛んでいます」

 

「馬鹿かお前は」

 

兎は逃げることで身を守るために、耳と後ろ足がとくに発達した生物だ。あの小柄な身でありながらそのジャンプ力とダッシュ力は他の生物を驚かせるものだ。なにより、あの小動物は高さ3M、水平方向へは6Mほど跳ぶことが可能だったりするのだ。故にイシュタルは「兎は跳べるんだ、そんなことも知らなかったのか?」とお馬鹿発言をした青年に呆れたように言った。イシュタル様、溜息マシマシである。

 

「いえ、しかし……月を背景(バック)に」

 

「お前だってさっきまで私を後背位(バック)で夢中になっていたじゃないか」

 

「そ、そうではなく……! 兎人(ヒュームバニー)が、空を! 飛んでいるんです!」

 

「……………はぁ」

 

やれやれ、少し私も羽目を外しすぎてハメすぎてしまったか。相手は神ではなく下界の住人(こども)。女神の閨に誘われて断れるはずもないし女神と一戦交えることができるとあっては下半身に生えている摩天楼(バベル)だって限界突破しても仕方のないことだろう。当然、男としては燃えるのだろう。それは仕方のないこと。しかし、しかし…だ、主神である女神がある程度のところでストップをかけてやらねばいくらLv.4と言えども精も根も尽きてしまうというもの。見てみろ、結果としてタンムズは性欲が溜まるどころか疲労が溜まって兎人(ヒュームバニー)が空を飛んでいるなんて言い出しているではないか。そりゃあ月には兎が餅をついているなどと極東では言うが、そんなわけあるか、と神々はきっと言うだろう。それでも彼が嘘をついていないとわかるのだから、主神としては確認してやらねばならないというもの。『下界の天敵()』が部屋に出現すれば安心して眠れぬ者も神々にだっているわけで、ならば安心させてやるのができる大人であり女なのだ。

 

 

「どこだ、タンムズ」

 

「あ、あそこです! 月の光のせいで影っぽいですが!」

 

 

仕方ない奴だ、お前にも…青年と呼ばれる歳になってもそういう可愛げを残していたんだな愛い奴め。なんて思ってなどいないけれどクスリと笑う分には十分で、イシュタルは裸身に何も身に付けることもせずタンムズのもとまで足を動かし身体を揺らし、指さす方へと顔を向けた。

 

 

「――――何もいないじゃないか」

 

「――ぇ、あ、あれ? いえ、ですが確かに! 俺は嘘なんて……!!」

 

「ああ、もういいもういい。嘘がついていないことくらいわかる。お前、アレだ、疲れているんだ。悪かったな」

 

「いえ滅相もない!」

 

イシュタルが月の辺りを見た時には何もなく。

下界の住人達は神に対して嘘がつけない―ついたとしても嘘だとバレてしまう―ため、タンムズが嘘をついていないことはわかっていたが、いないものはいないのだ。やっぱり疲労の余り幻覚でも見てしまったか?それならタンムズにとっては『本当』のことなんだろう、うん、まあどっちにせよいないものはいないのだから、休ませてやろう。イシュタルは生温かい眼差しでタンムズの肩を叩いた。俯いて呻るタンムズは、イシュタルからして『可愛い子供』みたいなものでどこかクルものがあったが、自重する。やりすぎは良くないのだから。

 

「しかし」

 

しかし、だ。

『飛ぶ』と言えば、『兎』と言えば心当たりがないと言えば嘘になる。なんでもグランドデイの後にとある正義の女神の眷族が『()()()()』を発現させたらしいやつがいるらしいのだ。だからなんなんだと興味なんて特段ないイシュタルだったが、つい最近、あの白髪のガキに何故かイラッとさせられたのを思い出した。

 

「私の庭でハエだか兎だかが飛んでいたなら、目障りだな」

 

来たる儀式の日のためにもそうだが、気にいらないガキが自分の庭をぴょんぴょん飛んでいるとあってはたまったものではない。まああの時は摘まみ出せと言ったし、食欲(せいよく)旺盛な娘達が兎をどこかへと連れて行ったのだ。何やら騒がしかった気もするが、仮にもフリュネにまで目を付けられたのだから、もし仮に生きていたのなら心傷(トラウマ)を負い、きっと兎を溺愛しているアストレアに慰めてもらっているはずだ。まさか元気に飛び回っているはずもない。そこまで考えてイシュタルは欠伸をかいてベッドに戻る。タンムズはそんなイシュタルの後ろ姿を見つめ、外へともう一度顔を向けて嘆息した。

 

 

×   ×   ×

遊郭―春姫の部屋―

 

 

ゆっくりと畳の上に足を付ける。

どれくらいの時間を、空中浮遊していたのかわからないが春姫にとっては永遠のようであっという間だった。顔が熱くて胸は未だに喧しいくらいに高鳴っていて、ずっと身体を強張らせていたせいか足がついたことに安心したのか力が抜けるように崩れ落ちた。

 

「ごめんなさい、大丈夫ですか?」

 

「は、はい……少々、疲れてしまっただけで……ベル様こそ、大丈夫なのですか? (わたくし)、強くしがみついていたと思うのですが…」

 

春姫の左手とベルの右手はまだ繋いだままだが、畳の上で座り込んでしまっている春姫はとてもとても立ち上がれそうになく、強張らせていた身体を落ち着かせるために深呼吸を繰り返し、ベルのことを見上げる。ベルはといえば特に痛みも感じていないのか、「大丈夫ですよ?」と春姫が掴んでいた腕を指さして見せては、壁にもたれるようにして腰を下ろした。腕には強くしがみついていたにしては、その色白の腕には痕1つない。

 

「――ふふっ」

 

「?」

 

珍妙な恰好(バニーガール)

空を自由に飛べちゃう兎さん。

傍にいるだけで()()()()()()()()()()不思議な子。

春姫と春をひさぎに来たわけでもなく、ただ会いに来ただけなんて言う変な少年。それがおかしくって、たまらなくって、気づけば春姫は両手で口を押えて笑っていた。目尻から涙がこぼれるくらいには、笑っていた。

 

「どうして」

 

ようやく落ち着いた頃。

目元を拭って、彼に問う。

 

「どうして、(わたくし)に良くしてくださるのですか? 出会ってまだ、二度目だというのに」

 

そうだ、春姫とベルはまだ出会って二度目。

一度目は偶然、落ちてきた。

二度目はおかしな恰好でやって来た。

春姫を求めて遊郭に来ることに疑問は感じない。そういう店で、そういう商売なのだから。でも、ベルは春姫の身体を貪りに来たわけじゃない。ただ会いたかったから会いに来ただけだ。それがおかしくてたまらない。そんな客なんて今までいなかった。

 

「理由は……んと、聞かないでください」

 

恥じ入るように視線を逸らして、頬を掻く。

隣り合わせで壁にもたれ掛かって座る少年と少女。視線の先にはベルが持ってきてくれた何の変哲もない水差し(ランプ)。それらに視線を巡らせている春姫に、ベルは天井を見上げて続けた。

 

「ええと……そう、貴方を助ける理由は聞かないでください。だって、困っている女の子を助けるのに理由なんて必要ないのだから」

 

思案するように、記憶を掘り返すようにして言ったその言葉。何かの物語の住人から借りたのだろうか、と御伽噺が大好きな春姫はそう思えた。

 

「………(わたくし)は、貴方様がわかりません」

 

心の中の思いを素直に吐露する春姫に、ベルは春姫の横顔を、水差し(ランプ)を愛おしそうに撫でるその表情を見つめていた。何か、言い返そうと思案しているとすぐに春姫が続けた。

 

「ですから、その…また春姫に会いにきて……くださいますか?」

 

胸元に水差し(ランプ)を持ってきては抱きしめて言う。儚げな微笑を浮かべて、春姫はベルを真っ直ぐ見つめて「春姫の、1つ目のお願いでございます」とそう締めくくって。ベルは頷き「わかりました」と答え、そして、その次の日も、そしてその次の日も、春姫に会いに来た。

 

 

 

×   ×   ×

 

 

―――最近、春姫が変わった。

 

と少女を知る娼婦達は口々に言いだした。固定客を得たというのもそうだが、()()()()()()()()()()()春姫がここの所自然と笑みを浮かべるようになったのだ。その笑みは決して気味の悪いものではなく、懸想する相手がやってくるのを待つ女の…恋する女のそれだった。毎夜、毎夜、決まった時間でもあるのか暗くなり出すと妙にそわそわしだして、鏡を見てはおかしなところはないか身だしなみを確認する。その相手が【ゼウス】と【ヘラ】の混成児(ハイブリッド)であり【静寂】のアルフィアの愛息子とあってはベテラン娼婦達は悔しいと泣きをみるのだが、「あの春姫が」とやはり驚きと共に祝いたくもなるというもの。

 

 

赤い着物を着て、長い金の髪に櫛を通す。

別にそれで、何がどう変化するという訳ではないけれど。律儀に春姫の1つ目のお願いを聞いてくれている彼の前で、少しでも目を惹くものにしたいとそう思うようになっていた。

 

 

「で、実際、ヤッたのかい?」

 

などと言われれば、いいえと首を左右に振る。

その度に先輩の娼婦達は唖然としたように口を開けたまま固まって、ベルに対して「何しに来てんの?」というような疑問と「いや、そこはヤレよ」と春姫に対して煮え切らない思いを沸々と湧かせる。けれどいいのだ、春姫にとってベルとの語らいこそが安らぐ一時であり、残り短い人生の楽しみでもあるのだから。身だしなみを整えたのなら、忘れてはいけないのが食事。

 

(ですが(わたくし)は料理などしたことがございませんし…)

 

蝶よ花よと育てられた箱入り娘の春姫は当然、料理なんて作ったことがない。であれば、こればかりは他人任せだ。

 

 

「果物くらいは切ってみたらどうだ?」

 

と料理番の者が言うので、借りたナイフでざくり、と林檎を切った。なるほど簡単、これなら私でもできますねと見ていた料理長があわあわしているのなんて気づきもせず。

 

(皮を剥いて、ぼんぼんぼんと割って……)

 

はい、できあがり。とむふーっと息を吐いた春姫に様子を見に来た戦闘娼婦(バーベラ)の少女と厨房にいた者達は「私だってもう少しマシに切れるよ…それでベート・ローガと…ぐへへ」などと溜息を吐いたりしていたが、はて春姫には何がおかしいのかわからない。

 

(一体何がおかしいのでしょう…こんなに美味しそうにできたといいますのに)

 

丸い皿に乗るのは、ヘタやら種やら残ったままで、何より形はジャガイモのように歪でデコボコしていて皮を剥いたというがあっちこっちに残っている。それはまあ誰だって溜息をつくというもの。けれどこれが今の春姫の精一杯。料理の『りょ』の字も知らない小娘には、ああだこうだ言ったところでわかるはずもないのだ。とにかく、春姫が切った林檎と、たくさんの料理を持って鼻歌交じりにベルが待つ部屋へと向かう。そして、春姫は、見た。衝撃の、光景を、見てしまった。

 

 

沢山の娼婦がいた。

沢山の娼婦が、春姫に与えられていた部屋の中にいた。バニーガール姿ではなくなった本来のベルを取り囲むように。

 

「ぁ……」

 

かあっと脳が沸騰する。

思わず、料理の皿を落としそうになる。

それが嫉妬という感情であると理解する間もなく。

 

「―――それで、僕とお義母さんがお風呂に入っている所に「ワシも入るぞい☆」と言って飛び込んできたお祖父ちゃんは3つ向こうの山まで吹っ飛ばされたんです」

 

「なんて悲しくも勇ましい話……」

 

「大神ゼウス……かの『神聖浴場』を覗いたという偉業は、本当だったんだ……」

 

「なんで生きてたんだ、ゼウス様は……」

 

すすすっと部屋の中に入り込む。

春姫の存在に気がついた先輩娼婦の1人が振り返れば、春姫の微笑を見て「ひぇっ」と零して青ざめる。

 

「御姉さん方、何をされているのですか?」

 

同じ遊郭、同じ座敷牢にいた黒妖精(ダークエルフ)先輩娼婦(おねえさん)は、今までのあの暗い顔をするばかりの春姫からは感じられない圧を感じた。

 

(わたくし)のお客様に、手を出されているのですか?」

 

仮にもベルは春姫を指名して来てくれていることを、春姫は知っている。というか、ベルが来れば、指名が入れば春姫に声がかかる。なら、他人の客にお手付きなど言語道断だ。というか獣人の娼婦がベルにベッタリくっついて尻尾をふにゃんふにゃんさせているのが何より気に入らない。それは最早お手付きでは?と思っている所に「いや、この子の傍にいるとなんか……安心するんだよねえ」と言われるのだから、春姫としては「わかります!」と同意したいところだが縄張りをとられた感があってやっぱり気に入らなかった。

 

「い、いや、見て分からない? 話をしているんだよ」

 

「どうしてでございますか?」

 

「どうしてって言われても――」

 

娼婦の輪の中にいる、困った顔をしたベルは【ゼウス・ファミリア】と【ヘラ・ファミリア】にそれぞれ父親と母親を持つ子供というのはだいぶ前から知られていることだ。【静寂】のアルフィアを母に持つベルから聞ける話とはそれこそ、御伽噺にも匹敵する貴重なものと言えるだろう。【最強】と【最凶】が交わった結果生まれたのが【正義】に可愛がられている兎とあれば、手なり唾なりつけたくなるし、種を付けてもらいたくもなる。ネームバリューもそうだが、ベル自身の偉業もまた目を惹くには十分な理由。

 

「シルバーバックとミノタウロスを連続討伐」

 

「後からいろんな派閥の神様達が調べてたらしい……えっと、【イシュタル・ファミリア(うち)】の派閥の人達も調べたみたいなんだけど、公式討伐記録ではその2体が初めてらしいんだよね」

 

「しかも変な魔法を持ってる!」

 

「「「「興味が湧かない方がおかしい!!」」」」

 

となれば、春姫がやってくるまでの間に話を聞いてみたいというのが歓楽街から外に出ることのない娘たちの言い分。女の身支度とは長くなるもので、ならば話くらいしたって許されるだろう……と。【静寂】のアルフィアとの出会いから、大神ゼウスと田舎での暮しだとか他愛ないことを聞かされては意外な一面というか名しか知らない神のバカ話なんかを聞いて物語に思い馳せるように興奮していたのだ。

 

「うぅ……何がなんだか、わかりません……」

 

へにょ、と耳と尻尾を垂れさせて意中の相手をとられたとばかりに落ち込む春姫。彼女達の言い分がわからないわけではないが、やっぱり面白くはない。ベルもベルで話している内に興が乗ってしまったのだろうが……いや、ベルに非はない、と春姫は頭をぶんぶんと振って己を恥じる。別に恋人というわけでもなし。この胸のモヤモヤは募るばかりで鬱陶しく、会いに来てくれた彼に対してもてなすどころか変な空気に晒してしまって……なんて春姫は卑しい女なのでしょう、と溜息を吐く。

 

「悪いことは、されていないのですね?」

 

気落ちして、座り込んで、ベルに上目遣いに問いかける。もうベルがどこの派閥の、なんという女神の眷族かなんて、ここ数日の語らいで春姫も知っている。『正義』とやらの女神様の眷族で、それはもうとてもとても大切にされているのだとか。春姫に会いに行くという話を女神に伝えた時に悲しげな顔をされたとか、そんな話をベル自身から聞いている。とても、申し訳ないなと春姫だって思う。何より、彼の年齢を考えれば、自分が娼婦でなければ歓楽街に足を踏み入れるなどとても許せるものではないのだ。であれば、他の娼婦に手をつけられるなんてことは何としても防がなくては、彼を綺麗な状態でお返ししなくてはそれこそ彼が遊郭に通っていることを許してくれている女神に申し訳が立たない。ベルは困った顔をしたままだけれど、春姫の問いに何度も頷いて何もされていないと答えてくれた。

 

「なら、よいのです………はぁ…」

 

「あー………その、えっと」

 

「私達、お邪魔虫ってやつだよね」

 

「いやでも、もう少し話を聞いてみたいような」

 

「いやいや、春姫の初めての固定客だ。邪魔しちゃいけない、お邪魔虫は退散しましょう」

 

悪かったね春姫、と着物姿の太夫やらが春姫の頭やら肩をぽんぽんと優しく叩いて退散していく。「がんばんなよ」と小さく声援を送りながらも。暗い顔ばかりしている春姫のことを知っているからだろう。あわよくば『身請け』してもらっちまえばいい、安くはない買い物だけれど、ベルならひょっとすれば両派閥の遺産金というか、まあ、金には困ってなさそうだし……ワンチャンあるだろう、とそんな思いも込めて。

 

 

ぴしゃり、と音を立てて襖が閉じる。

春姫とベルだけの2人きりになったはいいが、先程までの賑やかさは消えて部屋に残ったのは娼婦達の残り香くらい。

 

「ええと……そのぉ……」

 

気まずい。

とても、とっても、気まずい。

だけれどようやく2人きりになれて、思わず尻尾が右に左に振れてしまう。顔は熱いし、胸の内はとてもうるさい。これが『恋』というのであれば、運命を司る神はなんて酷い(ひと)なのだろう、と思ってしまう。

 

「ご飯、持ってきてくれたんですか?」

 

「!」

 

ベルから投げかけられて肩を揺らして顔を上げる。2人の間には盆に乗った料理が。ガッツリとした夕食というよりは小腹を満たせる程度のもの。満腹になって眠くなって朝帰りなんてさせるわけにはいかないのだ。

 

「そ、その……ここ数日、春姫のもとにやって来てくださっているのに、(わたくし)は奉仕の1つもしておりませんでしたので……何か、もてなさなくては…と」

 

さすがに春姫自身が料理したものです、と嘘などつけない。正直に作ってもらったものを持ってきただけだと、春姫は林檎を切っただけなのだとそう伝える。ベルはちょうどお腹が空いてしまっていたのか、近くにあったものに手を伸ばしてそれを口に入れていく。それをぼぉっと見つめる春姫は、きっと惚れた男が自分の手料理を食べてくれて喜ぶ女の顔をしていたかもしれない。

 

「ベル様?」

 

「?」

 

「何故、律儀に春姫のお願いを聞いてくださったのですか?」

 

決して遊郭に通うのは安くはないはずだ。

娼婦は破滅の象徴だと、以前も話したはずだ。

貴方の家族(ファミリア)からもよくは思われないはずだ。

何より、可愛がってくれている女神様に失礼なのでは?

なのに、どうして?

 

「貴方は、ランプに閉じ込められた精霊様ではございません……御伽噺の英雄様のような方ですが、それでも……娼婦(はるひめ)に会いに来てくれるのは、どうしてなのですか?」

 

 

初めて語らった時のことを覚えてくれて、わざわざ水差し(ランプ)を買ってプレゼントしてくれたことは嬉しいが、春姫の『また会いに来て欲しい』という願いを聞いてくれたことは嬉しいが、やっぱり、春姫にはベルのことがわからない。理解したいけれど、とても難しい。彼がいてくれる間は、父の怒声が、幻聴が聞こえなくなる、気にならなくなる、意識が向かなくなる。楽しみが出来たことで、他の男達に高圧的に脱げと言われたことだとか、無遠慮に身体に触られたことだとか、嫌悪する夢を見ることだって少なくなった。それはとても心が安らぐことで、なら彼の傍は春姫にとって何より安全地帯だ。でも、結局のところベル・クラネルという少年がなんなのかが春姫にはよく、わからなかった。

 

「僕は……」

 

うん、と考えるようにして呻る。

春姫は静かに、ベルが語り終えるのを待つ。話すのは好きだ、聞くのも好きだ。それが物語の話であればなおのこと。

 

「貴方を、笑顔に、したかった……んだと、思います」

 

「?」

 

自分でも自分がわかっていないような、はっきりとしない物言いに首を傾げてしまう。

 

「僕は貴方の事情は知らないけど……放っておけなかったのは確かです。僕の友人の女の子も、貴方を助けたいと言っていた……どうしたらいいのか、わからないけど……男の僕なら、こうして遊郭に通える。貴方と話して、貴方を知って、何ができるのか考えたんです……でも、わからなくって」

 

瞼を閉じて話をするベルに、春姫はぎゅっと口を噤む。その友人とは、春姫の知己だ。他人のフリをして突っぱねたかつての友だ。それくらい察することは容易で、罪悪感が胸を刺す。ベルの瞼の裏には何が浮かんでいるのかわからないけれど、きっと、大切な人達を思い浮かべているのだろう…となんとなく、思えた。

 

「初めて春姫さんと跳んだ日、春姫さんが初めて心から笑ってくれた気がして、僕は嬉しかった」

 

ベルの瞼の裏には、アリーゼや輝夜、アストレアやアルフィア達の顔が浮かんでいた。誰もが笑みを浮かべていて、泣いている顔なんてない。それは身内だけじゃなくて、アイズだとかリヴェリアだとかアミッドだとか…フレイヤだとか、いろんな人達も。アルフィアがいなければここまでの『縁』はきっとなかった。例えば2()()()()()()()()()()()だったら、今以上に苦労していたはずだ。自分が恵まれすぎていることも理解している。偶然であったとはいえ、それでも、ベルの中で()()()()()()()()()()()()を浮かべる春姫のことは忘れられなくて、それが嫌で嫌で仕方がなくて、こうして彼女のもとを通ってしまっている。

 

「春姫さんの笑顔が見れて、僕は……とても嬉しい」

 

屈託のない笑顔を向けてくれるベルに、春姫は胸を締め付けられた。会って間もない。お互いのことなんてどれほど知れたかもわからない。でもそんなものは関係なかった。こんな笑顔と眼差しで自分を見てくれる人が、1人でもこの世界にはいた。それだけが春姫にはとても重要で、救済にも等しい『出会い』だった。

 

「綺麗な人には笑顔がよく似合うって僕は思うんです。春姫さんには、ずっと、笑っていてほしい」

 

ベルは言葉を続ける。

後から聞けばきっと恥ずかしくなって顔を赤くして死にたくなってしまうような、物語の台詞を真似たような言葉を。浮気だと女神に怒られたって仕方のない、台詞を。

 

「もう少しだけ、お付き合い願えますか? 僕はまだ、貴方の願いを2つ、叶えていません」

 

「………」

 

春姫がいずれ迎える『運命』をベルは知らない。それでも春姫という優しい少女が何かに怯えているのは既に理解している。だから、放っておけないのだ。

 

「では……」

 

迷うように、瞳を泳がせる春姫。

もうバニーガール姿ではないベルに、本来の姿を見せてくれた彼に、物語の住人のような台詞を言ってのける彼に、また顔を赤くして俯く春姫はランプを抱いて何をお願いしようか、とちっぽけな頭で必死に考える。でも、やっぱり浮かばなくって。

 

「あ―――」

 

「?」

 

お盆の上、皿の上に乗った林檎が目に映る。

そうだ、2つ目のお願いはこれにしよう―――。

 

「デ、デザート……お食べにならないのですか?」

 

「え? でも、僕、春姫さんのお願いを聞いてないですよ?」

 

「それはそれ。これはこれで、ございます。はい、林檎をどうぞ……お召し上がりください」

 

歪な形をした林檎。

デコボコしていて、そのせいで実は減っていて、皮も残っていて、ヘタも種も残っている林檎を皿ごと差し出す。他の男達であったなら、「なんだこれは」なんて冷たく言うだろうけど、ベルはキョトンとして、それから「じゃあ、いただきます」と言って林檎を齧ってくれた。

 

 

「ど、どうでしょう」

 

「はい、美味しいです」

 

「そうですか、そうですか……」

 

満足気に頷く春姫は尻尾をフリフリ。耳をぴょこぴょこ。

 

「良い林檎ですね……デメテル様のところのかな……」

 

「……………むすー………」

 

0点発言。

春姫が切ったというのに、素材を褒めるとはなんて愚かな。

 

「形は歪だし、実は少ないけど……切った人は一生懸命だったんでしょうね」

 

「……!」

 

前言撤回。

落として上げる。この兎、こんな巧妙な手をお持ちとはなんて恐ろしい…春姫は垂れた尻尾と耳をピンっと立てた。

 

(この子のことは、未だにわからない……)

 

未知の存在。

それは眩い聖なる人の輝きではなく。

それは猛き戦人の栄光でもなく。

穏やかな、そしてどうにも平凡な時間。

小さな陽だまりのよう。

 

「ベル様、2つ目のお願い……決まりました」

 

「むぐむぐ………?」

 

林檎を齧るベルが、そうですか、と言いたげな目を向けてくる。

 

 

「いつか、ちゃんとした料理を作ってもてなしますので……その時は、食べてくださいますか?」

 

キョトン、と林檎を齧る口の動きが止まる。

「そんなことでいいんですか?」と言いたげだ。でも、それで十分。それ以上なんてとてもとても春姫には願えない。それでいいんですと返せば、ベルは少し呻ったけれど――。

 

「わかりました、その時は、ご馳走になります」

 

とそう言ってくれた。

ほぅっと胸が温かくなって顔まで熱くって、とにかくこの熱を冷ましてだらしない顔をなんとかしたくなって、春姫は立ち上がった。

 

「少し、お花を摘んできますね」

 

「………はい、いってらっしゃい」

 

女性ばかりの派閥と言っていたし、意味はきっと、わかっているのだろう。春姫はにこりと微笑んで、部屋の外に出た。そして襖を閉じ背にした春姫が、顔を押さえて尻餅をついてしまう。

 

「恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい……!!」

 

年下の男の子に、何を言っているんだとばかりに羞恥に悶える狐がそこにいた。隠しきれていない顔色を隠したつもりになって限界だと部屋の外に出たはいいが、もう胸の鼓動を抑えるどころではない。

 

「私は娼婦私は娼婦私は娼婦私は娼婦……!!」

 

そう、彼が英雄なのだとすれば。

春姫は娼婦であり、娼婦とは破滅の象徴だ。

なら、一緒にいられるわけがない。

この楽しい日々も限られた時間の一部でしかない。

別れは、いずれやってくる。

でも、それでも、とベルと一緒にいると欲が湧いて仕方がない。彼に抱いて欲しいと言えばいいのか、ここから出してほしいと言えばいいのか、もう、ぐちゃぐちゃである。

 

 

「春姫、そんなとこで何をやってるんだい?」

 

「っ!」

 

知った声音が耳朶を震わせ、勢いよく面を上げる。

そこには、面倒を見てくれるアイシャが呆れたような顔で春姫を見下ろしていた。

 

「もう坊やは帰ったのかい?」

 

「い、いえ……まだ、おられます」

 

「なら、お前は廊下で何をやってんだ……まったく」

 

ずかずかと近くまでやってきて、同じ目線になるよう膝を折る。もてなすはずの娼婦が男を待たせているなんてどういうことだ、と言いたいのだろう。怒られると思って春姫は情けない顔をしてしまえば、これまたアイシャが溜息をつく。

 

「しみったれた顔をするんじゃないよ……ったく、そんなにあの坊やにいれこんでいるんなら、いっそ抱かれればいいじゃないか。なんならお前から押し倒してヤッちまえばいい」

 

「そ、それは……!」

 

「金を払ってこんなとこに来ているんだ、やる事なんて決まり切ってるだろうに」

 

「あぅ……」

 

「それに―――」

 

それに、とアイシャは少し冷たいトーンで言う。

それは死刑宣告を告げるかのようでもあった。いや、そもそも迫っていた刻限を春姫が目を逸らしていただけ。

 

「もう、月が半分も顔を出してる。その意味が……わからないわけじゃないだろう?」

 

 

 

夜空に浮かぶ『月』は、もう既に顔を半分も出していた。




新月から半月までで約8日。
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