下町の鶴
6章-初秋-
☆Episode.45「贖罪の日々」
窓の外に見える景色。曇り空の雲間から、太陽が木漏れ日のように差し込んでいる。風はすっかり冷たくなって、やがて来る冬の気配に切なさを覚えた。
私はまた保健室の閉じたカーテンに来て、その隣のベッドに腰掛ける。
「おはよう、藤島さん。」
「......おは....よう。」
最近では彼女も挨拶を返してくれるようになった。あんなに心を閉ざしていた彼女が私に心を開いてくれた、そんな気がして嬉しかった。もっと彼女のことを知りたい、分かりたい、そんな気持ちで溢れていたから。
「パン買ってきたの。朝あまりやってないとこでさ。焼きたて買ってきたから良かったら食べて。」
カーテンの隙間にそっと手を入れて、パンの入ったビニール袋を置く。彼女は小さく
「...ありがとう。」
と返した。
「食欲ある?大丈夫?」
「...うん、ちょっとだけ。」
「そう、よかった。無理しないでね。」
カーテンの向こう、袋を漁る音が聞こえる。しばらくして彼女は一口それにかぶり付き、穏やかな声で言った。
「美味しい。ありがと。」
「いえいえ、お腹空いてた?」
「うん。朝、ちょっと吐いたから。」
「....え、それは大丈夫なの?」
「まあ、...ね。身体落ち着くまで何も食べれてなくて。」
「....。生理?」
「違う、そういう病気なの。」
「そっか...ごめん。」
「もう慣れた。」
カーテンの奥でまた一口、パンを食べる。その音が静かに止むと、彼女が私に尋ねた。
「ねえ...四倉さん、だっけ?」
「あ、うん。良かったら、明希で良いよ。」
「そう。じゃあ明希、聞きたいんだけどさ。」
「うん、どうしたの?」
「どうして私に、ここまでしてくれるの?」
小さな花に尋ねられたような気分だった。誰も歩かない森の隅で咲く花、誰も足を止めない都会のアスファルトの隅で咲く花のように、儚く、とても切なく、落ち着いた声で私に問いかける。どうせ雨が水をやるだろう、枯れようが誰も気にするまい、そんな花の前になぜ私はじょうろを持ってしゃがんでいるのか。
それは....
「昔の私とね、おんなじ目をしてたんだ。」
「....え?」
「その頃、本当に大切だった人を亡くしちゃったからさ、生きる気力がこれっぽっちも湧かなかったんだ。」
「......。」
「何をしていても心が動かなくて、寂しさがずっと消えなくて。でもね、それが本当に辛かったから私、貴女を見たとき友達になりたいってふと思ったの。」
「.....そう。」
「うん。」
「いつも側にいて、離れずにいる存在が欲しかったから。私もそれを与えられる人間にならなくちゃって、ふと....ね。」
「....明希は優しいんだね。私にはとっても真似できないや。」
「えへ。....良かったら貴女の話も聞かせてよ。えっと....」
「藤島。」
「あ、迷惑じゃなかったら下の名前で呼んでも良い?」
「...駄目っていったら?」
「え.......。」
「ふふ、嘘。四季乃って言います。」
「っはあああ...!びっくりしたぁ....。」
「うふふ、変な子。」
「四季乃ちゃん、笑ってるとこ初めて見たよ。」
「カーテン越しに見えるの?」
「あ、いや...。」
私が言葉を詰まらせると、小さくカーテンに隙間が出来た。
「最低な話で良ければ、おいで。」
初めて会った時はあんなに怖がっていた彼女が、今度は自分から私に顔を見せてくれると知って、私は嬉しかった。本当に入って良いのだろうか、という緊張と、彼女の心の部屋に足を踏み入れることへの期待が入り交じる。
「え...良いの?」
「うん。」
「あ、ありがとう。お邪魔します。」
そこは薄桃色のカーテンに囲まれた小さな空間だった。狭いけど、心がとても落ち着く。
私は彼女の隣に座り、天井を見上げた。
「一度入ると出たくなくなるの。守らなきゃいけないもの、失くしたもの、傷つけてしまったもの全部が私を指差してくるような気がして。本当はいい加減、向き合わなきゃいけないのにさ。」
「忙しいんだね、四季乃ちゃんは。」
「うーん...忙しいというよりも、今まで散々悪いことしてきたから。それに責められることにビクビクしてるだけだよ。」
「悪いこと...?」
「....私は、明希が思ってるよりも綺麗な人間じゃない。貧乏な家庭を支えるために色んなことに手を染めたし、それにストレスが溜まったら平気で人を傷つけたりもした。」
「色んなこと?盗んだり、騙したりとかじゃないよね...?」
「あはは、そんなハイリスクで見返りも少ないようなことはしないよ。強いていうなら、女にしかできないこと、かな。」
「ああ....。」
「高校入学間近で親が離婚してさ、母は身体が弱くて長時間働けないから、兄妹で頑張るしかなくて。でも、お兄ちゃんは進学して就職して、それからちゃんと働くなんて馬鹿なこと言うから。そうするまでのお金を誰が払うのよって。」
「.........。」
「挙げ句の果てに学校じゃ遊び女って陰口叩かれるし、男子からは変な目で見られるし。」
「酷い......。」
「でも、どんな酷い目に合ったって家族だけは守るって決めてたから。それまでは平気だった。」
「それまで?」
「うん.....。ちょうど去年の今頃くらいかな。私がそういうとこで働いてるのを聞き付けた他校の奴らに.....ウブッ....!ケホ...ケホッ.....!」
暗い過去を思い出した四季乃が嘔吐しかけてむせ返った。
「四季乃ちゃん、大丈夫!?もう良いから...!言わなくて良いから。」
咳き込むのを必死に抑えながら、彼女は私に言った。
「....殺したの.....、お腹の赤ちゃんを.....。」
「え...?」
私は彼女の話を聞いていく程、怖くなった。この世の中に、ましてやこの校舎の中にこれ程の人生を歩んできた少女が居るということに。彼女の言葉がだんだんと震えていくのを私はじっと聞いていた。
「お腹が膨らんでいくのが怖かった。でもどうして良いか分からなかった。」
「.........。」
「でも堕ろすしかなかった。知らない男の子供を孕んだなんて隠し通せる訳ないし、それに育てていくお金なんて私には無かった。」
「...........。」
「手術が終わった時、医者に何て言われたと思う?"女の子だった"って。」
泣き崩れる彼女を前に、私も耐えられなくなった。私は彼女を強く抱き寄せて一緒に泣いた。
どうして奪われるだけで、何も与えられないのだろう。どうしてそれでも、人は外側の悪ばかりを責めるのだろう。私にはそれが全部愚かさに思えた。
時を忘れて泣き続けたあと、彼女は小さく「ごめん」と溢した。まだお昼が遠い、朝の真ん中くらいの頃だった。
「ごめんね、暗い話聞かせて。」
「ううん。私、四季乃ちゃんがこんなに壮絶な人生送ってたなんて知らなかったから。聞けて良かったよ。」
そう言った私の目を、四季乃は見つめて言った。
「ありがとね。一緒に泣いてくれて。」
それから二人はまた話の続きをした。
「ねえ、四季乃ちゃんはどうして自分のことを"酷い人"だと?」
「え?」
「さっき言ったじゃない。綺麗な人間じゃないって、悪いこと散々したって。私にはそういう風には全然見えない。」
四季乃は一旦静かになって黙り込み、一呼吸置くと私に言った。
「明希は知らないんだね、私が苛めっ子のリーダーやってたこと。」
「え!?」
「中絶後のストレスで、楽しそうに青春送ってる人が全員憎く見えて、陰で散々人を傷つけていたこと。」
「.....苛めは酷いけど、でも誰だってそうなっちゃうよ。」
「ありがとう。でもね、正当化して欲しいわけじゃないんだ。」
「え?」
「言ったじゃない。私のしたこと全部に、いい加減向き合わなきゃいけないって。」
彼女はつづけて言った。
「人を傷つけるのが楽しかった。人を支配して、それでも女王のように慕われる日々が気持ち良かった。でもね、それは私がこんな目に合ってきたから、何をしたって許されるっていう神様のプレゼントではなかったんだ。」
「....プレゼントじゃ、なかった...?」
「ええ。その報いは何倍にもなって返ってきた。....最後に苛めたのはいつもニコニコ笑ってて、元気そうな女子だった。でも、その子は私の思う以上に強かった。何度苛めても今まで通りの笑顔を見せて、私に屈するところなんて一度も見せなかった。
ある時、その子は今までの過去全てを暴いて私にこう言ったの。
"どう?お腹の子供を殺した感想は。"って」
つづく。