人感センサーの検知を確認して、マナミはお湯を沸かし始めた。
研究所の入り口でセンサーが反応、第一ハッチが開閉、不純物などの検査、第二ハッチが開閉、消毒、第三ハッチ開閉、残留物の測定。それらを終えてメインエントランスに上がってくるまでに四分三十九秒、少し冷ます時間を含めてもお釣りが来る。
用意を終えて零.五六秒後、エレベーターの到着ベルが鳴る。中から、全身を包む防護服に身を包んだ人物が現れた。
「ただいま。いやあ、やっぱり外は冷えるね」強固なヘルメットを外して中から現れたのは、柔和な表情の優男だった。ズレていた眼鏡を直しつつ、徐々に服を脱いでいく。マナミはきっちり三十度会釈した。
「おかえりなさいませ、お父様。紅茶は既にご用意しております」
「砂糖は?」
「角砂糖三つ、ミルクを一滴」
「よろしい」
薄ら湯気の漂う紅茶に口をつけて、男は微笑を浮かべた。
「美味い。また腕を上げたんじゃないか?」
「『蒸らし』の時間を十三秒ほど変更しました。次回以降は+-数秒の物をお出しし、結果を反映していきたいと思います」
「うん、まあその辺は任せるよ」
どうでもいいのか、男は小さく欠伸をしながら答えた。彼が脱ぎ捨てた服を丁寧にまとめ、片付けながら、マナミは聞く。
「して、本日の調査結果は如何でしたか?」
「あー、もう全滅だね。やはり人類はおしまいだ! でも、一応の収穫はあった」
あっけらかんと告げた男は白衣の内側から、赤い花弁の花を取り出す。マナミは小さく顔を顰めた。
「お父様、また外でそのような……」
「その辺りは心得てるから心配いらないさ。身体が冷え切らないように、一瞬の間に済ませたから。ちゃんと、墓石にも添えてきたよ」
こんなことなら防護服にポケットでもつけとくんだったなあ、と男はどこか情けない笑みを浮かべる。手に持っていては潰してしまうし、ハッチを通過するときのチェックではたき落とされてしまう。なので一度、防護服を脱ぎ、白衣の中に隠す必要があったのだ。
「そのようなお戯れで、お父様に何かあっては私──」
「悲しいかな?」
「──はい」
ラグのある返答に「ハハ、別に隠さなくていいよ」と男は言う。
「まだ君の、
「……恐縮です」
微かな駆動音を立てて、マナミは四十五度頭を正面に傾けた。
「それもまた一つの悲しみだよ。君が成長していることに変わりはない。じきに、完全に感情に目覚めるだろう」
目覚めようが目覚めまいが、それを称え、咎める人類はもういないのだけれど──そう自嘲するように笑った。
「とりあえず、シャワーを浴びてくるよ。君は授業の準備をしておいてくれ」
「かしこまりました、お父様」
──西暦2564年。地球は、未曾有の氷河期に突入した。
温暖化など何のそのと徐々に気温を下げていく地球上で、段々と生命は死に絶えていき、予めシェルターを用意していた富裕層や、対策を講じた研究者たち以外の人々は凍っていった。数少ない生き残りも、冷めきった心でこの状況を解決する展望など見えるはずもなく、水面下で行われていた醜い争いの中で、人々はゆっくりと姿を消した。
幸いこのシェルターでは雪力発電の設備を整えていて、人工栽培の苗も豊富に存在しているため、男一人が暮らしていく分には有り余るほどの環境であった。
「ふう、さっぱりした。さて、それじゃあ今日は何を見ようか? 何か希望はあるかい?」
「ではここ一週間のスケジュールになかったので、恋愛映画を」
「よろしい」
リモコンを操作すれば、無機質な白い部屋にスクリーンが広がっていく。男は、旧時代の遺物たるフィルムを映写機に挿入した。たまたま行っていたコレクションが、ネットワークが死んだことで功を奏するとは思ってもいなかった。
「………………」
「………………」
上映される映像を、二人は眺めていく。といってもその様子は対称的だ。男は一喜一憂しているのが表情から伝わるし、マナミは微動だにせず、瞬き一つ行わずにスクリーンに向かっている。
「──ふう、面白かった。彼女がこの映画を好んでいたのもわかるよ」
「一つ疑問があるのですが、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「それでは、何故主人公はあのように非合理的な行動に走れたのでしょうか?」
映画の内容は、一日ごとに記憶をなくすヒロインと恋に落ちた主人公が、その大きな障害の中でも懸命に彼女と時を過ごし、結ばれていくというモノだ。その中で、徒労にも思える主人公の奔走ぶりに、納得がいかない。
「いい質問だね。言うなればアレは、感情の暴走だよ。好意が先行した結果、合理性を蔑ろにしてでも動くことを可能にしたんだ。映画的に見ればアレは、観客の感情移入を誘う手法でしかないのだけれどね」
大抵の人間は、無駄な努力を繰り返しているからさ。
そう言って、彼はポップコーンを一粒口に運んだ。
「まあ、今の映画の意味を真に理解できた時、君は本当に感情を学べたと言えるだろうね」
大きな欠伸が聞こえた。一日動き回っていたこともあって、男もそれなりに疲れていたらしい。
「さて、今日はもう休むよ。君も自由にするといい」
「かしこまりました、お父様。おやすみなさいませ」
「うん、おやすみ」
男が部屋を去った後、マナミは目を瞑り、一時間半の鑑賞データの再生を始めた。役者たちの表情、喜怒哀楽を一通り眺める。映画の意味は相変わらず不明瞭なままだったが、男と見ている時と、何かが違うように感じた。
◇
「ふあーあ、おはよう」
「おはようございます、お父様。朝食の準備はこちらに」
「ん、ありがと」
赤みがかった黒髪の、無造作な寝癖を撫でながら、男は席に着いた。卓上には、色とりどりの野菜を活かした料理が並べられている。いただきます、と手を合わせて食べ始めた。
「お父様、昨日夜更かしなさいましたね?」
「げ、バレた?」
「はい。隈の濃さで」
「結局寝付けなくてね、ちょっと手慰みに作ってたんだ」
手招かれて、マナミは男の近くに寄る。色素の薄い髪の隙間に、赤い花が添えられた。
「うん、よく似合う」
「これは、昨日の……?」
「そ。特殊な冷却加工を施したから、ずっとその綺麗な状態で保たれるよ」
「ありがとうございます」
「いえいえ」
男の視線は、花飾りから動かない。
「作った僕が言うのもなんだが、瓜二つだねえ。よく似合っている」
「ありがとうございます。……彼女は、どのような方だったのですか?」
「そうだね──」
珈琲を啜って、彼は口を開いた。
「といっても、話せるようなことがほとんどない──ってのがホントのところなんだ。彼奴はひどく無口でね、人は最初に声から忘れるというが、そもそも覚えてすらいなかった。ただ、優しい子でね。僕の実験が失敗して責められている時も、何も言わずに傍にいてくれた。紅茶を注ぐのが好きで、その時もジャスミンティーを出してくれたものさ」
「でもある日、あっさりと死んだよ。凍死だった。シェルターにいないことに驚いて探しに出かけたら、赤い花の根元で眠るように凍っていたよ。この世界に絶望したのか、それとも別の理由があったのか、何故そうしたのかはわからないがね」
「──すみません」
「いや、気にすることはないよ。僕も久々に、感傷に浸れてよかった」
安らかな男の横顔に──何故だか、マナミはエンジンの駆動が鈍るような、そんな感触を覚えた。
◇
「おや、調べ物かな?」
「ええ」
書斎で本を読むマナミに、男が話しかける。ページを捲る度に花の写真や説明文が現れる。
「お父様がよく摘んでこられる赤い花、あれがどういったものなのか興味をもちまして」
「いいねえ、興味。じゃあその好奇心に報いて、開発者の僕がそれを教えよう」
216ページを開く。その左上にある件の花を男は指さした。
「『ヒガンバナ』だ。勿論、原種はただの花だから雪の中で咲くことなんてありえない。ちょっと遺伝子データを改造してね、耐寒機能を上げて、土ではなく雪に根を張って咲けるようにした。実は僕は、これで地球を救おうとしてたんだ」
懐かしむように男は語る。
「耐寒植物を量産して、この氷の世界でも使える資源にできないだろうかと始めた試みだったんだが、失敗だったね。ヒガンバナ以外はほとんど成功しなかったし、肝心要の木々は咲ききるまでが長い。そうこうしてる間に部下に反乱を起こされてねー、試作品だったヒガンバナの種子を外にばらまかれたんだ。コピーはあったんだけど馬鹿らしくなってね、そこで研究はやめたよ」
「……その方は、手柄でも欲しかったのでしょうか?」
「たぶん耐えられなかったんだろうね、待つことに。外に知人も多かったみたいだから」
「お父様は──」
「ん?」
「──いえ、何でもございません」
必要のない質問だった、とマナミは口を噤んだ。同時に、何故そのような質問を発したのか──データベースを分析したが、よくわからなかった。
◇
それからは、それまでと変わらず、ずっと二人きりだった。
もう外出の必要もなくなったからか、毎日話し、映画を見て、ただ時を消費するだけ。
変わったことと言えば、徐々に男の背中は丸まって、ベッドから動かなくなって、生命を留めるためのチューブが取れなくなって──その程度だった。
「お父様、お水です」
「──ぁあ」
ゆっくりと瞼を開けた男が、口を小さく開く。植物にそうするように、マナミはゆっくりと水を注いでいく。弱々しく喉仏を動かした後、彼は言った。
「……マナミ」
「何でしょうか」
「これ、外してくれ」
自身の身体に繋げられた無数のチューブ、その中でも最も大事な、心臓のはたらきを支えるものを指差す。
「しかし、お父様──」
「命令だ。外せ」
マナミに、それに逆らう権限はない。錆び付いたような関節の駆動とは対照的に、手は機械へと向かっていく。
「でき、ません」
「もう、いいんだよ。人類は、終わったんだから。そもそも君を作った時点で、僕はヒトとして終わっていたんだけれど。エゴで倫理観を無視したんだからさ」
マナミの黒髪を、男の細い手が撫でる。赤い髪飾りに触れる。その奥に詰まった、娘の大脳を夢想する。
「古の諺を知ってるかい? 『一番の親不孝は、親より先に逝くこと』──僕はさ、そのためだけに君を作ったんだ」
マナミの手が、機械に当たる。男の心臓に触る。弱々しく脈動するそれが、外れた。
「──ありがとう」
ごめんなさい、と声が響いた
「──あ」
センサーが、鼓動をやめていく心臓を理解する。それを止めようと、胸部への圧迫・電気による刺激を行う。繰り返し、繰り返し。
『バッテリー低下、充電してください』
警告を受けてようやく、男の脈拍がとうにないことを理解した。同時に、目から水滴が垂れ流しになり、思考回路がバグだらけになっていることを。
「ふふ……」
マナミの口角が上がる。安らかな顔の父を見つめる。初めて得た感情が悲しみであり、喜びであることを噛み締めながら、傍に寄り添う。いつまでも、いつまでも、いつまでも。
壊れた娘と眠る父を、吹雪が覆い隠していくまで、そう時間はかからなかった。