アーネンエルベの兎   作:二ベル

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輝夜?誰だぁ、そいつは。しらーん。
春姫?誰だぁ、そいつは。しらーん。
エレボス? いったい何の話をしているんだい? 


水天日光⓬

 

 

悪い記憶はいつだって色褪せてはくれない。

瞼を閉じた時。

暗がりを歩いていた時。

気落ちしていた時。

ふとしたときに、思い出すこともある。

 

彼女の場合、そのきっかけが純潔の雪が下界を覆ったあの日の『遺跡』での出来事だっただけだ。少年ではない女神の抹殺装置(なにか)になって、意識を取り戻した時には女神の胸に刃を突き刺していて、そして少年は発狂した。その光景を、彼女は――ゴジョウノ・輝夜は、12歳の頃の自分を重ねてしまっていた。

 

『――幻想(セイギ)なんて忘れなさい』

 

怪しき光を帯びた、美しき花弁の瞳孔。

輝夜の記憶が途絶える間際に見たのは、それであり。

次に我を取り戻した時にあったのは、ささやかに想っていた高潔な少年の亡骸。発狂して、般若のように長い髪を振り乱し、即刻自害しようとして、けれど『夜の(はな)が汚れる』という理由で最後の権利も剥奪された輝夜は、あの遺跡でベルが自らの喉を斬ったあの瞬間、()()()()と思った。自害することができない彼女は、きっとあの時、羨望の眼差しと共に唇を歪め微笑み、だからこそ仲間に張り手をくらったのだろう。

 

 

何度でも言おう。

悪い記憶はいつだって色褪せない。

既視感と共に消えかけていた火種は、フッと息を吹きかけただけで猛り狂ったかのように燃え上がるし、そうなれば抑え込むのはとても難しい。

 

 

意識が断線するまでの真新しい記憶が、瞼の裏を離れない。既視感が、襲い掛かってくる。倒れているのは処女雪を彷彿させる白髪の少年で、近くにいるのは無意味に庇った獣人の少女。石畳の上は赤く、そして雨水と共に流れていく。生きているのか死んでいるのか、彼女が確認することはなく、これは何事かと木剣を向けて問うてきたエルフの戦士と戦闘する羽目になり、そして日付が変わってしまった。()()()1()()()()()()女神(かのじょ)は気まぐれにも自らが斬った相手の亡骸を確認しようと同じ場所に姿を現したが、そこには何もなかった。瞼を閉じ、黒く長い髪を背に流し、濡れたままの着物を引きずるようにして与えられた館へと姿を眩ませ、湯に浸かり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と首を傾げ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()がいないことにこれまた首を傾げ、仕方なく、理解できないから、畳の上で濡れたまま、生まれたままの姿で彼女は瞼を閉じ寝息を立てた。

 

 

『泣きながら人を斬り、夜の闇に去って行く貴方の後ろ姿を、私は一度だって忘れていない』

 

 

殴られたように頭が痛む。

身体を丸め、呻き、女神(かのじょ)は瞼から意味も分からない滴を零して1人喘いだ。

 

 

 

 

×   ×   ×

【ディアンケヒト・ファミリア】治療院

 

 

 

鼻を突く消毒の匂い。

清潔感を思わせる白の壁と床と天井。

頭をぼんやりさせ、ベルは目を覚ました。体は気怠く、重い。

 

 

「おはようございます、ベルさん」

 

よく知る、女の子の声。

瞳を声のする方へ向ければ、そこにいたのは白銀の髪を背に流す美少女(アミッド)だ。

 

「ぉ、ぁよう……ございます」

 

「お水、飲まれますか?」

 

彼女に身体を起こしてもらって、グラスに注がれた水で喉を潤していく。そんなベルから目を離すこともなくアミッドはベルの額に手を当て、次に手首に指を当てて脈を計り、濡れたタオルで顔をぐしぐしと拭いて、それで満足したのか椅子に腰を下ろした。

 

「血が、足りていません」

 

「んぐっ、んぐっ」

 

「失血死していないのが不思議なくらいです。運がよかった、としか言いようがありません」

 

「んぐっ、ぷはっ……おかわり」

 

「【疾風】……リオンさんが()()()()()()()()()()貴方を発見、救出してくれたからいいものの……酷い有様でしたよ……聞いてます?」

 

まるで酒を呷るように水をがばがば飲むベルに、ジトリ。私、これでも結構心配したんですよ? 寝ずの看病してたんですよ? その辺、わかってくれます? と昔馴染みの美少女は非難がましくベルの顔を覗き込んできた。ベルはそこでようやくグラスから口を離し、それをアミッドが受け取り、すぐ近くに置いていたトレイに乗せた。

 

「………? アミッドさん、今、なんて?」

 

「はぁ……やっぱり、人の話を聞いていない……病み上がりでしょうから大目に見ますが、失礼ですよ」

 

「…ごめんなさい?」

 

「身体はなんともありませんか?」

 

「少し、だるい……です」

 

「雨が降っているのに走り回るからです。いくら恩恵を持っているからと言って、無敵の身体になったわけではありませんよ。第一、アルフィアさんと血縁にある貴方は余計に体調面は気にするべきだというのに……!」

 

「お義母さんの名前を出すのはずるくないですか……。というか、仕方なかったんですよ、どうしても、その、しなきゃいけないことがあったっていうか……いや、もうそのことはどうでもいいんですけど…」

 

「しなくてはならないこと? なんです、言ってみてください」

 

「……女の子を、買おうとしてまし、た」

 

生まれるのは沈黙。

聖女様はずずいっとベルに顔を近づけて会話していた大勢からすぅーっと離れ、けれど顔は開いた口が塞がらないとばかりに唖然呆然。ベルは俯き、シーツをぎゅっと握りしめて悲し気に目を細めた。アミッドは悟った。悟ってしまった。彼はきっと初恋というやつをしたのだ。聞けばグランドデイでは失恋をしたらしいし、死にかけたらしいし……いや、待て……とあれやこれやと脳内で処理しようとして聖女様はぼふんっと顔を赤くさせて叫んだ。

 

「な・に・を・しているんですか、貴方はぁあああああああああああ!?」

 

「ひぃ……っ!?」

 

「体調が悪いのに? お構いなしで? 女性を買いに? はぁ~? こっちの気も知らないで!? どれだけ心配させればいいと思っているんですか、貴方は!? 私は都合の良い回復薬(ポーション)ではありませんよ!?」

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!? でも、お金で解決するならそれが一番いいと思ったんです! お金で買えないものは無いって言いますし!! それと、アミッドさんは友達で、頼りになるお姉さんで、お酒が弱くて、大切な人です!!」

 

「うっ……うぅぅぅぅ~~~~っ!」

 

怒りと羞恥がせめぎ合う。

言葉。

言葉が圧倒的に足りていない。それはもう長い付き合いからわかってはいるが、最後の一撃が強すぎる。なぜ彼は素面(シラフ)でそんなことを言えてしまうのか。その謎を探りにジャングルに探索へ出かけたいくらいだ。両手で顔を覆ってベッドに突っ伏したアミッドの頭をおずおずと撫でるベルに、アミッドは「おやめください」と叫び散らして上体を起こし、けれどバランスを崩し後ろへ転倒。からんからんと椅子が音を立て、尻餅をついて涙目。履いていたのがひらひらとしたスカートでなくて良かった、そう思うアミッドなのであった。

 

「人身売買に手を染めるなんて……私は悲しいです、ベルさん……! 貴方はそんな方じゃないと思っていたのに……!」

 

「………仕方ないじゃないですか、郷に入っては郷に従えってやつですよ」

 

「ただでさえ貴方は女神様と……親密な……それでなお、女性をお金で……!」

 

「平和的に解決するには、手っ取り早いと思ったんです……」

 

「………ちなみに、いくらで?」

 

41億と少し(おかあさんの遺産)……」

 

アミッドの問いに、ベルはぷいっと顔を反らして小さく呟くように答えた。アミッドはベルの口から出た額に天を仰いだ。アルフィアさん、貴方の息子さんはお元気ですよ…。などと、もういっそ涙さえ零してトホホとお空でズッコケているかもしれない魔女に己の悲しみを訴えた。言動が汚くなってもいいのであれば、アミッドは貴方のドラ息子は大切な遺産をあろう事か人身売買に使おうとした糞野郎に成長してしまっていましたよ、コンチクショウ!と言っていたことだろう。

 

 

×   ×   ×

星屑の庭

 

 

「――というわけでダイダロス通りで不審火の騒ぎがあり、【ガネーシャ・ファミリア】や他派閥と消火活動及び、危険物がないかの調査を兼ねた見回りを行っていた次第です」

 

「最近、多いな……不審火騒ぎ」

 

「雨が降ったおかげか、大きな火災になるほどじゃないけど……なんていうかこう、愉快犯的な犯行っていうのかな……」

 

「不審者は……まぁ、場所が場所なだけにいないとは言い切れないんだけど……」

 

「もうこれって、放火でいいんだよね?」

 

「ええ、シャクティ達も放火だろうって判断してる。なんていうか、おちょくってるというか……『ここにいるぞ』ってメッセージ性を感じるわ、勘だけど」

 

 

【アストレア・ファミリア】の本拠、その団欒室には10人の眷族達が集っていた。テーブルの上にはオラリオ内外で出回る情報誌や彼女達がまとめた資料が置かれており、何度も手に取ったのか散らかっては重なり合っている。この日、彼女達は日課の見回りを行っていたところダイダロス通りで不審火騒ぎがありそちらに出向。大きな火災になることはなかったが、どうにもここの所、同じような騒ぎが起こっており顔を出さない犯人に頭を悩ませていた。情報誌には『怪物祭』『ダイダロス通り』『不審火』『死者ゼロ』『犯人らしき人物発見に至らず』『愉快犯の仕業か?』などとそれぞれ書かれており、歯がゆいものがあった。リューが報告し、ネーゼ、ノイン、イスカ、そしてアリーゼが言葉を交わし、そしてアリーゼの勘があながち外れてはいないのではないかとライラが溜息を付く。

 

「で……リオン、お前が昨日の晩に助けたガキはどうなったんだ?」

 

わからないものに頭を使うのはやめだ、と頭を掻いたライラがリューに目を向ければ彼女はふるふると頭を振った。

 

「私が救出したときの状態は、良くはなかった……魔法を使っていたのか、治療院に運び込んだ時にはあらかた治ってはいましたが……【戦場の聖女(デア・セイント)】に任せているので大丈夫だとは思うのですが……また後で様子を見に行ってみようかと」

 

「アストレア様とよろしくしてる子でしょ? 羨ましいなあ」

 

「ふふん! 可愛い系の子だから、仕方ないわね!」

 

「なんでアリーゼがドヤ顔してんだよ」

 

「眷族ですらない男性が私達のアストレア様に手を出しているというのは、いいのでしょうか……」

 

「そんなことを言ってもセルティ、他ならないアストレア様が選ばれたんだから私達が文句を言っても仕方ないわよ」

 

「うーん……」

 

「どうしたの、アスタ?」

 

「そもそも、いつからアストレア様はそのヒューマンと()()()()()()()になったの?」

 

「「「「…………?」」」」

 

 

×   ×   ×

治療院より外

 

 

「あまり無理をなさらないでください、退院は認めますが絶対安静です」

 

「わかりましたよ、わかってます」

 

「もし破ったりしたら、ベッドに縛り付けますからね」

 

「…………」

 

「どうしたんですかさっきから難しい顔をして」

 

「いや…………まだ少し、頭がぼぉーっとしてるというか」

 

「ベッド、入りますか?」

 

「退院を認めるって言った傍から取り下げるのやめてくれませんか!?」

 

「安心してください、私が、お世話してあげますので」

 

「…………」

 

「聞いてます?」

 

 

ベルはアミッドと隣り合ってストリートを歩いていた。しかしどうにも何か違和感を感じたベルは病み上がりのせいかぼんやりする頭で、思考を巡らせていた。

 

 

(昨日は雨が降ってた……僕が運び込まれたのは晩。今は昼……半日は寝てた……運んでくれたのはリューさんらしいんだけど……)

 

 

「先ほどから本当に、大丈夫ですか?」

 

「………」

 

何かがおかしい。

そんな気がする。

自分がおかしいのか、周りがおかしいのか、それはわからないけれど。とにかく、こうして歩けている以上、輝夜のことも春姫のことも、そして(みこと)のことも気になるが、ひとまず【ファミリア】へ帰らなければ。そう思い、ストリートを進む。

 

「どちらに向われているのか、お聞きしても?」

 

「本拠です」

 

「本拠……ベルさんの派閥の本拠……」

 

顎に指を当てて首を傾げるアミッドに、ベルはまた違和感を感じた。彼女が知らないはずがない。小さい頃も今も、アリーゼ達が遠征や冒険者依頼(クエスト)で留守にするとき、アーディと同じように泊りに来ていたからだ。そんな違和感は、アミッドの言動から確かなものになる。

 

「ベルさんはそもそも……なんという【ファミリア】に所属しているのですか?」

 

「―――――」

 

「ベルさん?」

 

「何を言ってるんですかアミッドさん、僕は【アストレア・ファミリア】でしょう?」

 

「何を言っているんですかベルさん。貴方は一度だって【ファミリア】どころか主神の名を仰ってくれたことなんてないではありませんか」

 

第一、【アストレア・ファミリア】の構成員は女性のみ。男性がいたなんて話、聞いたこともありませんよ。訝し気な顔をして言うアミッドに言葉を失うベル。話しているうちに辿り着いたのは星屑の庭で、ちょうど昨晩運んだヒューマンの様子を見に行こうとしていた金の長髪を揺らすエルフと出くわした。

 

「もう怪我は良いのですか?」

 

「リュー……さん?」

 

「ええ、そうですが……。あがっていきますか? 生憎と今、アストレア様は不在ですが」

 

(おかしい……)

 

優しい眼差しを向けて安堵の息を漏らし、けれど向けてくれる態度は知人のそれ。アミッドとリューが何か話をしているがそんなことは耳に入ってこない。

 

「あ、あの、リュー……さん! 僕は、【アストレア・ファミリア】のベル・クラネルですよね!?」

 

「? 私達の派閥に男性はいませんが……ベル、そもそも貴方は私達に自身の派閥を紹介していないはずだ。『怪物祭』でアストレア様を守っていただいた恩があるからアストレア様との関係に目を瞑ってはいますが……主神すら紹介してもらえないのは、毎度言っていることだが怪しんでくれと言っているようなものだ」

 

「―――――」

 

目を見開き、言葉を失う。

いったいどうしたというのです? と首を傾げるのはアミッドとリュー。くらくらする頭でベルは、確認とばかりに質問する。

 

「僕と、リューさん達は……いつから顔見知りか、覚えてますか? 一緒にメレンに行ったり、しましたよね?」

 

「ええ、覚えています……忘れるはずがない」

 

懐かしい記憶を掘り起こすように胸に手を当てて、微笑む綺麗な顔立ちのエルフ。普段ならきっとドキリとするだろうその仕草と微笑みも、今はそれどころではない。

 

「闇派閥との抗争が始まる前に、貴方は母親の【静寂】のアルフィア、【暴食】のザルドと共にこの都市へとやって来た。何度か私達の本拠にやって来ることもあり、アストレア様やアリーゼ達が貴方を可愛がっていたのを覚えている。共にメレンに行き、アルフィアに叩きのめされたこともありましたね。今思えば、派閥違いだというのにまるで【ファミリア】のような付き合いだった」

 

「…………」

 

「【戦場の聖女(デア・セイント)】、彼は大丈夫なのですか? 先ほどから様子がおかいし」

 

「私もそれは思っている所です。病み上がりですし、悪い夢でも見て混乱しているのではないでしょうか」

 

「悪い夢……なら、仕方ありません。まるで雪の上を滑って転んで落とし穴に落ちた兎のような、そんな顔だ」

 

「あの、リュー……さん」

 

「はい」

 

「―――輝夜さん、帰ってますか?」

 

そういえば、あの後、輝夜はどうなったんだろうか。チリチリと痛む頭を押さえるように嫌な予感のようなものが胸の中で渦巻くのを無視して1人の姉の名を口にした。リューと輝夜が良く言い争っているのは覚えている。好敵手だと輝夜が言っていたのも知っている。ベルの方が重症で、輝夜は軽傷かまだ何かやることがあって帰還していないのかもしれない。

 

「輝夜……、とは誰のことですか?」

 

バッサリと身体を斬られたような感覚が走る。嫌がらせにしては質が悪い。何より、嘘を許せない高潔で潔癖なエルフであるリューが、まるで当然のことを口にするように嘘を言えるはずがない。

 

「……すいません、僕、行きます」

 

「え、あ、ちょっと、ベルさん!?」

 

彼女達に背を向け、逃げるように走り去るベル。

そんなベルの後を追いかけていったアミッド。

取り残されたリューは1人、ベルの背中を見て首を傾げるのだった。

 

「そういえば聞きそびれてしまった」

 

そもそも何故、彼は歓楽街にいて()()()()()()()()に殺されかけていたのかを。1人本拠の外で佇むリューを仲間達の声が呼んでいて、ハッとなって彼女は本拠の中へと姿を消していった。

 

 

×   ×   ×

都市北西 冒険者通り

 

 

おかしい、おかしいおかしいおかしい!!

ベルは混乱していた。昨日なにがあったのかも、今までのことも全てがベルの記憶とズレていることに気持ち悪ささえ感じていた。

 

(【アストレア・ファミリア】じゃない!? 僕は6歳の頃から、アストレア様達と一緒にいたのに!?)

 

アミッドの言葉を思い出してみれば、彼女の言っていたこともおかしい。

 

・歓楽街で女神に襲われているところを【疾風(リュー)】が助けた。

・所属派閥を教えてくれていない。

・主神の名すら教えてもらったことがない。

 

そこにリューとの会話を追加する。

 

・『怪物祭』でモンスターに追いかけられていたアストレアを守った。

・親密な関係。

・派閥違いだが、【ファミリア】のような付き合いがあった。

・【アストレア・ファミリア】に男性がいたことはない。

・アリーゼ達がベルのことを可愛がっていた。

 

近くのベンチに腰を下ろし、頭を抱えた。自分の記憶と他人の記憶が一致しない。何より、星屑の庭から背を向けて駆けこんだ管理機関(ギルド)の情報もおかしかった。

 

「これは……フレイヤ様の仕業じゃない……あの女神様(ひと)なら、もっと上手くやる……魅了は、どういうのかわからないけど……そういうことができるって確か、お義母さん……ううん、お祖父ちゃんが言ってた気がする……」

 

管理機関(ギルド)に行き、エイナに会った。彼女は受付嬢として、相談があると言うベルの話を聞いてくれた。

 

 

「ごめん待たせちゃったね、最近、外から美の女神様がオラリオにやってきて…うん、今はまだ眷族はいないみたいでとりあえず遊郭の1つを女神イシュタルから借り受けているらしいんだけど……それでちょっと手続きとかがまだ終わってないからばたついててね? こほんっ、えっと【アストレア・ファミリア】の名簿が見たい……んだよね、構成人数は主神のアストレア様を入れて1()1()()

 

分厚い書類のページを捲りながら頭の中に刻まれている情報を口にする彼女は、しかし、【アストレア・ファミリア】の情報がまとめられているページに辿り着くと「え?」と零す。

 

「なにこれ、アルフィア?……二つ名は【静寂】、Lv.7!? えっと、数年前に死去……。それから、ん~? ゴジョウノ・輝夜、Lv.4で【大和竜胆】……あ、あれ!? ベル君、君、いつ、改宗(コンバージョン)したの!? 二つ名は【探索者(ボイジャー)】……」

 

 

一致しない記憶。

記憶通りの記録。

仮にこの現状が、『魅了』の効果だったとしても犯人がフレイヤだったとしても、あまりにも杜撰だった。何度も深呼吸を繰り返し、無理矢理に頭を落ち着かせようとしていたところに男神の声。

 

 

「やぁーっと見つけたぞ、ベル!」

 

「?」

 

その声の主は目の前にいた。

目は細く、口に浮かんでいるのは気弱そうな笑み。男にしては量が多い黒髪はまったくまとまりがなく、あちこちに飛び跳ねている。そして前髪の一部が脱色したかのように、灰の色を帯びていた。見るからに、覇気のない男神だった。

 

「神をほっぽり出して、どこへ行っていたんだ?」

 

「――――?」

 

「なんだ、頭でも打ったのか? お前はこの俺、カロンを知らないと言うのか?」

 

なんなら感動的な美しい馴れ初め話から始めてやろうか? などとおどけながら片腕に抱いた紙袋―中はじゃが丸君―をそのままにどかっとベルの隣に腰を下ろした。いやぁお前はあっちこっち跳び回る兎みたいに中々見つけられないから苦労するんだぞ?もう少し親孝行してくれ、なんて言ってくる男神にベルはいよいよ頭痛が痛くなった。

 

「血色がよくない」

 

「え?」

 

「冒険者は体が資本なんだろう? しっかりしろ、無意味に焦るな。余裕を失えば視野が狭まり、おかしな行動に出やすくなる……さあ、腹ごしらえだ」

 

さっと差し出される紙袋。

中身は揚げたてなのか湯気を立てているじゃが丸君。チラッと不審者(カロン)に目を向ければ彼はそれこそ親が子を見守るような微笑みを向けていた。訳が分からなくなっているベルは頭を掻きむしって奪うようにしてじゃが丸君の1つを手に取りかぶりついた。

 

「それで……本当に、貴方が神様だっていうんですか?」

 

「そうだと言っているだろう?」

 

「僕の二つ名を決めたのは誰ですか?」

 

「お前とよろしくしているアストレアだ。羨ましい限りだ、今度ナニの話でも聞かせてくれ。あのアストレアがベッドの上で泣かされている様、是非ともお目にかかりたいくらいだ。というかお相手してもらいたいので紹介してくださいお願いします!」

 

「…………」

 

「待て待て待て、そのゴミを見る目を向けるのを止めろ、お前は母親似だから結構キツイ」

 

「……僕のお義母さんの真名は?」

 

「アルフィア」

 

「…………」

 

途切れる会話。

もしゃもしゃと2人分の咀嚼音が静かに耳朶を震わせる。都市の喧騒はいつもの通り、だけど確かにぽっかり心に穴が空いたような喪失感は消え失せない。

 

「オラリオが『魅了』されてる、かもしれません」

 

「ほう……? 理由は?」

 

管理機関(ギルド)の記録と僕の記憶が一致しているのに、周りの人達との記憶が一致しません。僕は【アストレア・ファミリア】のはずなのに……輝夜さんの姿までない……」

 

「お前が正気じゃなくなっているだけじゃないのか?」

 

「僕が嘘をついてるかどうか、神様ならわかるんじゃないんですか?」

 

「自分の言っていることが真実であるとする狂人や暗示の類で刷り込んでいるのであれば、それは嘘でも真実になってしまうだろう? まあ仮に、だ。お前を取り巻く現状が『魅了』によるものだったとして、どう打開するつもりだ?」

 

「…………」

 

三大処女神(スリートップ)は1柱は欠番、1柱は都市にいない、1柱は都市にいるが魅了の効果に堕ちているだろう。いくら彼女達と言っても無敵じゃない。今から攻撃するよーっとわかっていれば防げるかもしれないが、後ろからいきなりどつかれたとなれば防ぎようがないからな」

 

「………僕、は」

 

食べていた口が止まる。手も止まる。

俯く少年に神はにこやかに天を仰ぐ。

たった一晩のうちに何もかもが変わっていて、頼れるものも何もない。どうしたらいいのかも、わからない。

 

「ベル――」

 

そんなベルに、カロンは問う。

正義でもなく。

悪でもなく。

 

「お前は、『何者』だ?」

 

「…………え?」

 

何者であるのかを、男神は問うた。

その問いの意味がわからなくて、解答できないベルをカロンはやっぱり微笑を浮かべて見つめていた。その微笑がなんだか気味悪くて、癇に障って、頭痛を堪えてベルは立ち上がった。

 

「何だ、逃げるのか?」

 

「やっぱり、貴方が僕の神様だなんて…あり得ないです」

 

「酷いことを言うなあ…傷つくぞ」

 

「じゃが丸君、ありがとうございました」

 

30ヴァリスをベンチに置いて、ベルは男神の元を逃げ出した。その華奢な少年の背中に、男神はただ声を投げかけたのだった。

 

「夕飯までには帰って来るんだぞー、俺達の本拠、お前なら知っている場所だぞー!」

 

聞こえているかはわからないが、ベルの姿が見えなくなると男神は自身の胸ポケットに入っていた1枚の羊皮紙を拡げた。それはメモだった。

 

―・―・―・―

これはロールプレイングだ。

神の役を得た娘が1人。

存在を消された娘が1人。

絶対順守すべきルールは存在しない。

改竄は杜撰であることは予想していたことであり、情報と記憶が一致していなければ予想的中。

お前は神である。

白髪紅眼の少年は魅了が効かない。

主神であることを告げてはならないが、思わせること(ミスリード)は良しとする。

導け。

イシュタルはフレイヤに勝つつもりでいる。

『殺生石』を作るための時間稼ぎに魅了を行使させた。

レベルブーストは目を見張るべき異能だ。

満月の夜、儀式は行われる。

お前(おれ)は何を名乗っても構わない。

構わないが、エレボスを名乗ってはならない。

お前(おれ)は優しい神様であり、善神だ。

左のポケットに【ヘラ】の徽章を入れている。

活動資金だ。

お前(おれ)の前に現れた少年は気が動転していることだろう。

利用しろ。

お前(おれ)は、少年を英雄として育てるのが自らに課した役職(ロール)だ。

ヘルメスの真似でもしていろ。

 

―・―・―・―

 

「ふむ……魅了されることは()()()()()()、か。ああ、では少年の出方次第ではあるが、酷いことをしてくれた美の女神に反撃しようではないか」

 

 

×   ×   ×

【南西】第六区画

 

 

アモールの広場は恋人たちの待ち合わせスポットのような場所だ。真上にあった太陽も傾き、少しずつ都市は茜色に染まっていく。結局のところ、あの主神を名乗る不審者のこともわからなければ、現状をどう解決すればいいのかも全くわからず、ベルは逃げるだけ逃げて女神像の傍に座り込んでいた。

 

 

「貴方……そんなところでどうしたの?」

 

その声の主は一目見れば誰だってわかる。

彼女が善神にして、慈悲、あるいは慈愛に満ちた神物であることを。それほどまでに彼女の纏う空気は優しく、正しく、清らかだった。胡桃色の長髪は背に流れ、双眸は星海のごとき深い藍色を帯びていて、まさに星空のように見る者を惹きつける。女性らしいなだらかな線を描き、けれどしなやかな肢体を包んでいるのは、穢れを知らない純白の衣。その物腰を含めて貞淑な貴女を彷彿させるが、深い谷間を作る双丘だけは悩ましいと言っていい。『女神』という言葉は彼女のためにある、そう宣言してもいいほど清廉で純白で美しい女神。正義の女神、アストレアがベルを心配そうな眼差しで同じ目線になるように膝を折って見つめていた。

 

「こんなところで、座り込んで……なにか、あったの?」

 

優しい姉のような雰囲気で伸ばされた手が、白い髪の生える頭に置かれる。俯いていた顔は勢いよく上げられ、彼女の瞳、表情、そして声音を聞いて、思わずベルは彼女に抱き着いて胸元で静かに嗚咽を漏らした。

 

「あらあら…」

 

「ぐすっ……ぅぅっ……アズドレア、ざまぁ……!」

 

「ベ、ベル? 胸に顔を埋めて甘えてくれるのは嫌ではないのだけれど、流石に恥ずかしいわ。ほら、よしよーし、泣いてしまうほどのことがあったのねー?」

 

悩ましい胸元に少年が顔を埋めてぴぃぴぃ女神の名を何度も口にしながら泣いている。それが落ち着くまでアストレアは恥ずかしそうに、困ったように背中を摩り、頭を撫でる。ようやく落ち着いてベンチに腰を下ろす。アストレアはベルの手をとって己の膝の上に乗せ、自らの手も重ねて置いた。

 

「……ごめん、なさい。胸、びちょびちょにして」

 

「いいのよ、落ち着いたかしら?」

 

「…………ぅん」

 

「可愛いわね」

 

ごくり、とアストレアが生唾を飲み込んだ。

可愛い系の少年が泣きついてきて、庇護欲をそそる表情をしているのだ。女神の女神が疼いちゃうのだ。

 

「何があったのか、聞かせてもらえるかしら?」

 

「……信じて、くれるんですか?」

 

「あら、大切な子の言う事をほら話だと相手にしないと私はそう思われているのかしら?」

 

「そんなこと、ないですけど……」

 

深紅の瞳と星海のような瞳が交差して、彼女の指が目尻の涙を拭い取ってくれる。手を握り、握り返されて、ベルは意を決して打ち明けることにした。目が覚めたら何もかもがおかしなことになっていたこと、どうしたらいいのかわからないこと、上手く言葉にできなくともアストレアは最後までベルの話を聞いてくれていた。

 

 

「後悔しないために強くなる……その言葉に、嘘はありません。でも、もうあんな、アルテミス様の時と同じような思いを、僕はしたくないんです……だから、お金で解決しようとしました」

 

「大金を出せばイシュタルも文句を言えない……確かに、その方が手っ取り早く平和的に終わらせることができたかもしれないわね」

 

「でもダメでした。それ以前の問題でした。彼女は生きること自体を諦めてた」

 

 

アストレアに寄りかかり、肩に頭を乗せる。それに習うようにアストレアも寄りかかる。

 

「確かに……私が感じられる『恩恵』の数と、記憶は一致していない。貴方が言っていることは、何一つとして嘘はない。魅了による改竄だったとしても、あまりにも()()()()()。フレイヤの仕業であったなら、もう少しうまくやるでしょうね」

 

泣きつかれたベルを労わるように身体を引き寄せ、頭を膝の上に導く。少し戸惑う彼に「いいのよ」と微笑んで、仰向けに寝かせたベルの瞼の上に手を添える。

 

「でも、不思議よね」

 

「?」

 

「私の記憶では、オラリオの頂点はイシュタルということになっていて、この都市にやって来たばかりの女神がイシュタルの傘下にある。眷族は1人もいないらしいというのに」

 

「都市にやってきた……女神様……? 眷族が……いない?」

 

「ええ、極東から来た女神で、コノハナノサクヤヒメというの。少し、意地悪な女神なの。眷族云々は、まあ……正確なことはわからないの、オラリオではまだ会ったことがないし」

 

アストレアはベルの話を聞いて、淡々と自分の記憶にあるオラリオの情勢を語ってくれた。頂点に君臨するのはフレイヤではなくイシュタルであり、フレイヤは眷族を失い酒場で街娘をしている。イシュタルは歓楽街の支配者であり、彼女の傍には猪人(ボアズ)の武人や妖精の騎士だとかがいて、そしてオラリオに来たばかりだという極東の美神を従属神にした――。

 

「ありえない」

 

「ふふ、確かに…私達を取り巻く状況が魅了の結果なら、もう少し台本は整えておくべきだったでしょうね」

 

とんとんとリズムよくベルの胸の上でアストレアの指が音色を奏でる。心地よくて、瞼の上にある手の温もり、頭部に感じる膝枕の感触に眠りに入ってしまいそうになるが瞼の上にある彼女の手を取って顔を拝む。悩ましい大きな胸を真下から見上げる形になって、それが少し申し訳ないような恥ずかしいような、悶々としてゴロリと身体の向きを変えて彼女の腹に顔を埋める。くすぐったそうな女神の嬌声が小さく耳朶を震わせた。

 

「それで……どうするの?」

 

「どう、とは?」

 

「貴方は主神を名乗る男神が信じられないから……逃げて、私に見つかって、今こうしている。でもそれは何一つとして解決には至らないでしょう?」

 

「…………」

 

「いい、ベル?」

 

「?」

 

「これは……助言なのだけれど……。戦うべき時、戦うべき相手、それが見えた時、自分の気持ちを偽らないで」

 

「戦うべき時、戦うべき…相手……自分の、気持ち?」

 

「そう。だって、貴方の心臓はまだ未練(ねつ)が残っているでしょう?」

 

「――――!」

 

「今の貴方は、いろんなことから目を背けている。私にはそんな風に見える」

 

思わず起き上がったベルの手を両手で包み込んで胸元に持ってくるアストレアは女神として告げる。それはまるで、天からの啓示の様だった。

 

「行きなさいベル。必ず誰かが、誰でもない貴方を待っているのだから」

 

「……はいっ」

 

短く言って、抱擁して走り去って行く白兎の後ろ姿をアストレアは見えなくなるまで見送る。そして、天を仰ぐ。

 

「オラリオでは聞いたこともない男神の名、いないはずの女神、反応はあるのに記憶にはない眷族、杜撰な改竄……そして、それを疑っても記憶がリセットやペナルティを受けることもない……1柱…いえ、2柱ほどかしら、絡んでいるのは」

 

そこまで思考してアストレアはバベルへと足を向けて歩みを始めた。

 

 

×   ×   ×

とある廃教会

 

 

「おかえり、ベル」

 

「…………」

 

「挨拶もなしか、つれない奴だ。まあ、お前は少し様子がおかしいし大目にみるとしよう」

 

それで、と男神(カロン)は椅子の1つに腰かけたままベルに問う。日はすっかり暮れて月の光が教会に差し込みステンドグラスを輝かせる。

 

「お前は、『何者』だ?」

 

「……『ベル・クラネル』です」

 

「ふむ………まあ、いいだろう」

 

男神は立ち上がる。

割れたステンドグラスから差し込む光を後光に、両の腕を左右に広げて舞台役者のように振舞った。

 

「ではベル・クラネルを名乗る少年よ。魅了によって世界が変わってしまったと宣う少年よ、お前の意志で決めてくれ」

 

小人族(パルゥム)の英雄、フィン・ディムナのように聡明で。

王族妖精(ハイエルフ)リヴェリア・リヨス・アールヴのように知に溢れ。

重傑(エルガルム)】ガレス・ランドロックのように豪快で。

【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインのように鋭く生き急ぎ。

女戦士(アマゾネス)の姉妹のように強い絆で結ばれ。

鋭い牙を持つ狼人(ウェアウルフ)のように強さに飢え弱者を唾棄し。

紅の正花(スカーレット・ハーネル)】アリーゼ・ローヴェルのように活発で。

狡鼠(スライル)】という二つ名に相応しい小人の娘のように、狡賢く。

【疾風】リュー・リオンのように純粋で。

【猛者】オッタルのような力強く。

戦車よろしくアレン・フローメルのように誰よりも速く。

陸の王者を屠りし【暴食】のように大剣を振るい。

才禍の化身【静寂】のアルフィアのように才能に溢れ。

愚物と誹られ歴史に嘲笑されし天の炎を操りしエピメテウスのように孤独で。

架空の女神へと昇華するに至ったフィアナのごとき一槍を持って魔物を葬り。

愚者を貫き、人々に笑顔をもたらし、なし崩し的に姫君を救い出したアルゴノゥトのように。

 

「――そんな英雄に、お前もなってみないか?」

 

心を揺さぶる、惹きつける語り口調。

カリスマというのは彼のために用意された言葉なのかもしれない。いっそ悪魔との取引のようで伸ばされた手を取ることは躊躇するに値した。

 

「ぼ、僕は……後悔したくない」

 

『戦うべき時。戦うべき相手。それが見えた時、自分の気持ちを偽らないで』

 

「だから、与えられた全てを使って」

 

伸ばされた手に、未だ小さくて弱い手が乗せられる。

男神は笑う。

少年は決起する。

 

「僕は、勝ちに行きます」

 

 

これは茶番だ。

捻じ曲げて捻じ曲げて、捻じ曲げた本神(ほんにん)さえ気づいていない、どうしようもない茶番。戦うべき時は今、戦うべき相手は女神、心臓は未だ『未練(ねつ)』を持っている。自分を英雄だと言った少女がいたのなら、そのように演じてみせよう。今だけは、英雄(ジェスター)を、演じてみせよう。

 

「よろしい! ならば共に素晴らしい戦績を残そうではないか!」

 

高らかな声で男神は言った。

少年の手を力強く握り締めながら、不届きな女神に反抗せしめようと強い目をした少年に唇を吊り上げて笑うのだった。




カロン 冥府の河の渡し守。

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