下町の鶴
9章-奮闘記-
☆Episode.95「食後のデザート」
漸く集客期間も終わり、久しぶりにスッキリとした気持ちの良い朝を迎えることが出来る。達成感だとか、そんな大層な感情は最早どうでもよく、今は重荷を下ろせた解放感が一番心地良い。
朝食が出来た、と私を呼ぶ母の声。それに焦ることなく上体を起こし、優雅に欠伸をする。何にも追われることのない人生、改めてその素晴らしさを実感するよ。
「やっぱ平凡が一番だね。」
朝ご飯にありついて早々、母にそう言った。
「どうしたのよ、急に。」
「いいや。まあ人生、足るを知ることが一番だなあって。」
「詩鶴、どっか打った?熱でもあるんじゃない?」
「失礼な。平常運転だよ。」
私はことの経緯を話した。私を追いたてる醜い課題から解き放たれて、ようやく自分のペースでやっていけることへの喜びを。どうせ目標額には達してない。高いお肉が食べられないのは悔しいけど、だからといってこんな思いを強いられながら料理をするのはもう懲り懲りなんだ。だからもう高望みなんてしないし、私はこれからも庶民の味と共に生きていく、それで良いじゃないか。
「だからね、お母さん。私ぜんぜん悔しくないから。」
意気揚々と話す私を見て、母はぽかーんとした表情を浮かべる。無理もないだろう、あれほど食にがめつい私が素直に引き、悟りを開いたような態度でいるのだから。夜景の綺麗なレストランなど夢のまた夢。どうせ夢なら、それを語る側の立ち位置でいるのも一つのロマンなのだよ。
私は少し嫌味ったらしく言ってやった。
「お母さん。美味しいよ、朝ごはん。」
母はまだ表情を変えない。大人になった私を見て、きっと感心しているのだろう。親から見れば子はいつまで経っても子だと言うくらいだから、ぽかーんとするのも当然だ。えへ、今日は真面目にメイクしてお外出ようかな。
「詩鶴、ノルマの件なんだけど――」
「ああ~、いいのいいの。皆まで言わなくたって。」
「ああそう。」
「レベルの高いものに触れるならやっぱ段階ってものがあるから。いきなり超高級の特上肉をこの舌の上に乗せるなんてのはまだ早い。ね、分かってる分かってる。」
「そう。じゃあ要らないってことで良いのね、特上ステーキ。」
「そ....っ、っっと待って、え?何??」
「特上ステーキ。」
「特上ステーキ?」
「うん。」
それは、一時停止を押されたビデオ画面のようにピタリと静まり返った。情報が整理されない。てかそもそも何も理解できない。何が起きているの?何がしたいの?お母さんは。
「どういうこと?え、何が起きてるの?」
「え、だって要らないんでしょ?特上―――」
「いやいや、え?なに。そもそもノルマ達成出来てないでしょ?」
「出来てるけど。」
「......。」
-三分後-
「おかあああせぇあああん!!おにぐ食べだいいぃ!!」
「あれえ?詩鶴の舌にはまだ早いんじゃなくて?」
「撤回、撤回じまずがら連れでっでええええ!!」
十七にもなって恥ずかしいと自覚はしてるが、キザなことを言って努力を溝に捨てるような真似はさすがに出来ない。損も損、大損だ。ええい、こうなれば何としてでも目標達成の褒美を頬張ってやる。高校生だとか、あと三年で成人淑女だとか知ったことか。恥こそば知らぬが仏、母の片足に絡みついて全力で愚図ってやった。
しかし何だ、私がこうも尽くして嘆願していると言うのに、母はそんな私を無様だとでも言うようにケラケラと笑っている。その理由を聞くや否や、母はこう返してきた。
「あやすにしちゃあ大きい体ねえ、全く。」
「何とでも言えっ!連れてくまでここを離れないぞ。」
「えー?だって自分の口から"いらない"って言ったじゃんねえ?」
「せっかく目標額いけたのにそれはないよ!」
いや待て、これは笑うというより馬鹿にしている。完全に私をからかっている。これはぎゃあぎゃあ騒ぐだけ逆効果だと思い、擦り寄せていた顔をぐっと上にやって母を睨みつけた。
「ははは、そんな愚図んなくたって連れてってあげるわよ、約束通り。」
すると、母は満足した様子で私を外に連れ出した。
少し上品な格好をしていけと言われて、それ相応の場所に連れていってくれるのだと確信する。私は嬉しくなって、普段滅多に着ないような服を選んで身につけた。中三の冬に何ヵ月分ものお小遣いを貯め込んで買い、それからほぼ観賞用と化していたワンピース。下に何枚も重ね着しても足だけは寒さから守りきれないけど、そんなことさえ気にならないほどワクワクしているんだ。鏡の前でくるりと回り、ひらひらと舞い上がるスカートに笑みがこぼれる。髪もメイクも、今日はうんと時間をかけてセットしよう。いつもより可愛く、女の子らしく、鏡面に映る自分に思わずにやけてしまうくらいに。
「ねえ、ところでどこのお店行くの?」
母に尋ねる。
「大学時代の友人がレストランやっててね。久しぶりに顔見せようかなーって。」
「へえ、それちゃんと良いとこなの?」
「失礼ね、一応肩書き上では高級レストランなのよ?」
「肩書きって...。そっちも大概失礼だな。」
電車で二十分ほど揺られて着いた駅から、右へ左へと路地を曲がりながら歩き、漸くそのお店に到着した。全体的に洋風な感じの装飾が施されており、確かに母の言う通り、安そうな雰囲気ではない。が、裏を返せばそれなりに高い褒美だと言うことが分かる。挨拶に来た店員さんが母の存在に気づくと、こちらにニコっと笑顔を見せた。
「びっくりしたよ。電話出たらコマちゃんの声するんだもん。」
「本当久しぶり。ユミちゃん全然変わってなくて安心した。」
店に入って早々、旧友再会の世間話が始まった。数年ぶりに会ったとか何とかで賑やかに話し始めるのは良いのだが、入口に立ち止まられて、内輪の会話にも入りようがないので居場所に困る。席に案内されるまで暇だったので口笛でも吹いてみたら、ものの二音目で母にシバかれた。
席について一息つくと、テーブルのどこにもメニュー表がないことに気づく。不思議に思ってキョロキョロしていると、母は私にこう教えてくれた。
「ここは予約制でね。来る前に電話でコースを予約しておくシステムだから、メニュー表は置いてないのよ。」
「へえ、じゃあ追加で注文したい時ってどうするの?」
「追加なんてしなくても十分お腹一杯になるよ。」
「そなの?」
「まあ、楽しみにしてなさい。」
そう言われて待っていると、母の話していた料理が到着した。さあ、待ちに待った最高級料理だ!と心踊らせていると、目の前にはひとつまみ程の大きさのポテトサラダがやってくる。まるで積まれた硬貨のような円形の筒型で、フォークで刺して口に運べば瞬く間になくなった。
「どう?」
と、母は聞くが
「美味しいけど、なにこれ...?」
思わずそう答えてしまった。
それから先も一口で無くなるような料理が順番に現れたのだが、その度に私の脳内はクエスチョンマークでいっぱいで。
何も分からず行動すれば、それに気づいた母がいちいち説教をしてくる。二品目に来たスープを口に運べば
「スプーンを使いなさい。」
と言われ、啜ると再び叱られた。その後もやれ魚を解すな、やれ肉の切り方が違うだの、一つ物を動かす度に母はこっぴどく指摘をしてくる。いよいよ我慢ならなくて、思わず顔が曇った。こんな制限だらけの食事をして何が楽しいんだ。せっかくのご馳走なのに、あれこれ言われながら食べるなんて飯が不味くなる。本当は声を上げて怒号を飛ばしてやりたい気分だったが、さすがの私もこの場所で大声を上げるほど非常識ではない。目を真っ赤にして、殺気を帯びた声色で静かにこう返した。
「やかましい。ちょっと黙ってろ。」
それに対して一瞬反論の素振りを見せるが、グッと堪えた表情を浮かべて身を引く。そうだ、母もこの場所で言い争いをするのが適切でないと分かっているはずだ。少なくとも、私より数十年も長く大人をやってるというのなら。
それから母は指摘こそ止まらなかったものの、その教え口調が少し優しくなっていた。私が食べようとする前に手本を見せ、同じようにするよう言ってきた。母曰く、これがこなせるなら一人前の女性だと。
「お金持ちの人って、毎回こんな難しいことしながら食べてんの?。」
私はつい、そんな愚問を母に問いかける。すると母は軽く笑みを浮かべ
「食べ方でも格好良くできるって思うと素敵でしょ。」
そう答えた。
しばらくの間、静かに食事を楽しんでいると、母がノルマのことについて
「どうだった?」
と聞いてきた。パッと思い返しても感じることはただ、"しんどかった"の一言だ。それを余すことなく正直に伝えると、母は
「そうか。」
と言って笑った。その反応の訳が読み取れず、どういうつもりなのかを聞くと、母はこの前の大雨の日のことを持ち出し、私に話した。
「昔、集客で大失敗してね。」
「大失敗?」
「ええ。とにかく期日までにお客を集めないと、って焦りすぎて。相手の都合も考えないで無理くり誘ってたから、そのせいで離れていった友達もいてさ。」
「何でそこまでしたの。」
「赤字が怖かったから。不足分を実費で賄える程の貯金もなかったし、生きていくのだけでも精一杯で。」
「ああ...。」
「今思えば酷いことしたなって思う。周りの人を仲間か、裏切り者かでしか考えられなくなってたから。」
母は窓の外を遠い目で見ていた。そんな話を聞いて、私はふと誰かから聞いた言葉を思い出す。千春が言ってたんだっけ、人は追い詰められるとどこまでも変わってしまう生き物だから、と。
母が続けて話す。
「詩鶴があの日、仕事を失くして困ってる人にご馳走したって言ったじゃない。」
「ああ、うん。」
「本当は叱るべきなんだろうけど、昔の自分と重ねたら何だか悔しくなっちゃってさ。」
「どういう意味?」
「あの頃の私には到底出来なかったことだから。見習わないとなって思った。」
そう言われて本来なら"母に勝った"と喜ぶべきなのだが、お店のことで褒められるなんて滅多になかったが故に、妙な気分だった。
「店をやる人間が持つべきものって、本当はそういうのだったのかもな。」
意味深なことを言った上に、理解の追いついていない私を置いて関心しだすので茫然とした。
フルコースとやらを食べ終わり、何だか想像していたものとは違って新鮮な気持ちになっていた。何だか喫茶店の軽食をお腹いっぱいになるまで食べていくような感覚だった。おまけに高級食の食事のしきたりみたいなもののせいで、何故か食後に妙な疲労感が押し寄せる。そういった疲れにはやっぱり甘いもので解消するのが一番だ。そこで母に、口直しにバーガーショップのソフトクリームが食べたい、と言ってみた。
....大喧嘩になった。
9章、奮闘記。
-おしまい-