下町の鶴
7章-ノ木の火-
☆Episode.51「姉弟」
時は夕方五時頃、家の戸が小風に揺れてカタカタと音を立てる。音が鳴るたび私は、頬杖のまま戸の方に顔を向ける。
ああ、あれから三日も課題を進めてない。二日目は痛み止めとかそういう次元じゃなくなって家で寝たきりになり、そして三日目は何とかお薬を鞄に詰めて登校。「ただの風邪だよ」で済ますにはそう何日も休んでられないから。ああ本当、こればっかりは男の子に憧れる。
「詩鶴、ピークしんどかったら休んで良いからね。」
母が私に気を遣う。そんな母は裏で経理のお仕事を。体調面でも軽い腹痛程度に治まってきた私は椅子に腰掛けながら、溜まった課題の山を見つめていた。
これ全部終わらせないと遠足に行けないとか...、先生は教育委員会より先に労基に怒られてください。ああ全く...労働者のための慰安旅行が、貸し付けられた
なんか虚しいっていうか、ちっとも心が晴れてくれない。やることがありすぎて、優先順位が分からなくなって、頭が爆発しそうになる。だからといって休めば何も動かないし始まらない。それが虚しいのだ。あ、思ってること言葉にできた。あたしえらーい。
「...はあ、憂鬱だ。」
コンコン、と鉛筆でプリントを小突いていると、お店の戸が開いた。私は驚いて反射的に挨拶をする。
「い...らっしゃいませ!」
いらっしゃい"ませ"なんて私、いつぶりに使っただろう。しかし、そんな脳内の自虐をパッと忘れさせるように、目の前には大学生くらいの綺麗な女性が立っていた。彼女は紙袋を片手に眠たそうな表情と、サイズの合っていないダブダブの服を着ていて、どこにでもいるような雰囲気なのにどこか惹きつけられるような魅力を感じた。
「どうも。開いてます?」
「ええ、どうぞ。」
「ありがとう。」
彼女が私の目の前のカウンター席に座ると、しばらくメニュー表を眺めてから注文した。
「とりあえず...、お芋の水割り一つ下さい。」
「あ、はい。少々お待ちを。」
いや、渋いな。とりあえずで芋頼む二十代、初めて見た。え、二十代だよね?
「貴女が名取さん?」
「え?ええ、そうですけど。」
「そうなんだ~。」
「??」
彼女は、私がお酒を作るのをキラキラとした目で見つめてきた。
「あ、あの...お客さん。」
「うん?」
「あんまり見られると...恥ずかしいかな...。」
「あ、ごめんね。」
しかしこの人の雰囲気、誰かに似てるんだよな。誰か分からなければ、確証もあやふやなんだけれども。
完成した焼酎を彼女の前に出すと、ありがとうと礼を言い、美味しそうに一口飲んだ。
「ふう、美味しいね。」
「ど、どうも。」
「やっぱお店で飲むとひと味違うね。」
「あはは、よく聞きます。」
「あ、さては飲んだことない口だなー?」
「ええ。まあ、まだ未成年ですし。」
「え?うん。知ってるけど、そうなんだ。」
知ってる?どういう意味??
「てっきり飲んだことあると思ってた、ごめんね。」
「まあ仕事柄、味くらいは知っておかなきゃな、とは時々思うんですがね。」
「そっかそっか。まあそれなら飲まないに越したことはないよ。聞き上手だけど、捨てるのも上手いからね、お酒は。」
「え??」
「酔ってる間は何でも共感して寄り添ってくれるけど、朝になれば醒めてどこかに消えていく。一夜限りの色恋みたいにね。」
「深いですね。」
「へへ、知れば案外そうでもないよ?綺麗な星も、手が届く位置までくればただの石ころ。」
彼女は頬杖をつき、夜空を見上げるようなウットリした目つきで語っている。なんかいちいちロマンチストだな、この人。
そして「あ!」と、途端に思い出したように手提げの紙袋を私の前に出して
「初めましてでいきなりかもしれないけど、これ!」
と言い、ニッコリと笑った。
「え?」
「お菓子とか色々。あまり高価なものじゃないけど、そこは愛嬌ってこで...。」
中を覗くと、ロールケーキやモンブランなど、明らかにささやかじゃない洋菓子の詰め合わせが入っていた。
「そんな...!え、申し訳ないですよ。本当に良いんですか?」
「前々からここ来たいって思ってたから、出会えた記念に。」
「あ、ありがとうございます。美味しそう...。」
「うん、味は保証するよ~。美味しいのと引き換えに、量が少ないのが惜しいとこだけど。」
「まあそれは仕方ないですよ。え、でも嬉しい...。じゃあ頂いちゃいますね!」
「どうぞどうぞ~。冷蔵庫入れといてね。」
初対面で色々良くして貰って、申し訳ない気持ちと警戒心が心に乱れるように交じりあう。冷蔵庫に紙袋を入れて戻ってくると、彼女は両頬に手のひらをあて、頬杖をついてほろ酔っていた。
「あ、もう一杯注文良い?」
「あ、はい。どうぞ~。」
「ワインの白、あったらお願い~。」
うっとりと何かに憧れる少女のような雰囲気で、彼女は二杯目を頼んだ。
芋焼酎からのワイン...!和からの洋!チョイス凄いな...。
「ええ、少々お待ちを。」
酒棚からワインの瓶を探す。普段ワインはそんなにしょっちゅうは頼まれないから、場所を思い出すのに一瞬身体が固まった。「あー、ここか。」と独り言を呟き、瓶を手に取る。今度はグラスを探しながら、私は彼女に尋ねた。
「そういえばお姉さん、なんてお呼びすれば良いですか?」
「私?千春でいいよー。」
い き な り 下 の 名 前 。
「ち、千春さんね。」
「君のことは"名取ちゃん"って呼んでもいい?」
「ええ、まあ。」
なんか地味に馴れ馴れしいな、この人。
注ぎ終えたワインを千春の前に差し出すと、今度はさっきよりも大人びた手付きでグラスを手にし、その一口を舌の上で転がした。その光景は女である詩鶴にさえ伝わる程の色気だった。千春が口の中を空にすると、蒸かすように息を吐き、二つ目の吐息に合わせて私に尋ねた。
「ねえ、名取ちゃん。」
「?」
「名取ちゃんは今、悩みとかあるの?」
「え?悩み?」
「うん。十代ってやることだらけでしょ?私も名取ちゃんくらいの頃は先生に怒られまくってたからさ。」
千春は学生時代のことを打ち明けて微笑む。自分と共通している部分に少しばかりの親近感を感じた。
「まあ、課題の多さにはいつもヘトヘトになっちゃいますね。」
「もしかして名取ちゃん、青高?」
「え、はい。」
「わあ、母校同じだあ。あっそこは課題、馬鹿みたいに多いよね。」
「あ、同じなんですねー!わっかります。本当に多い...。」
「ね~、進学校でもない癖にさ。」
千春が同じ学校の先輩だったことに驚く。数年前に彼女が同じ校舎で学生服を着ていたのを想像すると、ふわあっとテンションが上がった。
「名取ちゃんの担任って誰?もしかしたら知ってるかも。」
「目黒先生っていうんですけど、」
「え、まじ!?あの性悪!頭もじゃのだよね。」
「知ってるんですか!」
「あ~、何度アレに居残り言い渡されたことか...。」
「わっかります...!お陰で私、居残り常連ですよ。」
「うわ~、まだいたのかアイツ。...私の頃はなんて言われてたか知ってる?」
「何ですか何ですか?」
「
「わははははは!何そのあだ名、最高ー!」
同じ母校だからこそ話せる話題に二人で笑いあった。千春の通ってた頃の思い出や、今の私の学校生活を共有してお喋りを楽しんだ。お互いに、...というより私の方も彼女と同じくらいに心を許せるようになってきて、年の離れた友達が出来たことに喜びを覚えた。
「千春さんは今、就職してるんですか?」
「ううん、大学。」
「へえ、すごい!」
「いやいや、別に大したことないよ。就職への不安が四年も延長されるんだから。」
「あはは...、進路の話題がアレルギーなのは同じなんですね。」
「誰だって学生から卒業するのは怖いもんだよ。自分一人で生きていかなきゃいけないんだからね。」
「うーん、私もヤだなあ。あんま考えたくないや。」
「だね。金持ちの彼氏、やってこ~い!なんてね。」
「あはは。」
「あ、ちなみに名取ちゃんは今、彼氏いるの?」
「へ?...いや。」
「え~、勿体ない。高校が一番恋愛楽しい時期なのに。」
「そうなんですか?」
「まあね。さっきあんな事言っといて何だけど、私くらいになったら何でもお金が付きまとうから。」
「高校の恋愛も同じなんじゃないんですか?」
「ううん、似てるけど違う。高校はそんなに生活には追われないから。お給料は貯金か、遊びだけに使える。気が合う合わないだけで出来る幸せは、学生のうちだよ。」
「....。」
「まあ、とはいえそんな焦ってするものでもないけどね。」
「そんな良いものなんですかね、恋って。」
「終わりはみんな暗いけど、後悔ばかりじゃないよ。」
「ふーん。」
「ま、気が向いたらしてみなよ。案外、身近なとこから始まったりするから。」
「身近ねえ...。」
「居残り仲間の誰かとか。」
「ブーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
飲もうとしていたペットボトルのジュースが勢い良く噴き出た。その数滴が気管に入って思い切りむせ返る。本気で今、死ぬかと思いました。
「ウゲッホっっ!!ゲェッフオッ!!」
「大丈夫!?ごめんね、なんとなく事情は分かったから。」
千春は、私がむせ返ってることには心配しているが、自分の聞きたいことを聴取出来たことが嬉しいのかニコニコしている。おのれ、やりおったな。
「事情って...、何が!?」
「好きな子いるんだ~っていう。」
「からかわないで下さい!ただの友達です!!」
「ふ~ん。ま、いいけどさ。」
「何がいいんですか。」
千春は一息つくと、再び頬杖でにんまりと笑い、横目で囁くようにして言った。
「"ただの友達"ならまだしも、心のどこかで"好き"って思ってんなら...今のままじゃ後悔するよ。」
「は...。」
私は一瞬、言い返す力が抜けて情けない声が出た。私のことを手のひらで踊らせるように試してくる千春に、ほんの小さな恐怖を感じた。
「どうなの?」
「ちょっと、何言って...」
「好きなの?その子のこと。」
「...分からない。分からないよ、そんなこと...。」
泳ぐ目とともに俯く私に、千春はとどめを刺してきた。
「いっそ付き合っちゃいなよ、曖昧な気持ちでいるなら。」
私は気持ちがぐちゃぐちゃになって、もどかしさを千春にぶつけようとした。
「ちょ、ちょっと...いい加減に――」
言いかけたその時
「いい加減にしろ。」
バシッ...
「いったああ!!」
背後から私くらいの年の少年が現れ、千春に一撃を振りかざした。
「全く...。」
河島だった。彼は手をパッパと払い、鼻息をふかす。私は心臓が張り裂けそうなくらいに驚き、両手で自分の口をふさいだ。
「ったく、何すんだよエイ。」
「何すんだじゃねえよ。」
エ...イ?
千春が河島の下の名を慣れた口ぶりで言ってることに、私は状況が何一つ読めなくなった。
「名取、コレに何かされたか。」
河島が問う。
「い、いや、ななな何も。てか何でここ...、え、いつからいたの!?」
「今来たとこ。」
「ああ、そう...。」
河島は千春と知り合いみたいで、彼女の扱い方を知っているようだった。
「そーそー、私も思った!エイ、なんでいるのー?」
「今日晩飯どうするか何にも連絡しなかったろ。そのせいでお母がカンカンになって。で、俺が探しに行く羽目になったの。」
「えーいいじゃん別に。あんたらと違って未成年じゃないんだし、外で飲むことくらい許せよ大袈裟だなあ。」
「それがしたいなら一人暮らししろよ...。」
「ま、そのうちね。」
「で、どうすんの?」
「何が?」
「晩飯だよ。ここで食べてくんならそう言っとくけど。」
私は河島に尋ねた。
「あのさ河島....。」
「...?」
「一応聞きたいんだけど、...どういうご関係?」
河島はあっさりとし表情で答える。
「姉だけど。」
「じゃ、じゃあ河島とは...」
千春に視線を送ると、彼女は悪戯に笑って言った。
「姉弟だよ。」
「...。」
確かに誰かに似てるとは思ってた。まさかあの河島のお姉ちゃんだったとは...。
「あれ?千春姉ぇ、名取と会うの初めてだっけ?」
「初めてだよ。」
千春とわたしの声が重なる。
「エイの話聞いてたらちょっと行ってみたくなっちゃってさ。」
「なんだそれ。」
「玉子焼きが超旨いって?」
「おい、恥ずかしいからやめろよ。本人の前で。」
二人と目を合わせられなくなった。
つづく。