下町の鶴
9章-奮闘記-
☆Episode.90「多忙」
河島たちが身内を呼んでくれると言ってくれて翌日、私は少し申し訳ない気分でいた。母から渡された課題をこなすために周りを巻き込んでしまっている、という風に考えてしまって、今までと同じような仕事の仕方で良いのだろうかと背中を煽られたような感覚になる。
夕方、キッチンに立ってからすぐに店の扉は開いた。友達の宣伝効果は意味を成したようで、まず初めに河島のお姉ちゃん、千春がやって来た。
「名取ちゃーん!弟から聞いたよ。何か大変なんだって?お店。」
「い、いやあ...何て言うか。まあ、その。」
「もう、それならそうと言ってよね。」
「ありがとう。でもそんな重たいものでもないから。課題?みたいな。」
「そうなの?まあ任せて。足しになるか分かんないけど、今日大学の友達も呼んどいたから。」
「え、うそ。」
「本当本当。後で来ると思うから。」
「申し訳ないなあ、なんてお礼したらいいか...。」
「いいのいいの、いつも通りで。今日はパーーッと飲むから宜しくね!」
「う、うん!頑張る...!」
千春一人が来るかと思ってたので予想外の展開だった。千春は席に着くなり、その友達を待たずして焼酎を頼み
「来るまでの間、こっそり。」
などと言って悪戯な笑みを浮かべた。しばらく彼女と世間話なんかを嗜み、口も手も丁度良いくらいの忙しさでいた頃、千春の友達がやってくる。彼女は、千春のテーブルのグラスを見つけるなり指を差して
「あー、抜け駆けしたー。」
と呆れた様子。仕方あるまい、待つ間も我慢できない程の酒好きなんだものね。
「へえ、良いね。家の近くに居酒屋なんて。」
「でしょ?お気に入りの店でさ。で、この子が私の新しい彼女兼、マスターさん。」
「勝手に彼女にするなぃ。」
千春が不意にかましてきたボケに反射でツッコんでしまった。咄嗟の判断に動揺する私を見て楽しそうに笑う千春に「おのれ、やってくれたな。」と言わんばかりの苦笑いで返してやる。しかしそれは一ミリも彼女に伝わることなく、それどころか千春の友達から「可愛い」などと笑われた。
空がすっかり暗くなった午後六時。それまでは千春たちが大学の愚痴話などで大変盛り上がっていたのだが、だんだんと客足が増えてきてパニックになった。普段来るお客さんと、河島たちが呼んでくれたお客さんが同時にやってきて店の中はすし詰め状態。どうやら瑞希の親の同僚達が飲み会の場所を探していたみたいで、テーブル席が一気に消し飛んだ。椅子が足りない分はビールケースに座布団を敷いたりして、今まで経験したことのないレベルの混雑だった。
「通ります!通ります!」「注文?すいません、ちょっと待って!」
大衆の居酒屋というのはこんな感じなのだろうか。積まれていく注文の山と、捌き切れずに溜まっていく洗い物。しかし洗っている余裕なんてないし、放っておけば今度は食器が足りない。もう滅茶苦茶だ。
身体のサイズが小柄だとかいう理由で、注文の品のお届けが私に任され、キッチンとテーブルを行ったり来たり。キッチンに戻れば調理、酒づくり、洗い物をバランスよく回していく。外は真冬並みの寒さだというのに、大人数の熱気と、酒臭さでどんよりしていて気分が悪い。頭がくらくらするし、何か体に悪そうな冷や汗まで出てきた。こんな状況じゃポジティブになれる訳がない。
「閉店までに私、死ぬんじゃないか...?」
なんて思えてくる程に辛くて、気を抜けば確実に倒れてしまう。この状況には思わず千春も苦笑いで
「やべえなあ。名取ちゃん、何だったら手伝うよ?」
と心配をくれるほどだった。気持ちは凄く嬉しいのだが、千春はお客さんだし、酔った状態では無理があると感じたので
「ありがと。言葉だけでも助かる。」
申し訳ないがそう断ることにした。
ガタン、ゴトン...キィーー...
電車のドアが開くと、そこからヘトヘトのサラリーマンがゾロゾロと降りてくる。その内の一人が、同じスーツ姿の人波に流されるまま改札の外に漂着すると、彼は星の見えない夜空に溜息を吐いて疲れを放った。
今日の仕事はキツかった。無理難題に等しい量を任され、いつも以上に頑張ったのに上司からはこっ酷く叱られ。それでも会社では文句ひとつも言わずに働いて、帰りにはどこにも寄らずに家路についている。勿論やりたいことだって沢山ある。本当は同僚達とパー―ッと一杯やりたいし、終電間際まで遊び呆けたいものだ。しかし何よりも家族を優先し、全ての欲望を振り払う。我ながら良い大黒柱をやっていると思える。
男はそう胸の内で呟き、愛する家族の待つ家へと歩き出した。
「やっぱ家で飲む酒が一番やな。今夜はゆっくり家族と呑もう。」
家が居酒屋ということもあり、飲む酒にも困らないというのが彼の何よりもの楽しみだった。家内も娘も、料理の腕は一人前で、困ることなど何もない。明日の出勤までには疲れもすっかり癒えてしまうような場所だった。
そうして男が家の前に着くと、何やら扉の奥が賑やかなことに気が付いた。きっとまだ店を閉めていないのだろう。常連さんとも良く話す仲だし、空いてる席にでも座ってご一緒させてもらおうかな。そう思って扉を開けると、そこには朝の通勤電車のような光景が広がっていて、男は言葉を失った。
「お父さんごめん、ちょっと手伝って!」
彼の存在に気づいた娘は、おかえりの言葉よりも先に深刻な表情で助けを求める。男は焦りと戸惑いの中で返答した。
「なななな何や、どないしてんな。」
「良いから早く!洗い物が死にそう!!」
帰っていきなり娘に居酒屋の仕事をお願いされ、洗い場に立てばそこには信じられない程の皿とジョッキの山が。父は驚愕し、ここが現実なのかを疑った。いや、仮に現実でも、これを全部こなす頃にはきっと現実世界じゃなくなっているだろう。呆然と立ち尽くしていると、娘から
「何してるの、はやくはやく!!」
と叱責を食らった。
疲れた身体にとどめを刺すようなハプニングに巻き込まれてしまった。洗っては増え、洗っては増え、と、わんこそば形式で減らない洗い物に男は発狂寸前。いや、ストップといって止められる分、わんこそばの方がまだマシかもしれない。店の中は、帰り人でごった返す駅前のような騒めきと熱気に溢れ、意識を保つだけでも精一杯。傍から見れば妙な光景だ。狭いキッチンに家族全員が並び、それぞれがわっせわっせと山積みの仕事をこなしているなんて。三人とも額に汗を浮かべながら、閉店時間が来るのをまだかまだかと待っていた。
地獄のような忙しさは絶え間なく続き、店を閉めた頃には三人とも畳の上に川の字になって倒れ込んだ。
「はあ、はあ、はあ...。」
部屋の中には三人の呼吸が荒々しく響く。
「詩鶴、今度は予約制にした方が良い...。」
「何、お母さんが始めたんじゃん。ノルマとか、集客とか....。」
「これ一体どういうことやねん。仕事帰りに手伝うレベル超えてるって...。」
お互いに泣き言を垂れながら蹲り、この先の家事をする気力も失せてしまっている。
「今日は風呂無しでいい?各でシャワー浴びて。」
もうしばらくは経験したくない忙しさに倒れた三人だったが、黙り込んでこのまま寝落ちするであろう空気の中、私は思わずこんな言葉が出た。
「寒い。」
さっきまでの店内の熱気で気付かなかったが、そもそも今は十二月。半袖で過ごせる気温ではないのだ。ようやく仕事が終わってダラダラしたい気分なのに、寒さがそれを邪魔する。
「布団、敷かなあかんな...。」
「その前に歯磨かなきゃ...。」
色々とやることが残っている。そんな体力などもう無いというのに。
「あ、課題やってない...。」
「詩鶴、晩なに食べたい?」
「立つ気力ない。」
「私も作る体力ない。」
「もう出前でええやろ、出前で...。」
家族そろって本末転倒だ。明日も学校があるというのに、疲労困憊でもう何も考えられない。これが働くということなら私は永遠に子供でいたい、そう本気で思えた夜だった。
ただ、その努力に応じた収益はしっかりと得ていて、普段の何倍も高い売上げを叩き出せた。それは予想も出来なかったノルマの到達点に、淡い希望を見出せるくらいに。
つづく。