短編1話完結。
本能寺を包む炎は残り少ない。朝の道が薄明るく燃える。
影より暗い漆黒が行く。
ヤスケは境内を出口に向かっていた。荷車を引いて歩く。昨晩からの炎と、そして戦で、壊れかけてはいるものの、背負っていた主君を乗せて充分に動く。
織田信長。第六天魔王。戦国の彗星。時代の改革者。異国から売られてきたヤスケに、一切の差別をせず実力を認めた。計り知れない魂が潰えた。荷台に横たわり、現世から眠る。
腕にかかる重みは、支えだった。失われた命を感じられた。
信長に言われた。謀反者に亡骸を渡してはならない。他の誰でもない、ヤスケに託した。信長は死のうとも、その言葉はヤスケの中で生きている。
行く先は決めていた。東にある高い山。信長は富士山が好きだった。地下室と隠し通路を知る、数少ない家臣は、大半が本能寺の炎に消えた。
距離がある。ヤスケなら苦ではないが、遺体の腐敗を心配した。振り返る。火傷と流血は痛ましいものの、変わらない魔王の覇気を感じさせる。
氷の蝶が舞う。信長に寄り添う。少年のころからヤスケには霊感があった。濃姫が信長を守っている。なればなおさら、二人を無事に送り届ける。果たさなければならない主命。
黒い甲冑で地を踏みしめながら、ヤスケは思う。
サムライになりたかった。
サムライとはなんなのか、ヤスケは知らない。家中の者にナイトと教えられた。理解しつつも腑に落ちなかった。そのわずかな違いが、信長がヤスケに与え、求めたものに感じられた。
崩れた門を通る。信長を守るために、本能寺からは早く離れたい。
信長を追う者がいる。
ただ立っているだけで、行く手を阻む意思が伝わってくる。背にした大太刀は獰猛な牙。異人のヤスケには劣るが、頑強な体格。斎藤利三とは以前にも顔を合わせた。
明智光秀の腹心として名高い。厚い信頼に応じる忠義が、サムライなのだろうか。周囲から向けられる視線の違いを羨んだ時もある。
思いながらも歩を進める。すでに荷車からは手を放していた。腰の剣を抜き振りかぶる。光秀は信長を裏切った。ならば利三もまた、許しがたい敵に間違いない。
高速で抜刀した利三と、振り下ろしたヤスケの刃が重なる。
ヤスケはあえて力を抜いていた。交錯した剣は空中に捨てた。目を引く目隠し。体をひねり、回転しながら斧に持ち替え、勢いをつけて横から薙ぎ払う。
「オンッ!」
利三の長い刀では防ぎにくい急な斬り込み。呪符を取り出していた。念じて波動が放たれる。剣の達人であるだけでなく、陰陽術にも通じる利三に、ヤスケの斧は弾かれた。
斧を握り直す。大太刀と同じ間合い。
「やめておけ。我らが戦う理由はない」
利三の言葉にヤスケが驚く。
英語だった。
「信長を引き渡せば、お前は助けてやる。死体が必要だ。落ち延びたなどと虚報を流されては困るのでな」
声がよどみなく流れる。文武両道の博学と聞いてはいたが、意外だった。これほど自然な英語はいつ以来だろうか。思わず気がゆるみそうになる。
「できない」
自分に言い聞かせながら答える。
歯を食いしばり、地を踏み、両腕に力をこめる。全身が燃えるかのようなヤスケに対して、利三は冷淡に告げる。
「信長は死んだのだぞ」
「誰にも渡すな。俺はそう言われたんだ」
「信長は、お前を」
息を吐く。
「お前達を、家臣とは思っていない。珍妙な動物。人ならざる曲芸。猿回し。信長の好みそうな遊びだ」
わずかな沈黙。
「だからこそ、私はお前を殺さない。光秀様は信長とは違う。お前はお前の好きにすればいい」
「俺、は」
雷鳴が響く。斧を一直線に構えるヤスケの背後に、現れる守護霊。アトラスベア。雷を宿す熊。
雷撃を思わせる突進。
「俺はサムライだッ!」
「愚かだ」
大太刀で斧を叩く。斧は地に落ち、刀は跳ね上がる。
「乱世に望め」
よく通る声に、二人の時が止まる。
「乱世に興じるがよい」
「信長?」
困惑しながら、利三が叫んだ。
荷車に眠る信長は動かない。火が立ち上る。空中で生きているかのように動き回る。炎そのものが意思を持ち、獣の姿に変わる。
現れたのは炎の霊獣、豹尾神。
優雅とも言える足取りでアトラスベアに並ぶ。炎と雷が、混ざり合って周囲に四散する。
「いささか無粋ではあるが、悪くない余興よ」
「信長様……」
「お主にも渡しておこう。褒美だ」
流れ込んでくる豹尾神。ヤスケの心に信長が重なる。乱世を駆け抜けた野心の、その先にある思い。死せども消えず、より多くの息吹が生まれていく。
呼応。咆哮。燃え上がり、鳴り響く。
豹尾神とアトラスベアが同時に飛びかかる。ヤスケは斧を下段から構え、天高くまで振り上げた。
火炎と雷電、そして漆黒の斧が、利三に叩き込まれ、吹き飛ばす。
空が明るくなった。
「第六天より、信長は見ておるぞ」
舞い上がる天眼孔雀。美しく広げた翼は、世界のすべてを、未来すら見通す眼。さらに大きく輝き、そして孔雀は消えた。
斧を地に突き立て、祈る。アトラスベアと豹尾神に。天眼孔雀に。織田信長に。他の作法を知らずとも、止まらない思いが全身に満ちる。
利三はまもなく意識を取り戻した。目を見開き、起き上がれないまま、声もなく口を開く。
「ああ、ぐ……つぅあ!」
負傷とは違う苦しみ方。
よろけながら立ち上がる。利三は赤い目をしていた。人ならざる者の色。妖怪の目。
「まだ……だ。あと一手先まで、この体、は」
「なにを言っている?」
日本語というだけではない。何者かに動かされているような挙動に、ヤスケは身構える。拾い直してある剣を利三に向けた。
「いつの世も、サムライが邪魔をする」
傀儡の足取りで利三が去る。
追いかけようとしたヤスケだが、立ち止まり、荷車を振り返る。剣を納め、斧も背に戻した。
主命の途中だった。追手は退けた。過分な褒美まで渡された。応じなければならない。豹尾神に誓う。信長の遺体を富士山に運ぶ。
再び荷車を引く。
日本に来る前と同じ役目。奴隷ですらなかった。牛馬として使われた。サムライにしてやる。新しい買い手は、そう言うと鎧兜を与え、御前試合に立ち合わせた。
時はただ進む。信長がいなくとも、示された未来は見失わない。荷車を引く漆黒のサムライは、魔王の従者。
第六天魔王とともにある。より強い覚悟が、深まる器に共鳴する。荷台を飛ぶ氷の蝶がヤスケに宿る。濃姫の薄氷蝶。現世に常世に信長と付き従う、妻からも認められた。
大きく息を吐く。
サムライになりたかった。主君のために戦いたかった。守護霊が心をうず巻く。傍らにいる豹を見て思い出す。信長には無粋と言われた。
この働きは無粋だったのだろうか。自分はうつけなのだろうか。
目を閉じ、開き、頭から振り払う。サムライなら迷わない。昇りゆく朝日に向かう道をヤスケは歩く。