下町の鶴
7章-ノ木の火-
☆Episode.65「迷い道」
瑞希たちがいないことに誰も気づかないまま、とうとうレースは始まってしまった。銃声とともに走り出す選手、耳を覆いたくなる程に熱の入った声援がグラウンド全体に響きわたっている。皆、二人の出番が来るギリギリまで気がつかないのだろう。それくらいの熱狂さだった。
きっと混乱が引き起こる。もしそうなれば、もっと事態は複雑化してしまう。そうなる前に二人が戻ってきてくれなければ。私の中には焦りで埋め尽くされていた。
順番は瑞希が真ん中あたり、そのあと五、六人ほど走り、私の出番が来る。そしてそのままバトンを詩鶴に手渡し、最後にアンカーとして彼女が一周するとレースは終了する。つまり私がもたつけば、今までの走者の成果を全て無下にしてしまうのだ。見て分かるだろう、逃げ出したくなる気持ちが。先輩たちからは戦力外として欠席を促され、友達からは逃げるなと言われる。どこへ行けば良いか分からないんだよ。一歩歩き出す度、その先々で災難にぶつかる。立ち止まれば指を指され、心に決めて動いたことは全否定される始末だ。じゃあ一体何が正解なんだ。何を本音と称すれば良しとされるんだ。
半分は諦めに近い感情に埋まり、胸が痛くなって俯く。深く息を吸い、それを吐ききるまでの刹那に、どこかで瑞希と、詩鶴の二人の声が聞こえた気がした。ふと瞼を開ききり、辺りを見渡すと、遠くの方に確かな二人の姿が。私は彼女らに駆け寄ろうとした。しかし、先ほど自分の放った言葉がこの身に跳ね返り、私を責めだす。どうしようかと狼狽えていると、彼女らと目が合ってしまった。私の身体はピクリとも動けない。そうしているうちに瑞希の出番が近づいたみたいで、向こうも戸惑いつつ私を後にした。そうして残った詩鶴と二人きりで見つめ合う。人混みの中、互いにかける言葉を見つけられない状態で立ち尽くしている。ごめんなさいを言う勇気も、何であんなことを言ったの?と責める程の怒りも私にはなかった。やがて諦めたように詩鶴が歩き去って、とうとう残されてしまった。こうして苦い後悔は、みるみるうちに胸を埋め尽くした。
自分を何とか前に進ませようと、まるで本棚を荒らすように貰った言葉を漁りはじめる。
「これじゃない、これでもない、こんなものじゃ満たされない。」
なんて愚かしいんだろう。こんな私のために与えてくれた言葉の一つ一つを投げ捨てながら、今の自分を満たそうと暴れるなんて。もう今は誰も叱ってくれない、誰も笑ってくれない。気づけば希望を探すことを諦めていた。
私にとって、もうどうでも良くなった声援が鼓膜に触れる。その感覚が心底気持ち悪い。決して口に出来ない反面、暗く汚れた心が希望や、その類いの明るい空気を
何一つ明るい気持ちになれないまま、とうとう私の出番はやってきた。濡れたスタートラインに立つと、心拍数が一気に上がり、並ならぬ緊張が込み上げてくる。走者はまるで時計の長針のようで、やがて自分の元へ走ってくることを思うと、時限爆弾のように思えて平静を保てない。心はこんなにも逃げ出したい気持ちで一杯なのに、そうするにはもう遅すぎる。
選手の待機場所では、クラスメイトたちが走る選手らを目で追いながら、喉を潰す程の声援を飛ばしている。心許なく視線を向き合うべき所から反らしてみると、声援を飛ばす人混みの中で一人、瑞希がこちらに向けて手を振っていた。
彼女はどこか悔恨の表情を浮かべながら、私に精一杯の声援を送っている。私はそれを真っ直ぐに見つめていた。例えば今、全てを投げ出して瑞希の元へ駆け寄れるとしたら、二人は何を話すのだろう、そんなことを考えていた。
後ろを振り向くと、もうすでに選手が近くにいた。瞬く間に私に追いつくと、バトンを私に向けて突き出した。慌てて受け取ろうとすると、バトンが地面に落ちてしまい、それを拾うまでの間も他の走者が私を追い抜いていく。
「落ち着け、焦んな!」
と、バトンを手渡したクラスメイトが声を掛ける。何とか拾い上げて走り出すと
「何やってんだよアイツ!」
と、そこかしこに怒声が飛んだ。その言葉が胸に刺さったのか、一気に呼吸が乱れる。息が苦しくて、速く走ろうにも足が前に出なかった。雨に濡れて重たくなった体操着が、一歩進むごとに肩にのしかかり、べちゃべちゃの地面は真っ直ぐに走ることすらままならない。最悪の状況だ。
前を見ると、直線上にはもう誰も選手は走っていなかった。私と前を走る選手との距離が遥かに離れてしまっていて、追いつくにはあまりに遠すぎる。どれだけの力を振り絞れば前に追いつけるだろうか、少しでも近づいて完走しなければ、そう考えるほど身体は苦しくて、心は絶望だらけになった。
グラウンドの半分を走り、最後のコーナーに差し掛かると、地面のコンディションは先ほどよりも酷くなっていた。水溜まりだらけのグラウンドは、所々にぬかるんでいて非常に走りづらい。それに一歩足をつく度に泥が飛び散る。このコーナーさえ終わればゴールは目前。走りきればやっと一つ課題が減る、そう思い走っていたその時だった。
「はっっ!!」
ぬかるみに足を取られ、瞬く間に全身に泥水の感触が走る。自分の身に起きたことへの理解がゆっくりと追いつくと、初めて自分が滑り転んだことに気づいた。私は強烈な劣等感を覚えた。
「何してんだよ!」「ああ、俺らもう負けたわ。」
周りからは罵声が飛び交い、無様だと笑うかのように雨が強まる。私に味方などいないのか、と、なんだか本気でそう思えてきてしまった。そっか、きっとみんな嫌いなんだ。何もかもを暗い方向に持っていって、いじけて、文句ばかり垂らしているようなこの女が。なんだ、詩鶴の言ってること、何一つ間違ってないじゃないか。意地なんか張っても結局正しい方など分からなかったし、それを選んだつもりで自分が正しいと言い聞かせたかっただけだ。それなら初めから言われたことだけを守っていればよかった。どうせどちらかを失う結末だったのなら、どうして友達の方を切り捨てたりしたんだ。こんな愚か者は、きっとこの世で私だけだ。
手をついて立ち上がろうとしても、まるで力が出なくて。もう子供じゃない癖して、まるで生まれたてのロバみたいでさ。ああ、何だか涙が込み上げてきた。散々友達に牙を剥いておいて、追い込まれたら泣くことしか出来ないのか。ああ、もう全部が愚かしいって思える。死んでしまいたいほど恥ずかしくて、やるせない。
「助けて...誰か。」
こんな状況で、そんなことを垂らして泣いてるなんて見るに堪えない。ここまで苛まれたならいっその事、悪に振り切って暴れてしまえばいいものを。私は本当に、これっぽっちも大人になれない。体だけが大人に近づいて、それでも飛ぼうとせずに巣で帰らない親鳥を待っているかのようだ。
「さっさと立てよ!!」「いい加減にしろ!!」
そんな言葉が飛び続ける中、どこか私に向かってドンドン、と足音が聞こえてきた。きっと蹴り飛ばしにでも来たんだろう。もうどうにでもなれ、などと思いつつ、怖くて頭を屈める。今更責められるのが怖いのか?それともガキみたいに「痛いのが怖い」とでも言うのか。その足音は私の前で止まると、何故か何もしてこなかった。恐る恐る目を開けると、そこには私に向けて差し伸べられた手が。そっと見上げてみると、そこには詩鶴がいた。
「ほら明希、最後まで走る。泣かない。」
酷い雨が降っていた。
つづく。