白い墟からのびる道   作:鷲生

21 / 27
「海を見に行く」はデートの定番だったかと思いますが、驍李デートという甘さはあまりなく(タグを外そうか迷いましたw)、驍李好きの方には物足りないかもしれません。スミマセン。
このお話は、私が今は帰郷できない出身地(神戸です)を思い出して書きました。海が見える港町らしい開放感や活気が生まれる様子を書いてみましたが…上手く書けて、お読みになられた方に少しでも観光気分を味わっていただければ嬉しいです。

↓なお、「十二国記の戴国メンバーの物語を、日本の平安時代でやってみたらどうなるだろう?」と思ってオリジナル小説を書きました。カクヨムで連載中です。是非お読みいただければ幸いです!!!
「錦濤宮物語 女武人ノ宮仕ヘ或ハ近衛大将ノ大詐術」
https://kakuyomu.jp/works/16816927860647624393


驍宗、李斎と海へ行く。

 ・神戸には領事館はあっても大使館はなく、調べた結果、陽子のいう「大使館」は「領事館」の方がより正確だと解して、ここでは「領事」としております(大使館は首都にあって外交も仕事とするそうです)。

 

 ・雁にも烏号という大きな港町があり、原作の描写を参考にさせていただきました。このお話では、烏号よりもっと傾斜のきつい土地に、大型貨物船も接岸できる常世初の大規模港を造成するという設定です(タンカーとかそういう感じの大型船のイメージです)。

 

 ────

 

「ああ、明るい……」

 李斎は目を細めて呟いた。

 峠を越えると、何からも遮られることなく海を見下ろすことができた。良く晴れた初夏の日差しを、穏やかな海面が柔らかく反射している。波の数だけ光の粒が揺蕩っているさまが目に快かった。

 

 李斎の足元と海の間にあまり距離はない。彼女の立つ場所から急峻な坂がそのまま海面に吸い込まれているような地形だった。海は手が届くほどに近く、街を営めそうな自然な土地はあまりに狭い。

 

 だが、そのような傾斜のある土地がそのまま海面下にも続くからこそ、大型の船が接岸できるのだった。この浦には、交易のために新たに大規模な港が建造されている。その様子を視察するために、驍宗は李斎を連れてここを訪れたのだった。

 

「李斎はあまり海を見たことがないのか?」

 坂道を下り始めた驍宗が振り返って尋ねる。李斎もその後に続きながら答えた。

「昇山のときに虚海を渡りましたから、その折に海を見たことはありますが……。ただ、山育ちの私が現実の海を見たのはそれくらいです。私にとっては海と言えば雲海の方が印象的で……」

 そして彼女は雲海に良い思い出はない。

 覿面の罪を唆すため慶に渡ったときも、泰麒を連れて戴に戻ったときも、雲海上を飛ぶ李斎が渇望していたのは一刻も早く目的となる地に着くことだけだった。それを阻むかのように延々と続く雲の波を、飛燕を駆る当時の彼女はじりじりと焼け付くような思いで睨みつけていた。苛立ちが昂じて憎悪に近い気持ちでいた李斎のその目は、血走ってさえいたかもしれない。

 

 李斎は首を振って苦い過去の記憶を振るい落とし、目の前の海を見た。

 雲海上の天は天。今、雲海の下のこの場所では、王と民が新しい街を造り出しつつあった。猫の額ほどの浜辺から、山へ這い上るように平地が造成されている。切り開かれた山肌に階段状に整えられた地面が張り付いている。

 

 ──似たような光景をどこかで見たことがあるような気がする。

 しかし、李斎は思い出せない。

 

 そして、何かを思い出す前に奇妙なものが目に留まった。山の斜面の造成地にポツリポツリと大掛かりな建物が工事中だが、その中の一つが普通とは大きく異なっていた。

「主上、あの建物は何ができるのでしょう?」

 驍宗が笑った。

「ああ、あれに気づいたか。確かに高台の目立つところにあるからな。あれは雁が造っている。『顔のある塔』だそうだ」

「顔のある塔?」

「その顔は時を告げてくれるらしい」

「???」

 その建物の傍には数人の人だかりがあった。

「雁から来た人々だ。あの建物が何なのか直接聞くのが早いだろう」

 

 その途中で驍宗は李斎に手短かに説明した。

 この港町には、雁だけでなく範や慶などの各国の役人が滞在する建物ができるのだ、と。

 李斎が問う。

「それは景王がご提案の『大使館』というものでしょうか?」

「そうだ。蒿里によれば正確には『領事館』というそうだが。相手国で自国の民の利益を代弁するのが役割だ」

 その領事の実際の運用について、彼は説明を加えた。

「雁は州候だった人物を『領事』に就けた。なかなかの重職扱いだ。……今は、あの中にはいないようだが……代わりにその部下がいるな。その官吏も関弓の大学出の選良が後学のためと赴任している」

「景王の御意見が重んじられているようですね。嬉しゅうございます」

「領事館」の話の発端は、ある意味李斎自身ともいえる。景王の考えがこうして大切に実現されているのを見ると、李斎は自分の負い目も軽くなる気がした。

 

 雁の役人たちは驍宗を認めて礼を取った。驍宗はその中の一人に単刀直入に依頼する。

「貴官に、こちらの李斎にこの建物を説明してもらいたい」

 彼は軽く悪戯めいた笑みを添えた。

「何度も人に尋ねられて、貴官の方も人に説明するのに飽き飽きしているかもしれないが」

 雁の若い官吏は「いえいえ」とこだわりなげに首を振った。そして手にしていた巻物を広げる。それがこの建物の設計図のようだった。

 それを覗き込んだ李斎が唸る。

「なんと面妖な……」

 確かにその塔には「顔」があった。

「この塔は『時計台』と申します。塔の高いところに数字を円環状に配した円い盤を取り付けます。その中央から針が二つ飛び出ていて、それぞれに円盤状の数字を巡ります。その二本の針の組み合わせで時刻が分かるのです」

 私も初めて見た時は驚いたものです、と官吏は李斎に笑って見せた。

「貴官も? 私が承州の山深い田舎の出だからかと思った」

「私も田舎者でございますから……。この時計台は蓬莱にあるものだそうです。景王が雁の港を訪れた際もご覧になり、懐かしくも驚かれたご様子でした」

 驍宗が言い添えた。

「それでもこのような『時計』は、現代の蓬莱ではやや古風なものだと聞く。今の蓬莱では数字だけが板に浮かび上がるそうだが、蒿里はそれを常世で再現するのは難しいと言っていた」

「……まるで幻術のようでございますね」

 雁の若い官吏が答えた。

「その幻術は真似できませんが、この時計台についてはからくり細工でございますよ」

 彼は設計図片手に仕組みを説明してくれた。もっとも李斎には良く分からないままだ。それでも、目新しいものを雁から戴へもたらしてくれることを労いたいと思った。

「貴官の国から珍しいものが到来する。楽しみだ……」

 若い官吏が一礼しようとしたとき、港の方で騒ぎ声があがった。

 

 若い官吏が背を伸ばして、港の方へ眼を向けた。

「おおっと。あ、泰王、御前を離れることをお許しください」

 驍宗は大きくうなずいた。

「貴官の出番だ。一働き頼む」

 雁の官吏が駆け出し、驍宗と李斎は歩いて続く。驍宗は李斎に目配せした。

「領事の仕事が見られるぞ」

 

 港で繰り広げられていたのは水を巡る言い争いだった。商人風の中年男が二人と、作業のために袖をまくった若い職人風の男が数人向かい合っていた。

 商人風の方が大声で言う。

「私たちは雁からここまで航海して来て、そしてしばらく滞在する。水が手に入らなければ困るんだ」

 職人風の男たちも言い返す。

「だけど、ここは海の傍だからさあ。真水の出る井戸は限られてるんだよ。それも住む人間にだって行き渡るほどの水量があるか怪しいくらいだ」

 別の職人の男も言う。

「坂の上に水が湧き出る所はあるが……。そりゃ、たまになら厚意で汲んできてやってもいいけどよ。次から次へとそんな要求されても困る」

「俺たちだって戴の山奥から石垣や道の舗装工事の仕事に来てんだからなあ……」

 雁の若い官吏は、諍いをふむふむと聞き、おもむろに声をあげた。特に気負うふうでもないが、大学出身だという線の細い秀才らしい外見からは意外に気風の良い声だった。

「なけりゃあ、山から持ってきてもらうしかねえじゃねえか」

 顔をしかめる戴の職人に向かって、にやりと笑って見せる。

「もちろんタダじゃない。代金は払う」

 今度は雁の商人が眉間にしわを寄せた。

「水に金か?」

「手間賃だよ。山から水を運んでもらうんだからさ。ほら、何もない坂を、戴の石工が荷車でも通れるように石で舗装した道を敷いてくれるんだぜ? その道を使うことと、山からの運搬費は出すべきだろう」

 戴の工人の方は賛同した。

「ここらの井戸を当てにされても困るが、手間賃を受け取って坂の上から水を汲んでくるってなら、その話に乗ってもいいぜ」

 官吏は商人に笑んで見せた。

「な? きちんと対価を払うからこそ、しっかり水を手に入れることができる」

 しかし商人は渋い顔をする。

「余分な金なんか持ち合わせていない」

 官吏が提案した。

「品物を安く売ってみちゃどうだい。元の値段との差額が手間賃ってことで」

「うーん。採算が合うかどうか……」。

 官吏は砂地にしゃがみ込み計算を始めた。

「これくらいならどうだ?」

 その数字に、雁の商人も戴の石工も納得がいったようだった。互いに笑い合うと、雁の商人達が水瓶を取りに船へ戻っていった。

 

 戴の石工たちも、この雁の官吏と顔なじみのようで気安く声を掛ける。

「いやあ、雁のお役人のあんたのおかげで要らん争いがなくなって助かるよ」

「あんたが来るまでは、同じ雁の者でも、てんでばらばらに色んなことを言うしさ。こっちも面倒でつい素っ気ない態度をとっちまったけど。あんたみたいに話をまとめるのが上手いのがいるとこっちも楽だ」

 官吏は少し照れ臭そうにしてから、そうだ、という風に戴の者たちに返す。

「こっちは、こうやって外国からの民の意見を代弁するのが専門だから。で、そういう役人を各国で揃えようって最初におっしゃったのは景王で、そのきっかけになったのは戴の劉将軍だ。元をたどればあんた達の国、戴のおかげで自分は職が貰えたことになるんだ」

 若い官吏はさりげなく戴を褒めて見せる。石工だけでなく、傍で様子を見守る驍宗と李斎への気遣いでもあるだろう。

 李斎は赤茶の髪を染め、武人ではなく官人風に装って来たことに安心した。驍宗も髪を黒く染めている。明幟も年数が経つうち、泰王と救国の女英雄の容貌も人口に膾炙し、変装が欠かせなくなってきていたのだった。

 傍にその「救国の女将軍」本人がいるとも気づかず、戴の工人たちも祖国を褒められて上機嫌にしている。

「俺たちの将軍がきっかけで、あんたに仕事が出来たんならよかった。だが、あんたのもう一つの急ぎの仕事はあの『時計台』ってやつを完成させることだろ。済まなかったな、手間を取らせて」

「いやあ、あの塔の土台だって戴の石工の腕があってのもんだからなあ。ありがとよ」

「いやいや」

 和やかに人の輪がほどけていく。雁の若い官吏は、ここで驍宗に仰々しい礼を取らない方が適切だと判断したらしく、簡単に一礼だけして時計台の方へ戻っていった。

 

 石工たちが黒髪の驍宗と官人風の李斎を訝し気に見た。

「ええと……。どこの国の人だい?」

 驍宗が苦笑する。

「私たちは戴の者だが……。ここではまず相手の国を訊かなければならないのだな」

「まあ、ここいらは色んな国の連中が行き交っているからさ。戴の……鴻基から来たお役人かい?」

「そうだ。私は何度か来ているが、この者は初めてだ」

「私は山深い承州から来たゆえ、海が珍しくて……」

 李斎は港から続く大海原を見やった。

「視界が開けて開放的で……。水面が光を反射して眩しいほどだな……」

 石工の一人が、日焼けした肌に白い歯をのぞかせた。

「ああ、眩しいよなあ。日差しだけじゃなくってさ、ここは何もかもが真新しいから余計に眩しいや。そこら中の石は切り出したばっかりで白いしさ。それに、雁や範、慶から船が来て、お腹が膨れる食べ物や、便利な道具や、風変わりな建物とかを運んで来る。何もかも目新しくて、きらっきらして見えるよ、この街は」

 李斎は若者の興奮した様子に微笑んだ。それに気づいた男は少し恥ずかしそうにする。

「いやあ、俺は呀嶺って山の奥から出てきたからさ。海とそれが運んでくるものが珍しくて仕方ないんだよ」

「私も田舎者だから、気持ちは分かる」

 別の若い男も李斎に向かって笑いかけた。

「なあ、そうだよなあ。なんだかさ、戴にも新しい時代が来たんだなあって思うよなあ」

 その奥にいた他の男も屈託のない声をあげる。

「ああ、わくわくするなあ!」

 新しいものを見るのは心が浮き立つ。新しくて華やかで……豊かで……。明幟はそのような時代になろうとしている。李斎には、頬に感じる浜風がその時代の息吹のように思えた。

 

 彼女は胸を突かれる思いで、隣の驍宗を見る。

 この街を見た時、既視感を覚えたことを思いだした。そう、今はっきり思い出せる。驍宗の故郷の呀嶺だ。切り立つような崖に刻み込むようにして土地を作り出していた、あの光景。山を切り開く技術が、今度は海沿いに港街を切り開くことに使われる。戴の歴史が、ここで海を前に花開く。

 彼女は彼の手をそっと握った。

 彼もまた緋色の目を細め、穏やかに、けれども心から嬉しそうに笑みを浮かべていた。驍宗は戴の石工たちに言う。

「そうだな。新しい時代──お前たちがつくる未来だ」

 若い男は「へへっ」と照れた。

「その土台の石組を造ってるのが俺たちなんだよなあ」

 驍宗が厳かに付け加えた。

「現実の建物の土台、というだけではない。この坂に平らな土地や道を造る、我が戴の石工の技術には雁も範も一目置いている。港を造るには雁と範から技術を拝借しているが、傾斜の急な土地に街を造成する技術については戴の方が勝っていると評価されているのだ」

 重々しい口調に、工人たちも口元を引き締める。

 驍宗は続けた。

「そして、これほどの大型船用の港街の建造はどこの国にも初めての試みだ。ここで培われた技術が各国に持ち帰られることになる」

「みんなで持ち寄ったものを、みんなで持ち帰るんだな。そりゃいいや」

「俺たち戴の技術もか……。諸国に世話になってばかりじゃあないんだな、戴も」

 

 若者達の中でも特に若い──まだ少年の面影を宿すような者が海の向こうを見つめた。

「今度は俺たちの方が他の国に、街を造りに旅をするのかもしれねえな」

「そうだな、港は船が来るばっかりじゃないもんな、こちらから船に乗ってあっちへ行くこともあるんだろうなあ」

 少し年長の職人がふと思いついたようだった。

「役人てのもいいよなあ」

「へ? なんだよ」

「いやあ、雁の兄さん見てるとさ。頭が回って、争いを解決して見せる奴も必要なんだなって思って。大学出の官吏ってのは学があって役に立つ。これから戴の大学だって復興するんだよな。俺は今さら無理だけど、俺に子どもができて、賢い子だったら通わせてみてぇなあ。そんで、あちこちの国で戴の代表の仕事をするんだ」

「ああ、あの兄ちゃんも生まれは田舎だって言ってたもんな」

「呀嶺から主上だけでなく、領事ってのが出てもいいよなあ」

 驍宗は苦く笑って聞いている。別の男がその男の腹をつついた。

「子どもったって、一緒に卵果をもぐ相手はどうすんだ?」

「これから見つけるさ」

 その男は李斎たちを軽く指さした。

「あんたたちみたいに仲睦ましく手なんか繋いじゃえるような相手をな」

 李斎はぱっと顔を赤くし、慌てて繋いでいた手を離した。職人の男達らしい豪快な笑い声がどっと沸き起こる。その中に当の驍宗自身も含まれているのを、李斎は少し恨めし気に見あげた。

 

 笑いの収まらないうちに、驍宗たちは彼らに別れを告げ再び坂を上り始めた。今日の内に鴻基へ向かって帰途につかなければならない。

 けれども、良いものを見たと李斎はそう思う。自分が罪を負って慶に駆け込んでから、紆余曲折を経て、時代は明るく新しく移り変わっていく。

「李斎が嬉しそうな顔をしている」

 驍宗もまた嬉しそうだった。

「私が浅慮ゆえ他国に罪を唆しに行ったことが、図らずもこのような形になったことが嬉しくて……。望外の喜びと申しましょうか……。単に戴が窮地から救われただけでなく、それ以上に復興し、助けられるばかりではなく戴が他国の益となり得ることが嬉しく、そして誇らしいと存じます」

 驍宗の笑みは深かった。驍宗は峻厳な為人のわりに意外とよく笑う。しかし、これほどまでに見ている者の胸にしみいるような笑みは、あまり見たことがないような気がした。

「李斎の笑顔が見られて私も嬉しい。あの石工も誇りと期待で輝くような笑みを浮かべていた。王にとって、これに勝る褒美はない」

 李斎は、ああと心の中で嘆息した。確かに、王に報酬はない。驕王のように奢侈にふけるような王ならそれを自分への褒美とするのかもしれないが、驍宗はそのような人物ではない。

 李斎は驍宗がさらに喜びそうな言葉を探した。彼はそれだけの酬いを得てもいいはずだと思った。

「台輔がお越しになれば、きっと飛び切りの笑顔をなさるでしょう」

 

 驍宗は意外にも少し複雑そうな表情を浮かべ、彼にしては控えめな答えを返した。

「蒿里を喜ばせることができれば、己を少しは誇らしく思えるが……さて、どうかな」

「御謙遜を」

「あまりに苦労をさせ過ぎたのだ。少しは謙虚にならねばなるまい。それに蒿里は蓬莱で海の傍の街に住んでいたそうだ。そしてあまり良い思い出はないという」

「……」

 李斎も泰麒の蓬莱での暮らしを具体的には知らない。ただ、悲しそうに口をつぐむのを見るだけだった。

 驍宗は静かに口にした。

「蒿里の笑顔を見たいものだ。今、李斎や民の笑顔を見てこうも満ち足りた気持ちになると、私は過去の自分に問いたくなる。私は民を安心させたいと気負っていたが、私は何故、民の求める希望や安寧を、周囲の、とりわけ蒿里の笑顔で測ろうとしなかったのだろうか。蒿里も李斎も、そして多くの者たちが不安な面持ちをしていた。蒿里を含む臣下の笑顔を優先させなかったことが悔やまれる」

「主上……」

 失われたものはあまりに大きく、驍宗が沈んだ気持ちになるのは李斎にも分かる。民に困難をもたらしたことを誰よりも後悔しているのは彼のはずであろう。しかし、なぜ、この生真面目な王が苦しまねばならないのか。彼は暗愚でも怠惰でもなかったはずだ、たとえ完璧でなかったとしても。

 

 彼が完璧でなかったとすれば、逆説的だが完璧であろうとしたところだろうか。ご自分一人で性急にことを急ぎ過ぎたことが遠因だったかもしれない。けれど、それは彼自身が七年の虜囚生活を強いられたことで償ったのだと思う。

 そして、その間も、彼が育て、育てようとした民は歩みを止めることはなかった。

 

 過去が今をつくるのだ。石を一つ一つ積み上げていくように。

「台輔はきっとこの街をご覧になってお喜びになります」

 李斎の口調があまりにきっぱりと断言するものだったので、驍宗は視線で説明を求める。

「台輔は鄷都から呀嶺の街の成り立ちを聞いて興味深そうでいらした。主上が御生地に金銭ではなく石工を送り、その技術で街が立ちゆくようになさった経緯を嬉しそうに聞いていらっしゃいました。今、その石工の技術が港を造ることに活かされています。そして海の向こうから新しいものを呼び寄せ、さらに石工たちはその先を見つめて歩み出している──他国から戴に石工の技術を求められる日も来るでしょうし、呀嶺から未来の領事も生まれるやもしれません」

 李斎は一息いれて、繰り返した。

「主上が呀嶺の産業をお育てになった。その民が自らの足で未来へ歩く姿をご覧になれば台輔はきっと喜ばれる。蓬莱の海など……李斎も雲海を忌々しく思っておりますが、ここは戴の海です。雲海の下、この常世で民が新しい港を造っているこの街、そして、誇りをもって働く石工をご覧になれば、きっと嬉しくお思いですとも」

「そうだな」と言って、驍宗は海を見やった。目を細めたのは海面の光のためか、笑んだためか分からない。静かに穏やかに驍宗は言った。

「蒿里を笑顔にするのは、私ではなく民なのかもしれない。そして、それがいいのだろう」

「……」

「蒿里は私のために民を殺傷した……」

 決して泰麒がいる場面では口にできない、けれども厳然として存在する事実だった。

「そのために不調を抱えた。麒麟は本来、王ではなく民にむかって慈悲を施すためにあるはずだ。麒麟の笑顔は民から与えられるべきだと思う」

 

 驍宗は李斎にも穏やかな声を掛けた。

「李斎にも礼を。何度も話しているが、諸国の助力を取り付けて来た功は大きい。確かに私は呀嶺の民を育てたのかもしれないが、彼らに山から出て海を開き、他国にまで行こうなどという遠大な展望まで用意してはやれなかった。民の分も礼を言おう」

「それは……。私はそこまで考えていたわけではなく……」

「李斎が度々言うように」と驍宗は続けた。

「過去が今を作り、今が未来をつくる。そして、そのつながりは往々にして目に見えない。李斎が金波宮に駆け込んだ時には、このような未来が来るとも思わなかっただろう」

 驍宗はここで、喉の奥をくすりと鳴らした。

「私も蓬山で承州師の劉将軍と出会った頃には、このような未来など全く想像していなかった」

「……」

「人との出会いが時間をつくるのだという気がする。誰かと出会い、誰かがその過去に見合った働きをし、それを相手が受けて時間が動き出す。そこに行き交う者たちの過去を織り上げてできるものが未来ではないかと思う」

 驍宗は海に向けた視線を、今度は戴の国土の方に巡らせた。

「多くの色糸を織り込んだ布が美しいように、多くの人々が集って生まれる時間は多彩なものとなろう。景女王をはじめ諸国の王、西王母まで動かしてきた李斎が、無骨で面白みのない私が治める戴に彩りをもたらしてくれたのだ」

 ここで驍宗は李斎の手を握った。

「私の堅苦しいばかりの人生にも……」

 李斎は頬を染めて彼の手を軽く握り返し、そしてゆっくりと離す。坂を上ってきた二人は、雁の時計台に近づいていた。そこにはあの若い官吏が図面片手に佇んでいた。雁の役人にまで冷やかされるわけにはいかない。

 

 驍宗も時計台とあの官吏の姿は目にしていた。

「あのような珍しいものを私が自国で見るようになるとは思わなかった。李斎が扉をたたいたことで開かれた未来だ。土台の石組は戴が造り、雁が建て、景女王の構想を実現する。そして、ここでの取り組みは他国にも持ち帰られる。まずはあの蓬莱風の建物がこの街を象徴するものになるのだろう」

「台輔もお元気になればご覧になりたいとお思いでしょう」

「時計についてはさほど目新しくはないかもしれないが。あれができるまでの経緯を思えば感慨深く思うだろう」

 李斎は繰り返し力を込めて請け負った。

「きっと心からの笑顔をなさいます」

 ふっと、李斎は驍宗の息を近くで感じた。彼は彼女の頬に軽く口づけたのだった。

「礼だ」

 彼は笑った。

「李斎は先ほどから私の気が引き立つよう心を砕いてくれるゆえ。かといって手を繋いでいるところをあの雁の官吏には知られたくないのだろう? 大丈夫だ、彼の目は時計台の方に向いているから」

 とはいえ、雁の若い官吏の方も、坂を上ってくる驍宗たちに気づいたようだった。

 

 雁の官吏は、ぱたぱたと駆け寄り、今度は王に対するにふさわしい丁寧な礼を取った。

 驍宗は彼に声を掛ける。

「今日は時計台の説明をしてもらった。また、領事の役割を見ることができて良かった。貴官のおかげで戴の民も快く働くことができる。そういえば、さきほど貴官には戴を褒めてもらったな。礼を言おう」

「いえいえ」と若い官吏は軽く首を振った。

「実際、劉将軍が虚海を渡ったことで実現した制度であり、私の役職もそうです。こちらこそ劉将軍にお礼を申し上げねばなりますまい」

「李斎の助けを請う願いに延帝も応えて下さった。重ねて貴国に礼を申し上げる。……ところで、延帝は息災でいらっしゃるか?」

 若者は盛大に苦笑いを浮かべた。

「相変わらず、あちこちに旅に出ていらっしゃいます」

「……なるほど、お変わりないな。ただ、貴官などを見ていて思うに、国を動かす主役は貴官のような若者や民であって、王は気ままに見聞を広めるのが安定した朝のありかたと言えるのかもしれない……」

 雁の官吏は苦笑いするよりなさそうだった。だが、李斎も驍宗に賛同する。王が完璧な存在として一方的に教え導くよりも、民が自力で歩くさまを見守る方がよいのだとは、先ほど驍宗と話し合ったばかりのことだった。

 李斎も勤勉そうな官吏を褒めた。

「貴官をはじめとする真面目で有能な官吏が雁を支えているゆえ、延王も大らかに国を見守っていらっしゃるのだろう。戴でも文官が育ってくれればよいが……」

 驍宗が李斎の後を引き取り、雁の官吏に話す。

「貴官の働きぶりを見て戴の者が言っていた。将来子どもを大学にやって領事の仕事をさせてみたい、と。戴の大学も復興半ばだが、いずれは領事などに優れた文官を輩出できるようにしたいものだ」

 ここで驍宗は雁の官吏へ表情を改めた。

「雁の大学は水準が高いと聞く。どのような学びをされているのか、実際に卒業した貴官の話を参考にしたい。一度、鴻基に来て貰えないだろうか」

 李斎も別の理由で賛同した。

「貴官は台輔と年が近いようにお見受け致す。台輔はまだご体調がすぐれず遠出ができないが、貴官と会って雁など他国のことをお話しできれば台輔にも楽しいことではないかと思う。ああ、先ほど時計台のからくりを説明して貰っても私にはさっぱりだったが、台輔なら興味深くお聞きになるかもしれない」

 若い官吏は笑った。

「私こそ、数字を板に浮かびあがらせる幻術をお聞かせ願いたいものです。伺っても実現させるのは難しいかもしれませんが。ともあれ……」

 若者は山の向こうを見上げた。海の向こうを見た戴の若い石工と同じような顔をしていた。

「私も戴はこの街しか知りません。戴の首都までお招きいただき、旅ができますならとても楽しみなことと存じます。上司と日取りを調整いたしましょう」

 驍宗は雁の若者の肩を叩いた。

「こちらも台輔ともども楽しみにしている。近いうちに白圭宮でお目にかかろう──楽俊殿」

 楽俊というのか。李斎は確かにこの気のよさげな俊英にふさわしい名前だと思った。

 

 李斎の頬を浜風が撫でていく。時刻からしてそろそろ浜風も終わる。日が落ちれば今度は陸風が吹くだろう。風が吹き交う昼夜を重ねて、この港街が出来上がる。こちらからあちらへ、あちらからこちらへと訪れ訪れられた時間が織り上げられて未来へ繋がっていく。

 彼女は、磯の香りを微かに含んだ風を大きく吸い込み、それを吐く際に大きな笑みを浮かべた。

 雁の若き能吏の戴国見聞記は救国の女将軍のその美しい笑顔から書き起こされることになり、慶国金波宮へ鸞がそれを告げることになる。

 ──やあ、陽子。劉将軍てのはえらい別嬪さんだなあ。

 浜風と陸風が小休止する凪のように、今の李斎は、自分についての知らせが行き交うことを知らない。しかし、つながりは見えずとも確かに今が未来を作るのだった。

 




くどくて申し訳ございませんw

2022年現在、十二国記の戴国メンバーをモデルにした、平安ファンタジー小説を投稿中です。
驍宗様はあまりに完璧すぎてキャラとして動かしづらかったので、英章と合体して別キャラになっております。
しかし、李斎や臥信、霜元的なキャラはわりとそのまま登場してます。
後半は、双璧の阿選をモデルとしたキャラのクソデカ感情が炸裂するんですよw
是非お読みいただければ幸いです。

「錦濤宮物語 女武人ノ宮仕ヘ或ハ近衛大将ノ大詐術」
https://kakuyomu.jp/works/16816927860647624393
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。