車窓から逃げるように、意識をスマートフォンへと沈める。といっても完全に逃げられるわけではなく、視界の端では己の姿・動きが映し出されている。
俺は、それが嫌だった。都会の電車であればまあ、そんなことはないだろう。星々のように煌めく街の灯。満員の電車。そのすべてが、己の全てを覆い隠す。いてもいなくても同じような物だと、優しく肯定してくれる。
が、田舎にそんな慈悲はない。四面のボックスシートは一人一区画占有してもお釣りが来るし、車窓なんて見える方が珍しい。どこを見ても、車内が映る。自分が見える。個人に紐づく。目を閉じるのも負けた気がして、嘆息することしかできなかった。
『次は、
ターミナル駅へのアナウンスを聞き流して、車窓を眺めた。田舎にしては比較的発展しているここなら、ロータリーの明るさのおかげで電車内は見えない。ぽつぽつと雨が降っていたのを見て、はて傘は持ってきただろうか、と思った。
ドアの閉まる、空気が抜けるような間抜けな音が聞こえた。また嫌な時間が始まる、と車窓から目を背けて、一度車内に目を向けた。異空間が、広がっていた。
『ハアア祭りだ祭りだ祭りだチャン♪』
どこからか出囃子が聞こえる。ラジカセで流したような音質だった。復唱するように女子供の甲高い声で『祭りだ祭りだ祭りだチャン♪』と、顔を隠した白無垢たちが歌う。
何のドッキリかと疑ったが、冗談ではないらしい。馬鹿げた頓痴気騒ぎが、しかし大真面目に繰り広げられている。
中でも一際目立つ、凝った装飾がなされた白無垢がこちらに近づいてくる。顔を覆うように被せられた綿帽子を口元から上げれば、ハッとするような美人の妖艶な微笑と、頭上に生えた狐の耳に目がいった。
「ほれ、汝も踊ろうぞ?」
*
「っていうのなんだが、どう?」
「却下ですね」
原稿を読み終えたぼくは、大きく嘆息した。上目遣いでこちらを見ていた彼女は、「な……何故だ!? 否定から入るな、ちゃんと肯定して伸ばしてから文句を言え!」と、とても相談を持ちかけてきた側とは思えない発言をした。
「や、だって中身がないじゃないですか。雰囲気全振りだし。一人称なのに中途半端に感情移入しづらいし。起承転結って言葉知ってます?」
「ふ、定石にハマっていては新しい芸術など生めないぞ?」
「定石に乗っ取らないとたぶん、また一次選考で落ちますよ? 先輩が送ろうとしてるの、純文学の最大手みたいな公募じゃないですか」
「故にだよ。文壇に一石を投じるのだ、私の手で」
彼女はそういって、濡れ羽色の長髪を撫ぜた。まあ、夢と胸はでかけりゃでかいほどいいと言うので、両方持っていることはこの人の美点である可能性がある。否定せず、伸ばす方針でいこう。どちらも。
「あー、まあそうですね。情緒的な語り口だとか、どこか幻想的な描写は、やっぱり先輩の強みだなと思いましたよ?」
「ふん、そんな取ってつけたような世辞で喜ぶ私ではないよ」
「そんなことないですよ、ぼくの本心です」
「ああそうだろうな、同じ言い回しで褒められるのはこれで四度目だもの」
おっと。仏の顔は通じなくなったらしい。般若の圧を醸し出した先輩が「そもそもだな」と机を叩いた。
「キミも文芸部であるのだから、もっとこう、感想の語彙を増やしにかかるべきだろう」
「ええ。ですから先輩の作品を拝読して、日々精進しているのですが」
「皮肉と受け取るぞ。実母の手料理のような、安定した味わいと言え」
「骨身まで染みてますね、旨みが」
ぬるくなったコーヒーを口に含む。あってないような二人きりの
「いや、やりたい放題しすぎでしょ。高校の部室で堂々と喫煙するの、マジで頭おかしいですよ」
「いいのだ。キミも知っての通り、電子たばこなら法的にグレーゾーンだからね。捕まることはないし、周りへの害もない」
「グレーゾーンを後ろ盾にする人初めて見ましたよ」
「ニコチンもタールも含んでいないから、健康的な嗜好品だね。ガムみたいなものさ。段々味がなくなっていくところまで同じときてる」
「ヘビースモーカーの片鱗を見せないでください」
スパスパヤニを蒸かしながら、彼女はティーカップを手に取った。一々淹れ直すのが面倒臭いのだから、冷めないうちに飲んでほしかった。
「うん、今日も君の淹れた紅茶は美味いな」
「そりゃどうも。真心込めてますんで」
「ふふっ」
何が面白かったのか分からないが、先輩は笑みを零した。
「いやなに、君の口からそんな詩的な言葉が出てくるとは思わなかったものだから、つい」
「あんたぼくのことなんだと思ってるんだ」
「皮肉屋で冷淡な
思っていたより最悪だった。唇を尖らせるぼくを楽しそうに見つめて、彼女は頬杖をつく。
「しかし心、心ねえ……」
整った顔立ちのお陰で、彼女の悩んでいる姿は大変
「実在の証明ができないものの話は、苦手だな」
「先輩、唯物論者ですしね」
「既存の型に当てはめてカテゴライズしてほしくはないが、まあ近いね。目に見えるものがすべてで、見えないものは、ない。心だって思考だって、電気信号の羅列さ」
0と1で証明できる、と指で数を示しながら笑った。ゴリゴリの文系なのに、何を知ったかぶっているのだか。あんたのほうがよっぽど現実主義者だよ、と返す。
「非現実的な創作に傾倒してる癖に何言ってるんですか」
「むしろ
だからファンタジーに片足突っ込んだみたいな作品が多いのか、と勝手に納得する。物憂げどころか最早眠そうにした彼女は、くああ、と欠伸混じりに溜息を吐いた。
「知らないものを描けるのは、創作の特権だからね。誰も他者の心の中身なんてわかりゃしないから、適当に
「それ語ってる先輩が、一番気持ちよさそうですけどね」
「なに、そうでもない。そもそも私は感情ってやつが希薄なんだ」
おっと、流れが変わったぞ。色素の薄い瞳は、ぼくを捉えて離さない。涙袋の濃い色と対照的で、蠱惑的に見えた。
自分語りの地雷を踏んだことを察して、静かに言葉を待つ。
「嬉しいとか悲しいとか、楽しいとか腹立たしいとか、そういうのがイマイチよくわからなかった。まったくないわけではないのだが、どうにも実感が薄い。激情ってものがわからなくて、故に文字に傾倒したんだ。創作の中には、感情の起伏が掃いて捨てるほど存在するからね。学習の一環さ」
「俗に言う陰キャでは。だからそれが余計に強まったんじゃないですか?」
「否定はしないよ。気づいたら、口調まで芝居がかったようになっていたしね」
或いは感情も。そういって、彼女は笑っていない目で、微笑んだ。
「演技しているうちに役に引っ張られる、というのはよく聞く話だが、まあそうやって振る舞いを学んでいくうちに、感情の色が少し濃くなった──そんな気がする。良いことか悪いことかは、さておき」
「まあ、感情なんてない方がよかった、って瞬間もありますしね。ネガティヴなときと、突き抜けた激情のときは」
「『知らなければ幸せだったのに──』って奴だね。創作ではありがちな台詞だが、現実でも皆、一度くらいは抱くんだろうな」
「共感されなきゃ、ここまで手垢に塗れませんよ」
もしくは憧憬か。そう思えるほどの激情に逢いたいという、そんな子どもじみた願い。
「先輩はまあ、共感したんでしょうね」
「いやあ、共感っていうのもよくわからなくてねえ。人は人、自分は自分だからさ」
「共感性羞恥とか感じなさそうで羨ましいですね」
そもそも羞恥の感情自体が薄いのか、と察する。まあそれがあれば、こんな先輩はいないだろうから、そこ自体は納得だ。しかし、なんだかムカついてきた。
「……それならぼくのことは、なんだと思ってるんですか」
「そりゃあもう、大事な後輩だが」
「そうじゃなくて、感情的に、です」
「…………」
言いあぐねられると、こっちも困る。一文字に結ばれた口元に手を当てて、彼女はこちらを見つめ続ける。
「…………好き、だぞ?」
「首傾げながら言わないでください、それ僕も同じ気持ちなので。どういう好きなんですか、それは」
「難しいな、友愛とも恋愛ともとれる。気体のように不安定だ」
「……確かめてみますか?」
彼女のいる窓辺へと寄る。表情一つ変えない彼女の、背後の窓に手を押し付ける。黄昏の教室、薄明の中、彼女の切れ長の瞳と、くっきりとした鼻筋と、桃色の唇だけが視界に入る。
「──感情、わかりました?」
「君のはね。顔真っ赤だよ?」
「それはほら、先輩も」
そっと頬に触れる。熱を帯びたそこは、温かくも柔らかい。唇がゆっくり開く。
「よくわからないな」
「春樹ぶっても駄目ですよ、もう語るに落ちているので」
やれやれ、と先輩が目を瞑り、こちらに近づく。甘い感触。くっついてしまえば温度差なんてわからなくて、溶け合うように一つになる。
「──もう少し、確かめてみるか?」
「詰めが甘いのは、ことですからね」
こうやって重なっていくんだろうな、心も体も。僕たちはゆっくりと瞬きした。