下町の鶴
12章-先発列車の尾灯-
☆Episode.120「タイムリミット」
暇な時間だ。何も予定の無い一日。そんな時間を一人きり、家の中でだらだらと潰している。どこかに出かければ良いって話なんだろうけど、不思議と気分が進まない。壁にかかる時計を見てみる。もう十六時だ。今から外に遊びに行くには遅いし。そうじゃなくたって大学の友達とはここ最近ずっと予定が合わない。就活に寝取られたんだな、きっと。一つため息を吐いて冷蔵庫を開けてみる。そうするとそんな私を慰めるかのように缶チューハイがこちらを見つめている。なんだ、味方って案外近くにいるじゃないか。プシュっと音を立てて果実の香りを鼻いっぱいに吸い込む。そして口の中に溜まったどんよりとした気分をアルコールで押し流す。悪くない快楽だ。体がふわふわと軽くなった気になればもう大丈夫。時計の針に邪魔されることもないだろう。
さて、後は酒のつまみが欲しいところ。何か面白いことでも起きないかとちゃぶ台に突っ伏していると、玄関から鍵の回す音が聞こえてきた。誰か帰ってきたのだろう。扉が開く。帰ってきたのは弟だった。弟はこちらを見て早々、ほろ酔い姿の私に呆れたような目を向けてきた。
「お帰り~」
「...おう」
「んだよ、冷てえ反応しやあって」
学校帰りであろう荷物を下ろし、制服の上着だけを脱ぎ捨てた弟。手を洗いに行こうとしたところを呼び止める。
「エイ、この前言ってた焼きプリン見つけた」
「お、まじで?」
「手ぇ洗ったら冷蔵庫開けてみな」
「え、ちょ...まじで言ってる?」
「まじまじ。ほら、とっとと手ぇ洗った」
早足で洗面所に向かう弟に笑みを溢した。窓の外に目を向けると、陽はもう沈みかけていて薄暗い。
「でも、どうして?」
プリンを頬張りながら居間に戻ってきた弟は不思議そうな顔をしてそう言った。
「もう暫くはエイの顔も見れなくなるだろうからね」
「休みの日とか帰ってくるんじゃないの」
「んな無茶な。近所じゃねえんだから」
「そっか」
二人の間に辛気臭い沈黙が流れる。こうなれば夕食の時間が来るまで静かなままになってしまう気がする。せっかくの暇潰しを無駄には出来ない。何とかして話を繋げよう。
「ねえ、エイ」
「....?」
「散歩付き合ってくんない?人の心あるなら」
「何だ後ろの一言は」
「良いから」
「...まあ気になってたの食べれたし、その分だけなら」
「よっしゃ。今外寒い?」
「一、二枚羽織れば足りる」
そこで私は何の考えもなしに弟を連れ出すことにした。モヤモヤした気持ちでいるのはきっと、こんな風に部屋の中に籠っているからに違いない。多少は寒くたって良いや。今はこの感情をどこかに捨てたいから。
外は春風の中だった。北風まじりの冷たさが芽吹きたての木葉を泣かせている。五分そこら歩いて江戸川の河川敷に着くと、そこには家路につく人達の声が微かに聞こえていた。自転車で群れを成して走っていく野球少年たち、ランニングに励む青年、みんな夕空と同じ色に染まっていた。
ふと思い出す。もう何年も昔の話で、妹の小春が生まれたばかりの頃、遊び盛りの弟の面倒を母に押し付けられてこの堤防に来たことを。何度ここで駆けっこをしたことか。直線で走らせると、電車ごっこだとか言って一つ先の橋のたもとまで飛んでいくから、やるならせめて山手線にしろといって同じ場所をぐるぐると周回させるように走らせたんだっけ。それが今ではこんな大人しくなりやがって。少しちょっかいをかけてやろう。
「エイ、走んないの?」
「は、しんどいわ」
「うそー、高架下んとこまでよくすっ飛んでたじゃん」
「何年前の話だよ」
「ちょっと前くらいよ。たかだか、うーん。十二年くらい?」
「大昔じゃねえか」
「どおりで懐かしく感じるわけか」
少し思い出話にでも耽ってみたくなった。弟の言う通り何年も昔の話だけど、それが昨日の出来事のように思えてくるから。
思い返せばこの場所にも色んな思い出があったものだ。家族で凧揚げをした日、友達と花火を見た日、初めて出来た彼とお酒片手に歩いた日。その一つ一つが影となって私の前を通り過ぎる。この町に思い出を残し過ぎたのかな。
「一応聞くけど、私居なくなって寂しい?」
悪戯な質問を投げ掛けてみるも、照れ隠しの否定が返ってこない。困った反応を見せてほしかったんだけど。
「寂しいっていうか、実感が湧かない。生まれた頃から居たし」
「べべべ別に、寂しくなんかねえし!」
「何だ....?」
「こういう反応を期待してたんだけど」
「知るかよ...」
こんな薄い反応をされるもんだから、逆に私の方が返す言葉に困る。今日はからかってもあまり面白くならなそうだ。だけど、ここで思いっきり
「邪魔なのが一人減って清々する」
何て言われてたら、冗談でも少し傷ついたかも。
「そういうお姉はどうなんだ。涼しげでいるけど」
「どうって?」
「寂しいとか、不安とか、そういうの無いの?」
揶揄ってばかりいた私に仕返しをするように、今度は弟の方から似たような質問をしてきた。お陰さまで真面目な台詞しか言わせて貰えない空気になってしまった。一瞬だけ明るさの消えた顔を弟に覗き込まれ、とっとと答えを言えとせがまれているような気分になる。私は内面に抱えている心情を話さざるを得なくなった。まるで下り坂を、春風に背中押されたみたいに。
「無いわけないよ。ここが一番居心地良いのに」
「ならどうして。ここら辺でだって仕事あったはずでしょ」
「よく言うよ、簡単なことみたいに」
「何百キロも離れたとこに越すよりかは簡単だろ」
「お母はそっちが良いんだってさ」
「いや、お母じゃなくて、そっちがどうしたいかで決めりゃあいいじゃん。それくらい自由にやったって―――」
「うるさいな、分かったような口利くなよ」
私は心にもなく弟に声を上げた。誰に話しても解決しきれない不安と、楽観的な意見しか得られないもどかしさに対し咄嗟に怒りが湧いたのだ。しかしすぐに我に返って黙り込む。そうだ、こんな風に誰かにぶつけたって、とりとめのないことなんだ。
「お姉」
「何だよ」
「いつ向こうに行くんだ?」
「早く出ていけってか」
「違う」
「...来週、引っ越し屋が来る。ちょうど一週間後」
「そうか、分かった」
気持ちを切り替えようと煙草を取り出し、口に咥える。しかし肝心のライターがオイルが切れていて全く付かない。無味無臭の溜息は重たかった。
「肺の寿命伸びたな」
「心の方が減ってんだよ」
放課後、明希が帰る準備をしていると瑞希が話しかけてきた。ごめん、と忙しそうに駆け寄った彼女の手には、明希の詞が書かれたA4のノート紙が。
「明希、今大丈夫?」
「え、うん」
明希が頷くと瑞希はすぐさまそれを机に乗せ、綴られた文字の一部を指差す。
「ここなんだけどさ、ちょっと歌にすると歌いづらそうで。文字数はちょうど良いんだけどさ」
「うーん、母音の問題かな。ちょっと待ってね」
明希の詞がメロディと上手く噛み合わないと話す。シャープペンシルを指先で遊ばせながら言葉を探す明希。その隣で瑞希は申し訳なさそうに待っていた。
「ごめんね、無理言って」
「ううん。そうだなあ、バラードで下手に韻踏んだらチャラチャラしそうな気がするし」
ぶつぶつと考え事の内容を声に漏らす明希。これかな、これかな、といくつか単語を並べ、この中でしっくり来るワードがあるかと尋ねる。試行錯誤を凝らすこと五分少々、モヤモヤしていた部分を解消させると
「オッケー、ちょっと相談してくるね!」
と言って瑞希は部室へと戻っていく。
ここ最近、二人はそんなやり取りを繰り返していた。細かな修正を昨日よりも深く、本格的に議論しながらやっていく。土台が出来てからは大掛かりなことはせず、どちらかと言えば地道な作業の積み重ねで完成まで持っていくのだ。
「この歌が出来たらね、真っ先に聴かせたい人がいて」
明希が照れくさそうに話す。へえ、と相づちを打つ瑞希にこう続けた。
「この詞を書くきっかけになった人なの。鶴ちゃんのお店の常連さんなんだとか」
「凄いね。色んな人がいるんだあ、居酒屋って」
「ふふ、面白いんだよ。会って早々、私のこと"あっきー"ってあだ名つけてさ」
「だ、大丈夫?その人。随分陽気だね」
楽しそうに話す明希だが、瑞希にとっては変な人に絡まれてないかという不安が募る。自分等と近い年上のお姉さんだと話すと、少しだけ胸を撫で下ろしたような表情になるが...。年の離れた妹のように接してきた瑞希には、時々出る彼女の積極性や不用心さが危なっかしく思えて仕方ないのだ。
「とりあえずそうだね、このまま完成まで頑張ろ。出来たらその人にも聴かせようね」
「うん、必ず」
「よっしゃ、そうと決まればアクセル全開だよ。この調子で行けばあと一週間で出来る」
つづく。