下町の鶴
9章-奮闘記-
☆Episode.83「頑張れ若女将 -後編-」
「ヴォォロロロロロロロぉぉぉ!!うぇっ、っげほっ。ヴ、うぉろろろろろろ!!!」
大慌てでお客さんにトイレの場所を教え、何とか間に合ったは良いものの、扉がフルオープンで開いてるせいで客の放流が丸聞こえしている。分かってるさ、嘔吐寸前の人間にドアを閉める余裕などない事くらい。ああ、気分が悪い。貰い吐きしそうだ...。
ビチャビチャと垂れる音に青ざめながら、気づいたら無意識に手を洗っていた。
「お前酒弱すぎだろおー。」
「きったねえなあ、おいー。」
男たちは酔ってるせいか、私とは真逆に先程の空気のままで賑わっている。私の今までが平和だっただけなのか、あまり経験してこなかったことに困惑の表情を隠せない。家だけど早く帰りたい、なんて感情がジワジワと沸き上がってくるが、厄介事はまだ始まったばかりのようだった。
「まあ良かったじゃねえか、出し切ってスッキリしたろ。回復したってことで飲み直しじゃあ。」
「え....、え....?」
噓だろおい、吐いてまだ飲ませる気か。
「姉ちゃん、適当に酒見繕ってくれ。」
「あ、あの...その辺にしてあげた方が。」
放流致されたお客を気遣い、これ以上トラブルに繋がらないようにしようと試みたものの
「良いの良いの、これくらいで弱ってちゃあ社会で生きていけないから。」
と言って聞かない。弱ってる当の本人は
「とりあえず水をくれ...。」
と弱々しい声で私に頼んできている。何だか妙に危機感を覚えて私は、コップに水を注ごうとした。
「水と見せかけて焼酎でも良いんだぜ?」
「ちょっといい加減にして。この人こんなに弱ってるんだから、少しは休憩させてあげてよ。」
誰がみてもフラフラになってると言うのに、それが分からないほど彼らは酔っている。酒の力は怖いな、と思うと共に、社会って変な場所だと感じさせられた。
私の注意によって、何だか少し空気が悪化してしまった気がする。でも、このままノリに合わせていたら死人が出たかもしれないんだ。まずは反省より、この判断が出来た自分を褒めてやらなきゃ。偉いぞ、詩鶴。
「すまねえ、ちょっと...ちょっとだけ。」
「お前そんなんだから出世できねえんだよ。」
ふらつく同僚をからかった後、男たちは会社の愚痴をこぼしたり、生活のことや趣味のことなど、色んな話に怒りや笑いを分け合っていた。時々彼らは予兆もなしに話を振ってきて私を困らせ、それに何となく答えてみるとその度に笑いの渦が引き起こる。一体何がそんなにおかしいのか尋ねてみると、彼らは
「若い女と話せるのがたまらねえのさ。」
なんて返してくるので、思わず呆れ笑いが漏れた。どうやらこの人達は悪ノリが大好きなようで、今までのからかいでは飽き足らず
「なあなあ、この三人の中で誰がタイプ?」
と、一人が調子に乗って聞いてくる。冗談も大概にしてくれと思いつつ、消去法で一人を指さすと、また喧しく盛り上がった。
「おいおい、どうして俺なんだい?」
「何となく。本気にしないで。」
「うっひょーーー、そりゃあ無理な相談だなあ!惚れちまったぜ!!」
まるで手の付けようがない。いつか私たちも大人になって、飲み会とか開いたらこんな風になるというのだろうか。そして酔いからさめて気がつけば知らない部屋にいるオチで...。ああ、くわばらくわばら。
嫌な未来図が見えてしまい、頬杖をついた私は疲れ気味の溜息を吐いた。
指を指されなかった内の一人は、それにヤキモチでも焼いたのか
「恋愛盛りな年頃だぞ、男の一人や二人いるって。なあ?」
などと私に話を振ってくる。しかし、ツッコむ気力があまりない。
「ふふふ。」
と、余力を振り絞って出た見え見えの愛想笑いが私に出来る精一杯だった。男たちは言葉を投げ合う。
「居ないって。」
「絶対いるよ!」
「居たら今頃デートの真っ最中だ。働く暇なんてないさ。」
「今日はたまたまバイトって可能性もあるだろう?」
「馬鹿、男が全部貢いでくれるだろ?わざわざ油売ってあぶく銭なんざ稼がねえよ。」
一言一言が私の胸に突き刺さる。黙って聞いていれば両者とも私のことディスってるだろ。
「なんだ、選ばれなかったからって妬いてんのかあ~?」
「十も二十も離れた女の子に本気になるかよ。」
「お?やるってのかオイ。」
「やんねえよ。わざわざリスク冒してナンパするくらいなら、俺は風俗行くね。」
「へっ、モテねえ男の終着駅だな。」
「お?やんのかテメェ。」
まるで収拾がつかねえ。言い争っているようで、見た感じの雰囲気はただの仲良しだし。注文さえ入れば話なんて聞かずに調理の方に集中できるのだが、今はオーダーが無い上、他のやるべきこともない。暇の潰し方が彼らの会話を聞くくらいしか無いのだ。ああ、今日は何だかやたらと溜息が出る。疲労による溜息だ。私はコップの水を一口飲んだ。
「お前は良いよな、学生の頃から女にモテまくりで。」
「ああ、初めては中二の頃だったっけな。」
「けぇーっ、けしからんわ。お前の分際で。」
さっきまで恋話してたんじゃないのかよ。結局落ち着くとこが肉欲じゃねえかこの野郎。
男たちはそれから暫く夜の話題で盛り上がる。途中私に振ろうとしてきたが、こちらに視線が向けられた途端、腰を抜かしたような表情で見ないふりをした。自分では見えてないから分からないけど、相当酷い表情だったんだろうな。
そんな酷い話題に盛り上がる中、お酒の注文が入った。おつまみの下ネタがあっても肝心の酒が切れたんじゃあしょうがない、そう思ったのだろう。注文されたお酒を自分のペースで作り、彼らの前に持って行った。
「お待たせ。」
「おほほ、酒だ酒だー。」
テーブルの上にひとつづつ置いていき、空いたグラスを片付ける。そしてお客さんに背を向けようとした時、内一人が話しかけてきた。
「今日は嬢ちゃん一人でやってるのかい?」
正直に答えようとしたが、私は先程の母との喧嘩を思い出した。ここで本当のことを言えば今までの努力が水の泡だ。そう思った私は
「え、あー。うん、まあね。」
と噓をつく。
「へえ~、頑張ってるね。俺にゃあ絶対出来ないや。」
「そう?慣れれば店の切り盛りなんて大したことないよ。」
「はあ~...、最近の若いのはたくましいねえ。」
「ふふ、どうも~。」
多少の背徳感はあったが、思ったように褒めてくれるので気分が良かった。その褒めてきた男は財布を取り出すと、そこから一枚の紙幣を摘まんで私の腰エプロンのポケットに入れてきた。何事かとビックリした私は
「お会計...?」
と尋ねるが、
「小遣いだよ、チップチップ。」
そう軽い口振りで笑う。
「あ、ありがとう。」
私は戸惑いつつも、彼にお礼を言った。
困惑気味だったが、キッチンに戻ると胸にじわじわと興奮が湧き上がってきた。誰の手も借りず、自分だけで頑張って勝ち得た報酬を手にしている感覚。薄くペラペラとしていて、これに物を買える効力が備わっていることをを再認識する。これが一人で頑張った対価なんだ、そう思うと誇らしくなった。
暫くして私はニコニコと喜びの表情を浮かべながら、花を摘みに店内を後にした。戻るまでの間に食い逃げされるのではないかとも思ったが、ここから話し声も薄っすらと聞こえてくるので心配する程でもないと思う。あれほど酔っているなら仮に逃げても追いつけるし、そんなことをするような人たちでもないだろうから。
さて、あのボーナスはいつどこで使おうか。明日の学校の帰りには少し良いレストランにでも行ってみるか、それともいつもよく行く店で気兼ねなくたっぷりと注文してやるか。胸を躍らせ、思わず顔がにやけてしまう。明日の学校のことを考えると、普段なら憂鬱な気持ちにさせられるはずなのに期待でそれが吹き飛ぶ。さっさと授業が過ぎ去って昼休みになれ、放課後になれ。そう心に呟いた。
用が済んでトイレを出ようとすると、先程のお客さんが目の前に立ちふさがっていた。我慢して待っていたのだろうか。私は
「あ、ごめんなさい。」
と一声かけ、隙間を通り抜けようとした。その時だった。
男は避けようとした私をトイレに引き戻し、迫って来たのだ。私は突然のことで頭が混乱し
「え、ちょっと何...?どきますから。」
と言って出ようと試みたが、思った以上に男の力が強い。何の冗談だろう、その言葉が頭に繰り返され
「え?え?」
と言葉がどもる。男は
「えへへ...。」
と不敵な笑みを浮かべながら、どんどん私との距離を縮めてくるので、私はだんだん怖くなった。
「え、これは何のつもりかな...。」
「えへへ、今日は嬢ちゃん一人しか居ないんだろ?」
「...は?」
「小遣い弾んでやったんだから、少しくらい良いじゃない。」
額から一筋の冷や汗が伝う。何が起きようとしてるかを悟った私は、出来る限りの力を振り絞って抵抗したが、二人との力の差があまりにも明確でそれが敵わない。ここで大声を出したなら全て解決したのだろう。しかし、それだとここまで一人でやってきた成果が無駄になってしまう。それだけはどうしても避けたかった。分かっている。そんな見栄やプライドを守っている場合じゃないことくらい。
「できたっ!お母さん、どう?」
「ここ、火が通ってないね。もう少しテキパキ混ぜないと、中途半端な炒め具合になるよ。」
「でもお肉じゃないんだし、食べられるよ...?」
「詩鶴、安全で食べられるのはね、最低限の基準なんだよ?お料理作るってのはいつも最高の物でないといけないの。ほら、もう一回やってみて。」
「もう少し早く計算出来るようにならなきゃ。」
「でも私、初めてお釣り間違わなかったんだよ?」
「そうね、でも本当なら一回も間違えちゃあいけない。ここで安心してちゃあ駄目よ。」
子供の頃からそうだ。一瞬で会得したことも、時間をかけて手にした技術さえも、ちっとも褒めてくれない。覚えたら次、覚えたら次と、機械のように物事を進めていく。母のそんな所が昔から嫌いだった。
でも、褒められたかったんだ。このお店のことになると厳しくて、料理も、接客も、何一つ良いと言ってくれないお母さんを、ぎゃふんと言わせてやりたかった。ただそれだけだったんだ。
「やめて、やめてって言ってるでしょ。」
男の胸部を力いっぱいに押し返そうとしながらも、肌と肌は触れる寸前まで近づいてくる。無駄だと分かっていても諦めずに続けた抵抗だったが、荒っぽい息が私の頬にかかった瞬間、私は酷く青ざめて何も出来なくなってしまった。そして抗わなくなったことを良いことに、男はその大きな手でベタベタとこの身体を触ってくる。他の二人は何をしているの?誰もこの状況に気づいて無いの...?
「やめて....。」
心もとなく、先程よりもうんと弱々しくなった声で訴えるも、何もかもが逆効果になっている。叫べ、叫ぶんだ詩鶴。そう自分に言い聞かせるのに、どうしてか身体は言うことを聞かない。それが悔しくて堪らない。
歯止めの効かなくなった男は、今度はズボンの中へ手を入れようとしてきた。密室の中で声も上げられず、怖くて抵抗する力さえもなくなってしまっている。いつになったら終わってくれるのか。もう限界だ、心が持たない。
「助...けて...。」
溢れた涙が頬を伝おうとしたその時、バリーーーン!!と酒瓶の割れる音が耳をつんざく。手がふさがっていて耳を抑えられず、瞼を強く閉ざすと、この目を覆っていた大きな一粒の涙がぴしゃりと弾けた。恐る恐る目を開けると、先ほどまで私を覆っていた男の姿が奥の方にあり、店内の灯りが眩しく感じる。何が起きたのかと状況を考察する余地もなく、私の耳にはもう一度、つんざくような大きな音が響く。
「何考えてんだコラああああああああ!!」
母の怒号だった。
それは私でさえ今までに見たことのない威勢で、思わず震え上がってしまった。男を強く問い詰め、揺さぶる母の姿。トイレに背を向ける形で座っていた残りの二人は酔っていて気付かなかったというが、それについても容赦はしなかった。
あまりにも気が動転していたせいか、それからあの三人が帰るまでのことは薄々としか覚えていない。ハッキリと記憶していたのは、警察沙汰にしようとした母にただひたすら涙で
「もうやめて、私が悪いの。」
と必死に訴えかけていたことくらいだ。
結局、私一人じゃ何も出来なかったんだ。こうならないように上手く接したり、酔い過ぎないように管理するだけの技術がまだ、私には足りてなかった。どこまでも無力に感じて、それがどうしようもなく悔しい。あれだけ散々教えられてきたことを一つも応用出来なかったような気がして。
ぼんやり畳の上、寝転んで無心になる。居間のテレビの音声を聞き流しながら、乾いた涙の跡を指で擦り、背中を丸めた。何でこんなことになったんだろう、どうして何も出来なかったんだろう。思い出したくない出来事が何度もフラッシュバックする。
「何で助けを呼ばなかったの。」
そう言って平手で打たれた頬の痛みと、母の腕の中の温もりだけが今でも鮮明に残っている。
つづく。