トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
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俺とメビウスが選抜レースを終えてから、数日が過ぎた。
あの劇的な勝利の余韻は、未だに冷めない。
同世代の新人トレーナーからは、一体何をどうしたらあんな逆転を可能にしたのかと問われたり、過去にメビウスを指導していた教官役には賞賛と期待の声が掛けられ、ハッピーミークを担当している桐生院さんからは『悔しいですがとても良いレースでしたね悔しいですが』と以前よりライバル視される雰囲気が漂ったりと。
周りの視線は、以前とは少し違った様子を見せていた。
――『強いウマ娘』が『勝つ』のではなく、『勝ったウマ娘』が『強い』。
勝利という結果が持つ意味は、レースの世界では何よりも重い。
レース前の情報も、作戦も展開も脚質も駆け引きも。持つ能力にそれが噛み合わなければどれだけ強いウマ娘でも負ける時は負ける。そしてそれは、逆も然り。条件が噛み合えば、ポテンシャルを発揮して大穴のウマ娘が勝つ。
クラシック三冠レースでさえ、皐月賞は最も速いウマ娘が勝つ、菊花賞は最も強いウマ娘が勝つとされるが、何よりも名誉とされる日本ダービーは、『最も運があるウマ娘が勝つ』とされる程である。最終的には、実力を超えたそれ以上のファクターが要求されるその在り方に、意義を唱える者はいない。
だからこそレースは面白く、人々の心を震わせるのだ。
選抜レースで、一着。
これ以上のない結果をたたき出した俺とメビウスにはもう、世間的な垣根はない。
メビウスの身体や体調が無事であったことを確認し、落ち着いたところでその二日後に俺たちは正式にトレーナー契約を交わした。
仮ではなく、晴れて俺は正真正銘のトレーナー。
そしてリングメビウスも、俺の担当ウマ娘となった。
気持ちの上では、彼女との付き合いはきっと長くなるだろうから、と。
その契約書類を書く時も提出する時も、なんだかまるで婚姻届けでも出すかのような心持ちだったのだけれども、受理されればそれも一瞬で。
何かそれで俺たちの関係が変わったかと言えば、ほんの少し、互いの繋がりが強くなったと感じるくらいだったけれども。ただ、メビウスも本当に嬉しそうにしていたし、俺も心底嬉しくなって、二人で一緒に時期外れの鴨鍋を食べた事は、ずっと記憶に残り続けるのだろうと思う。
それから数日が経った、今日。
このトレセン学園では、大きな催しが開かれていた。
――トレセン学園、春のファン大感謝祭。
トレセン学園のウマ娘が様々な催しを行って、トゥインクルシリーズやドリームトロフィーリーグのウマ娘を応援してくれるファンたちに応えるイベントだ。学園内では設営されたブースや、ウマ娘の参加型イベント、特別な衣装をまとうウマ娘達の姿と、訪れた沢山のファン達とでとても賑わっている。
今日ばかりはある程度自由な時間を貰っているので、今は俺も学園内を散策している。
出し物の美味しそうな匂いや、桜の花が散りきった新緑の木々の香りを、風が
そうして学園内を歩き進み。
トレセン串焼き屋の前を通ると、一つの情景が脳裏を過ぎった。
『……突然でビックリしてるかもだけど、もう一つだけあなたに、お願いしてもいい? カレンのミストレ、応援しにきてほしいの。……あなたがいればがんばれる気がするから』
かつての俺が、幾度となくみた光景。
シニア期のダイワスカーレット。そのトレーナーに、カレンチャンが語りかけるあの場面。
カレンチャンが彼に放ったその台詞は、儚さと諦めのような声色を帯びていた。
それを眺めていた俺は、ミストレセンコンテストを終えた彼女に声を掛け――それをきっかけに、彼女のトレーナーとなった。それが、かつての記憶。
今回の俺は、その光景を見てはいない。メビウスと契約を交わした今の俺がその光景を、見るべきではないと思ったから。
だが、ちょうど時間は進んでアナウンスの声が学園内に響き渡る。
『ミストレセンコンテスト、ただいまより開始いたします! 会場は――』
未だに心惹かれるのなら、寧ろ見に行くべきではない、のかも知れない。
けれども、やはりどうしても気になる。
思い起こされるのは、選抜レースでの、鬼気迫るカレンチャンの走り。
どんなに泥に塗れても絶対に引かないという鋼の意志たる決意が迸る、徹底マーク。
あの走りをみせた彼女が、今この舞台で何をみせてくれるのか。
それが気になるから、と。己自身に言い訳のように言い聞かせて、俺はミストレセンコンテストの舞台に足を運ぶことにした。
「運命は、変えることが出来ます。できないと思うその心を、跳び越えて行く勇気を。カレンはあの選抜レースで貰いました」
壇上で言葉を紡ぐ、カレンチャン。
彼女は今――勝負服を着ていた。
「カレン……いつも、制服で挑んでいたのに。何故……」
思わず、呟いた。このミストレは、『普段のあなたが着てる服』が参加条項の一つにある。そのためダイワスカーレットは普段の私服で挑み、カレンチャンは敢えてというべきか、トレセン学園の制服で挑んでいたイベントだった。
でも、今のカレンチャンは勝負服で挑んでいる。多分、普通に反則だ。
ただ、カワイイに全力で挑むカレンチャンのその姿は、この会場にいる他の誰よりも目を離せない。
そんな最高の輝きを放っていた。
確かめたいこと。それを彼女は、あのレースでその何かきっと、掴む事が出来たのかも知れない。
ミストレの進行で最後にひとことはありますか、という司会の振りに、カレンチャンは愁いを振り切った――とびっきりの笑顔で宣言する。
「カレンには、幼い頃に出会った運命の人がいます。その人は私の夢を笑わないでくれて、『とっても素敵な夢だね』と言ってくれたの。その人と、カレンは奇跡の再開を果たせました。その人は今カレンに振り向いてくれないけれど、カレンのカワイイは、無敵なの。だから――お兄ちゃん、これから覚悟しててね!」
カレンチャンの、勝負宣言。
相手は誰だ、カレンチャン頑張ってね、カレンの恋を応援するよ、Currenカワイイ!と会場が大いに盛り上がる。
何度と繰り返してきたこの世界で、初めての景色だった。
あのノートによれば、ウマ娘の脚は時に運命を変えるという。
選抜レースでのリングメビウスの勝利は、また何か、一つの運命を変えたのかも知れない。
そして実際にそれを変えていけるのは、人の心とその一歩を踏み出す行動なのだと思う。
彼女が心に秘めていた大切な出会いを、カレンがこんな形で公にするのは余り考えられない行動に思える。それが、変わった。今の彼女は、違う道を突き進んでいる。
カレンチャンは、ダイワスカーレットとそのトレーナーの絆という抗えないようにみえるその運命に、この世界の中で挑む事を決めた。これは、その宣言なのだろう。
ミストレでの勝ち負けよりも、自らの恋心への挑戦を選んだ彼女は、また一つ大きな成長を遂げた。
その姿は、とても眩しく――そして結果的に、カレンチャンはミストレで優勝した。
普段から配信の時にも勝負服を着ていたので、まさかの問題ない判定という無敵っぷり。
欲しいモノは全部手に入れる。
カワイイカレンチャンのそんな強さを、俺は心の底からカッコ良いと思うのだった。
▽
新たな道を突き進むカレンチャン。
その決意を見届けた俺は、とある店に足を運ぶことにした。
表はあっても占い屋。
マチカネフクキタルが、メイショウドトウと共に学園内、もしくはその外だったりと普段から設置し開いているので一部では有名らしい占い屋だ。
店のテントの上部には、『表はあっても占い』の文字がでかでかと掲げられている。
表はあっても裏ない、のダジャレで、裏表のない占いをしようという意味なのかも分からないが、多分そうだと思う。
その店のテントの前に、プラカードを持って佇む一人の巫女服のウマ娘がいた。
赤いイヤーカバーに、大きな丸眼鏡。
綺麗な尾花栗毛の金色の髪を風に揺らす、見目麗しい俺の担当ウマ娘――リングメビウスだった。
メビウスは俺の姿をその瞳に映すと、嬉し気に微笑んでこちらへと歩み寄ってくれる。
「……あ。まどかさん。こんにちは。いかがお過ごしてでしょうか」
「こんにちは、メビウス。学園祭を楽しみながら、散策していたところだよ。店の手伝いは、どんな調子だ?」
「先ほどまで大盛況で、何人か並んで待つ程でした」
「今は、空いてるのか?」
「はい。誰も並んでいません。先ほどのミストレセンコンテストの時に、一気に皆さんあちらへ向かわれましたので」
「あー。まあ、気になるもんな」
俺も見に行ってしまったくらいなので、やはり注目度は高い。元々美形の多いウマ娘の中で、トークや普段からの佇まいだったりと、あらゆる要素が問われる総合力勝負と言われるミストレは、ファン感謝祭でもかなりの花形。確かに、物凄い人だかりだった。
「まどかさんも、見に行かれましたか?」
「ああ。ちょっとな」
「どなたが優勝されたのでしょうか」
「
「……カレンチャンさん、ですか。……やはり、凄いのですね」
「でも、メビウスの方が俺は可愛いと思うよ」
「――っ。そんなことは、ないかと。いえ、でも、ありがとうございます……」
俺の主観では、リングメビウスの方が可愛いし、今着ている巫女服も良く似合っていてとても綺麗だ。
今の俺にとって、これは揺るがない。名実共に担当ウマ娘で、立場上すでに恋人でもある彼女に、他の誰かが勝てるはずもない。言うだけならタダであるし、褒め言葉は言えるだけ言いたい。
今日の俺は、自分の心に素直だ。
「あの、今なら誰も並んでいませんので、まどかさんも寄っていきませんか?」
「占いか。良いな、たまにはそういのも」
「では、ご案内しますね」
プラカードを片手に持って、メビウスはテントの幕を開ける。
メビウスと一緒にテントの中に入ると――凝った内装の中に、椅子に座って机上の水晶に手をかざす巫女服姿のマチカネフクキタルの姿があった。
「おや、メビウスさんのトレーナーさんではありませんか!」
「ああ。ちょっと、占ってもらおうと思ってな。ドトウは?」
「ドトウさん、今は休憩中ですね。ところで先日の選抜レース、凄かったですよ! メビウスさん共々、おめでとうございました」
「フクキタル。レースの時は君の発破のおかげで、道が拓けたよ。ありがとう」
「いえいえ、何かお役に立てたのであれば幸いですとも」
実際、あのレースでフクキタルの声がなければ、俺の意識は運命の壁に引き摺られて間に合わなかったかも知れない。実家が神職の、祝いの巫女マチカネフクキタル。彼女には、きっと何かがある。そう思わせてくれるし、今回の件には、本当に感謝したいところだった。
「それでは、何を占ってしんぜましょうか」
「……そうだな。何も考えてなかったが」
「トレーナーさん。こういう時の鉄板は、恋愛運ですよ」
「そうか。じゃあ、恋愛運で」
メビウスの声に俺がそう答えると、マチカネフクキタルは目をぱちくりさせる。
それから、俺とメビウスの顔を交互にみて、叫んだ。
「……フンギャロー! そんなの、占う必要ないじゃないですか!」
確かに、そうかも知れないな、と。
メビウスと二人、笑い合うのだった。
▽
それから少しして。
丁度休憩から戻ってきたメイショウドトウと入れ替わる形で、リングメビウスも休憩の時間となった。
「折角の学園祭ですし、お二人で行ってきてください~」
と、ドトウに後押しされ、俺とメビウスは学園内を二人で歩いている。
賑わう出店で綿菓子や、りんご飴を買って食べる。
さながら、デートのような心地だ。
そうして学園内を歩いていると、三女神像がある通りに躍り出る。
そこでは何やら、十数人程度のウマ娘たちが集まっており。
何だか、聞き覚えのある単語を口にしているのだった。
「――ここで長ネギを振るんじゃなかった?」
「しゃもじを振るって私は聞いたけど」
「女神像の前にぬいぐるみのパカプチを置くはず」
「いえ、カモノハシのぬいぐるみだったような」
「カモでしょ。鴨肉は美味しいよね」
「でもこれって、トレーナーさんと一緒じゃないと」
「異性の人とやるんじゃないの?」
「学園内なら先生やトレーナー以外いないじゃない」
「どうやってそんなの連れてくればいいの」
「うーん色仕掛けとか」
「攫ってくるとか」
「ウマ娘としての実力で連れて来なさいよ」
「それが足りてないからこのジンクスに頼りたいんですが、それは」
女神像の前に集まっている、ウマ娘達。
その会話の端々が、不穏というか。
色々と間違っているけれども、やはりどこかで身に覚えのあるような内容が話されているようだった。
まさか、な。
「そもそも巫女服がないとダメなんじゃ」
「うーんコスプレならなんでも良いって説」
「学園の制服がコスプレにみえるウマ娘もいるでしょ」
「それ、もしかしてラモー」
「ダメダメダメそれは言っちゃダメ本当に怖いから!」
「衣装が必要ってどういう範囲の意味なんだろ」
「何を言ってるの。それは勝負服ってことでしょ」
「GⅠで勝負服を着れるウマ娘はここに集まりませんよ」
「じゃあ何を着るのが正しいの?」
「だから巫女服だって。私その日、遠目で見たもん」
「……誰か近くで正解を見た人は?」
「肩の後ろの二本の長ネギの真ん中のメンコの下の眼鏡の右」
「ぐるぐるみたいな弱点の方は聞いてないんですけど」
しっちゃかめっちゃかである。
巫女服だの、長ネギを振るだの、カモだのと、やたらと身に覚えがあるワードだ。
もしかすると、これは。
俺たちがやった事が変な風に伝わって、一種のジンクス化しているという事だったりするのか。
平凡なウマ娘と評価されていたリングメビウスが勝ち取った選抜レースの結果は、こんな所にも影響が出ているのだろうか。
……いや、でも。きっと人違いだろうな、うん。
「――あっ。あそこに本物の二人がいます!」
「あれがリングメビウスさんと、例の新人トレーナーさん?」
「間違いありません! あの自然なイチャつきっぷりな距離感は絶対にそうですし羨ましいですよ何で学園内で自由恋愛してるんですかどうみても恋してるウマ娘の顔じゃないですか私もあんな恋したい!」
「トレセン学園は婚活会場だから当然」
「いえ。公に付き合ってるなんて言っても無いのに、憶測でしょ。そんなこと」
「ほなあくまでもトレーナーとウマ娘の仲かぁ」
「俺の愛バです、絶対に渡しません(キリッ)って言ってたのに?」
「ほなうまぴょいかぁ」
「恋のダービー、もう始まってる!」
人違いでもなんでもなく、普通に俺達の事だったらしい。
こうして新たな学園名物が生まれたのだった――といったノリで片付けて良いレベルの奇行じゃないので普通に真似しないで欲しい。もっと何かこう、やり方はあるだろう。
しかし、なんだかヤバい雰囲気である。
「本人たちに聞くのが一番早くない?」
「でもあんなに仲良さげにしてるのを邪魔するのは」
「そういえば、以前は手を繋いで爆走してたよ」
「お弁当を二人で食べさせ合ってたの私みたよ」
「尊すぎて激写しちゃった」
「廊下をお姫様抱っこで走ってたよね」
「どっちがお姫様?」
「トレーナーがお姫様」
「きゃあ! 白馬のウマ娘ならぬ金色のダッシュ・ウマ」
「口から稲妻は出ないでしょ」
「でもトレーナーさんがノーリーズンと戦ってたって噂も」
「ヒトはウマ娘に抵抗できませんが」
「わかまつまどか、二十二歳。
「若いし古くないじゃん」
「あのー。私、巫女服を着たまま長ネギを一本ずつ持ってカモちゃんのぬいぐるみを女神像の前に置いて祝詞をあげてたのを見たよ」
「何それ意味わかんない」
「これが求めてる答えのはずなんですけど。ねぇ真剣に聞いてる?」
「でもずっとイチャついてるなら、今でも変わらないもんね」
「そっかぁ。じゃあ今聞いても良いのかも」
「ヨシ。みんな、そうしよう!」
カオス過ぎる。一体、何がヨシなのか。
その言葉を皮切りに、女神像の前に集まっていたウマ娘が一斉にこちらを振り向いた。
めちゃくちゃ怖い。
「なあ、メビウス。どうしようか」
「すぐに、人混みに逃げましょう」
「……答えなくても良いのか?」
「学園祭での私と二人だけの時間が、減ってしまっても宜しければ」
「それは、ダメだな」
「はい。ダメです」
「良し、逃げようか」
そう言って、俺はリングメビウスに右手を差し出す。
彼女は左手を差し出して、俺のその手を握る。
「はぐれないように、ですね」
「いいや、違うさ」
「……?」
「君と手を繋いでいたいんだ。折角の、学園祭だしな」
ちょっとキザな事を、言ってみる。
選抜レースのあの日。メビウスから先に手を繋いできたから、今度は俺の番。
そういうやり取りが、俺たちにはあっても良い。そう思うから。
「そう、ですか。私も同じ気持ちです」
「なら、両想いだな」
「はい。……私が先導しますね。これも一つの、障害です」
「頼んだ、メビウス」
彼女に連れられて、人混みの中へと突入する。
ぐいぐいと進む雑踏の中で、これからも決して彼女の手を離すまいと――俺はその手に力を込めた。
ああっ、逃げました!と、追いかけようとするウマ娘たちを振り切って、人混みを割って進む。
今度の逃避行は、あの日みたいなメビウスの勘違いではなく、本当に起きている。
どんな形であれ。メビウスも、誰かの憧れの視線を受けるウマ娘になったということだ。
彼女は前を見据えて、進んでいく。
人である俺の歩幅に、その歩調を合わせながら。
人混みを抜けて、追いかける彼女たちを完全に振り払った俺たちは、そのまま手を繋いで歩き続けている。
出店もなく、人通りのない並木道。
静かな空間に、小鳥の囀りが心地よく響いていた。
「……そういえば、まどかさん」
「なんだ?」
「一つ、謝らせて頂きたいことがあります」
「君が何か、俺に謝ることなんてあるのか?」
「この巫女服についてです」
ああ、そういえば。そんな事もあったな。後日、話すとも言っていた気がする。
「この巫女服ですが……これはフクキタルさんから借りた物でありません。私の趣味で、私物です。あの時の私は、まどかさんに嘘をつきました。この嘘については、先ほどフクキタルさんにも謝罪をし、それを許して頂けました」
「……そうか」
多分、そうじゃないかとは思っていたが。でもそれって、趣味なのか。何が?
「まどかさんの部屋に居たあの時は、貴方が巫女服がお好きなのかと思い」
「言っておくが、そんな趣味はないぞ。でも、これから目覚めたら君のせいだ」
「それは、それで構いませんが」
「それで良いのか? そうか……」
もう、何でも良い気がしてきた。
「私は貴方の恋人ですが、同時にトレセン学園でレースを走るウマ娘です。殿方の部屋に夜分ウマ娘が一人で訪れる以上は、覚悟の上ではありました。しかしいざとなると、今はまだ、そのような事は断るべきだという常識的な思いと、仮にこれが人の私物であると知っても――それを超えてまで私を求めるのならば、そうして欲しい。そんな浅はかな期待がありました。もしもそうであるならば、その想いには応えたいと。そんな事を思ってしまっていた次第です」
「……俺は、君の事を大切に思っている」
「はい。知っています。だからこそ、フクキタルさんにも、まどかさんにも本当に失礼な事を――」
言いかけたところで、俺は彼女の手をぐっと引いた。
そして正面に立たせると、俺は彼女に――キスをした。
「……えっ」
「俺は、君が好きだよ。メビウス」
ただ触れるだけの口付け。
彼女の桃色の香りを、今までで一番近くに感じた、
柔らかな感触は、互いに一瞬。直ぐに俺は、彼女から顔を離す。
余計な事は、彼女にはもう言わせない。この程度の男としての甲斐性は、ある。
きっと、これが最初で最後だ。
この学園を卒業するまで、それ以上の事はしない。
「ま、まどかさん」
「これが、俺の覚悟だと思ってくれ」
「――……はい」
「時がくれば、俺は必ず君を求める。それまでに君が、俺を嫌いにならない限りは」
「まどかさんを嫌いになる時なんて、絶対に来ません」
「そう言ってもらえるように、俺も努力するよ」
大人としても、学園のトレーナーとしても、何もかも間違っている。
あらゆる記憶の中の自分を思い起こしても、俺からこんな事をしたのは、これがきっと初めてだろう。
もしかするとカレンチャンとは色々あったような気もするが、自ら接触してキスをするなんて真似は絶対に一度もしていない。している気がしない。
それでも、良識ある大人である事よりも、俺はメビウスとの今を選んだ。
リングメビウスという一人の少女を、心の底から求めていた。
前世なんてあやふやなモノがあるのかは知れないが、何となく思う。
俺はきっと。リングメビウスの事が、生まれる前から好きだった。
ああ、恋は盲目とは――こういう事なのだろうか。
本当に、どうしようもない。
「……まどかさん」
「ん?」
「私は、今とても幸せです。貴方に出会えて、走って、跳んで。こうして言葉を交わせます」
「俺も、そう思うよ。俺も君に出会えて、本当に良かった」
あのノートの続きは、選抜レースの日以降まだ読んではいない。ハッピーミークとは一度も勝てなかったというノートの記録とは、既に明らかに違う道を俺達は進んでいる。これまでの俺達の軌跡は、必要な時に開けばいい。
何よりも大事なのは。
今を生きる俺達が、これからこの世で刻んでいく蹄跡なのだから。
「メビウス」
「なんでしょう」
「これからも、駆け抜けてくれるか。俺と共に」
「はい。どこまでも」
切れ長のまつ毛と怠そうな瞳を携えて、ふっと笑みを浮かべる彼女の姿を、この目に焼き付ける。
尾花栗毛の美しい髪が、吹き抜ける風に綺麗に揺れた。
――俺たちの三年間は、まだ始まったばかりだ。
その過程で、これからきっと多くの障害が待ち受けていることだろう。
それでも、運命の壁すらも乗り越えた俺達に怖いモノなんてない。
恐れる事なく、いずれは大障害へ向かい、駆け抜けていく。
これからも変わらずに。
きっと、この
俺たちなら、どんな障害も飛び越えていけるだろうから。
トレーナー契約&選抜レース編 完結。
物語はここで一区切りです。
沢山の皆様が読んで下さり、感想、評価があってモチベーションに繋がり、ここまで書き切ることが出きました。そしてウマ娘という素晴らしい作品に出会い、このような物語を描けた事に、あわせて心から感謝をしたいと思います。
障害レース編もいつか書くかも知れませんが、とにもかくにも。
ここまで読んで下さった方々に、心から感謝を申し上げます。
これからもリングメビウスの物語をみたいと思う方が居れば、とても嬉しいです。
今後も評価、感想等頂ければ幸いです。
それでは、また続きを書くその日まで。
本当に、ありがとうございました!