下町の鶴
7章-ノ木の火-
☆Episode.66「失望と戦う」
「最後まで走る。泣かない。」
そんな彼女の声を聞いたとき、私の中には強い疑いと、眩しいくらいの希望があった。やっと助けが来た、今すぐにでもそれにすがりたいという気持ちと、信じた先に訪れるかもしれない裏切りに怯える。
「鶴ちゃん...なの?どうして...?」
私は聞いた。しかし彼女はそれには答えず
「どうしてだって良い。ほら掴んで、走るよ。」
と言って、差し出した手を小刻みに振って急かした。笑っても、怒ってもいない詩鶴の表情が何だか怖い。私をどういう目で見ているんだろう。憐れんでいるのか、惨めだと思われているのだろうか。何にせよ、すぐその手を取って「ありがとう」と言えば良かった。だけど不安な気持ちを抑えきれず、私は彼女を試した。
「答えてよ。どうして私なんか助けにきたの。」
そう言うと、詩鶴は伸ばしていた手を下ろして聞き返す。
「どういう意味。」
私は正気を失っているのだろう。周りからの冷たい言葉の雨に打たれ、答えのない問題の解答に迫られているうちに、「ただ走ればいい」という目の前の、至極当然の行動さえ分からなくなっていた。
「みんな私のこと、根暗で文句ばっかりの泣き虫って思ってるんだ!だから鶴ちゃんだって、最後には私を見放す。走り終えたら他人に戻ってしまう...。」
「そんなことしないよ。」
「...噓だ。」
「ウソじゃない。」
「じゃあ証明してよ!まだ仲直りも出来てないのに、どうやって信じればいいの。」
「....。」
「分かってるよ、私が一番体育祭を壊してるって。だからもういい、正論なんか聞かない。」
不貞腐れる私を詩鶴はじっと見つめる。彼女も今更勝ち負けのことを気にしてはいないだろう。言葉にしなくたって、その立ち姿から優に伝わった。
「証明したら一緒に走ってくれる?」
詩鶴は言った。それに私は
「え?」
と、思わず聞き返した。ふと顔を上げ、彼女の目を見る。そこに映る詩鶴の表情を読み取るまでの刹那に、彼女は私の腕を強く引いた。起き上がる体は直ぐにバランスを崩し、倒れた先でタオルで包まれたような感触が頬に伝う。気づけば私は詩鶴の腕の中にいた。
「なに...してるの?」
何が起きているのか、一つも理解できなかった。そして両肩を掴まれてゆっくり離されると、膝をついて座り込んだ詩鶴の姿が見えた。さっきまで白かった彼女の体操着が泥だらけになっている。
きょとんとした私を差し置いて、次に詩鶴は両手を掴んだ。泥まみれの私の手のひらを自分の両頬にあてがわせた。するとたちまち彼女の綺麗な顔が汚れる。私と同じように全身泥だらけになった詩鶴に、私は言葉を失った。
「これで良い?さ、はやく。行くよ。」
言われるがままに立ち上がり、詩鶴の腕に引かれながら走った。そこからゴールに着くまでは鮮明に覚えていない。真っ白な光の中にいた、そんな気がする。あんなに大きな声で飛び続けている罵声すら、そこからは一切聞えなくなった。言葉のない心の中というのは、こんなにも不思議な心地なのか。どんな感情も、何一つとして文字にはならない。
そこには足音と、雨音と、そして詩鶴の背中だけだった。
ゴールに着くと、持っていたバトンを詩鶴が取って勢いよく走り出す。スタート地点でぼんやり立っていると、瑞希が私の手を引いて待機席に連れ込んだ。彼女は酷く心配して
「大丈夫!?」
と尋ねる。私はまだ白昼夢の中にいた。
詩鶴の走る姿を無心で見ていた。ぬかるみに足を取られ、転びそうになっても負けじと体制を立て直す。希望など持てるはずもない程の選手との差にも、彼女の走りからは一切の諦めを感じ取れない。ただ真っ直ぐに、一生懸命に走っていた。最後まで走るのをやめずに詩鶴は今、目の前のことと戦っている。一歩ごとに泥交じりの水しぶきが飛び散り、みるみるうちに足が汚れていく。一つハッキリしていたことは、詩鶴は私とは完全に真逆の人間だった。
やがて詩鶴は前の選手に追い付こうとしていた。この絶望的な状況が打開されようとしている、そのことに私は感動を覚えた。走る彼女の姿に、絶望的な状況を作った張本人は、他力本願の果てに口を開いた。本当の卑怯者だと思う。何も考えず、ただ声に出た言葉は
「頑張れ。」
の一言だった。
罪悪感もなしに私は彼女の名を呼んだ。夢中になって目で追いながら、ただひたすらに応援した。呟くようにホロリと漏れる言葉じゃ、詩鶴には届かないだろうけど。
着々と距離を詰めていく詩鶴。前の選手もそれに気づいたのか、走るペースを上げた。ゴールまでは残り百メートルと少し、詩鶴も全力で前の選手を追いかける。私は詩鶴にめがけて声を張った。
「あともうちょっと!頑張れ。頑張れ!」
相手と、詩鶴が最後の直線に入る。彼女の後ろには波のような泥飛沫が散りながら、一歩一歩と地面を蹴る音が聞こえるくらいに勢いが伝わってくる。相手までの距離が縮まる一方、ゴールも近づいていた。縮まる時間と、ゴールまでの距離は相手を抜くのに少し足りない。私は焦りを感じた。ドキドキ、と速くなる鼓動に気持ちが抑えきれず、後ろめたさを振り切って出せる最大の声で叫んだ。
「鶴ちゃああん、行けぇえええええ!!」
血管が顔中で沸騰するようにジュワ、と肌が熱くなる。そこで私はやっと白昼夢から覚めた。その言葉が届いたかは分からない。だが、詩鶴は余力を使い果たすようにペースを上げたのだ。呼吸すら整えず、体力の切れ目を計ることさえ捨てて走った。抜けるか、抜けないままかの本当の瀬戸際で、思わず私も息が荒くなる。今のペースでさえ間に合わないかもしれない窮地に、周りの人も焦りだす。ゴールまであと数メートル、本当のクライマックスに差し掛かると、詩鶴は大声を上げた。
「うおおおおお!!!負けるかああああああ!!!!」
この空の下、誰もが息を止めて彼女を見た。その瞬間、レースの終了を知らせる銃声が一面に響く。
この事実をどう受け止めようか。
彼女は勝ったのだ。
一気に歓声が響く。誰もが不可能だと諦めた状況を打破し、青組は最下位を免れたのだ。
「ああ、良かった。」
と、胸をなで下ろすような言葉が辺りに聞こえる。思えば、この組が一位以外の数字で初めて歓声を上げた瞬間だった。悔しさを口にする者は、私の知る限りではいなかったと記憶している。
「明希、つるりんやったよ。」
と、嬉しそうに瑞希が声をかける。私は膝から崩れ落ちて
「うん...、うん....。」
と頷くだけだった。
負けると分かっていても、立ち止まらない理由って何なのだろうか。彼女はそれを動力に走っていた。どうせ、と決めつけることなく、ただ真っ直ぐに進み続ける。そんな彼女の姿を思うと、自分に対する失望があふれ出てきた。
「あ、つるりん、お疲れ!」
瑞希が言う。詩鶴が返ってきたのだ。私はあまりの自分の恥ずかしさに顔が上がらなかった。息が上がり、ヘトヘトになった詩鶴の声が聞こえる。そして私を見つけると、
「明希。」
と声を掛ける。
「鶴ちゃん...、私...。」
不甲斐なさを胸に俯く私に詩鶴は、私と同じように膝をつくと瞬く間に優しくハグをした。
「応援してくれて、ありがとね。」
耳元で詩鶴の声が揺らぐ。はあはあ、と乱れた呼吸の間で、そっと。
泥だらけの二人をそのままにする気なのか、雨雲は私たちを置いて飛び去って行った。柔らかい秋の風に吹かれながら、頬の泥は乾こうとしている。しかし、それに気に留める必要はもうないだろう。雲間に差し込んだ光は、この目には揺蕩うように映っている。幾筋もの太陽の破片がそれを洗い流していたから。
つづく。