『娼婦』、とりわけ春姫が働く『遊郭』の『遊女』は過酷だ。
朝は遅く、夜も遅い。かと言って惰眠を貪れるわけでもない。日付が変わった夜半過ぎまで客に侍り、相手をする。そして夜が明ける前後に客を送り出す。二度寝が許されるのは正午より前で、瞼の重みを感じる間もなく昼の営業を始めなければならない。1日の内に2人以上の男をもてなすのはしょっちゅうだ。
「お待ちしておりました、旦那様」
「それでベル様、今宵はどのようなお話を――――」
「ほお、これは思っていた以上に上玉。少年は良い趣味をしている」
「……貴方、様は?」
「ああ、すまない娘。俺はお前の言う『ベル』様とやらではない」
確かに【イシュタル・ファミリア】傘下の『遊郭』及び『娼館』の待遇はいい。イシュタルは豊穣の営みを推奨し、娼婦達を杜撰には扱わない。春姫も極東で高貴な身分として御屋敷に暮らしていなかったら、そう感じたのかもしれない。だがどんなに衣食住が恵まれていても、春姫の心身は罅割れていた。彼女を苦しめたのは、やはり精神的な苦痛だった。
「ですが、そのお声……
「………
貞淑たれ、姫で在れと生まれた時から育てられた春姫には、初めて出会った男に身体を委ねるのはあまりにも『世界の尺度』が異なった。彼女の貞操観念が悲鳴を上げるのは当然のことで、それでも諦念の石で心に蓋をして、教え込まれた仮面の笑みを浮かべながら、名も知らない男達と一夜をともにした。そんな日々に救いを与えてくれたのだとしたら、それはベルとの出会いなのだろう。今宵も彼がやって来てくれる。どんな話を聞かせてくれるのだろうか、どんな話をしようか……そんなことを思って、彼を『旦那様』と呼んでは迎え入れる。迎え入れた、つもりだった。けれどそれは冷水をかけられたように静まり返り、春姫の心を『不安』と『恐怖』で震わせる。襖を開けて表れたのは、うっすらと黄昏の色がかった瞑色の双眸。くすんだ灰にも似た、辛うじて『白』と言えるような白髪。纏う雰囲気は常人のそれではなく、春姫にだって理解できる『神』を思わせる
「じゃあ、話をしようか……娘よ。俺はお前に、興味がある」
春姫はイシュタルに儀式の日を告げられた時と同じくらいか、それ以上か、喉元に刃を突き付けられたような錯覚を覚えた。
× × ×
歓楽街 外
頭上に輝く星々に負けないほど魔石灯の光を氾濫させ、オラリオという都市は今日も今日とて眠ることを知らず、喧しく、そして眩しい。怒鳴り声や悲鳴、あるいは歓声が轟くのは酒場を中心とした飲食店で騒動ばかり起こすのはもっぱら冒険者達だ。それを諫めるのもまた、冒険者。或いは地上から目を背け、地下へ向けてみれば誰も知らぬところで都市の存亡を賭けた戦いを繰り広げている正義の使徒達が、善の側に立つ者達が命を燃やしていることだろう。だがしかし、そんな地下だとか冥界だとか冥府だとか、都市の存亡だとかの戦いは、
「はっ、はっ、は………っ!!」
まず1つ。
少年は都市の存亡よりも、種の存亡を賭けた逃走劇を繰り広げていた。何度、何度逃げれば気が済むのだろうとか、女の人怖い、とかいろいろと思うところはあるが。とにかく、とにもかくにも、ベル・クラネルという
「あの、そろそろ諦めてもらえませんかぁ!?」
「「「いいいいやあああああああああ!!」」」
「くっ………なんで、僕の足に付いてこられるんだッ!?」
「「「女の執念、舐めんな!!」」」
「こ、こわいっ!?」
ぜぇぜぇはぁはぁと息切れを起こしながらも逃げるは白兎。けれどこちらはまだ余裕があった。何せ
「だって、誘ったの貴方じゃん!!」
「違いますけど!?」
「イチャイチャしたいって言ったじゃん!!」
「言ってませんけど!?」
「「「女を誘っておいて無碍にするって男としてどうなの!?」」」
「なんか…ごめんなさいぃ!? でも、違うんです!!」
「「「出すもの出せばいいだけでしょう!?」」」
「僕じゃなくてもよくないですかぁ!?」
逃がしゃしないよぉ……!!とでも言いたげな娼婦達。よく見てみれば種族も多種多様。歓楽街を利用する男達は毎夜、レストランのメニューを吟味するように誰を買うか迷っているのだろうか、と思わないでもない。でもベルにだって選ぶ権利はあるのだ。そして誰でもいいわけでもないのだ。ベルは必死に貧相な脳みそをフル回転させて、そして、疾走中での並行詠唱を敢行した。
「ぁ、あ…雨の音、風の音、波の音、月の涙、雷の大笑――――!!」
「「「「魔法!?」」」」
「ちょ、ちょぉーっと僕、待ってよ? ね、いい子だから!?」
「星に刻もう、私は忘れない、貴方達がいたことを」
娼婦達はベルの紡ぐ魔法が攻撃魔法だと思い込んでいた。まして短文ではなく、長文詠唱か超長文詠唱だ。それに加えて並行詠唱を行っているときた。ぞくり、と悪寒のようなものが走り肌を粟立たせる。説得する
「
やがて完成した魔法を解放し、ベルは宙へと躍り出た。ぴゅーんっとあっという間に。娼婦達は呆気にとられ、満天の星空を見上げるが如く、ベルを見送るのだった。
「「「くっそぉおおおおおおおおお!!」」」
× × ×
遊郭
男達はいつも笑みを浮かべていた。
肩を抱かれ、腹を撫でられた。
狐の尾を指で何度も弄られ、着物の上から尻を揉まれた。
服を脱げと、高圧的に命じられた。
魅惑的な線を描く臀部、着物の上からでもわかる肉の詰まった胸、そして月明りに映える儚げな美貌。娘と女の間を揺れ動く己の身体が、異性をこの上なく欲情させるのだと自覚もできないまま、春姫はいつも悲鳴を押さえ込み、必死に悪寒と戦いながら、身体を強張らせていた。
「―――なるほど、波乱万丈という言葉が極東にはあるが……中々どうして、お前も難儀な生を送っていたようだ」
「…………」
この日も、初めて会う目の前にいる
(気が重い)
まるで重力が春姫を圧殺しに来たかのようだった。満開でない満月の光を背にする男神はいっそ死神のようでいて、笑みを浮かべているのに恐ろしい。身の上話をしてほしいと言うのだからしてみればどうだろう彼は春姫の心の内をじろじろと無遠慮に値踏みするかのようで、それがいっそう春姫の恐怖心を刺激する。1分が1時間に、1時間は1日に、そう時間が長く感じられるほどに重い空気、神威に春姫は気圧され、小動物のように目に見えて怯え、俯き、男神とは視線を合わせない。
「客商売だろう、相手との会話は相手の目を見てこそだ、娘」
「っ!」
「娼婦なんだろう? もてなすのは当然のことだろう、娘」
「――っ!!」
着物の内、春姫の柔い肌を覆う最後の砦である
「も、申し訳……ございません。す、すぐに、夜伽の準備を……」
「いや、それには及ばない。もとより俺は
「………」
「抱くわけでもない、しかし連日会いに行くなど、14の小僧には高すぎる遊びだと思わないか? 娘」
「………」
「そして娘、お前の話を聞いてみればどうだろう……
「………ぅ」
やめてほしい。
これ以上、言わないで欲しい。
自分がいやに卑しい小娘であるかを思い知らせないで欲しい。
春姫の心が悲鳴を上げる。泣きたいのに泣くことができなくて、悲鳴を上げて外にいるかもしれない
「娘、お前、
「―――っ」
さっきから、この男神はベルのことを『弟』などと呼ぶ。
嘘だ、絶対に、嘘だ。
それくらいは春姫にだってわかる。でも、言い返す勇気など臆病な春姫は持ち合わせてはいない。
「嗚呼、残念だ。とても、残念だ……でも、仕方ないよなあ。お前は娼婦で、娼婦の仕事なんてしてなくて、金だけは得て……悪いやつだものなあ……」
結局のところ、この神様は。
春姫を虐めに来ただけなのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。だから、春姫は、願った。早く今日が終わりますようにと。
「――――ベル、もうすでに女がいるぞ」
「…………………ぇ?」
本当なのか嘘なのか、判別なんてできなくて。
神様は意地悪で、意地悪で、怖くって。
だから真偽を得ることなんてできるわけなくて、春姫は崖から突き落とされたようなショックを受けていた。胸が痛い。ナイフで刺されたかのように痛くて、次第に血が滲んで溢れてくるのではないかとさえ思えてくる。
「してもらえると良いな………身請け。まあ、頑張り給え、迷える子羊よ」
男神は立ち上がり、膝の上でぎゅっと着物を握り締めて震える春姫の肩に手を当て、そう囁いた。そしてそのまま立ち去っていく。ぎしぎしと廊下の木板が軋む音が耳朶を震わせ、そうして静かになって、気配すら感じなくなって、春姫は糸が切れたように崩れ落ち、畳を涙で汚した。どうして、とか、なんで、とか、とにかくそんなことを心の中で反芻し、袋小路に迷い込む。やがて様子を見に
「何があった」
そう聞く長髪の
「白髪のヒューマンだね?」
「えっと……はい、
「………オラリオで白髪のヒューマンなんて、私は1人しか知らないよ」
拳を握り震わせるアマゾネスの戦士、アイシャ・ベルカは頭に血を昇らせるのだ。
× × ×
路地裏
「これで舞台は動く……さて、どう転ぶか楽しみだ」
ぽつぽつと雨が降り始める。
それは少女の流す涙のようで、オラリオを濡らす。
男神―エレボス―の
「悪いな少年」
くつくつと笑う、悪い神様。
いもしない兄を名乗り、春姫を追い込んだ。なに、追い込んだ所であの小娘は自害などできやしない。そういう弱い小娘だ。しかしそれでいい。春姫を追い込み、泣かせ、それを発見したイシュタルの眷族は訪れた客の特徴から派閥、種族、年齢、あれよあれよと割り出し、
「悪いな、アルフィア」
徽章を懐に戻したエレボスは、右手に持つ
「嗚呼、なんたることか! これでは願いを叶えてくれる精霊様は現れてはくれないではないか! 嗚呼、これではあの心優しき少年、愛しき少年に合わせる顔なんてありはしないではないか!! これでは少年と娼婦の娘の
まるで吟遊詩人のように詠うエレボスは雨に濡れながら、やがてその手からランプを滑らせる。かつん、ころころと軽い音を鳴らしてランプは転がっていく。それをエレボスは拾いもせず、宮殿の方へと視線を向けた。
「さて、次だ。 今、会いに行くよイシュタル」
× × ×
遊郭
雨が降りはじめた。
外で男を誘っていた娼婦達は男と共に娼館に入って行き、客を得られなかった女も、目当ての女を得られなかった男もそそくさと濡れるのを嫌って逃げていく。ひと気が、失せていく。
「ない………ない、ない、ない、ない、ない、ない、ないッ!!」
外の雨など、喧騒など関係なく。
春姫はぐずぐずになった顔を拭うのも忘れて、宝物を探していた。ベルがくれた、御伽噺のランプに似た水差し。部屋の片隅に、邪魔にならないように置いてあった大切な宝物が、どこにもないのだ。
「どうして、どうして、どうして!?」
身体を揺らし、頭を揺らし、視線を巡らせ部屋中を見渡す。でも、どこにもない。同じ趣味を持つ彼が、優しいあの子がくれた大切な物がどこにもないのだ。怖い目にあった、嫌な神様に嫌がらせを受けた、だから宝物を抱きしめて、心を落ち着かせたかった。なのに、ないのだ。
「春姫、坊や……ベル・クラネルが来たよ」
「ヒッ!?」
襖の外から、
どこか苛立っているような声音だが、そんなこと、今の春姫にはどうでもよかった。
「どうしよう……どうしよう……」
頭が碌に回らない。
思考ができない。
家の物を壊して、それを親に知られて怒られるのを恐れる子供のように春姫は頭を抱える。とりあえずランプの話題が出たらそれとなく逸らす? 逸らせる? 今の私が? きっと、無理だ。バレる。 何より……。鏡を見て、自分の格好があまりにも人に見せるものではないことに気がついて、すっと心が冷えていく。
「春姫、どうするんだい」
「……会いたく、ございません」
泣き腫らした顔で、小汚い顔、汚れてしまった着物で、どうやって彼に会えと言うのだ。無理だ、そんなの、無理に決まっている。彼に心配させてしまうなんてとんでもない。襖の向こうのアイシャに告げると、彼女は沈黙の後、「本当にいいんだね」と言う。
「はい………もう、いいのです」
へたりこみ、鏡に映る自分の小汚い顔を見つめて、言葉を返す。少なくとも今夜は、彼に会う気力は持ち合わせてはいない。だから、欠片でも忘れていた諦念を浮上させて乾いた笑みを張り付けた。鏡に映る春姫の双眸は雫を零していた。
× × ×
遊郭 外
遊郭に訪れていたベルは、アイシャによって追い出された。「会いたくないってさ」と、そう言う彼女の目はどこか怒りのようなものが浮かんでいた。【ファミリア】に手を上げてくれた余所者に対する敵意に近いそれだった。
「………」
静かに、春姫がいるだろう部屋の方に顔を向けても、灯り一つない。彼女はもう今日はいないのか、或いは別の部屋で別の客の相手をしているのか。わからないが、どうしてか悲しくて、寒い。雨に濡れた髪が鬱陶しく顔に張りついて、それを指で退けて、人気の減った道を歩く。そう言えば彼女を身請けしようと思って【ヘラ・ファミリア】の徽章を持っていたのに、そのバッグはどこかで失くしてしまった。ひょっとすれば、娼婦達に追い回されている内に落としてしまったのかもしれない。
「……寒い」
今日はもう帰ろう。そう思って、とぼとぼと道を行く。徽章のこと女神に相談すれば、なんとかなるだろう。証文そのものではないのだし。でも、失くしてしまったという事実はやっぱり、悲しい。
「………?」
ふと、ころころ、かこんかこん、と何かが転がってから引っかかるような音が耳朶を震わせた。ひと気がないせいかそれが気になって、そちらに目を向けるとそこにはあったのだ。
「なんで、こんなところに?」
とくん、と鼓動が早まる。
春姫は外に出ることは滅多にないと他ならない本人が言っていた。じゃあ、どうしてここに? 嫌な予感、悪寒、それらが動悸になって胸を締め付ける。水差しに近付き、ひざを折り拾い上げる。転がったせいで傷が出来ていたが、真新しさはあり、やっぱりそれが春姫にあげたものだということがベルには理解できた。そして、
「―――――」
誤解、というのはどの時代においても恐ろしいものだ。
思い込み、というのはどの時代でも恐ろしいものだ。
春姫は汚らわしい自分を見られたくはないと、特定の女性がベルにはいるのだとベルと会うのを止めることにした。
アイシャは泣いている妹分が、『白髪』『ヒューマン』という特徴からベルを怪しんだ。春姫が会いたいと言うなら会わせたし、その後何かやらかしたなら、手を打つつもりですらいた。
ベルは春姫に喜んでほしかった。だから物語に出てくるアイテムに似たものを与えた。真似事のように2度、願いを叶えてみせた。でも、まるでそれらを破り捨てるように
――春姫はもう坊やに会いたくないそうだ、立ち去りな坊や。
――身内に紹介するのは勝手だけどね、女を傷付けるような奴を寄越すんじゃないよ。
――今度、春姫に手を出してみな。ただじゃ済まさないよ。
――前より情けない顔にしてくれちまって……礼を言えばいいのかい?
「―――くそっ」
気付けばベルは、走っていた。
水を蹴り上げてびしょ濡れになって、歓楽街を逃げ出した。
「おかえりなさいベル、すごい雨だったでしょう? 今、タオルを……ベル?」
勢いよく扉を開けて、閉める。
帰ってきた眷族を優しい女神が慈愛の笑みで迎え入れる。雨はいつしか土砂降りに。返事もしないベルにタオルを抱きかかえて近付いてきたアストレアが様子がおかしいと前に立つ。
「何があったの?」
「何も、ありません」
「じゃあどうして貴方……泣いているの?」
「――――っ、ぅ、あっ」
頬に手を添えられて、目と目が合って、泣いていることを指摘されたら、もうどうしようもない。ベルはアストレアの胸に飛び込み、肩を揺らして嗚咽と共に泣き崩れるのだった。
めっちゃコメ荒れしそうだなあ。
ちゃんと春姫の問題は解決するので。
ノックス:夜と闇を意味する神の名前。
エレボス:
日常回ばっかでつまらんな、よし、話を進めるか。
①ベルと会う。
②春姫のことをベル本人から聞く。
③声が似ているのでベルの声を真似て娼婦達に追い回させ、しれっと【ヘラ・ファミリア】の徽章を入手。
④春姫にベルの兄に扮して会う、身の上話を聞く。あれこれ言って春姫の心を追い詰める。好きな人は既にお付き合いしている人がいると思い込む。しれっと水差しをパクる。
⑤エレボスが怖くて春姫は泣き崩れる。水差しがないことにパニックを起こす。追い詰められた精神で碌に頭なんて回らない。
⑥アイシャが春姫が泣いているのを知る→ベルが来る→春姫にベルと会うか聞く→「会いたくない」→「二度と来るんじゃないよ」→ベル「???」
⑦春姫にあげたはずの水差しを発見。近くにゴミ箱があった→「捨てられた」と勘違い。ベル「なんで、どうして!?」
⑧エレボス→イシュタルへ「アストレアの眷族がお前のところに探り入れてるけど放置してていいの?」←次回