その場所は合宿所から歩いて数十分ほどだった。
平地から海に沿って、車道の脇に申し訳程度に作られた歩道を昇っていく。崖に辿り着いたなら、そこからは下る。坂というより高い崖。そこの岩肌に、やっと刻みつけたようなジグザグの細い道を下ることで、ようやく辿り着く。
「ブライアンさん、すご~い! こんなところ知ってるなんて!」
マヤノトップガンは、Tシャツにハーフパンツの運動着姿で砂浜へと駆けていった。腕を水平に伸ばす、飛行機を擬した、上機嫌なときの走り姿だ。
私は靴と靴下を脱いだ。靴下は靴の中に入れ、左右の靴を互いに靴紐で結んで、首にかける。
冷たい砂地の感触を足の裏で味わいながら、マヤノの背中をゆっくりと追った。
潮風が、砂浜を駆け回るマヤノの結んだ髪と長い尾をなびかせ、シャツの裾をはためかせている。
靴を履いたままで駆け回り、時折砂地を漁ってはなにかを拾っている。
「すごいすごい! これきれ~い!」
「貝殻でも拾ったか?」
「えっへへ〜、ひみつ〜」
私は肩をすくめた。海を見やれば、船の船首のような形をした大岩がいくつも突き出ており、城壁のように砂浜を囲んで、ここが隠れたである印象を強めていた。
「ねえねえ、ブライアンさんは撮らないの?」
「私はいい。好きに撮れ。ただし、あまり拡めるなよ。地元でも隠れた絶景なんだ」
「アイコピー!」
マヤノははしゃいで、海辺の風景を撮影しはじめた。
水平線の向こうでは、陽が沈みかかり、海を照らしていた。夕陽に照らされた海面は、暗い水面に一刷毛したような白い返照が伸びている。空は水平線を境に、沈みかかる陽に染められて炎の色に燃え上がり、海から遠ざかるほどに、オレンジから淡やかな桃色、薄い紫から濃い青紫のグラディエーションを描いている。
天頂を見上げれば、青は色濃くなり、黒にほど近い。夜は頭上にまで忍び寄っていた。
この砂浜は、私が以前に地元の人間に聞いて、教えてもらったところだ。
ここは、合宿で出入りしている砂浜に比べて狭く、交通も不便だ。波も荒いので、遊泳も禁止。満潮時にはほとんど姿を隠してしまうので、観光客には知られていない。
しかし、干潮時の風景、特に夕暮れ時は美しい──ということも聞いていた。
私はスマホを渡されて、海辺のマヤノを撮影した。その後、請われるままに、波打ち際に立たされ、私の姿をマヤノが撮影した。興が乗らないので、不貞腐れた格好をしてみせたが、「ブライアンさんっぽい〜」とマヤノに喜ばれただけだった。
「ウマスタには上げるなよ」
「…………?」
「可愛い顔でごまかすな。人の出入りが増えても困る」
「でも、どうしてブライアンさん、こんなところを知ってるの?」
「…………昔、少しな。用事があったんだ」
私は鼻のテープを撫でて──話し始めた。
私が姉貴にもらったお守りを、この海に捨てにきたのは随分前のことだ。
海を眺めていると、今もあのときの光景が思い浮かべられる。
以前は朝方の干潮時にやってきた。私は岸を目指して一度振りかぶり──手を止めて、しばらく海の向こうの風景に見とれた。
眼が痛くなるほどに青い海、晴れ渡った空、そして、水平線に盛り上がった大きな入道雲──
入道の名に違わない厚く積み重なった高い雲は、いつも見ていた姉貴の後ろ姿を思い返させた。
思えば、私はいつも姉貴の後ろ姿ばかりを見ていた。
私が初めて姉のお守りを見せられた日も、やはり後ろ姿に見入っていた。
まだ私たちがトレセンに入る前、地元で暮らしていた頃だ。その日の姉貴は、母の鏡台を借りていた。地元のクラブでのレースに参加する前の身支度だ。鏡の前に掛けて、豊かな芦毛を丁寧にブラシで整える姉の後ろ姿は、いつも見ているのに不思議と見飽きなかった。
髪を整え終えると、姉貴は何かを取り出した──出し抜けに強い匂いが私の鼻を貫いた。
その匂いは甘やかが、同時にスパイスのようで、鼻から眼まで射抜くような鮮烈な刺激だった。
「ねーちゃん?」
「どうした、ブライアン?」
「そのニオイ、ナニ?」
姉貴は苦笑しながら、振り返った。
「ニオイはないだろう。せめて香りと言ってくれ。……母さんに買ってもらった香水だ。レースの前につけるものだから、あまり甘ったるいものはよくないからな。緊張を維持するためにも、スパイシーなものにしてもらった」
「なんでそんなのつけるの?」
私はおそらく顔をしかめていたのだろう。姉貴は困った表情をしていた。これから勝負に赴くのに、香水の香りなど漂わせているのは、強い姉貴らしくない──その頃の私はそう考えていたからだ。
姉貴はしばし思案顔だったが、おもむろに口を開いた。
「これはルーティンと言って、きちんとしたスポーツメソッドなんだ。レースの前に、自分で決めた特定の行為をすることで、心理面からセッティングを行う──勝つために行う、トレーニングだけではない心理的な技法だ」
「………………」
私は理解しきれなかったが、納得はした。姉貴はとにかく賢い。姉貴の言うことであれば、間違いはないのだろう──と、思ったときだった。
「というのが半分」
「半分?」
姉貴は悪戯っけな笑顔を浮かべて、私の前で香水の瓶を揺らした。
「これをつけていると気分がいい。香りでもいいし、服でもいいが、自分の好きなものに包まれていると、やる気が出てくる。そんな単純なことだよ」
「……ふーん……」
「というのが更に半分だな」
からかわれているのだと思った。しかし、姉貴は素知らぬ顔で香水瓶を丁寧にしまった。
「この間のレースを私のレースを憶えているか?」
私はうなずいた。その時の姉貴は最高だった。地元でも強豪揃いのレースを、先頭集団につけて、終盤で一気に抜け出す強い勝ち方でねじ伏せてみせたのだ。私は声を上げて姉貴の勝利を讃えた。騒ぎすぎて、両親から叱られたが、それでもなお嬉しかった。
「……あのレース……私は本来なら負けていた。事前の計算の上では、負けていたはずだった。だけど、これを気分を変えるつもりでつけたら勝てたんだ。あの時は実力以上のものを出せた。だから、どうしても勝ちたいレースの時は、これをつけることにした」
姉貴は鏡台の椅子から降りると、屈み込んで私の手を取り、眼を合わせた。
「ブライアン、よく憶えておけ。レースに持ち込めるのは、その時まで鍛え上げた自分自身と、運だけだ。時には運だって必要になる。それを掴んで引き寄せることも勝利のための努力のうちだ。正当なことを出来る限り、やれるだけやって、すべてを尽くせ。それが──それだけが、曇りや濁り、嘘のない、自分だけの本当の勝ち負けを手に入れる方法だ」
「──────」
私はうなずいた──なんとなく。姉貴の言っていることを理解できていなかった。
それから数年後に姉貴はトレセンに入学し、私も遅れて入学した。デビュー後に、クラシックに進んだ私に、姉貴はプレゼントだといって、見覚えのある箱を渡した。
「ブライアン、これを受け取ってほしい。本当なら新しいものを用意したかったんだが……廃盤になってしまってな。私の残りで申し訳ない。だが、私がクラシックを走った際、ずっと助けてくれていたものだ」
箱を開けると、中にはいつかの香水瓶が入っていた。
「お前には必要のないかもしれない。だから、お守りと思ってくれ。私は姉として……お前の無事と幸運を願っている」
私は初めて、その香水瓶を手にとって眺めた。シンプルな形状の瓶。その色は──姉貴の勝負服の色と同じ、紫だった。
クラシックのレースでナリタブライアンは破竹の連勝を重ねた──巷間には、そう言われている。
だが、私からすれば間違いだ。一度でもクラシック級のレースを走ったウマ娘ならば解る。ただ一度、この時にすべてを懸けた連中が、競い、争う場だ。私は大いに楽しんだ。だが、それは食卓のパンを取るような容易い楽しみではなかった。それを得られなければ飢えて死ぬような場で、勝利という獲物を狙ってすべてを尽くす、渾身と充実の時間だった。
最初のG1級のレースの時も危うかった。レース展開は狙い通りに進み、最後の直線で先行していたウマ娘たちを全員ぶっちぎった時だった。普段ならば撫で斬りに出来たはずだった。それでもなお一人のウマ娘が食い下がり、私を睨み据えて、最後まで食らいつこうとした。その時の表情──絶対に譲れない勝負に懸ける者の顔を、私は初めて見た。
一度でも勝ち取れば一生の金看板になるレースを走る、ということの重みを、私は理解していなかった。
強者たちと心底から満足できるレースを走れる──そんなことしか考えていなかった。
そして次のG1クラスの目標レースは皐月賞。この時以上の強者達が、一生に一度の勝負と、ここにすべてを懸けて、私と競う。私はそのことを意識して、初めて姉貴からもらった香水をつけることにした。
皐月賞のレースの日、控室で初めてつけた香水の香りは、いつかと同じで鼻腔を刺すように刺激的だった。
火薬のような香りだ──そう思った。
「ふーん。ブライアンさんにもそういう時期があったんだ」
砂浜で、私と並んで座っているマヤノが言った。
「やっぱりちょっと恐かったの? 負けるかもしれないー、って。だからお守りが欲しくなったりして?」
「……負けることは恐ろしくない。私たちは勝負をしているんだから。一位を獲れるのはただひとり。それがレースだ」
「…………じゃあ、香水のお守りなんかは必要なくない?」
私は水平線を眺めて、言葉を探した。
「私が恐かったのは…………あの眼だ。私が倒してきた相手が、私の背中を見る眼。私は多くの相手を負かしてきた。勝った者は敗者を背負っている……なんて、格好のいいことは言わない。だが、私はあの眼を向けられるのに、恥じない者になりたかった。私は……器用ではない。たとえばシンボリルドルフのような『絶対』はない。だから、あの眼に報いるためには……持っている全てを尽くさねばならない、そう思ったんだ」
「『時には運だって必要になる』?」
マヤノの言葉に私はうなずいた。
「皐月賞、日本ダービーでは、香水をつけていった。これは格好つけた話だが……姉貴の勝てなかった勝負で、姉貴の香りを連れて、姉貴と一緒に勝つつもりだった。そして、私は勝った。あの勝負は私だけの力じゃあない。トレーナーはもちろん、姉貴の思いに助けられていた」
「…………でも、菊花賞の前に、ここの海に香水を捨てたんだよね? なんで?」
小首を傾げるマヤノ。私は立ち上がった。沈みかかった陽は、血の色に海面を染めて、ゆっくりと姿を隠しつつあった。
「菊花賞は……姉貴の勝ったレースだ。私は菊花賞に勝ったあと、今度こそ姉貴を超えるつもりだった。そのレースを勝つのに、姉貴のお守りを借りるんじゃ、それこそ格好がつかない──」
あのときの海は穏やかで、入道雲は遠く──しかし、大きくそびえ立つ城砦のように、私の眼に映っていた。
姉貴も同じだった。姉貴は大きくて強かった。私はそんな姉貴を超えたくて、いつも走っていた。
私は香水瓶を、あの雲に届けとばかりに思い切り投げた。飛んでいく紫の小瓶は、なお小さな紫の一点となり、青い海面に落ちて──水音を一つ残して消えた。
私は雲を睨みつけてから、トレーニングに戻るために砂浜を後にした。
だが、その日の屋外でのトレーニングは中止となった。
あの入道雲は嵐の前触れだった。雲は潮風に吹かれて、陸地に覆いかぶさり、吹き荒れる風と豪雨を運んできた。
私は胸騒ぎを覚えた。なにか大きなしくじりをした気がするのだが、何を失敗したのか判別がつかない、ぼんやりとした不安で胸が塞がった。
姉貴がケガでレースから一時退き、長期の休養に入ったのを知ったのは、トレセンに戻ってからのことだった。
「────恐いというのは、あの時の感情だ。姉貴がもう走れないかもしれない……そう思った時の心臓が凍りつくあの感覚……」
水平線を見ながら、私は波打ち際を歩いた。
私と違って靴を履いたままのマヤノは、波を避ける位置で、私の後ろに続いた。
「……私は勘違いしていた。運というものは、ただ勝負を左右するだけじゃあない。もっと大きな、ウマ娘としての生命も左右する力だ。私は肝心なことも忘れていた。姉貴は私の無事を祈って、あの香水を渡してくれた……勝つだけじゃない。無事に、何事もなく、長く走れることを祈ってくれていた──私は、目先の意地で、そんな気持ちを捨ててしまった」
「でもでも! ハヤヒデさんはいま復帰してるよ! ブライアンさんとも一緒に走れて、ブライアンさんもハヤヒデさんもハッピーでしょ?」
マヤノの焦ってすがるような口調に、私は微笑んだ。
「それだって……いつまでも、じゃない。姉貴も……もちろん私もな」
寄せては返す波が、足を洗っては引き、また押し寄せる。洗う──いや、足を掬うために、押し寄せている。そんな考えが浮かんだ。その証拠に、足をとれなくても、足の下から砂を浚い、足場を奪おうとしている。
私は水平線の向こうを指した。
「あの夕陽と同じだ。いつまでも高々と空に居座って、絶頂の時は続かない。いつかは沈む。遅かれ、早かれ、な。そして、それは私自身が決めることじゃあない。姉貴のときのように、運不運──もっと大きな、運命の力が決めている」
海を見やれば、水平線に太陽が半ば没していた。死にかかった太陽の最後の光が、海を血飛沫の暗い赤で染め、空は色濃い菫色になっている。夜は忍び寄るでなく、覆いかぶさり、私たちを覆おうとしていた。
もう、陽が沈む時は近い──
「────アタシは────」
その声は、水面も震わすほどの大きさで、砂浜に轟いた。
「そんなことをいうナリタブライアンなんか、少しも、ちっとも、かけらも、全然──絶対に! 好きじゃないっ」
ザクン、と
小柄な身体が、またたく間に私の視界の外へと消える。
砂を蹴立ててマヤノが走り去る。あっという間に崖について細い道を駆け上がっていく。
「おい、いきなり──待てッ」
追いつこうとした私は、裸足であることを思い出した。素足で走るわけにもいかない。結んで首からぶら下げていた靴を履こうとした。手間取る間にも背後で夕陽は沈み、砂浜が夜に浸っていく。
駆け出した時、マヤノは既に崖の半ばまで昇っていた。
「ガキが──!」
私も崖に刻まれた道を昇る。細く狭い道の登坂では、思うように速力を上げられない。しかもジグザグになっているので、曲がる際にいちいち身体を翻す必要がある。
マヤノも平地を走るほどの速さではないが、小柄なので道の狭さが私ほど気にならないようだ。
急く気持ちを抑えて、最後のジグザグを曲がる。既にマヤノの姿は崖上に消えていた。あの調子で逃げられたら、あの気まぐれのことだ。それこそどこかに飛んでいってもおかしくない。
私は最後の坂を一気に駆け上った。崖の端に立ち、視線を左右に走らせてマヤノの姿を探す──までも、なかった。
マヤノは私の正面の位置に立ち、腰に手を当てて、挑む眼で私を見上げている。私は息を入れて、顎の下に溜まった汗を拭った。近づいて腕を取るが、マヤノは逃げない。ニヤリと笑うと、私の背後を指さした。
「────?」
夕陽が……まだそこにとどまっている。
水平線の向こうに沈みかかった夕陽が、まだ、水面と空を、真っ赤に燃やしている。
私は呆然とした。駆け上がる前に、夕陽は没したはずだった。
「パパが昔教えてくれたの。あの砂浜は平地より低いでしょ」
マヤノが自慢げに言った。
「それで、この崖は平地より高い場所にある。低い場所に居ると、夕陽が早く沈むけど……高い場所に登れば、ほんの少しだけ時差が出来るの。だから、日没を二度見ることができる、って」
まだ名残のように残る夕陽に、マヤノは照らされていた。栗毛を炎の色に燃え上がらせて、私の手を振り解くと、逆に私の手を掴んで、握りしめた。強い力が──獲物を逃さないと言わんばかりの力が、私の手首にかかった。
「いつかは沈むからって、そんなのマヤには関係ないからね。アタシは何度だって夕陽に追いつくから」
「…………だが、沈むのを止められるわけじゃないだろう」
「関係ないって言ってるでしょ。沈むなら沈んだらいいよ。アタシは──」
マヤノは夜が覆いかぶさる空を射るように、天上めがけてまっすぐに指を立てる。
「────マッハ10の速さで星の高さまで駆け上がって、キラキラのウマ娘になるんだから。星の高さなら、いつだって太陽を見てられる」
私は──言葉を失った。夕陽の写り込んだマヤノの瞳は、星を映すよりも眩く光っている。
失った言葉の代わりに、私は笑いが吹き出た。
「まるっきりガキの理屈だな」
「思い通りにならないってスネるほうが子供でしょ」
「その言葉そっくりお前に返すぞ」
「マヤはスネてないもん。ちゃんとオトナになるんだもん」
マヤノは私の手に何かを握らせてきた。
「ねえねえ! これ、失くしたお守りの代わりにしてよ。見てよ、ほら──」
マヤノが私の手に取らせたのは、ガラスの欠片だった。
ビーチグラス──長く波と砂に洗われて、削られて、磨かれたガラスの小片。もはや鋭利さはなく、曇り丸まって柔らかな感触。私はそれを日の名残りに翳し──眼を疑った。
ビーチグラスの色は、姉貴の勝負服と同じ──香水瓶と同じ、紫色だった。
「ありえない……そんなわけが……」
「これって、ブライアンさんの失くした瓶と同じ色でしょ! きっとブライアンさんのだよ!」
「──────」
「マヤ、ブライアンさんの話を聞いて、びっくりしちゃった! でもこれって奇跡でしょ! 本当に幸運のお守りだったから、奇跡だって起こせるんだよ!
「──────」
マヤノの眼は真っ直ぐで真剣で──何より切実だった。
私はビーチグラスについて知っていた。だが、何も言わなかった。子供の信じているお話を、無理して正す必要はない。それに何より──確かに奇跡は起きている。
「そうだな。きっとそうだ。だから──」
私は握らされた小片を、そのままマヤノの小さな手に返した。
「これはお前が持て。お守りは、もう私には必要ない」
「…………要らないの?」
「お前は星の高さまで駆け上がるんだろう。それには実力だけじゃあ足りない。とびきりの幸運が必要だ。私は先に来て、お前は後から来た。後から来たお前の幸運を祈るのは、先にいる私の義務だ。それに私は……ナリタブライアンだからな」
「………………」
マヤノは手の中のガラスをしげしげと眺めると、両手をしっかりと包み、胸の上に当てた。
「…………大切に、する」
「ああ。幸運を祈る」
出し抜けに強い風が、海から吹き付けてきた。既に海へと陽は沈み、周囲は暗くなりかかっている。
「戻るぞ。トレーナーたちが心配する」
「うん……くしゅんっ」
吹き寄せる風に煽られて、マヤノがくしゃみをした。Tシャツとハーフパンツの格好は、強い潮風の前にはいかにも頼りない。私はジャージの上衣を脱ぐと、マヤノの肩に羽織らせた。
「これは、帰るまでのお守りだな」
マヤノは、はにかんだ顔で上衣を胸元で掻き寄せると、私の手を取った。
崖から離れて、帰り路につく。夜はすでに空を覆い、海は暗く、潮風は強く吹きかかってくる。
私はマヤノに手を引かれながら、夜空を仰いだ。
日の名残りも消えかかった暗い空。だが、もう少し待てば、星が輝く──私は星影を、夜空に探した。