下町の鶴
7章-ノ木の火-
☆Episode.63「してやられた」
「ふあああぁ...。」
河島が大きなあくびをする。それが私には可笑しく思えて、つい茶々を入れたくなった。
「ふふ。」
「何。」
「河島っていつも眠たそうだよね。」
「悪かったなー。」
外にはぽつりぽつりと、窓からいくつかの点線が落ちてゆく。ふたつの足音が廊下に響きながら、この時間では味わえない放課後のような空気が流れている。泣きはらした目を見られたことを思うと、あんなに泣いたのが恥ずかしく思えて不意に頬が赤くなった。
誰もいない私たちの教室に戻ってくると、二人は雨雲で薄暗くなった部屋の雨の匂いを嗅いだ。居残りのような雰囲気で、でも外にはクラスの皆が体育祭に勤しんでいる。そんな背徳感と、いたずらにも感じてしまう愉悦のようなものが胸に駆け巡った。私は近くにあった席にポンっと座ると、河島に呟く。
「なんか悪いことしてるみたい。」
「ああ、悪くないだろ?」
彼は冗談を交えて笑う。私も、胸の奥がようやく落ち着いてきたので
「ええ。」
と、言って返してやった。河島は、教卓の上で指を遊ばせながら、何を考えているのか読めないような無表情で立っている。
「なあ、名取。」
彼が素朴に話しかける。
「ん?」
私は同じように態度を飾らずに返した。河島は続ける。
「体育祭、壊れたな。」
「...うん、文字通りね。」
「どうしたら良かったかな。」
「...さあ。私どうしたら良かったかな。」
互いに自分のことを振り返る。でも、まるで答えのない問題を解こうとしてるみたいに、私たちは次の言葉に詰まる。居たたまれなくなったみたいに二人は黙り込んだ。どちらかが喋りだすのを待つように耳を研ぎ澄ます中、鼓膜に雨音だけが触れる。
ぽつりぽつり、ポツポツ、ぽつりぽつり....
心がだんだん諦めに変わっていくようで、少しずつ胸に寂しさや、後悔が湧き出してくる。怖くなって河島に甘えてみたくなった。でも、それが出来ずにいる自分が
「ま、とりあえず楽しいことだけ考えようぜ。落ち込んでばかりいるのは愚策だよ。」
「楽しいこと、か。」
「ああ。俺、大玉転がしは地味に好きだよ。触れたらラッキーじゃん、あれ。」
「うん。」
「それでいて滅茶苦茶速いじゃん。なんか笑える。」
「そうだね。」
全然楽しそうに返してこない私に、河島は困り顔を見せる。何とかしようと、彼は体育祭以外の話を切り出した。
「ま、これ終わったら文化祭に遠足だ。気楽に行こうぜ。」
しかし、そんな河島の明るさに合わせられずに、私はどんどん内側の暗さだけを見ようとしてしまう。
「なんだろうな、今はそんなのどうでもいいって思えるの。」
「え?」
「何が何でも楽しくやりたいって、人の気持ちなんて考えないで。思い通りにならないって暴れてさ。なんか馬鹿みたい。」
「.....。」
「我儘なんて言わなけりゃきっと平凡で、面白かったんだ。それで失ったものが大きすぎてさ、もうどうでもいい。」
そんなボヤキを聞いた河島は
「そっか。」
と静かに返した。
もう何もかも終わったと、私はそう思っていた。かけがえのないものを失くした後では、希望だとか願望だとかが心底どうでもいいと感じるから。そうして私は、机と顔を合わせるように俯いた。
暫くすると、河島は窓の外を見つめながら、ダメになった私に言葉をかける。
「なあ。」
「...?」
「俺ら、アイツらの体育祭壊すって言ったけど、壊さなくて良いもんまで壊したよな。」
「......。」
「分かった。じゃあ今は、それを直すのに専念しようか。」
「...え?」
「当ててやろっか。」
「当てるって、何を。」
すると彼は教卓に左手を置き、まるで先生になったかのようななりきり具合で私に言った。
「名取、まずお前の思い込みは一つ外してる。」
「え??」
「直せないくらいにまでは壊れてない、そのことすら勝手に否定している。」
「待って河島。」
「なに。」
「...何が言いたい。」
「まあそう焦るなって。」
「焦るとかそういう――――」
「そもそもお前、失ったって決めつけはどっから来てるのさ。」
「え...?」
「今日が不幸つづきだからか?それとも裏切られたって信じていたいのか。」
「河島。」
「そういう―――」
「待って待って。」
「だから――」
「待ってってば!」
「なんだよ。」
気づけば私は机から立ち上がっていて、河島を一点に見ていた。私は続ける。
「さっきから主語抜けてる。あんた一体どこまで知ってるの。」
「どこまでって何が。」
「それは、その...。」
言葉が詰まった私に、河島は答える。
「さあな。俺の読みが当たってるかは知らんが、見た方が早いんじゃないか?多分。」
「見るって...?」
そう聞くと彼は教室の外へ歩きだし、捨て台詞の如く言い放った。
「これはお前の物語だ。....なーんてな。じゃ、あとは任せた。」
そう言って格好をつけたあと、それを笑い飛ばすかのようにニコッと笑い、私の前から走り去る。
「え?え!?ちょっと待って!」
私はそう叫び、彼の後を追いかけようと教室を飛び出した。しかし、そこには既に河島の姿はなく、代わりに一人の女生徒が驚いて慌てふためいている。私はその子の顔を見て突如、身動き一つ出来なくなるくらいに身体が固まり、言葉という言葉を完全に失った。それは彼女が確実に
瑞希だということに気づいたから。
お互いに慌てふためき出し、二人共とりとめのない状態に陥ってしまう。
「え、あ...その。」
「いや、えっと...あの...。」
そんな言葉を互いに発しながら、収拾がつかなくなったことを悟ったのか、瑞希は私の両肩に手を置き
「一旦落ち着こ...。二人とも落ち着こ。スーーー、ハァーーー。」
と深呼吸をし始める。
「ほら、つるりんも。」
「え、なにこれ??」
「良いから。」
「スーーーー、ハァーーーー。.....なにこれ???」
「落ち着いた?」
「ちょっと待って、何でみっちゃんがここに?」
私がそう聞くと、瑞希は強い戸惑いを浮かべ、胸一杯の緊張を堪えながら話した。
「あのね。」
「......?」
「盗み聞きしようと思ってしたんじゃなくて、でもね...何て言うか、つるりんのこと心配で。」
「え?」
「お、おかしいよね!あんなに怒鳴り散らかしたクセして、今になってこんな....。」
「みっちゃん、怒ってるんじゃないの?まだ私の事....。」
「いや.....そのことで、その...、謝りたくて。」
私はその場で数瞬のあいだ立ち尽くした。瑞希が一体何を言ってるのかサッパリ分からなかったからだ。どうして怒らせた原因の私が彼女に謝られているのか。私は言った。
「なんで。意味分かんないよ。」
「ごめんね...。」
「いや、違う違う。何でみっちゃんが謝ろうとしてるのさ。私の方だよ、謝んなきゃいけないのは。」
「......。」
「みっちゃん、本当にごめん。私のせいで滅茶苦茶にしてしまった。」
「私こそ、あそこで逃げたりしなきゃ
「そんなの気にしなくて良いよ。」
「....ありがとう。」
なぜ瑞希から謝りに来たのか、私はそれを不思議に思いつつも、彼女と仲直り出来たことが本当に嬉しかった。
「私さ、どうして良いか全然分かんなくて。このままみっちゃんと離れ離れになったらどうしようって...。」
そう溢すと、瑞希は潤んだ目で私を包んだ。
「そんなことする訳ないじゃん。」
彼女がそう言うと、その優しさが胸に染みて、私も目頭が熱くなった。
お互いに強くハグしあっていると、隣の教室から河島が抜き足差し足で出てきて、コソコソと二人の前から消えようとしているのが見えた。
「さ、一件落着~っと。」
「おい、河島。」
私は、瑞希の頭の横から顔を出して河島に尋ねた。
「はい、なんでしょう。」
「これも含めてあんたの仕業か。」
「あはは....、はははは...。」
河島は誤魔化すようにおどけて笑う。呆れと、胸を撫で下ろすような気持ちがドッと押し寄せ、私は思わず大きなため息を吐いた。
つづく。