下町の鶴
12章.先発列車の尾灯
☆Episode.115「レシピ」
朝、教室に着いて十分ほど。後に登校してきた河島からこんなことを言われた。
「名取」
「ああ、おはよ」
「おん。姉から伝言。取り乱して済まなかった、って」
「え?」
「何かあったの」
取り乱すほどのことなんてあったかな。もしかしてこのまえ店に来てくれた時のお悩み相談のことだろうか。確かに千春さんが自分のことであんな表情を見せるなんて珍しいとは思ったけど、そんなことを気にかけていたのか。
河島に説明するのも面倒だったので少し言葉を濁して言った。
「よくわかんないけど、大丈夫って言っておいて」
河島はぽかんとした顔で私の伝言を預かった。そして、どこか納得のいってない様子でぽつりとひとりごとを吐く。
「なんかなあ...最近ちょっと機嫌悪ぃんだよな、お姉」
「どうかしたの?」
「いやさ、この前も親と喧嘩しててさ。就職とか何とかの話するとピリつくんだよ」
「ああ...」
就職と聞いて予想が確信へと変わった。あからさまな表情の変化に彼も察したようで
「その反応だとお前も...」
と、核心をつくような台詞をぶつけてくる。
「いや、そのことで悩んでるとは話してくれたけど、そこまで追い込まれてるなんて知らなかった」
私たち二人の間に一呼吸ほどの沈黙が流れる。力になろうにもこれは本人の問題だから、どこまで首を突っ込んで良いのかが分からない。河島にとっても完全な他人という訳ではないんだし、簡単に解決できるような問題じゃないよな。河島は小さな溜息の後、ひと言吐いて私の前を去った。
「ま、あまり気にするな」
友達を巻き込ませまい、という河島なりの気遣いなのだろうか。でもなあ、姉弟そろってあんな顔で話されたら放っておけないでしょうよ。大体なんだよ、気にするなって。散々鎌かけといてさ。
昼休み、明希は一人きりでノートとにらめっこをしていた。卒業というビッグイベントに向けて任された作詞が何一つ進んでいなかったためだ。瑞希が彼女に話しかけると、どっと溜まった疲れを吐き出すようにため息をつく。
「大丈夫?」
瑞希は心配そうに尋ねた。
「うん...まあ」
「昼休みなんだし、ちょっとは息抜きしなよ。何かそのままいくと倒れそうだよ、明希」
明希は額に手を当てて唸った。
購買に行くと案の定詩鶴の姿があることに二人は笑みを浮かべる。今日はこの三人とお昼を食べよう、という話になって昼食を選ぶ。詩鶴はとりあえず見た目が美味しそうなものを手に取っていき、瑞希はサンドイッチなどの軽食。明希はお気持ち程度にバランスを意識し、ほんの少量のサラダなんかを手にとっている。皆がお昼分の食料を得たところで、今度はどこで食べようかを話し合う。外は寒いが、かといって教室はどこも混みあっている。ドラマやアニメなんかでは屋上のシーンもよく出てくるが、今の時代は飛び降り対策とか何かで常時閉鎖されている。仕方なしに彼女たちはジャンパーなどを羽織って、外の陽の当たる場所で昼食を取ることにした。
「陽射し
詩鶴が苦笑いで言う。瑞希も同じような表情で
「元の気温が寒いよね」
と言って、サンドイッチをくるんだラップを剥がしている。対して明希は穏やかな表情を浮かべていた。
「私は好きだなあ。静かだし、私たちだけだし」
「ポジティブに取るねえ」
「春が寄り道してきたみたい。まだ二月なのに」
「やっぱ詩人だなあ、明希は」
詩鶴のその一言で、明希の顔が一瞬にしてどんよりする。状況が掴めずに慌てる詩鶴。瑞希は作詞のことを彼女に説明した。
「ごめん、気付かなくて」
「いや、違うの。基盤になるものが見つけられなくてさ」
謝る詩鶴に、明希はそう答えた。
「基盤?」
「うん。詩って土台が必要で、伝えたいことがない状態では書けないの」
「本格派だね」
「そんなことないよ。例えば、家を作るのには土台が一番重要って言うでしょ?」
「そうなの?」
例え話のチョイスが詩鶴には伝わらなかったようだ。
「うーん、そうだなあ。じゃあ、お料理だとどうかな。作りたいものを決めずに、材料だけで適当に混ぜたり焼いたりしたら」
「材料によるかも」
「生クリーム、ニンニク、ミカン、カルビ肉...」
「滅茶苦茶だな...」
「適当に混ぜた上に、「ごま油で焼いたら何でも美味しくなるでしょ」って言ったら?」
「うーん、確実にぶっ飛ばす」
「よね。何を作りたいかもはっきりしないし、聞こえの良い言葉だけを並べたって良いものはにはならない」
詩鶴と瑞希はその話を聞いてじっと考えた。五秒ほど経つと頭の整理が追い付かなくなったのか、詩鶴が無心でカツパンを口に運びはじめる。多分そこからは考えることを止めたものだと思われる。
「自分の中でレシピが出来ないってことよね」
瑞希はそう確かめる。
「うん、そんな感じかな」
詞のテーマが出来上がらない明希と、その悩みを解決してあげようと思考を凝らす瑞希がうずくまって考え込む。その間にパンをペロリと平らげ、口の中を空っぽにした詩鶴がぽつりと吐いた。
「何かよく分かんないけどさ、同じ場所でずっと考えても浮かばないんじゃないかな」
「どういうこと?」
「材料が必要なら集めなくちゃ。今回は卒業がテーマなんでしょ?」
「そうだね」
「だったら尚更一人で悩んでちゃ進まないよ。大きいテーマなんだからさ」
「うん...そうかもしれない」
明希は背負っているものの重さを今になって実感した。彼女の詞に周りの色んな人が期待していて、明希はそれに応えてやらなければいけない。それは単なる挑戦の二文字で片付くものではないだろう。明希は押し寄せてきた不安に狼狽えながら言った。
「どうしよう。私、簡単にやるなんて言っちゃった」
戸惑いの表情を見せる明希。詩鶴は彼女に笑顔で言った。
「私がいるじゃんか。一人で悩むな」
「ありがとう」
今の明希にとっては「助けて」の言い方が分からない。どうすれば解決に繋がるかなど見当もつかない。何から手をつければ良いかも分からない状態の彼女に詩鶴が提案した。
「とりあえずさ、時間ある日にでも家来なよ。何か面白い話持ってる人いるかもしれないし」
詩鶴の提案を聞き入れ、放課後そのまま彼女の家に向かった。詩鶴と一緒に電車に乗り込み、他愛のない会話をしながら付いていく。流れる車窓も、すれ違う人たちの姿にも、言葉が浮かんでは消えていくのを繰り返すだけ。これこそはと言える核を掴めないでいた
彼女の店についてから小一時間ほど。私たちは小さなティータイムに耽ったり、ゲームなんかをしたりして遊んだ。やがて開店時間になると詩鶴は仕事モードになり、会話と仕事を同時進行でスムーズにこなしていく。これが彼女の何よりの魅力と言って良いだろう。
最初に来たお客さんは四、五十くらいの歳のおじさんだった。詩鶴にとっては常連さんみたいで、二人の会話は幼馴染みのように慣れていた。
「卒業式なんて昔のこと、もう覚えてねえなあ」
「えー、心はいつも少年なのに」
「少年ッたってもう三十年も前の話だぜ?」
「何年経ったって、良い思い出は消えないものだよ」
二人の会話はだんだん盛り上がってくる。
「それ言うならまず三十年生きるんだな」
「それを言っちゃあおしめえよ。ははは」
こちらも会話に付いていこうと頑張るも、居酒屋のノリが分からない私にとっては一つ気を抜くだけで置いていかれる。仕舞いには二人の会話の隅で愛想笑いするのが精一杯になっていた。
詩鶴と常連さんで盛り上がっている中、次のお客さんが戸を開けてやってきた。その人は私より少し年上くらいの女の人で、私達をみるなり教室にやってきた生徒みたく隣に腰かけた。
「お、何か今日はやけに盛り上がってんねえ」
「お、千春さん。まーた酔い潰れに来たなあ?」
詩鶴はまたもや慣れた口調で接客をする。誰に対しても対等で、緊張させない喋り方のできる彼女が本当に羨ましい。どれだけ頑張っても彼女ほどの社交性は私には持てないから。少し時間が経ち、常連さんと詩鶴の二人で話が盛り上がりだした頃、孤立気味になっていた私を、その千春という名の女性が話しかけてくれた。
「やあ。名取ちゃんのお友達?」
「え、ええ」
「そか。良かったら一緒に飲も。話し相手欲しくてさ」
「あ、あの...私未成年で...」
「分かってるよ。飲める範囲で頼みな。一杯出したげる」
「そんな...!いいですよ、悪いです」
随分と気前の良い人だ。居酒屋ってこういうものなのか。断る方がマナー違反なんてことないよね。
初対面の人に飲み物を奢って頂き、居たたまれない程の緊張が胸を満たす。やがて注文のグラスがテーブルに置かれると、彼女は朗らかな表情でそれをこちらに滑らした。
「あたし千春。君は?」
「四倉...です」
「四倉さんね。四倉何ていうの?」
「え?」
「名前の方。良かったらそっちで呼ばせて」
「あ、明希...」
「お~、あっきー。良い名前してんじゃん」
何か馴れ馴れしいな、この人...。
つづく。