暗く、冷たいどこかを漂っている。手足の感覚なんてとうになく、どっちが上で下かもわからない。肺には空気でも水でもない何かが送られ続け、心臓までも凍えさせようとしている。それでも動き続ける心臓はひび割れ、今にも砕けてしまいそうだ。
寒くて、寂しくて。見えないことに言い表しようのない恐怖を覚えて。
いるかどうかもわからない誰かに向かって「 」と零した僕を、小さな声が嗤った。
――Nightmare/Depth――
「……ん」
誰かに呼ばれた気がして、うっすらと目を開ける。少しずつくっきりしていく視界には、どこかで見た気のする天井が映っていた。うっすらと鼻を掠める匂いから判断するに、どうやらここは病院らしい。
寝起きでぼんやりとする頭のまま、どうして病院にいるのかを考える。意識を失う前に頭でも打ったのか、どうしてここにいるのかが思い出せない。病院にいるのだから、何かあったのは確かなんだろうけど。
寝ている時に夢を見たのは覚えている。内容は思い出そうとしても思い出せないから、きっとどうでもいいことだったのだろう。夢の存在はさっさと忘れることにして、身体を起こし伸びをする。
窓から差し込む光が心地よく、思わず欠伸が出た。溜まった涙を拭おうとして、ふと視界に入る白い糸に気が付いた。糸は頭を動かす度に揺れる。どのタイミングでかはわからないが、どうやら頭に付いてしまったようだ。
どうやったら寝たまま頭に糸が付いてしまうのか。一応枕を見てみるも、元凶らしき糸は見当たらない。何ともタフな糸だと笑いながら取ろうとして、同時に訪れた痛みに顔をしかめた。
頭を打って入院したのなら、まだ治っていないせいで時折痛みが襲ってきてもおかしくない。もしかすると脳が痛いと錯覚しているだけで、頭ではないところに原因があるのかもしれないけど。
でも、この痛みは違う。怪我をしたから頭が痛んだわけじゃなくて、目の前の『糸』を引っ張ったから痛んだんだ。試しにもう一度糸を引っ張ると、同じ痛みがやってくる。信じたくなくて何度実験を繰り返しても、返ってくるのは同じ結果だけ。
この事実から導き出せる結論は、一つしかない。
「……っ」
見たくない、知りたくないと叫ぶ心を無視して髪を一房掴んで視界に入れる。本来であれば父さんよりも明るい金色に輝いているはずのそれは、いつも見ていたレンの――アブソルの毛と同じ、銀色。
……銀? いや、違う。これは銀なんかじゃない。銀はこんなにも生気のない色をしていない。これは、この色は、
「し、ろ?」
今まで白という色は、雪みたいに輝いていて綺麗なものだと思っていた。何も描かれていない画用紙のように、何にも染まっていないが故の可能性に溢れていると思っていた。ヒトモシのように、一見すると冷たいけど実は暖かい色だと思っていた。
こんなに悲しくて寂しい白があるなんて、一度も考えたことがなかった。知りたくなかった。……信じたくなかった。
いくら頭の中で存在を否定しても、目の前にある現実が簡単にそれをひっくり返す。目を逸らそうが閉じようが、ただの事実としてそこに存在している。脳が現実を理解していくにつれ、髪を掴む手が震える。喉が乾き、声が掠れる。呼吸が荒くなる。
今の僕の顔色は、きっと白を超えて蒼に近いものになっているだろう。近くにラッキーやタブンネがいたら大急ぎでアロマセラピーや癒しの波導をかけられていたに違いない。もっとも、かけられたところで顔色が戻る可能性はないに等しいけど。
何で、どうして。喉元までせり上がってきた言葉はどれも口から出ることなく戻され、固まっていく。水を失ったトサキントのように口をはくはくと動かしていると、突然視界に影が差した。
「だ、大丈夫ですか?」
ゆっくりと顔を動かすと、心配そうにこちらを見る男性の姿が視界に入る。黒髪をオールバックにした彼は少なくとも僕の知っている人ではない。父さんの知り合いか何かだろうか。こういう時は家族が付き添いそうなものだけど。父さん、仕事で忙しいのかな。
何となく声に引っ掛かりを覚えるも、記憶の引き出しを開けるまでにはいかない。そもそも、彼はいつからいたのだろうか。普通に入ってきたにしては音がしなかったし、ずっといたにしては気配がなさすぎた。
「失礼します」
尋ねようとした途端、男性の姿が消えて背中に温もりを与えられる。一瞬何が起こったのかわからずフリーズしたものの、動きから背中をさすられていると理解した。突然のことに頭が混乱する中、与えられる温もりに凝り固まった言葉がほどけていくのがわかる。
しばらくの間背中をさすられ、言葉が完全にほどけると同時に手が離れていく。まるで見計らったかのようなタイミングに驚いて男性を見てみるも、表情からして心を読んだわけではなさそうだった。たまたま手を離すタイミングでこちらの問題が解決したらしい。
助かったは助かったけど、何でいきなり背中をさすってきたのだろう。心底不思議に思い首を傾げた直後、さっきまでの状態を思い出して納得する。確かあれは相手をリラックス効果もあったはずだから、対応としては間違っていない。
でも、ここは病院なのだからナースコールを押せばよかったのでは? 背中をさするのもいいけど、詳しい人に任せられる時は任せた方がいいと思う。動く気配がないので代わりに押そうと探してみるものの、見えるところにそれらしきものはない。
もしかすると、ここにはナースコールがないのかもしれない。そこまで病院について詳しくはないから何とも言えないけれど、あり得ないことではないと思う。一人納得していると、横から「あ、ナースコール!」と慌てた声が聞こえてきた。
どうやら僕の具合がよくなさすぎて存在を忘れていたらしい。意外と抜けているところがあるんだな。見た目は何というか、すごく真面目で完璧な感じがするのに。眼鏡をかけているのと、つり目だからかな。
と、ここまで考えて今更ながらこの人に対して何も反応していないことに気が付いた。正確には反応しようとしていたところに背中さすりが来て色々と全部吹っ飛んだのだけれど。僕も人のことは言えないな、と少し恥ずかしくなる。
ナースコールを押してほっとしている男性に、遅いながらも感謝の言葉を口にする。僕の言葉に振り向いた彼は別に感謝されるようなことでは……、と困ったように眉を下げる。謙遜と受け取るにはその声はどこか弱弱しい。
不思議に思って観察していると、眼鏡の奥の銀色に罪悪感に似た何かが見え隠れしていることに気が付く。一体どこに罪悪感を抱く必要にあるのか。意味がわからず目を瞬かせていると、ノックと共に看護師さんが部屋に入って来た。
ナースコールに応答して来たにしては少し早すぎる。偶然来るタイミングだったのだろうか、なんて考えながらそちらをぼうっと見る。看護師さんは起きている僕に対しやや驚いた顔を見せると、
「髪だけじゃなくて、目までも死神と同じような色をしているなんて。……気持ち悪い」
聞き取ろうと思えば余裕で聞き取れる大きさで、はっきりとそう呟いた。その内容に硬直している間に看護師さんは「先生を呼んできますね」と早々に部屋を出て行ってしまう。呟いた言葉に対する謝罪は何もなく、聞かれたとわかって焦る様子もなかった。
どうして看護師さんにそんな言葉を吐かれないといけないのか。理由も何もわからず、ただ吐かれた言葉だけが脳内を回る。停電が起こったわけでもないのに目の前がちかちか点滅する。喉にまで来た言葉が再び固まっていく気配がする。
「……テオ君? テオ君!!」
まだ名前も知らない男性に名前を呼ばれる。聞こえているのに、固まった言葉のせいでろくに返事をすることもできない。点滅する視界が完全に黒に塗りつぶされる直前、彼が慌ててこちらに手を伸ばすのが見えた気がした。
気が付くと、僕はまた暗く冷たい場所を漂っていた。ひび割れ続けた心臓は遂に砕け散ったようで、どれだけ耳を澄ませても音はしない。肺も動くのを放棄し、冷気に全てを委ねている。DC事件の被害者ではないけれど、これではまるで人形だ。
免罪とはいえ、事件の犯人と言われた自分がそうなるとは。形にすらならない苦笑いを浮かべた時、
ど
く
り
そんな音が、砕け散ったはずの心臓から聞こえてきた。何で、どうして。空白に問いかける間もなく、真後ろにいる「誰か」が話し出す。
『また「何で、どうして」だって。好きだね? その言葉』
『そんなの、自分が一番知っているくせに』
『ああ、可哀そう。可哀そう。彼らは貴方のせいで物言わぬ人形になった』
『被害者が再び目を開く日は二度と来ない』
『お前が罪を認めない限り』『お前が皆の魂を戻さない限り』『お前が――を手放さない限り』『お前が、全てを思い出さない限り』
『この地方に夜明けは来ない。さあ、どうする? DC事件の犯人、テオ・エルム』
人形。被害者。魂。DC事件。犯人。どれもこれも僕とは一切関係のない言葉のはずなのに、妙に頭にこびりついて離れない。重力を感じない空間にも関わらず、体が下へ下へと引っ張られる。耳元で聞き覚えのない声が繰り返し「罪を認めろ」と囁いてくる。
落ちたくなくて、聞きたくなくて必死に抵抗しようとするも体はぴくりとも動かない。病院で目覚める前と似た状況、いやそれよりも悪化した状況に思わず紫の灯りを探そうとして――。
ぱちん
何かが弾けたような、壊れたような。そんな音を立てて時間が巻き戻る。心臓が紅い華を散らしながら元の形に戻り、肺がゆっくりとした動きで脳に冷気を送り届ける。じんわりと感覚が戻りつつある手足の先に、ぬるりとした何かが触れた。
視線を動かすよりも先に、どこか嫌な臭いが鼻を支配する。散らばっていた声が耳の奥で再生される。
『被害者は皆、魂を抜かれていたらしい』
『ストレス発散でこんなことをしでかしたのか』
『もう二度とこんなことが起こらないよう。お前を、お前達を』
『すみません、警察ですか? 今地方を騒がせている事件の容疑者が』
『あの人の息子も堕ちたものだな』
『博士はどう責任を取るつもりなのか』
『ジムリーダーも半数近くいなくなってしまって』
『……もう、終わりだ。何もかも』
『自分は無関係みたいな顔してないで、今すぐ皆の魂を返せ!!』
『どうしてお前達だけ無事なんだ!?』
『お願い、気味の悪い目でこっちを見ないで』
『事件が原因で警察組織が崩壊したらしい……』
『しばらくお咎めがなさそうでよかったな、クソ野郎!』
『早く警察に……何ですって? だったら、一体誰がこいつに罰を与えるのよ!?』
『いや、近寄らないで! これ以上、わたしから希望を奪わないで!!』
『子どもだから全部許されると思いやがって』
『今、笑ったのか? 笑ったな? ……バカにしやがって!!』
『あんたがいなければ今頃幸せだったのに!』
『お願いだから、お願いだから今すぐにでもあの人を』
『この、ひとでなし!!!』
『――調子に乗るなよ、この「死神」が』
ありとあらゆる怒鳴り声、泣き声、嗤い声が耳にしがみついて。染みて。響いて。再生された声は言いたいことを言うだけまき散らすと、何もなかったかのように虚無の中へと消えていった。
頭痛と共に点滅を始めた視界の端で、絶望に染まった映像が流れ始める。証拠も何もないのに僕やヒトモシ達を犯人と決めつけて。殴って、蹴って。閉じ込めて。
……ああ。全て、思い出した。思い出してしまった。
でも、
思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。思い出したくなかった。
「思い出したく、なかったなあ……」