↓なお、「十二国記の戴国メンバーの物語を、日本の平安時代でやってみたらどうなるだろう?」と思ってオリジナル小説を書きました。カクヨムで連載中です。是非お読みいただければ幸いです!!!
「錦濤宮物語 女武人ノ宮仕ヘ或ハ近衛大将ノ大詐術」
https://kakuyomu.jp/works/16816927860647624393
李斎は白圭宮禁門傍の厩舎にいた。無性に騎獣を見たくなることがある。
どこの厩舎を巡っても、飛燕はいないことは分かっている。それでも来てしまう。
飛燕に乗って、二人でどこかへ行かなければならない気がする。けれど、それがどこなのか分からず、不安交じりの焦燥感を覚える。そもそも──私は故郷に帰ってきたのではなかったか。
人のざわめきが聞こえた。禁軍将軍の英章が乗り付けたのだという。李斎は厩舎を出ようとしたが、入ってきた英章が李斎を見つけて声をかけた。
「おや、李斎? なんでまた厩舎に?」
李斎はできるだけ明るい顔を作った。
「たまに騎獣を見たくなるんだ。奥の騎房で計都と羅睺を見てきた。動物の仕草を見るのも気分転換になる……ああ、済まない、英章は気分転換どころか仕事だったな」
「今はまあ、ようやく現場から帰ってきたから。夜は自邸でゆっくり寛げる。私は十日ほど白圭宮を空けたが……留守中どうだった? 李斎の、飛燕じゃない方の、毛並みの白い愛騎のご機嫌はどうだね?」
李斎は息を吐いた。
「それは、畏れ多いことに、主上を指しているのか? 最近お会いしていないがもちろんお元気だろう」
「畏れ多かろうが何だろうが主上は李斎の想い人だ。会ってない? ちゃんと顔を見せておあげよ」
「本当に畏れ多いことを言うな……。主上は今ご多忙なのだからお会いできないのは仕方あるまい」
ああ、港の件か……と英章は呟いた。虚海に面した港を大掛かりに改築する。そのため、雁や範の工事に詳しい人々を招いて打ち合わせが多い。参考にしたいと慶からも高官が視察に来ている。英章が向かっていたのもその現場だ。
驍宗自身も、よい機会だからと、土木や海運について調べ物に没頭している。王らしい仕事に邁進している相手を、李斎は私事で煩わしたくなかった。
ところが、英章の方が顔を顰める。
「主上のことだ、今度の件で朝から晩まで仕事に入れ込んでいるのだろう。だが、李斎を放ったらかしにするのはいただけないね」
「私にも客人がいるから……」
「ああ、慶から李斎の顔なじみの女御や女史もついでに李斎に会いに来たんだってね」
英章は懐に手を入れた。そして何かを取り出し李斎に渡す。
「慶のお客と会うのもいいが、主上ともきちんと会っておいでよ。ほら、街で買ってきた菓子だ。疲れた時に甘いものをと思って買ったが、李斎にやろう。今夜、これを主上に渡しに行くといい。頭脳労働にも甘いものは効くからね」
「……? 英章が渡せばいいじゃないか?」
英章はにやりと笑った。
「男からの差し入れより李斎からの方がいい。李斎だって訪ねていく口実ができるだろう?」
李斎は複雑な顔をした。驍宗に逢いたいような、逢いたくないような気がしていた。
「私がお邪魔をしていいのかな」
ほらあ、と英章は大声を出す。
「言わんこっちゃない。主上は女性の扱いが一向に上達しないね。こうして放っておくと不安になる女心がお分かりでない」
「英章……」
「まあ李斎が深く考えることじゃない。主上がお悪い。私からもちゃんと申し上げておくよ」
だから何を? と李斎は問いたかったが、英章は誰かに呼びかけられてそちらに顔を向けてしまった。
忙しい禁軍将軍にわざわざ訊くことではない。李斎は菓子を手に自室へ戻った。
夜になって李斎は正寝に驍宗を訪ねた。下官に取次ぎを依頼したが「李斎様に取次ぎなど……」と心得顔の下官たちはそのまま李斎を中に通した。そして、最終的に連れられたのは臥室の入り口だった。
「ここは臥室では? まだ宵の口なのに臥せっておいでか? どこかお悪いのか?」
いえいえ、と下官は首を振り、「どうぞ中へ」と扉を開けた。
臥室は臥室と呼べない状態になっていた。書物や巻物、地図や様々な図録が机の上ばかりか、床の上にも広げられている。その紙の山の中、その部屋の主は床に座って何かの書き物を見ていた。
「……李斎?」
「お邪魔を致します……。すごい部屋ですね……」
驍宗は立ち上がって戸口まで歩み寄った。
「よく来てくれた。部屋の様子に驚くか。そうか……李斎は私の私室に来たことがないな」
「いつもお部屋はこのようなのですか?」
「どこに住もうとこうなる。私は仕事関係の書物その他を臥室に持ち込んでしまうから。文官の正頼によれば『典型的な仕事中毒の独身官吏の部屋』だそうだ」
「あまり武人では見ませんね……」
部屋が乱雑なら友尚がそうだ。だが、彼の部屋は仕事がらみではなく単純に物が散乱しているだけだ。驍宗の部屋は、書物などが多いものの、主の都合に応じて整然と積み上げられているようで、李斎には分からないなりに妙に機能的な秩序はあるようだった。
「あの……お眠りになるときはどこで……」
「牀榻は空けている」
それはそうだが……。そこに至るまでの床のあちこちに書籍に巻物、地図がある。寛げる風ではとてもない。
「お休みになるのは……」
「武人にそれを聞くのは無意味だろう。どんな野営地でも瞼を閉じれば眠ることはできる」
「あの……。ここは白圭宮で、その主たる王の正寝が野営地のようになってしまうのは……」
驍宗は面白そうな顔をした。
「私の部屋だ。私の好きなように使えないのなら、私は白圭宮の主とは言えまい」
「はあ……」
「寛ぎたければ李斎の部屋へ行く」
李斎は言葉が見つからないまま、ぽかんと男の顔を見た。彼は少し首を傾げた。
「さて。逆はどうだろう? 李斎は私の部屋で寛げるだろうか?」
「それは……」
李斎の言葉を待たずに、驍宗は彼女の手の菓子に気づいた。
「ほう? 差し入れてくれるのか。いちいち下官を呼ぶのも面倒だ。ここで二人で分けてしまおう」
驍宗は、床の書物の山を動かし、卓への道を作った。卓の上の書物は床の上にどかす。李斎は隻腕だからというだけでなく、何をどう動かせばよいのかわからず、下手に動かすと部屋の主の思考も混乱させそうで何も手出しはしなかった。
卓に腰かけて、驍宗が無造作に半分に割った菓子を手渡される。気安い仕草に、李斎はふと笑んだ。
「これが紙の山ではなく、草木であれば本当に野営地のようです。そうですね。蓬山で主上と知り合ったばかりの頃を思い出します」
驍宗も「懐かしいな」と呟き、緋色の目を細めた。
「李斎は今日、騎獣の厩舎にいたとか……。英章がやってきてもっと李斎を大事にしろと言われた。飛燕に会いたければ、私を思い出してくれれば良いものを」
「そんなわけには……」
「私がここのところ李斎の部屋に行くのが間遠になってしまった。隔てがあるように感じたか?」
李斎は息を吸い、違うと言いたかった。けれど、何かが引っかかってその言葉を紡ぐことができなかった。
それは、蓬山の光景を思い出したせいかもしれない。この男と出会ってから、この男には自分がどう見えているのか、それが気にかかってしまう。
「なぜ……李斎なのでしょう?」
「なぜ、とは?」
「主上は立派な方です。私は……。将として有能だったか……、戴の民として胸を張れる存在だったか……、そして、女性として魅力的であるのか自信がありません」
「私は李斎に心惹かれた理由を一度説明したが……」
「申し訳ありません」
驍宗はゆったり大きく首を振った。
「英章が言っていた。人事の登用じゃあるまいし、理由を一回説明して終わりというものではないだろう、と。女性に対しては、どこが魅力的なのかを『繰り返し言葉を変えて何度でも』口にしろと指南された」
「……英章はそれほど女性の扱いに長けているのですか?」
「私ほどには朴念仁でなかろう」
驍宗は足を組み、書物の山を見やった。彼の目にも、それは蓬山に生えている草木のように見えているのかもしれなかった。なぜなら彼はこう話し始めたのだから。
「蓬山で初めて会った時から、好ましいと思っていた……」
「驕王の末期から、私は私が抜けた後の王師将軍を埋める人材を探していた。そこで承州の劉将軍のことは把握していたし、期待していた。美女だというのはさておいても、情に厚いことを含め高い評価が鴻基にまで届くのには理由があるだろうと思っていた」
驍宗は李斎の顔を正面から見た。初めて会った時と同じように。
「実際に会って、私にも私の麾下にもない資質の持ち主だと思った。慈悲の獣に懐かれるほどもの柔らかい。天啓がないからといって拗ねる風もない。私が『高名だ』と告げれば、素直に照れた様子を見せる。私が天啓を受けた後、王師将軍への抜擢をほのめかしても『情けを用いるべきでない』とまっすぐな返事を寄越す……」
「お褒め頂くのは嬉しいですが……。どれも常識的な行動であって、私がさほど立派な人間というわけではないと存じます」
驍宗は思わぬことを聞いた、と言う顔で「そうか?」と問い、苦い笑みを浮かべた。
「私は最初天啓を受けなかったことに少なからず思うところがあった。天啓を受けずともこだわりなく優しく麒麟と接する李斎のありようは、阿選にも理解できないことだろう。また、鴻基でそれなりの地位にいる人間は良くも悪くも野心的だ。王師将軍の席が空けば我こそはと名乗りでる。それから……『高名だ』と褒められて照れるような素朴な人間は私の麾下にはいない……」
「確かに英章、正頼、臥信などが照れるなんて場面は想像つきませんね。でも、霜元は多少恥ずかしがるのでは?」
「霜元なら謙遜して見せるかもしれないが、あの時の李斎ほど可愛らしい表情はしないだろう」
「可愛らしい……」
「ああ、今思い返すと可愛らしかったな」
彼はくつくつ喉を鳴らした後、しずかに真面目な顔に戻った。
「私は自分が王でないとされたとき、戴を去ろうとした」
「聞いております」
「それでも臣下を戴に残すつもりだった。良き臣下を残したという程度の美名くらいは欲しかったから。そして、李斎はその時点で私の麾下ではなかったが、新王朝に抜擢するよう誰かに言い置いていくつもりだった。私は戴に必要な人材を育てて揃えていたつもりだったが、李斎のような人物はまだ見つけていなかった。泰麒に懐かれている点も含めて、その泰麒が選ぶ王の朝に必要だと思っていた」
「ありがとう存じます」
驍宗は少し目をつぶった。
「私が玉座にいてもいなくても、李斎は戴にとって必要な人材だと判断した。だから──私が玉座にいない時に李斎が戴を救ったのも当然なのかもしれない」
「私は……」
「覿面の罪については確かに褒められた話ではない。ただ『罪に踏み込んででも救う』者が戴には必要だった。そう……蒿里が、そして蒿里を蓬莱から取り戻してきた李斎が……」
「台輔と並べられては……」
「蒿里も是とするだろう」
李斎は何かを言いかけ、すこし時間を空けた。驍宗はそれを待った。
「台輔は王にかけがえのない麒麟です。私はただの臣下に過ぎません。身に余るご好意は有り難いのですが……」
「私の好意は重荷だろうか」
「いえ……。ただ、主上に私が釣り合うと思えない気持ちにもなるのです……」
驍宗はその言葉には答えなかった。
驍宗は別の話題を出した。
「雁と範のお力を借りて港を整備しようとしているが……。慶からも後学のためと高官が派遣されてきている」
「ええ。随従に女御や女史もいらして……。祥瓊や鈴とも顔なじみですから、私も話ができて嬉しいと思っております」
「私も少し話を聞いた。金波宮での李斎の様子を……」
「あまり知られたくない姿です……」
「なぜ?」
「体も心も弱っておりましたから……」
「確かに金波宮での李斎の様子を聞くと、戴での李斎と少し異なる印象を受ける」
驍宗は再び書類の山を見た。それは蓬山を思わせ、そして彼は蓬山から今に至るまでの時間の流れを思った。
「李斎は今まで何度命を賭けたのだろう? 私が知るだけでも、まず昇山だ。そして、右腕を腐敗させながら慶へ渡ったとき。そこから、蒿里と戴へ戻ってきたとき。さらに、私を探しに函養山のあの墟に向かったとき──」
「李斎はただ……そのときどきに無我夢中なだけで……」
「景王は、李斎が命がけで辿り着いた満身創痍の姿に『何とかしてやりたい』と思って下さったそうだ。そう慶の女史から聞いた。瀕死の状態で高熱にうなされ、利き腕は切り落とされた。体の回復にはまず萎えた足を動かすところから始めなければならなかった」
それから、心も──と彼は加えた。
「諸国のご協力で展望が開けはしたが……。それは、蓬莱で想像もしえなかった事態が起こっていることを知ることでもあった。次々と明らかになる事実の間で、不安と希望との間を行ったり来たりする李斎が痛々しかった……金波宮の方々はそう思われたそうだ。覿面の罪を思い立つほど追い詰められ、しかし踏みとどまり、与えられた希望に一瞬明るい顔をするが、次の不安に苛まれる……。望みは叶わないと心の準備をしてしまっている様子が痛ましかったと皆お思いだったと聞いた」
こう語る驍宗は、彼にしては珍しく感情が波立っているようだった。表情はそれほどないものの、口調にそれが滲む。だから李斎は過去の自分を少し揶揄するような調子で軽く言って見せる。
「情緒が不安定なさまを露呈してしまいました。お恥ずかしいことです」
「蒿里も言っていた。金波宮で再会した李斎は滂沱の涙を流していた、と」
「感情の制御が難しかったのでしょう。少し弱りすぎておりました……」
「李斎」
驍宗は大きくかぶりを振った。
「私は李斎がここ白圭宮で泣いた姿を見たことがない。──李斎にとってこの白圭宮は故郷だろうか? 金波宮の方が心安らぐ場所だったのだろうか? 李斎にとって白圭宮は威儀を取り繕わねばならない『職場』なのではないか?」
「……」
李斎は何かを言わなくてはと思うのだが、何も言葉が出なかった。驍宗が小さく「済まない」と言った。
「何も責めてはいない。李斎が臣下なら白圭宮が職場なのは当然だ。私がそれを残念に思うのは、李斎にこの白圭宮を自分の家のように思って欲しいと思うからだ。それは、李斎に直接関係がない。私の側の願望に過ぎない」
「ご好意なのは分かるのです……」
「私にとって李斎は優れた臣下であり、心許せる麾下であり……。私にとってその感情に、女性として大事にしたいという想いが加わることは自然なことだ。ただ、もし蓬山で知り合い、王朝に必要な人材だと思ったことから新たに加わったとすれば……。李斎は私が思っていた以上に強い……いや烈しい気質だったというところだろうか。李斎も戴の民だ。苛烈で強い。それでも……虚海を渡って西王母を言い負かしてくるとまでは思わなかった。それほど烈しく強く、自分を傷つけてなお戦う姿まで私は予想していなかった」
驍宗は卓に載っている李斎の左の拳を両手で握った。
「李斎にも蒿里と同じ言葉を……。『よくやった。もう良い』と言いたい。李斎がその言葉を受け入れてくれるなら」
李斎にも彼の気持ちは分かった。台輔を全肯定したように、自分の長所も短所も……いや、その両者に分けるまでもない李斎という名の人間を肯定してくれているのだ、と。それは嬉しい。しかし、彼女には転変して主を助けるという特別な能力は無い。
「ご厚情に報いることができず……」
驍宗は少し顎を引き、困った顔をした。
「蒿里は確かに劇的に私を助けてくれたが……。それが目当てで私は声をかけたわけではない。むしろ、蒿里を助けてやれず済まなかったと思っていた……。李斎の腕も、大変な苦労をさせた」
「そのような……。私が利き手を失った時、私は特に惜しいと思いませんでした。主を救えなかった将がどうして臣下を名乗れようか、と」
「李斎の気力が萎えていたのは、慶の方々からも聞いた。けれど、李斎は金波宮で前を向く気力を取り戻した」
「それは景王始め皆さまが……」
「白圭宮ではかなわないだろうか……」
「え……」
驍宗は少し考え込んだ。ふう、と軽くため息を漏らし、両手で握っていた李斎の拳から、片手を離した。その手で李斎の拳を軽く叩く。
「もし良ければ、この部屋に泊まって行ってくれないか。このように色気も何もない部屋だから艶っぽいことをしよう思ってのことではない……」
怪訝そうな顔の李斎に、彼は言い添えた。
「李斎がこの部屋から出ていくと、私の自室では李斎は寛げないということを念押しされる気分になる。寛げ、と命ずることはできないが、嫌がらずにとどまってくれれば、私の寂しい気持ちも少し軽くなると思う」
「寂しい……とお感じなのですか」
彼はほろ苦く笑い、「ああ、そうだ」と感情を抑えた声で答えた。
書類の山に囲まれた牀榻。
確かに、ここで休んでいても、気心の知れた仲間と野営するかのようだった。
隣にいるのは確かに男だが、彼は性的な気配を何も思わせることなく、静かに横たわっていた。
李斎の頬に指が伸びた時にも不思議と緊張はしなかったし、そして指先に続いて掌が彼女の頬を覆った時も感じるのはその温もりだけだった。何の湿度もなく、ややかさついた手はただただ温かかった。
自分が女性として成熟して以来、このように異性と接することは絶えて久しかったように李斎は思えた。彼女は、ふと思い出したことを口にしてみる。
「……兄が欲しいと、思っていた頃があります。幼い時に……」
「ほう?」
「両親がいましたが驕王の治世で暮らしは豊かでありませんでした。郷里の農村では、女の私ではできることが限られるような気がして……」
「李斎に兄弟は?」
「下に何人か……。そう、上にはおりません。頼れる相手がいないものは仕方ないので、自分が男のように強くあればいいのだと思うようになりました……」
「男だから強い、とは限らない。また、強さの意味にもよるだろう。ただ、少女の李斎が考えたのは武人になることだったということだな」
「ええ……」
兵卒として武人となり、麾下を持つようになった。何頭か騎獣を得、そして飛燕を相棒とするようになった。州の将軍となり、そして……。
李斎はつらつらと語った。言葉を紡いでいく行為は、一枚一枚着ている衣を脱いでいくような心持がした。
自分の私的な経歴を、相手が聞きたがるはずだと信じ、何も取り繕わずに話すことは、今までの人生にありそうでなかったことだった。
同じ臥牀にやすむ男は彼女の頭の下に腕を通し、そっと彼女を抱き寄せた。やはり性を感じさせない乾いた温かさで、それが心地よく、そしてなぜか鼻の奥が熱くなる。
「李斎の郷里にはずっと昔に行ったことがある。確か里宰は……」
李斎の記憶にない名前だったので、李斎はその人物は知らないと答え、自分の知っている名を挙げた。
「では……李斎の居た頃に里を訪れたのはもう少し後か。では……」
彼のあげた名前の何人かを李斎は知っていた。
「そうか。では李斎は、あの中にいたのだな。そうだ、確かに背の高い赤茶の髪の女の子どもがいたように思う……」
彼は頭の中で何か帳面を開いているようだった。
「そう、あの中のあの子だな。大きくなったものだ……」
李斎は跳ね起きた。
「私をご存知だったのですか?」
「知っていたわけではなく、今、記憶を思い起こしたのだが……」
そう彼は笑い、そして、自分のことを少し話した。
「昇仙が視野に入ってきた頃に思ったのだ。これから生きていく中で目にした者たちを覚えていけば、やがて国中の者と面識ができるのではないか、と」
生意気な若者だった、と彼は自分をそう表現した。
「王になる日が来るなら、その時に必要なことだと思った。なぜなら、国中の全ての者、戴に生まれた全ての者が一つの運命を生きるから。王を要とする一つの運命を。だから、王になろうと思う者は、全ての民を親類縁者のように知るべきなのだろうと考えていた」
「主上が、玉座に対する備えがあったとは存じていましたが……」
「もっとも、実際に麒麟に選ばれて玉座に座り、こうして昔の記憶を活かすようになるまで紆余曲折があったが……」
驍宗は笑んだまま李斎の腕を引いて、自分の胸に抱き落とした。
「そうか。あの娘が大人になって傍にいるのか。まるで遠縁から嫁いできたようなものだな。いや、私も生地を離れているから嫁いできたわけではないか。だが、巡り合ってここで一緒になったのだな」
李斎は言葉もない。
自分は郷里を離れた。仙籍に入って知己は格段に減ってしまった。その代わり仙としての特権を得て、戴の民を救う立場にかわったのだと思った。「王が救うと言う民の中に自分も含まれる」と言われても、違うと思っていた。
そのつもりで生きてきたこと、戦ってきたこれまでを否定する気はない。弱いものを守る立場に李斎がいたことはその通りだ。ただ、こうして分かった。やはり、自分はこの王に救われる民だったことが。
郷里を離れたのではない。自分の郷里は思っていたより広く、一方でこの男一人の胸の中でもあったのだった。
多くの人と出会い、別れた。少女のままでいられない、いてはならないと強く願ってきた。人の命を、仙として民を守るのが仕事だった。今も変わらない。今後も変わらない。ただ、それは孤独な営みではない。これまでも、これからも。故郷に待たせていた主がいたのだから。
李斎は彼の胸に身体を預けた。男の鎖骨の辺りに首を載せる。相手の胸元を見つめながら小声で言った。
「……申し訳ありませんでした」
「何を謝る?」
「お寂しい思いをさせてしまいました」
驍宗はため息をついた。
「李斎は損な性分だ」
「損?」
「私から甘えて欲しいと頼まれても固辞するが、相手を寂しがらせてはならないと思えば私のために振る舞い始める。思いやり深い李斎らしい……いじらしいほどに」
ここで驍宗はくすりと笑んだ。
「今、英章に言われた気がする。ここで『李斎が可愛いと囁け』と」
李斎もくすくす笑んだ。
「ありがとう存じます」
「さて、では私が寂しくないよう、李斎の話を寝物語に聞こう。李斎が何をしたかは把握しているが、その時々に李斎がどう思ったのかは十分に聞いていない」
「そうですね……必要な事実関係はお耳に入れておりますが……。感情についてはあまり……」
苦しみや悲しみを話することは、その事態を招いた驍宗を責めることになりそうだと思って口にしてこなかった。
「そう……。まずは悔しゅうございました。謀反人の疑いを掛けられて」
真に叛いたのは阿選だった。それが分かってから、彼女の苦難が始まった。知己を失うごとに慟哭し、旅の辛さに歯を食いしばり、傷の痛みに苦しみ……。
李斎は場面場面でその時の気持ちについて語った。しかし、それを語る今は、自分の感情は静かに凪いでいるのだった。どんな艱難辛苦も過去のことで、今はこんなに温かい……。
だから驚いたのだ。自分の両目から自然と涙がこぼれ、顔の輪郭を超えて自分の髪に落ち、そしてその下の男の夜着を濡らしたことに。
驍宗の腕が彼女の肩に回された。
「いえ……大丈夫です。感情が昂ったわけでもなんでもないんです……。なぜ涙が出るのか自分でも分かりません……」
いや、ただ一つ心当たりがあった。
「ひょっとしたら安堵して気が緩んだのかもしれません……今さらですが……」
鴻基を奪還し、暦が明幟と改まり、阿選の乱は歴史の中にうずもれようとしているのに……。
「私は、忘れたつもりでいても忘れてはいなかったのですね……。白圭宮では口にするのも思い返すこともしてはならない、そう努めていたのですが……」
驍宗は静かに問うた。
「もう、自分を縛る枷は解くことにしたのか?」
「はい……」
李斎の肯う声を聞いて、彼は両腕で彼女を抱きしめた。
李斎は心地よさげに目をつむる。その睫毛の奥からさらさらと涙だけが流れていく。
「私はここ、白圭宮で泣くでしょう。笑いも、怒りもするでしょう。微笑みもするでしょうが、些細なことで苛立つかもしれません。自分の宮で寛ぐ私は子どもっぽいかもしれません」
「そうか」とだけ彼は返した。
彼にとってはそれで良かった。初対面で照れていた時、饕餮の巣穴の前で意地を張っていた時、花影の処遇を夜の四阿で話し合いながら憤っていた時、彼が好ましく思いだすのは瑞々しく感情を表す女性の姿だった。
女性の武人が感情を出すまいと気を張っているのは彼も知っている。李斎もさまざまな感情を必要に応じて押し殺しながら頑張ってきただろう。それを否定するつもりは全くない。ただ、この白圭宮は戦場でも職場でもないと分かって欲しかったし、そうしてくれるようになって嬉しいと思う。
彼は自分の胸中を伝えるのに、彼女の矜持を傷つけることのないよう言葉を選んでいた。しかし、彼がそうしているうち、腕の中の女は寝息を立ててしまっていた。
その寝顔を見て驍宗は「ほう」と思う。強く烈しい大人の女性だというのに、寝顔はあどけなく少女のようだった。
そっともつれた髪を手櫛で整えてやる。記憶の奥にある、赤茶の髪の娘の顔がより鮮明に思い出せた。
大切に大切に抱きしめながら、自分のこの満ち足りた感情はどう表現すべきか彼は考える。
──はぐれていた子どもが家に戻ってきた時の親はこのような気持ちだろうか。
ふいに英章の声がした。
「いいですか、主上。そこは『生き別れの初恋の女性と再会できた』とでもした方が“らしい”ですよ。雰囲気が盛り上がるじゃないですか」
さて。
どのように言えば「らしい」のか。彼は考えながら自分も眠りに入っていった。
くどくて申し訳ございませんw
2022年現在、十二国記の戴国メンバーをモデルにした、平安ファンタジー小説を投稿中です。
驍宗様はあまりに完璧すぎてキャラとして動かしづらかったので、英章と合体して別キャラになっております。
しかし、李斎や臥信、霜元的なキャラはわりとそのまま登場してます。
後半は、双璧の阿選をモデルとしたキャラのクソデカ感情が炸裂するんですよw
是非お読みいただければ幸いです。
「錦濤宮物語 女武人ノ宮仕ヘ或ハ近衛大将ノ大詐術」
https://kakuyomu.jp/works/16816927860647624393