■
「楽器をさ、弾きたかったんだよね、ボク」
夏合宿も終わりが迫ってきたある日の、トレーニングが終わったあと。
ふと、茜色に染まる海を眺めながら、トウカイテイオーはそんな呟きを漏らした。
「……楽器?」
「うん。ほら、ボクって小学生のころまでトランペット、習ってたからさ」
「そうなのか?」
「あれ? トレーナーには言ってなかったっけ」
初耳だった。彼女の担当を続けてから四年が経つが、そんな素振りすら感じられなかった。
「にしても、トランペットか」
「変?」
「ピアノとかだったら、まだ分からなくもないが。小学校でトランペットは珍しくないか?」
「そうかなあ? ボクが行ってた小学校、普通にブラスバンドあったから」
「ああ、言われてみれば……そうだな。俺のところにもあった」
「でしょ?」
「……だとしても、どうしてトランペットを選んだんだ?」
「だって、カッコイイじゃん! 主役って感じでさ」
彼女らしい理由といえば、そうかもしれない。
「まあ、結局やめちゃったんだけど」
「どうして?」
「だって、
どうしようもなく浮かべた笑みには、しかし拭いきれない後悔が滲んでいる気がした。
けれど彼女は、それを無理やり塗り潰すように言葉を紡いで。
「でも、大丈夫だよ。仕方ないことだって、割り切ってる」
「……そう、なのか?」
どこか、少しだけぎこちなかったその言葉に、俺はそうやって返すと。
「あー……いや、うん。ごめん、ウソついちゃった」
彼女は困ったような顔で笑ってから、ひとつ息をついた。そしてそれは、俺が彼女と付き合いを続けているこの四年間の中で、聞いたこともないような重たいものだった。そこには、彼女の表情や言葉よりも多くの意味が込められていることが、痛いほどに伝わってきた。
しばらくの沈黙を置いてから、トウカイテイオーがまた言葉を紡ぐ。
「たまに考えちゃうんだよね。もし、ボクがカイチョーとかに出会わずに、あのまま音楽を続けてたら、って。そしたら今頃、どんな曲を弾いてるんだろう、とか。まだ、音楽続けてるのかな、とか。そういうこと」
ずるずると続くその言葉は、ある意味では恨みとか、そういう類のものに近しかったのかも、しれなかった。
「たぶん、吹部には入ってると思うんだ。それで、トランペット吹いてるんだと思う。1stだったらいいなあ。2nd、3rdでもいいんだけど、やっぱりボク、目立ちたいからさ。自分で言うのもアレだけど」
「…………」
「それでさ、コンクールにも出てさ、もしかしたら全国大会で優勝しちゃったりしてさ。音大の推薦とかも貰ってさ、大学行っても音楽続けたいなあ。そしたら今度はボクが、楽器を教える側になってたりして!」
「……テイオー」
「弾きたい曲もいっぱいあった。展覧会の絵とか、マーラーの交響曲第五番とか。最初のトランペット、カッコよく決めたかったなあ。あとは……そうだ、ジャズとかもやってみたかったんだ。センセーが教えてくれる曲って、クラシックばっかりだったから。そういうのにも憧れてて……」
「テイオー」
二度目の呼びかけでようやく、彼女は俺の方を向いてくれた。
「……あ、はは。ごめんね。ボク、話し過ぎちゃったみたい」
「いや、いい……それは、いいんだ。謝ることじゃない」
「ううん。謝らなくちゃダメだよ。だって、ボク……」
そこで言葉を止めると、彼女はどこか遠い目をしたまま、沈んでいく夕陽を眺めて。
「別に、今の時間が楽しくないわけじゃないんだ。レースに出るのも、毎日トレーニングをするのも、トレーナーと過ごしてるこの時間にも、何の不満もない。ボク、とっても恵まれてるよ。それは理解してるつもり。でもね……」
「……でも?」
「なんて言うんだろ。どう伝えればいいのか、自分でもよく分かんないんだけどさ」
すると彼女は、俺の方に自分の指を見せながら、
「お店とかで、たまにクラシックとか流れてるとき、あるじゃん」
「……ああ、確かに」
「あれ聞くとさ、指が勝手に動いちゃうんだよね。ボク、もうトランペットなんて何年も持ってないのに」
それだけ聞けば、ただの癖だと軽く流せたのかもしれない。
ただ、彼女の話を聞いたあとだと、どうしてもそれは、未練にしか感じられなかった。
……いや。きっと俺は、その話を聞かなくても、そう感じ取っていたのだろう。
だって、そのことを語る彼女の顔が、とても寂しそうに見えてしまったから。
「どうしようもないよね、こんなこと話しても」
「……そんな、ことは」
「だから、ごめんね。こんな無駄な話に付き合わせちゃってさ」
俺の言葉を待たずに、トウカイテイオーは立ち上がって。
「そろそろ帰ろっか、トレーナー」
「……ああ」
そうして、茜色に染まる海に向けた、彼女の背中は。
今まで目にしてきたそのどれよりも小さく、年相応のものに見えた。
■
「それで、
夏合宿が終わってからしばらくして、秋の天皇賞に向けての調整を始めたころ。
俺の言葉を一通り聞いてからの、マックイーンの言葉だった。
「君に相談するのが一番いいと思ったから」
「私がメジロ家という良家の出身だから、ですの?」
「それもそうだが……何よりも、君が一番テイオーのことを知っていると思ったから」
我ながら単純な思考回路だとは思う。けど、俺は彼女らのように育ちがいいわけじゃなかった。
だから、こうやって縋ることしかできなかった。恥じらいはないが、情けないとは思う。
……二十どころか、十八に満たない彼女に教えを乞うことに、ではない。
俺の育ちが悪いせいで、彼女の気持ちを汲み取れない、ということに。
「私もテイオーと同じく、秋の天皇賞が控えているのですが」
「……すまない」
「謝るくらいなら、もう少し……いえ、あなたはそういう人でしたわね」
こんな風に呆れられるのは、一度や二度ではなかった。
「ですが、私もそこまで知見があるわけではありませんわよ?」
「それでも、俺よりは詳しいんじゃないのか?」
「まあ、それはそうかもしれませんわね」
その証拠に、言葉がすぐに紡がれる。
「今の時代、安いものだとプラスチック製のものもあるようですが」
「いや、できれば……その、何だ。真鍮……でいいのか? ああいうのが、いい」
「であれば、相応の値段になりますが、それでもよろしくて?」
「ああ、構わない」
だって、テイオーのためなら、なあ。
それであの娘が、あんな悲しい顔をしないで済むのであれば。
百万でも二百万でも、一千万でも安いくらいだと思えた。
「……私、あなたはかなりマトモな方だと思っていたのですが」
「今はそうじゃないのか?」
「ええ。特に、テイオーのことになると、こうして見境のなくなるところが」
自覚はなかった。でも、それが間違っているとも思えなかった。
「いつか破滅しそうですわね、あなた」
「……かもしれないな」
「否定はしませんの?」
「できたら、よかったんだが」
会話はそれ以上、続かなかった。彼女の諦めたような溜息が、最後だった。
それからしばらくの時間が経って、また彼女が口を開く。
「後日、こちらで用意した候補をいくつかお送りいたします」
「……助かる」
「礼を言われるほどでもありませんわ。私も、あなたに貸しがありますので」
「だとしても、協力してくれるだけで嬉しいさ」
「そう、ですか」
渡されたのは、どこか歯切れの悪い返事で。
「あなたのそういうところが、きっとテイオーは好きなのでしょうね」
去り際に告げられたその言葉の意味は、結局理解することができなかった。
■
それから、しばらくの時間が経ったころ。
「トレーナー?」
普段の調子とは一転した、恐る恐ると言った彼女の呼びかけに、振り返る。
果たしてそこには、扉からちょこんと顔を出すトウカイテイオーの姿があった。
「遅かったな」
「あはは、ちょっと……迷っちゃって」
「迷うって……お前、もう高等部じゃないのか」
「しょうがないよ。だってさー」
そうして彼女は、部屋をぐるりと見渡してから、
「音楽室なんて、初めて来たんだもん」
漏らしたその呟きに、俺は首を傾げた。
「初めてって……音楽の授業、サボってるのか?」
「いや、ボク美術選択なんだよね」
「それは高等部に入ってからの話だろ。中等部で授業してたんじゃないのか?」
「あれ、知らないの? トレセン学園って、中等部から音楽と美術で選択だよ?」
「……そうだったのか?」
場所にもよるが、普通は高校から音楽か美術、あるところは書道もあったはず。現に俺が通っていた高校は、音楽と美術の選択だった。なのに、どうしてトレセンは中学から選択なんて……。
……ああ、そうか。
彼女らは普段の学生生活を切り捨てて、トレーニングやレースをしなければならないからか。
それならば、納得はできないけど、理解はできる話だった。
「トレーナーなのに、知らなかったの?」
「俺はまだ、教職の担当に回されるほど、長いわけじゃないから」
「ふーん」
軽く答えながら、物珍しそうにピアノ椅子へと座る彼女に、ふと。
「……美術なのは、どうしてだ?」
「え?」
「だってお前、音楽やってたんだろ。なら、音楽を選ぶのが普通じゃないのか?」
「あー……それは、その、なんていうか」
なんて、彼女は困ったような笑みを浮かべながら、そのまま言い淀んでしまって。
「いや、すまなかった。答えづらい質問だったな。悪い」
「ううん、そうじゃないよ。むしろ、トレーナーには聞いてほしいって言うか」
「……聞いて、ほしい?」
「だってトレーナーには、いろいろ話しちゃったからさ」
ピアノの蓋を開いて、並ぶ鍵盤に目を落とすと、彼女はぽつりぽつりと話始めてくれた。
「ほんとはさ、ボクも音楽選択にしようと思ったんだよね。そりゃ、トランペットやってたし、楽譜も読めるもん。トレーナーの言う通り、それが普通だよ。でも……なんだろう。たぶん、そこで音楽を選んでいたら、今のボクはいなかったと思うんだ」
「今の、テイオー?」
「そう。毎日トレーニングばっかりの日々を送って、重賞レースにもどんどん出走して、たまにこうしてトレーナーと、どうしようもない無駄なお話をするような……そんな、キミのよく知るトウカイテイオーは、きっといなかった」
そうして彼女は、自らの細い指を鍵盤に添える。
けれど、何かを思い直したように、すぐ手を戻してしまって。
「ピアノは、弾いたことないんだよね」
「……そうか」
傍らに置かれた赤い布を見つけると、それを鍵盤に優しく敷いてから、トウカイテイオーは静かにピアノの蓋を閉じる。そして俺の方へと向き直ると、彼女はいつもの調子を戻して――あるいは、取り繕っているのかもしれない――から、俺に声をかけてきた。
「それで、今日はどうしたの? 確か、トレーニングはお休みだったよね?」
「ああ。……もしかして、何か用事でもあったか?」
「ぜんぜん。今日はゆっくりお休みするつもりだった。レースが終わったばっかりだし」
両脚をぱたぱたと遊ばせながら、トウカイテイオーは俺の問いかけに答えてくれる。
ただ、その言葉の中には、やはりどこか退廃した寂しさのようなものを、感じてしまって。
……いや、駄目だ。逸らしてはいけない。そうすれば、全てが無駄になってしまう。
だから、俺は彼女の瞳をまっすぐと捉えて、伝えた。
「秋の天皇賞、よくやってくれた。一着、おめでとう」
果たして彼女から返ってきたのは、ぽかんとした間の抜けている表情で。
「えっと……いまさら? 天皇賞があったのって、もう一週間も前だよ?」
「……改めて、のつもりだったんだが……変だったか?」
「そういうわけじゃ、ないけど……うん。ありがと、トレーナー」
慣れない様子で返事をしてから、トウカイテイオーはすぐに言葉を続けた。
「それで、本題は? あ、もしかして次のレースのミーティング?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ……」
「……ただ?」
どう伝えようかと迷った末に、出てきた言葉は。
「お祝いというか、まあ……そんなことをしようと、思って」
「……え、
「ああ」
驚きながら今一度、部屋を見回す彼女に頷いて返す。すると彼女は、喜び、というよりもやはり疑問が勝るような、少しだけ複雑な笑みを浮かべながら、また聞いてきた。
「にしても……なんでまた、音楽室で? いつも使ってるトレーナー室じゃダメだったの?」
「ああ。ここじゃないと、すぐに使えないからな」
「……使う?」
ついに喜びが消え、怪訝な表情になって首を傾げるトウカイテイオーに、俺は予め部屋の後ろに用意しておいた、二つのケースを持って、彼女の前の机に置いた。
その時点で、当然というか、トウカイテイオーは、中に入っているものに気が付いたみたいで。
「もしかして、これ……」
「ああ」
驚いた様子の彼女に、それぞれのケースの蓋を開けて、中を見せる。
「……トランペット」
そこには彼女の漏らした呟きの通り、真新しい金と銀のトランペットが収められていた。
「どうして?」
「まあ、たまにはプレゼントでも、と思って」
「……違うよ。どうして、
はじめに告げられたのは、感謝ではなくそんな問いかけだった。ただまあ、そうやって問い詰められることが意外かと言われると、そうでもなかった。むしろ、そうなるだろうな、とすら思っていた。
だから、吐き出した。あの夏の日に、俺の胸の内で燻ぶっていたものを、全て。
「無駄な話、って言ったよな。夏合宿の時」
「……そうだね。だってあんなこと話しても、何の意味もないんだもん」
「ただ、俺はそうは思わなかった。むしろ、お前にとっては大切な話だと、思った」
「ボクにとって……大切?」
「ああ」
あるいは睨みつけてくるような彼女の視線に、一つ一つ言葉を並べていく。
「難しいし、曖昧な話にはなるんだが」
「うん」
「できることなら、テイオーには普通の学生生活を送ってほしいと思う」
返答が渡されたのは、しばらくの時間が経ってからだった。
「……普通の学生生活って?」
「午後にもちゃんと授業があって、昼食を食べた後だから居眠りして……それが終わったら部活があって、仲間と顧問に文句を言いながら、でもなんだかんだ続けて。夜になったら好きなドラマを見たり、友人と長電話しながら課題をしたり、それが終わったら明日も早いのに夜更かしして。寝不足のまま起きて、一時間目は日本史だから寝ていいな、なんて考えたりするような……そんな」
「それが、普通なの?」
「ああ。少なくとも午後はまるまるトレーニングだったり、平日にレースで学校を休んだり、レースについての取材のことを考える生活なんて……俺は、しなかった。そんな生活は普通じゃないし……ここだけの話になるが、お前みたいな子供に背負わせるには、残酷すぎる生活だとも、思う」
我儘かもしれない。もしかすると、彼女に対する冒涜に値するのかも、しれない。
ただ、それでも俺は、今のトウカイテイオーを見ていると、そんな望みを抱かざるを得なかった。
「……ただの押しつけだよ、それは。トレーナーの勝手な考えじゃん」
「かもしれないな。でも、お前の話を聞いてたら、つい」
「それは、トレーナーとして?」
「人生の先輩として……じゃ、納得しづらいかもな」
面倒だと思われるかもしれないが、それでも。
「音楽、続けたかったんだろ?」
「うん」
「なら続ければいい。諦める必要なんて、どこにもない」
今の彼女には遅すぎた言葉かもしれない。ただ、それでも伝えないよりは遥かにマシだと思えた。その結果として、やはり彼女が音楽を続けることを諦めたとしても、俺のこの気持ちを伝えられれば、それでよかった。
……我ながら傲慢な考えだとは思う。
ただ、俺は未だに、彼女のあの寂しそうな横顔を忘れることができなかった。
「時間は俺が作ってやる。さっき俺が話した普通には程遠いかもしれないが、それに似た環境も用意してやる。他にやりたいことがあれば、何でも聞いてやる。それが、俺の仕事だから」
「できるの? そんなこと」
「お前のためなら、何だってやってやるつもりだ」
そこで彼女がはじめて、いつもみたいな、くしゃっとした笑みを浮かべて。
「ほんと、トレーナーってボクのこと、大好きだよね」
「当たり前だろ。担当なんだから」
「……そっか」
小さく呟くと、トウカイテイオーは改めて、ケースに収められた二つのトランペットへ目を落とす。そしてそのまま、少しの間じっと眺めていたかと思うと、ふと彼女が顔を上げて。
「そういえば、なんで二つも用意してくれたの?」
「ああ、片方は俺の分だ」
「……え、トレーナーの?」
「だってお前、誰かに教えたいって言ってただろ。だから、教えてもらおうかと」
「えーっと……ごめん、聞いちゃいけないかもしれないけど、これ片方いくらしたの?」
「四〇万」
伝えた途端、彼女の表情が急に固まって。
「……二つ合わせて、八〇万?」
「いや、合わせてケースとか手入れ品、それに楽譜も買ったから、一〇〇万は平気で越えてる」
「楽譜って……?」
「ちょっと待ってろ……意外と、量が多くなって」
眉を顰めてこちらを見つめるトウカイテイオーに、俺は。
鞄の中から取り出した大量の楽譜を、机の上に広げて見せた。
どさり、と音を立てて詰まれたそれを見て、トウカイテイオーはただ口をぽかんと開けていて。
「ふぅ……たぶん、これで全部だな」
「……これ、わざわざトレーナーが買ったの?」
「ああ。正直、俺にはよく分からなかったから、ほとんどマックイーンに選んでもらったんだがな。でも、この前言ってたやつはちゃんと買っておいたぞ。展覧会の絵と、マーラーの交響曲第五番……ジャズもやりたいって言ってたから、シング・シング・シングってヤツを……」
「ちょ、ちょっと待って! そもそもトレーナーって、楽譜読めるの?」
「……いや、読めない」
「え、読めないのにこんな何冊も買っちゃったの!?」
改めて言われると、少しだけ後悔してしまう。
ただ、それで彼女が好きな曲を弾けるのであれば、まあ。
「トレーナー……もっとお金、大切に使おうよ」
「使ってるつもりだ。お前のためになるものなら、全て大切だと思ってる」
「……ほんと、トレーナーってボクのこと、大好きだよね」
その言葉は同じだったけど、先程に比べて少しだけ、彼女の頬が引き攣っている気がした。
「それで、どっちがいい?」
「こっちかな」
改めてそう聞いてみると、返答はすぐに帰ってきて。
彼女が指で示したのは、銀色に光るトランペットだった。
「……銀なのか?」
「あれ、意外だった?」
「お前のことだから、金色の方が好きかと思った。派手だし」
「
「……それに?」
「銀色の方が、
言葉の意図は、すぐに理解できた。
母校の吹奏楽部も、トランペットは全て銀色だったから。
「じゃあ、さっそく練習しよっか! まずはそのための曲選びから!」
「……その、吹き方からじゃなくて大丈夫か?」
「もちろんちゃんと教えるよ? でも、やっぱりどの曲を弾くか、って決めた方がやりやすいでしょ?」
「それは……お前の弾きたい曲で、いい」
「いや、それだと多分、一緒に演奏できるの一年後とかになっちゃうからダメ」
「……そんなにかかるのか?」
「かかるよ。だから、まずは初心者でも簡単に吹ける……そうだ!」
そこで何か思いついたかと思うと、トウカイテイオーは楽譜の山を漁り始めて。
「あ、やっぱりあるじゃん! 今年の課題曲!」
ビニールで包装された四枚の楽譜を手に取ると、それを一つ一つ、眺め始めた。
「課題曲?」
「うん。吹奏楽コンクールで、みんなが演奏する曲。入りたての一年生とか、楽器に初めて触った人でも演奏できるようになってるんだ。だからボクも毎年、課題曲を教えてもらってた」
「そうなのか」
「毎年、四つずつ配られて……ちょっと前までは、五つあったんだけどね。この中から、今年はこれ! って決めて、みんなで練習するの。誰がどのパートを担当するか決めたり、同じ動きしてる人たちで合わせたりしてさ。そういうのにも、憧れてたんだよね」
楽しそうに言葉を並べながら、彼女が楽譜へと目を通していく。
「えっと、今年は……Ⅱ番とⅣ番がマーチで、Ⅰ番がファンタジア……Ⅲ番は委嘱作品かな。たぶん難しいんだろう、けど……うわっ、めっちゃ難しいじゃん! たまにあるんだよね、こういう課題曲」
「………………」
「で、Ⅰ番は……あー、これもちょっと難しい感じかな。でもカッコいいなあ、これ。やりたいけど……ううん。トレーナーと一緒に演奏するんだもんね。だから、やるならマーチかな。というか、たぶん今年のコンクール、マーチだらけになりそうだなあ。もしⅤ番があったら、いよいよ、って感じで……」
そこでふと、トウカイテイオーは俺のほうに振り向いて。
「……トレーナー? どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「そう? なら、いいんだけどさ」
そうやってる浮かべている笑顔は年相応の、それこそ無邪気な吹奏楽の部員にすら、見えて。
楽譜を眺める彼女の横顔には、もう寂しさなんてどこにもなかった。
■
「眠れないときは、クラシックをよく聴くんだ~。
退屈ですぐ寝ちゃえるからトレーナーにもおすすめだよ!」