新・何かの呼び声【完】   作:黒留ハガネ

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"That is not dead which can eternal lie, And with strange aeons even death may die."
『久遠に臥したるもの、死することなく、測り知れざる永劫の内には、死すら終焉を迎えん』



3-3 何かの呼び声

 浅黒い肌の若き暴力団組員・田所浩二と、身長と筋力を頭脳に吸い取られた女名探偵・竜胆瑠璃は八坂蓮の借りアパートにやってきていた。

 古書店勤めであるという彼女のアパートの一室はあまり人を招いて良い状態ではなかった。

 趣味を仕事をしたのか仕事が趣味になったのか、古色蒼然とした本、継ぎ接ぎの羊皮紙、不思議な文字が刻まれた粘土板などが所狭しと積み上げられ、玄関からベッドまでの道だけが綺麗になっているところに八坂蓮という女性の生活スタイルが良く出ている。

 

「えーっと、すみません、ごちゃごちゃしてて。適当に座って下さい」

 

 小さなキッチンでお茶を淹れる蓮に促され、田所は本を押しのけてデカいケツを落ち着かせ、竜胆はぐらぐらする本の山の一角にちょこんと腰かけた。

 二人とも物珍しさから部屋全体に目を配る。教養の無い無頼漢たる田所にはピンと来なかったが、竜胆は一冊数万から十数万円は下らない貴重な古書が散見される事にすぐ気づいた。見る者が見ればこの本に埋もれた部屋は宝の山に違いない。

 先だって悍ましくも神話的な超常に遭遇したばかりの竜胆は、古書ラインナップに不気味なオカルトを想起させるモノが無い事にひとまずは安堵した。「不思議の国のアリス」の初版本を丁寧にガラスケースに飾っていて、そのガラスケースに手書きだろうアリスの可愛らしい落書きがしてあるのを見るに、蓮は怪しげな書物の収集家ではなく、単に本が大好きなだけの女性なのだろう。

 しかし部屋の中で最も目立つ場所にスペースを空けて大切そうに置かれているのは本ではなく、幼い少女とその養父のツーショットだ。目を閉じてしまっている八坂蓮の肩にそっと手を置き、仏頂面ながらも口の端に笑みを浮かべた八坂一太郎は普通の良い父親に見える。

 

 ……が、何やら深刻な事情を抱えているのは確かだ。そもそもその件に関して話をするためだという事で二人は彼女の自宅に招かれたのだし。

 

「粗茶ですが」

「ああ、ありがとう」

「ありがとナス!」

 

 お茶請けと一緒に運ばれてきた緑茶に二人が口をつけ一息つくのを見計らってから、蓮は事情を、あるいは依頼について、話し始めた。

 

「結論から言うとですね。私の養父が……何か、悪い事をしているようなので。止めるのを手伝って欲しいんです」

「犯罪してるなら警察に言ったら? それか弁護士とかさ」

 

 どこか縋るような蓮の言葉に、田所はもっともな常識的意見を返した。

 

「警察や弁護士に言ってどうにかなる問題ではないから私達に相談しているのではないかい? 前後の状況から推測するに、例の、アー、常識的な法や捜査では捉えきれないような、怪奇が関連しているのだろう。そして怪奇を身を以って体験した私達になら理解してもらえると思った。違うかな」

「御明察です」

 

 蓮は察しの良い竜胆に頭を下げた。

 

「事の起こりを最初から話しますね。長くなりますけど、それが一番分かりやすいと思うので。

 えーと、どこから話したらいいかな……そう、私は小さい頃に色々あってお父さん、八坂一太郎の養子になりました。大切に育てて貰ったんですけど、気になったのはお父さんの出張です。

 いえ、出張そのものはいいんです。会社でけっこう出張を任される役回りだったみたいで、本当に小さかった頃は出張のたびに知り合いのお姉さんに預けられて不満だったんですけど、お姉さんは優しかったですし。

 嫌だったのはですね、お父さん、出張に行くと時々事件に巻き込まれてたみたいなんですよ。それもたぶん、怪奇的な。

 そういう事があるとすぐにわかりました。家に帰って来ても、こう、塞ぎ込むというか、落ち着かない感じになるというか。神経質になったり逆に無口になったり、見てる私まで不安になるような。書斎に閉じこもって外国語で書かれたボロボロの本をちょっと異常なぐらい熱心に調べてたりもしましたね」

「それ出張鬱じゃない? 俺もさあ、地元から離れると落ち着かなくなるよ」

 

 田所がヤクザらしからぬ繊細な意見を言う。

 蓮は首を横に振った。

 

「絶対に違います。お二人は十年ちょっと前に起きたSERaグループのバイオハザードを知っていますか?」

 

 二人は記憶を辿り、蓮の言う事件について思い出し頷く。

 地方都市郊外で起きた事件で、研究所で何らかの事故が起き死者が出た。しかし外部との隔離に成功し、周辺被害は無かった。

 そんな事件だ。死者が出たという事もあり一時はそれなりに報道されていたものの、すぐに別のニュースに埋没して聞かなくなったと記憶している。

 今思えば妙な話だった。日本で起きたバイオハザードで死者まで出たといえばもっと大々的かつ長期的に取り上げられてもおかしくなさそうなものなのに。

 

「父はあの事件の渦中にいました。情報規制が敷かれ一般には知られていませんが、神話的怪異に纏わる事件だったそうです。伊豆半島で起きた巨大竜巻と疫病流行、あの事件も同じです。他にも語られない小さな事件に何度も巻き込まれています」

「やばすぎ」

「それで精神を病んでおかしくなってしまったと?」

「いいえ、それが逆なんです」

「逆?」

「父は明るくなりました。不自然なぐらいに、今まで神経質だったのが嘘みたいに。でも目は、目だけは冷たくて。私を見てるのに、私を見てない。普通に見えて普通じゃない。なんだか全部他人事みたいなんです。人生をゲームか何かだと思ってるみたいに楽しそうで、大胆で……躊躇が無くて、手段を選ばない。私にはそういうところを見せないようにしているみたいなんですけど、分かります。分かるんです。お父さんはおかしいって。

 ……血の臭いが、するんです。父の周りで人が消えている。今まで感じた事がないくらい悍ましい、形容し難い冒涜的な異臭とも言うべき何かが、粘りつき纏わりつくように重苦しく立ち込めていて。このままだと取返しのつかない事になる。いえ、もうなっているかも。だから止めないといけません。私の父を。それをあなた達に手伝って欲しい。お願いします」

 

 そう言って蓮は深々と頭を下げた。膝の上で強く握りしめられた手は震えている。

 

「いいよっ」

「あ、いいんだ」

 

 田所はうら若き乙女の頼みに拍子抜けするほどあっさり頷いた。竜胆は意外に思って奇縁で結ばれた仲間を見る。田所は続けた。

 

「ここで疑っても話進まないじゃん。でもなんか足んねぇよなあ?」

「?」

「金だよ金! 依頼料! ナンボ出せんの? 言ってみ?」

「あ、そ、そうですよね。えーと……820万円は出せます」

「マ? やるわ」

 

 棚から通帳を取り出し、中を確認して言う蓮に田所は野獣の眼光を卑しく光らせ即決した。現金なものである。

 竜胆は一瞬通帳を盗み見て、820万円が記帳されたほぼ全額である事を知って事の重大さを重く受け止めた。

 彼女にとってこの件はそれだけ大事なのだ。田所は無邪気に喜んでいるが、820万円に相応しいだけの、あるいはそれ以上の働きと苦難が待ち受けていると思うと竜胆はむしろ憂鬱になる。

 しかし探偵を志しまたそれを実践する竜胆瑠璃という女は事件から逃げない。常識の通じない怪奇、得体の知れない怪人を相手に自分の推理は通じるのか。いや必ず謎を暴き、事件を解決してみせようではないか。

 

 三人は握手を交わし、不穏な怪人物・八坂一太郎の調査をする事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 相談の結果、三人はとりあえず八坂一太郎が住んでいる八坂屋敷を訪ねる事にした。

 まずは正面攻勢だ。本人に何を企んでいるのか尋ね、とっちめるのが一番手っ取り早い。真正面から問いただして本音が出るとは到底思えないが、どう誤魔化すのか、どのような嘘を吐くのか、といった情報から類推できる真実もある。

 幸い竜胆はそういった事が得意であるし、蓮が親子の情に訴えても良いし、最悪田所が力づくで聞き出す手もある。

 

 東京郊外の駅の高架近くの屋敷は見るからに古臭く、両脇をビルに挟まれ日当たりの悪い立地のせいかどうにも辛気臭かった。表札には「八坂」と書かれていて、玄関脇に置かれた植木鉢の観葉植物は元気なくまばらで退色した葉っぱを広げている。

 外観から分かる屋敷の広さは4~6人家族が暮らすに相応しい程度で、大学入学まで実際に住んでいた蓮曰く広々としているようだ。これだけの屋敷に二人で住んでいればさもあらん。

 

 何か怪しげなモノ、目ぼしいモノがありはしないかと竜胆と田所はじろじろ屋敷を見回す。

 窓にはカーテンがかかっていて中の様子は伺えず、玄関の防犯カメラには緑のランプが点灯している。屋敷の端から裏手で物干しざおに干されている洗濯物が微風ではためくのがちらりと見えた。

 玄関先や屋敷の外周には白い石が綺麗に敷き詰められ、表札の下には「セールスお断り」「訪問販売お断り」「勧誘お断り」といった似たような文句が印刷された張り紙がベタベタ貼りついている。

 なんの変哲もない、一般家庭の日常といった様子である。中から怪物が飛び出してきたり、防犯カメラが突如変形して侵入者に電撃を発射してきたりするような気配もない。

 

 蓮は財布から鍵を取り出し玄関を開けようとしたが、すぐに鍵穴に合わない事に気付いた。

 スマホを取り出し養父に話があるから開けて欲しいと連絡を入れるも、返答がない。

 

 換気扇が動いているし、耳を澄ませると屋敷内から物音がする。中にいるはずだ。しかし居留守を決め込んでいる。

 チャイムを連打し、ヤクザ仕込みの激しさでドアを叩き強請り、怒鳴りつけていた田所は早々に痺れを切らし強硬手段に出た。

 

「ぶち破るわ」

「え?」

「ちょ、待っ」

 

 女性陣が制止する間もなく田所は渾身の蹴りをドアに叩き込む。迫真空手を修めた屈強な男のキックは並の大人ならば一撃で瀕死に追い込むほどの威力がある。

 ドアも一撃で破れはしないにせよ、歪み、たわみ、軋むだろうし、それを何度か繰り返せば破壊できる。

 はずだった。

 

「なんこれ? ビクともしないんだけど」

「そんな馬鹿な」

 

 田所は異様な手応えに困惑した。まるで大地を蹴りつけたような手応えだった。全く効いていない。百回蹴っても破れる気がしない。頑丈な鉄扉だとしてももう少し手応えがあるだろう。

 竜胆がドアを調べるが、確かに一般家庭標準装備の普通のドアに見える。特に補強もされていない。だが、ドアを何か見えない膜のようなものが覆っている事に気付いた。その膜は強固で、ドアを守っているようだ。

 

「これは……魔術、か?」

「ドアだめなら窓逝くわ」

「いやいったん待って下さい、そんなめちゃくちゃな、」

「ヌッ!」

 

 独特の呼吸法から繰り出される田所渾身の蹴りが吸い込まれるように窓を捉える。

 が、それも効果がない。玄関のドアと同じように不可思議な膜に遮られ、窓に届かない。

 異常事態を呑み込んだ三人は顔を見合わせ、なんとか膜を突破しようと小一時間試行錯誤した。

 

 雨樋をよじ登り二階からの侵入を試みる。失敗。

 裏庭からスコップを持ってきてフルスイングする。効果なし。

 ナイフで削ろうとする。効果なし。

 止めようとする蓮を振り切って放火。火も熱も遮断される。効果なし。

 

 打つ手をなくした三人はお手上げだった。

 

「これマジ? 要塞じゃん。三人で勝てるわけないだろ! 爆撃が必要ですよこいつぁ」

「蓮くんの実家は変わっているね」

「いえ私もこんなの初めてです」

 

 蓮によれば屋敷の様子こそいつもと同じだが、このような奇々怪々な防御が施されているのは初めて見るという。

 

「じゃ、中でやっぱなんかすっげえ悪い事してんだ?」

「それは早計……でもないか」

 

 屋敷の強力な防護はそのまま中で行われているナニカの悪辣さを表している。よほど見られたくない、介入されたくない何かを隠しているようだ。

 とはいえ防護を突破できないのは問題だ。無論、中に八坂一太郎本人がいない可能性も残っている。それでも防護コストに見合った重要物の発見は期待できる。

 八坂一太郎の所在が正確に知れない以上、最も怪しい場所を調べるのがセオリーだ。

 

「とにかく何にせよなんとかこの結界を破らないといけないらしい。こういう魔術的なアレコレに一番詳しそうな知り合いは他でもない八坂一太郎氏だが、彼に聞けない以上は……そうだな、親類を頼ろう」

 

 なんの偶然か、竜胆の親戚には八坂一太郎と行動を共にしていたり、別行動ながら奇妙な事件に巻き込まれたりした経験がある女性が多い。竜胆本人もそうだ。そういうロクでもない運命に絡めとられた一族なのかも知れない。

 訪ねれば何か手がかりを得られるだろう。

 

「そういう話ならさあ、ウチの兄貴もそういうの詳しそう」

「ほう。ならそっちを訪ねてもいいな」

「あっ待った兄貴今行方不明だった。そうじゃん! 忘れてた! 兄貴は? あいつが谷岡兄貴がマホロバとモメて失踪したって言ってたからマホロバ探ってたのに兄貴の気配なかったんだけど。嘘つかれた?」

 

 本来の目的を忘れて探索行をしていたうっかり者の田所だったが、明らかに何か知っている様子だった八坂一太郎を改めて問いただすためにも、引き続き探求を続ける事にした。

 

 竜胆の親戚のうち、奇妙な逸話に事欠かない人間筆頭である宮本葵は、八坂一太郎・蓮の旧知でもある。以前は警視庁の閑職に就いていたが、今は職を辞し別の事をしていると風の噂で聞いている。

 彼女は前もって八坂一太郎の不審についても警告していた。彼女を訪ねればなにか情報を得られる公算は高い。

 そもそも八坂一太郎を依頼人として竜胆に紹介してきたのが彼女であるし……そう考えれば葵も八坂一太郎の悪事に一枚嚙んでいる可能性が無くもない……

 だが竜胆は葵の善性を知っている。葵に騙される心配より、葵が騙されている心配の方が先だ。

 

 電話でコンタクトを取ろうとするが葵は出なかった。たわいもないメッセージにさえ一分以内に反応するほど連絡にマメな葵にしては珍しい事だ。

 葵の住所は遠かったが、嫌な予感がして直接訪ねる事にする。

 

 新幹線を乗り継いで葵の住所を訪ねると、そこはそれなりに賑わっている繁華街の一角の貸しビルだった。入口の看板には「3F 宮本相談所」と簡素過ぎるテナント名が記されている。

 これでは何をやっているのか分からない。あるいはわざと分からないようにしているのか。

 

 三階の「宮本相談所」と書かれたプレートが貼られたドアをノックするが、返事がない。彼女は事務所兼住居であるここに住んでいるはずなのだが。

 

「よし」

「よしじゃないが」

 

 早速蹴り開けよう足を上げる田所を制して竜胆がドアノブをひねるとアッサリ開いた。

 竜胆の呆れ顔に気まずそうな田所は女性二人を押しのけ、肩をいからせズカズカ事務所の中に入っていく。二人も後に続いた。

 

「あっ(察し)」

「そんな……!」

「遅かったか」

 

 三人の眼前に広がったのは惨状だった。

 机と椅子は破壊され、本棚は倒れて本と書類を床にまき散らし、粉々になった植木鉢からは土とへし折れた観葉植物がこぼれ落ちている。

 

「あ、葵さんは!? し、死ん、攫われ、いやまだ隠れてるんじゃ……!」

「待ちたまえ。心配は分かるがまずは現場を観察させて欲しい。踏み荒らされてはたまらない」

 

 冷静に言われ、蓮はぐっと堪えて引き下がる。竜胆はその場に這いつくばり、場を荒さないよう慎重に動き回りながら部屋の状況をつぶさに観察した。

 

 あらゆるものが破壊されひっくり返された部屋を目を凝らし観察して分かったのは、どうやらこの部屋で激しい戦闘があったらしいという事だった。割れたティーカップに残った紅茶はぬるかったが、冷え切ってもいない。事が起きたのは30~60分前だろう。

 真っ二つになった観葉植物は折れたというより引きちぎられたような断面をしていて、尋常ではない怪力が見て取れる。下手人は人ではないか、人から半ば逸脱したパワフルさを持つ葵だろう。

 植木鉢からこぼれ散乱した土は現場を文字通り覆い隠し分かりにくくしている一方で、土を踏んだ足跡が残っている。

 足跡は二つ。小さな方が葵で、もう一つが襲撃者のものと推測される。

 

 竜胆は足跡の来た場所と向かった先の追跡を試みたが、奇妙な事に忽然と現れ忽然と消えていた。まるでどこからともなく室内に現れ、消えたようだ。瞬間移動でもしたというのか?

 トリックを疑い天井や壁に床に足をつけずぶら下がって移動するための突起物が無いか調べたが、そのようなものはない。

 

 これは自分達の知らない第三勢力の仕業か? それとも件の怪人・八坂一太郎の凶行なのか……?

 

「なんかこのへんでぇ、一時間ぐらい前になんかあったらしいっすよ」

 

 手がかりから推理を組み立てようとする竜胆に、いつの間にか姿を消していた田所が戻ってきて言った。

 

「なんか、とは?」

「いやさ、下の階のカラオケ屋にさ、何があったか知らないか聞きに行ったんだけどさ」

「ああなるほど。聞き込みは基本だね」

「カラオケ店員、のらくらしてたわ。隠してんのかと思って脅したりゆすったりしたんだけど、ありゃ記憶がスッポ抜けてんね。一時間ぐらい前に話した感じ絶対なんかあったみたいなんだけど、そのなんかを思い出せなくなってる感じした」

「一時間前といえばちょうどこの部屋がこうなった時間帯だ」

「やっぱり? 俺もそう思ったわ」

「じゃ、じゃあ葵さんは……」

 

 息を飲み蒼褪める蓮を竜胆は落ち着かせる。

 

「行方は分からないが、死んではいない。負傷もない」

「そんな事どうして分かるんですか」

「簡単な事だよ、蓮くん。血痕も負傷の痕跡も残っていないからね。見てごらん、部屋のこっち側の家具は破壊されているだろう。しかしあちら側は散乱しているだけで破壊はされていない。侵入者の足跡があるのはあちら側だ。つまり戦闘は一方的なものだったと推測される。突然現れた侵入者に抵抗するも、圧倒されて攫われた。周囲の……記憶処理までする余裕があったぐらいだからね。このような解釈が妥当だろう」

「な、なるほど」

 

 蓮はひとまず安心したようだった。全く安心できる状況ではないが、最悪ではない。

 しかし頼りの情報源は消えてしまい、逆に問題が増えた。

 そうなると別の情報源を当たるしかなくなる。警察に通報するのが常道に思える一方、竜胆は他ならぬ宮本葵から「こういう」事件で警察の動きは鈍く物分かりも悪く役に立たないという愚痴を聞いていた。仲間にヤクザもいる以上、警察への通報が話を拗らせるのは火を見るより明らかだ。

 

 後ろ髪を引かれる思いで三人は現場を後にし、こういった事件に詳しそうな別の知り合い……東雲鴇を訪ねる事にした。

 明確な形を持った脅威に焦りを募らせながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 再び列車を乗り継ぎ、夜行バスでうたた寝し、朝方になって辺鄙な田舎にある東雲鴇の自宅に辿り着いた三人を待っていたのは宮本葵の事務所の焼き直しだった。

 自宅には誰もおらず、部屋の一部が荒れている。事務所との違いは荒れ方が小規模である事だけだった。東雲鴇は宮本葵よりも腕っぷしが弱い。襲撃者に抵抗らしい抵抗はできなかったのだろう。

 鴇が電話に出なかった時点でこの結果は三人とも予期していた。だが実際に目にすると無力感に苛まされる。

 

 しかし一つだけ、新事実が判明した。新事実が判明しない事による新事実だ。

 

「これわざとぶっ壊してんだ。なるほどなあ」

 

 完全破壊されたパソコンの残骸を摘まみ上げ、田所は恐れ半分、怒り半分で言った。

 

 そう。侵入者は手がかりを徹底的に潰していた。

 滅茶苦茶に荒らされていた前の現場では他の破壊物に紛れていて気付かなかったが、比較的荒れていない東雲家では明確だった。

 メモ書きや日記、情報端末の類が一つ残らず破壊・破棄されているのだ。

 その徹底ぶりは調査・コンピュータに詳しい竜胆ですら情報サルベージの可能性は皆無だと判断せざるを得ないほど。

 

 それは無言の意思表示だった。お前達の探索行は全て無駄であると。こうまで関係者を消されては、下手人が怪人・八坂一太郎である事は疑いようがない。何しろ彼を調べ始めた途端にこれだ。

 

 尽く先回りされている。まるで自分達の行動が、やりそうな事が、全て見透かされているようだ。

 執拗にそして念入りに情報源を潰し、事件の探索を邪魔しようという明確な意思が透けて見える。

 

 震える手で心当たりの情報源に連絡を取ろうとした三人はその全員と連絡が取れない事実に直面し正気を揺さぶられる。

 恐ろしい、名状し難い暗澹たる脅威が音もなく、しかしその嘲り嗤う悪意だけは剥き出しに自分達を圧し潰さんとしている。

 

 三人に重苦しい沈黙の帳が降りる。

 八方塞がりだった。

 

 一体どうすれば良いというのか? 何を調べても、誰を頼っても、全てシャットアウトされる。事件の核心に迫るための全てを邪魔される。妨害の手は強力で隙がなく、どうしようもない無力感を突きつけられる。

 

 なんとか打開策を捻りだそうとするも何も思いつかず、諦めの空気が漂い始めたその時、玄関のチャイムが鳴った。

 三人は顔を見合わせる。

 

「誰でしょう?」

「配達とか?」

「犯人は現場に戻ってくるというが。まさか……?」

 

 ゴクリと息を飲み、女性二人の視線を受け、田所は渋々玄関に向かった。その背中を恐る恐る二人は追う。

 田所が意を決して玄関を開けると、そこには一人の男が立っていた。

 

「やあ、こんにちは」

「なんだこのおっさん!?」

 

 愛想よく会釈した男に田所は動揺する。

 その男は全身真っ黒だった。

 肌が黒く、髪が黒く、聖職者らしいカソックコートも黒い。靴もサングラスもだ。高身長で体つきはがっしりしており、声と所作にはどことなく心を揺さぶられる何かがあった。

 黒人の聖職者、だろうか? しかしそれにしては何か……

 

「その顔。その様子。手遅れだったようですね。彼の魔手はここにも及んでいましたか」

「! 八坂の野郎を知ってるのか!?」

「あ、馬鹿……!」

 

 思わず尋ねた田所に竜胆は小声で悪態をつく。「彼」と言っただけの相手に八坂の名前を出すべきではなかった。敵か味方か分からない得体の知れない相手に情報を与えるのは愚かだ。

 だがその愚かさが逆に功を奏したのか、黒い男は親切に答えた。

 

「ええ。私は八坂一太郎の知人でしてね。近頃特に活動的な彼を止めるために動いていたのですが、想定よりも動きが早く。こうして後手に回っている始末です。あなた達も私と同じく彼を止めようとしているのだと思いますが?」

「そうだよ」

「やはり」

 

 黒い男は分かっていたとばかりに頷いた。

 

「私の名前はナイア。八坂一太郎の古い知人です。是非、貴方がたと話をしたい……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東雲家の荒されていなかった客間で、四人は一同に会した。

 警戒しつつも凡その事情を話した竜胆はナイアの顔色を伺う。表情の動きや話への反応からナイアの内心を読み取ろうとしたのだが、奇妙なほどに何も分からなかった。

 ナイアも心理学、精神や心の動きについて心得があり内心を巧妙に隠しているのか。しかしそれにしてもここまで「読めない」相手に会うのは初めての事で、竜胆は些か同様した。

 

「そうですか。彼はそこまで恐ろしい事を」

 

 恐ろしそうに言うナイアだったが、表情は恐ろしいとは言っていない。なんとも言い難い、柔和な顔つきをサングラスで隠している。不気味な男だった。

 

「私は彼の見事な計画を、そしてその計画を止める方法を知っています」

「ほう。参考までに聞かせてもらっても?」

「ええ。彼は恐るべき神をこの地球上に召喚しようとしています。それも二柱、多大なる犠牲と血、悲鳴、嘆きを生贄にしてね。神の召喚のために彼は熱心に生贄を集めているようです。あなた方に感づかれ、動かれてからは一層事を急ぎ強硬手段に出ている……」

「そんな」

「俺らのせい……ってコト!?」

 

 蓮はハッとして、竜胆と田所は恐怖の声を漏らした。

 ナイアの言葉が確かなら、自分達が迂闊に動いたせいで宮本葵と東雲鴇を巻き込んだも同然だ。

 

「あなた達のせいではない、とは言いますまい。人の愚かさは往々にして更なる愚かさを招くものですからね。八坂一太郎は二柱の神を召喚し、潰し合わせ、それをもって神殺しを成す魂胆です。それが可能だと思っている。なんと身の程知らずで恐れ知らずな事でしょう」

「でも……私の知ってる神は誰も彼も悍ましい。父は邪神に遭った事があると聞いています。詳しくは知らないですけど。伝え聞くだけでもう聞きたくないと思うぐらいです。そんな神々が存在すると知るだけで正気が揺さぶられる。だから私は、父が本当にそんな計画を立てたのだとしたら、そうしようとした理由は……分かります。たぶんお父さんは人類の安寧のために邪神を殺そうとしている」

「だが、そのために人類の安寧を脅かしているのでは本末転倒だ。葵も鴇も犠牲になったいい人間ではない」

 

 竜胆が問題を指摘すると、蓮は儚げに頷いた。

 

「はい。だからきっとお父さんは……正気じゃない」

「ええ、悲しい話です。しかし私には彼を止める術がある。『光と闇の目』という魔術の秘蹟を御存知ですか? 御存知ない? では説明しましょう。『光と闇の目』は神話的存在を大幅に弱らせるアーティファクトです。人を脱ぎ捨てた神話的存在となった八坂一太郎にも効くでしょう。『目』を使えば彼を弱体化させ、止められます。彼は弱体化した程度で計画を諦める精神性をしていませんから、最後はあなた方の手で命を奪う必要がありますがね。おっと話は終わっていません」

 

 反射的に口を挟もうとした蓮を手で制し、ナイアは続けた。

 

「この『目』の制作には呪文と儀式、そして犠牲が必要です。呪文と儀式は私が教えましょう。しかし犠牲はあなた方が用意する必要がある」

「……犠牲とは?」

 

 竜胆がひっそり尋ねると、ナイアはなんでもない事のように答えた。

 

「十人の人間です。十人の人間がその無垢な精神と心の全てを捧げる事で『目』は力を帯び、八坂一太郎を止めるだけの力を得る」

「馬鹿な! 犠牲を止めるために犠牲を出すなんて」

「馬鹿。そうでしょうか? 八坂一太郎の計画では千人の人間が死にます。千人の犠牲を止めるために十人の犠牲が必要ならば安い交換だとは思いませんか?」

「…………」

 

 竜胆は黙り込み。黙り込んでしまった自分が嫌になった。

 犠牲を止めるために犠牲を出すなんて本末転倒だ。あり得ない。

 しかし頭の中の冷静な部分が囁くのだ。確かに安い交換だと。座して待ち千人の犠牲を看過した挙句、二柱の邪神の潰し合いと恐らくそれに伴う周辺被害を巻き起こすよりは、十人の犠牲を甘んじて受け入れ八坂一太郎の儀式を止めた方が良い。

 

「それで……それで、そうすれば父を止められるんですか? 元の父に戻せるんですか?」

「絶対の保証はしかねます。どんな事でもそうでしょう? 犠牲が必要です。賭けが必要です」

 

 蓮も揺れている。

 ナイアの独特の声音、語り口のせいもあるのだろう。彼の提案はどうしてかその言葉以上に魅力的で素晴らしい物に思えてならない。

 

 二人が提案の是非を天秤にかける中で、田所の答えはあっさりしたものだった。

 

「ダメでしょ神父がそんなやばい事言ったら。悔い改めて?」

「はは、これは手厳しい」

「というかね、犠牲を止めるために犠牲を出すとね、だいたい泥沼になって悪化する。話がごちゃごちゃこじれてね。俺らの世界の抗争だとそうだよ。こういう神話的? 世界でも似たようなもんじゃない? だからその『目』を作る計画はダメです。論外。話は終わり。解散。閉廷! 帰って、どうぞ」

 

 田所に促されたナイアは苦笑し、立ち上がって素直に背を向けた。

 

「残念です。分かり合えると思ったのですが。ああそうだ、気が変わった時のために名刺を、」

「うるせーな絶対お前悪いヤツだろ。大人しく帰れって殺すぞ」

 

 刺々しい言葉を投げつけられたナイアは肩を竦め、そのまま帰っていた。

 

 呆気に取られて黒い男が立ち去るのを見送った竜胆は遅ればせながら気付いた。

 ナイアには影がなく、足音もしなかった。

 田所の言った通り、悪魔の誘惑を持ち掛けにやってきた悪いヤツだったのかも知れない。

 

「田所くん。君は私が思っていたよりずっと大した奴だよ」

「何が?」

「ん。人は見かけによらないと反省しただけさ。そう、八坂一太郎とも一度話し合ってみるべきかも知れない」

「どうやって? 話し合えないから苦労してんじゃん」

「初歩的な見逃しだよ、田所くん。私達に足りないのは行動力や推理力ではなく、根気強さだったかも知れない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現場百篇。

 三人は再び八坂屋敷へと戻ってきた。前回尋ねた時よりも明らかに禍々しい気配を増している屋敷の閉ざされた内部では一体どんな悍ましい儀式の企みが進んでいるのか。

 田所は得体の知れない強大な気配に竦み、早くもナイアの誘いを断った事を後悔しはじめていたが、竜胆は道中話し合った通り玄関の前で迷わず大声を上げた。

 

「八坂一太郎! 私達は話し合いに来た! 我々は非武装だ! 君の計画は知っている! 私達に対話の機会をくれないか!」

「お願い、お父さん。私はもう何も知らずに何もできないのは嫌」

「おなしゃす。頼むよー」

 

 竜胆に続いて蓮と田所も声を上げる。

 が、返事はない。

 

 三人は一瞬目配せしあい、屋敷の前で突っ立って待った。

 ただ、待った。

 非武装という言葉に偽りはない。田所は武装解除を渋ったが、下手な武装は推定超強力な魔術師である八坂一太郎の疑心を招く分有害ですらある。

 三人は無防備にただ待つのみだ。

 

 自分達を見透かす動きをしている八坂一太郎が、自分達が屋敷の前に来ているのに気付いていないわけがない。

 彼は必ず自分達の行動を観察している。自分達の探索行が全く無意味なら、先回りして情報源を断つなんてしない。八坂一太郎は少なからず自分達に興味があり、脅威に思っているのだ。そして計り知れない理由によって攫ったり殺したりはしてきていない。

 ならば対話の余地はあるのではないか? ナイア曰く、彼はもはや人ではないようだが、それはかつて人であったというも意味する。望みを捨ててはならない。

 

 天頂にあった日が傾き、空を茜色に染め、やがて辺りが暗くなる。

 通行人が三人揃ってじっと立っている一行を見てビクッと驚き、そそくさと立ち去る。

 長い沈黙だった。

 

 そして三人は我慢比べに勝った。

 ずっと見張っていた八坂一太郎は、日がとっぷり暮れた夜中になってやっと玄関のドアを開け姿を現した。彼は隠しきれない苦笑を浮かべていた。

 

「ここまで『待ち』を選ぶ探索者には初めて会う。まあキーパーに八坂一太郎が出てくるまで待ちますって申告するだけだからある意味楽ではあるんだろうけども」

 

 意味不明で錯乱した言葉を吐く八坂一太郎はやはり狂気に飲まれているのだろう。

 その底なしの闇を讃えた人ならざる昏い瞳に、竜胆は怯んだ。この人の皮を被った怪物と本当に対話が成立するのか?

 

 八坂一太郎は玄関先で三人に対峙する。臆病なまでに強固な結界の内に隠れていたとは思えないほど堂々としていた。

 

 まず口火を切ったのは田所だ。

 

「お前の計画は知っている」

「らしいな。それで?」

「どうせ兄貴も攫って生贄にするつもりなんだろ!」

「まあ、そうだな」

 

 八坂一太郎は意外にも簡単に認めた。これまで伏せてきた事実を認め開示した。

 彼の計画はもう情報を開示して問題ない段階まで来てしまっているという事だ。それがどの程度の危険水域かは不明であるものの、勝利を確信して姿を現したのは想像に難くない。

 竜胆と田所は待ちに徹するあまり時間を与え過ぎたか、と後悔が頭をよぎる。

 

「今すぐやめろ。兄貴を返せ」

「断る」

「そっか……」

「…………」

「…………」

 

 田所は言葉に困り、拳を構えた。八坂一太郎は呆れ顔だ。竜胆は慌てて田所の拳を下げさせた。

 

「待て待て落ち着け」

「いや、だってさあ、こんなんもう戦うしかないじゃん」

「まだ私が話していないだろう。なあ、八坂一太郎。君の儀式は本当に必要かい? 邪神を召喚するだなんて。やってる事が邪悪なカルティストと同じだ」

「ああ、まあ。キャンペーンシナリオの黒幕って感じだろ? でもな、CoCは主人公が勝つとは限らないから。ふつーに神話生物サイドが勝って探索者全滅ENDも珍しくない。だから邪悪なカルティストでもいいんだよ。勝つから。というかね、もうワンタッチで儀式実行できるんだなこれが。待ちすぎたな? 探索者」

 

 竜胆は支離滅裂な単語の羅列の半分も理解できない。だが、朧気に蓮の言っていた事は分かった。

 きっと、八坂一太郎はこの現実をゲームか何かだとしか思っていない。

 

 八坂一太郎は竜胆を嘲り、体を異様に蠢かせた。服の下でナニカが蠢いている。悍ましい何かが。八坂一太郎という存在の本性が。

 それを見た田所は怯えて後ずさり、竜胆は足の力が抜け膝をついてしまう。

 

「念には念を。残念だが探索を諦めないなら仕方ない。確実にキャラロストさせて  から、儀式 実行 といこう か。探索者 はしぶ  とい カ         ラ ナ?

 て、テ、テケリ、テケリ・リ!」

 

 その変貌は正しく生命の冒涜だった。

 腕から足が生え、生えた足から目玉が現れ、首が膨れて伸びあがりいくつもの口が開いてヨダレを垂らす。膨張する身体はすぐに服を突き破った。

 巨大化した八坂一太郎を名乗る存在は不快なピンク色をした吐き気をもよおす肉塊怪物だった。

 乳首がある、へそがある。剥き出しの腸と血管は脈動し、巨大な肉塊のあちこちに開いた口からは鳴き声とも呟きともとれない音が繰り返し発せられいている。

 

「は、あはは、テケ、テケリリ、テケリリ、テケリリ……」

 

 人間の体の部品を使った人ならざる狂気の姿を直視してしまった田所は正気を失い、虚ろに怪物の発する音を繰り返し呟いている。

 ただ怪物と対峙するより遥かにタチが悪かった。一瞬前まで、確かにコレは人間だったのだ。竜胆は自分もいっそ田所のように狂ってしまえたら、と願う。

 正気である以上、竜胆はコレに立ち向かわなければならない。この暴走する怪物の跋扈を止めなければならない。交渉などハナから無理だったのだ。

 

「お父さん」

 

 例え玉砕しようと戦う覚悟を決め小さな拳を握った竜胆は、ふらりと怪物に向かって歩を進める八坂蓮の姿に目を剥いた。

 

「お父さん。大丈夫、大丈夫だよ。無理しなくていいよ、私が一緒だから。一緒に考えるから。一緒にいるから。ね?」

 

 危険だ。下がれ。

 反射的に引き留めようとした竜胆は、怪物の蠢く触肢が僅かに動きを鈍らせたのに気付いた。

 まさか、蓮の存在を認識しているのか? 正気であった頃は愛した義娘の存在を?

 あの怪物に人の心が残っているとでも? 人を装うだけの歪な存在ではないのか?

 

 竜胆は直観した。

 蓮を引き戻すか。蓮を行かせるか。

 ここが分水嶺だ。

 

 怪物の躊躇いなどただの錯覚で、次の瞬間には蓮が八つ裂き丸のみにされている光景が易々と想像できる。

 だが、怪物を止められるとしたらポッと出の薄い知り合いである自分や田所ではなく、蓮なのではないか――――

 

 永遠にも感じられる一瞬の躊躇いの後、竜胆は蓮の小さな背中を見送った。

 これは紛れもない賭けだ。

 だが、竜胆は人が持つ希望を信じたい。それを失ったら怪物に抗する人ではなく、ただの怪物と怪物になってしまうではないか?

 

 ふらふらと蠢く巨大な肉塊に歩み寄った蓮は、そのだぶついた、自分の背丈の五倍はある巨体を優しく抱擁した。

 そして囁くように思いやり深く語りかける。

 

「私は怪物に育てられたってお父さんは言ったよね。だから大丈夫。お父さんが人間じゃないのには慣れてるよ」

 

 怪物の鳴き声が止んだ。

 

「だから、お父さん。怪物でもいいから。私には、私にだけでいいから、全部話して、一緒にいさせてよ」

 

 怪物の膨張が、動きが止まった。

 

「一緒にいたいって思えるお父さんでいて。お願い。お願いだから……」

 

 蓮は涙を流し、縋り付いていた。

 怪物の無数の目玉の一つから、醜悪な赤黒い涙が一筋流れ落ちる。

 

 腕と足をツギハギにした禍々しい触手が義娘を恐る恐る触る。

 確かにそこにいるのだと確かめるように。

 

 仄暗い月明かりの下で、怪物と女の影は、いつしか二人の人間の影になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八坂屋敷の地下の不可解に広い地下牢に幽閉され、薬物で意識を奪われていた千人の生贄予定者達は無事解放された。解放された者達は「巨大な肉塊怪物に襲われ意識を失った」としか覚えていない。

 千人の行方不明者が一斉に世に戻った大ニュースは巷を騒がせ、噂が噂を呼んでいる。しかし遠からず忘れられ、日常に埋没していくだろう。他の事件がそうであったように。

 

 田所浩二は尊敬する兄貴分との再会を喜び、地元に戻った。今度のシノギはホモビデオだ、とトチ狂った計画を立てる兄貴分の鉄砲玉として、田所浩二は今日も暴力を振るう。

 ただ、父と娘の親子にはめっきり当たりが弱くなった。

 

 竜胆瑠璃は神話的事件を扱う警視庁特命係にその働きを認められ、警察の一部に太いパイプを得る事となった。探偵としては願っても無い強力なコネだ。

 彼女は探偵業を前にも増して精力的に営むかたわら、夫や子供についての興味を持つようになった、と親類の間では専らの噂である。

 

 そして八坂蓮は、楽しくも重苦しい思い出が沈殿した八坂屋敷から自分の借りアパートに養父を移した。そして長らく忘我の状態にある八坂一太郎を献身的に世話している。投薬、カウンセリング、効果が見込める両方は全て試しているが、成果はない。

 八坂一太郎のレントゲン写真は滅茶苦茶で、注射針も刺さらない異常な体だ。尋常な治療法で果たしてどれほどの改善が見込めるか。

 だが、八坂蓮は諦めず、無反応な父に思い出話を聞かせ、その日あった出来事を聞いてもらう。そんな日々を過ごしていた。

 

 ある日の事だ。

 八坂蓮が古書修繕の仕事を終えて帰宅すると、ベッドから八坂一太郎の姿が消えていた。

 父は多くの人を助けたが、発狂中には多くの人の恨みも買っていた。すわ誘拐か、と慌てる蓮は、ベッド脇に一枚の便箋を認める。

 そこには八坂一太郎その人の肉筆が書き残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 声が聞こえる

 

 救済を求める無垢の声か

 生贄を求める怪物の声か

 

 正気か

 狂気か

 

 行かなければならない

 

 声が聞こえるから

 

 私を更なる深淵へ誘う

 

 何かの呼び声が

 

 

 

 

 

 

 

 





【魔導書:何かの呼び声】
 八坂一太郎の生涯と彼が習得した魔術について克明に記されている。日本語。
 正気度喪失は1d8/1d20。クトゥルフ神話に+15%。研究し理解するために平均1週間。
 少しでも中身を読んだ時点で(拾い読み、流し読みを含む)、SAN1の減少と「ニャルラトホテプとの接触」の強制的習得が発生する。



【KPメモ】
中盤のルート分岐。NPCとしてニャルラトホテプが登場し、プレイヤーをそそのかす。
①光と闇の目で八坂を弱体化させ殺す
 大量のPOWが必要となるため、探索者だけでは到底賄えない。自己犠牲精神のある者を集めるか、あるいは無垢な者を騙して儀式に参加させるしかない
②かつての八坂の知り合いを集め、説得を試みる
 蓮の生存が必須。蓮が最終決戦に存在する事で一回の説得ロールチャンスが発生する。
 この説得ロールは特殊であり、成功率0%からスタートする。
 蓮の参加……+40%
 八坂のかつての知己の参加……一人につき+15%
 となる。
①ルートでは弱体化するが、戦闘勝利は極めて困難だろう。
②ルートで説得に失敗した場合、探索者と蓮は全滅し、日本は邪神衝突により壊滅する。その代わりにニャルラトホテプの千の化身は999の化身に永久的に減少する。
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