下町の鶴
7章-ノ木の火-
☆Episode.61「誰かの傘」
入崎は、彼女の不満の一つ一つに耳を傾けた。言葉の節々に小さな後悔が交じっているのを見つけるたび、彼女を放っておけないという気持ちにさせていく。入崎は少しばかり考え込んで遠くに目をやった。
暫くして彼は言う。
「それで、喧嘩のきっかけは何だったっけ?」
入崎がそう尋ねると、数舜ほど明希の身体が固まった。
「それは、三年生たちが...。」
「三年連続優勝の名誉を勝ち取るために、適性のないものは出番を譲るべき、そう考えたんだね?」
「...ええ。」
「で、詩鶴ちゃんは「自分が楽しいと感じなきゃ意味がない」、と。」
「はい。でも、本当に大事な場面では感情論を出すべきじゃないんですよ。」
入崎は微笑んで彼女の意見に同意した。
「ああ、そうだね。君は組織が利益を得るために適正な方を選べる判断力がある。それは社会に出たらとても重要なスキルだよ。」
突然に難しい言葉で話し始めた入崎を、明希は不思議そうな目で見つめた。彼女は何も言わずに彼の言葉に耳を傾ける。
「でもね、大切なものは利益だけじゃない。どんなに売れている企業も、職場の環境が悪ければ内部から崩れていく。それは分かるかい?」
「...ええ。でも、あの人たちにとっては一度きりの大勝負だそうですし。」
明希がそう言って俯くと、入崎は彼女に語りかけるように問うた。
「君は、あの組は勝てると思うかい?」
明希は体操座りの膝に顔を埋めた。そして、その口からは涙交じりの声で嘆きの言葉が溢れる。
「...分かってますよ、あのままじゃ無理だって。でも、私に出来ることなんてそれくらいしかないじゃないですか。」
一方、河島は瑞希からの相槌がずっと薄いことからようやく事の大きさに気づいたのか、
「ごめん。」
と短く返す。こくりと頷く瑞希。彼女の下瞼が赤く腫れていた。
それから十数分ほどだろうか、河島と二人、同じテントの下で雑踏を聞き続けた。河島は定期的に彼女の様子を見ては、状況を聞きたいような雰囲気で頭を悩ませる。瑞希もそれに気づいてはいたのだろう。彼の視線に気がつく度、遠くに目をやり深い呼吸をした。何度か河島も
「大丈夫?話聞こうか?」
と尋ねたが、
「平気だから気にしないで。」
と返すばかり。ずっと暗い顔のままの彼女を元気にさせようと考えあぐねる河島は、放っておいても解決しない、という答えだけを見ていた。
「矢原さん矢原さん。」
河島が陽気な声色で彼女に話しかける。瑞希が半ば呆れ顔で振り向くと、河島が強烈な変顔をして見せつけていた。しかも瞼にマジックで目を書き、そこら辺の木の枝を二本、鼻の穴に引っかけて苦しそうに。多分、鬼瓦をやりたいんだろう、その雰囲気だけは瑞希にも伝わっていた。
瑞希は非常に困惑した表情で固まる。それは半開きのままになっている口に自身が気づけない程に、彼女は状況の理解に苦しんだ。
「ぶひー。」
「....。」
「妖怪、子供騙しぃ。おはやうございま
「.....何してるの?」
「あれ...、おかしいな。中学はこれで売れてたんだけどなあ...。」
「...はあ。」
「Not funny?」
「
「そうかあ...。」
河島は次へ次へとネタを展開していったが、瑞希の目には見え透いたウケ狙いに冷めてしまってちっとも笑えない。ただ、そんな彼を見ているうちに心に湧いた呆れは、落ち込んでいることすらも馬鹿馬鹿しく感じさせていくようで彼女の気を楽にしていった。
瑞希の中の重たいモヤモヤが少しずつマシになっていく。だがしかし、あまりにも笑いを取れずにいた河島は疲れてしまい、元気な顔を見せない瑞希に言った。
「お手上げだ、一体何があんたをそんなにさせてるんだよ...。」
瑞希はとても小さな呆れ笑いを浮かべた。河島のしつこさにとうとう折れてしまったようで。
「ふふ、そっとしてって言ってるのに何なの?さっきから。」
そう優しい声で河島に言う。彼女の疲れた瞼には、小さないくつもの文句をしみ込ませたあとが浮かんでいた。
「俺どうしたら良いのかねえ...。みんな重たい空気だし、もっと気軽に楽しくってテンションになんでなってくれないんだろう。」
河島は真剣な表情でそう呟いた。しかし、顔に書いた雑なメイクが残ったままで真面目なことを言う彼を可笑しく思った瑞希は、思わずその口から笑いが溢れた。
「....っふふふ。」
「なに。」
「馬鹿みたい。」
「馬鹿ってなんだよぉ!?」
「違う違う、河島君のことじゃない。いや、河島君のことなんだけど。」
「俺のことじゃねえか。」
「違う、顔!その顔で真面目なこと言わないで。」
失笑の中で少しずつ元気を取り戻す瑞希。いつの間にか空気がさっきよりも、ほんのりと明るくなっていた。
「元気戻ったみたいで良かったー。」
「そのやり方、他の子にやったら嫌われるからね。」
「あはは、気を付けまーす。」
一方、入崎と明希の二人は喧嘩のことについて話していた。
「どっちも正しいけど、どっちかが正しいかを議論したら結論は出ないと思うな。」
入崎がそう言うと、明希は反論の言葉が見つからずに黙りこくった。
「明希ちゃんの言うことも、詩鶴ちゃんの言うことも同じくらいにメリットとデメリットがある。」
明希はしばらく考えた後に、入崎に尋ねた。
「おじさん、私どうしたら良かったでしょうか。」
「お互いの意見を認めあって、両極端にならないように出来ればベストだね。でも明希ちゃん、それは大人にだって簡単に出来ることじゃないんだよ。」
「...ええ。」
「だから今は、その議題の解決より先にすべきことがあると思うな。」
「先に...すべきこと?」
「詩鶴ちゃんのことは、まだ恨んでるかい?」
それを聞かれた途端、明希は眉をひそめた。その表情を見て察した入崎が彼女に笑顔で言う。
「あはは、まあそうだよな。そんなにすぐに仲直り出来ていたら俺もビックリだよ。」
「別に恨んでるとかそんなんじゃ...。」
「ああ、分かってるとも。俺だって親友を悪く言われたら黙っちゃあいられない。それはどんなに仲の良い友人から言われたとしても同じだ。」
明希は入崎の言葉で再び詩鶴の発言を思い出し、不満を口にした。
「今仲直りして何か変わるんですか。」
「大きくは変わらないだろうけど、今のままよりかはきっと良くなるはずじゃないかな。」
「そんな急に言われても無理ですよ。」
「ああ、焦る必要はない。ゆっくりで良い。」
「ゆっくりでも完全には許しきれません。あの子と私は性格も、何もかもが対極なんですよ。」
「それで良い。人間関係ってのはむしろそうあるべきだ。」
「....?」
「自分と違う生き物と共存するのに、全部を認めるなんて出来る訳がないからね。」
「......。」
「それは詩鶴ちゃんにとってだって同じことなんだよ。」
「.........。」
「分かり合えない者を敵と見なすか、共存する努力をするかは自由だ。でも明希ちゃんにとってあの子は、一つの言い争いで切ってしまう程の仲なのかい?」
「....どう答えれば良いんですか。」
「今、一瞬で首を縦に振らなかった。それが答えだよ。」
何でも良い方向に持っていこうとする入崎に、明希は少し怒りの混じった声で反論した。
「あのですね、今だけは分かりたくないんですよ!あんなこと言われて、友達のことも馬鹿にされて...。」
入崎は相槌を入れながら頷いた。
「大体、体育祭なんて私にとってはやりたくないの一心なんですよ!運動できる人だけしか良い思いをしない、そんなもののどこが面白いんですか。」
「そうだな。」
「私だって喧嘩したくてした訳じゃない。でも、あんまりにも好き放題言われたら私だって我慢しきれないですよ。」
「ああ。」
「言いたいことは分かりますよ。ただ、自分らさえ良ければ良いだなんて、そんな考え方する人だとは思ってなかったってだけです。」
「....。」
「私のことなんてどうでも良いって思ってるからあんな言い草が出来たんだ。」
明希の心のモヤモヤを吐き出したあと、入崎はひとつだけ彼女に反論した。
「明希ちゃん。」
「....?」
「君にひとつだけ覚えておいて欲しいことがある。説教じゃない。」
「何ですか。」
「今日、君のことで依頼をしたのはお父さんだけじゃない。」
「え?」
「明希ちゃんのことを心配して、何かあったら相談役になって欲しいと頼んできた。2、3日ほど前のことかな。」
「誰ですか...??」
「詩鶴ちゃんだよ。」
つづく。
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お待たせしました!
投稿、遅くなりました....。