イギリス籍の貿易船ケンウェイ号は船倉に茶葉をたっぷりと蓄えて、ボストンに向かって大西洋を横断中だった。だが数日前、不幸にも船は凪に捕まってしまい、今はだだっ広い洋上の一点から動けずにいた。
夜間当直員のジョン・ボネットは船体の左舷で自らの仕事に従事していた。もうすぐ夜明けのはずだが、未だ太陽は姿を見せないどころか、空が白む様子すらなかった。彼は細い体にボロボロの毛布を巻きつけて縮こまった。夜の海は寒い。彼に支給された毛布は持ち主を暖めるにはあまりにも頼りなかった。
ボネットが寒さに身を震わしていると、彼は誰かが甲板に上がってくる足音を聞いた。こんな時間に起きてくるのは船酔いして吐きそうな奴か、夜食でも漁りに来た食いしん坊ぐらいだろう。彼はこの退屈な時間を紛らわす相手が来たことを嬉しく思った。
しかし甲板に現れた人物を見てボネットの顔は曇った。現れた男は船長だったのだ。確かに暇つぶしにはなるが、気を遣わねばならない人物である点で完璧な相手とは言えなかった。
船長は白い息を吐きながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。神経質そうな痩けた頬に豊かなもみあげが貼りついた顔を、ボネットは心の中であざ笑った。
「やあ」船長はボネットに挨拶した。「おはようございます、船長」ボネットは丸めていた背筋を伸ばした。
それから二人はしばらく黙ってお互いを見つめ合った。
やがて船長が口を開いた。「どうだい? 海の様子は?」
「さっぱりです」ボネットは答えた。「相変わらず無風ですし……嵐が来る気配もありませんね」
「そうかい」船長は溜息混じりに言った。「じゃ、君は仕事に戻りなさい」
「はい、船長」
ボネットは船長が船首の方へ去るのを見届けると、また見張りに戻った。暇つぶしにすらならなかった。彼の周囲は再び静かになった。
ボネットが次の見張りの交代時間まであとどれくらいあるだろうかと考えていると、霧が出始めた。霧はすぐに船を覆い尽くした。ボネットは自分の背後にあるはずのメインマストすら見えないほどの視界不良に舌打ちした。これでは何も見えなくなるじゃないか! そしてすぐにこの奇妙な状況に首を傾げた。なんで霧なんかが出るんだ? 天気のことなんて何も聞いていないぞ。それにまだ空が明るくならないうちに霧が出たということは、きっと異常気象に違いない。
「おい!」ボネットは叫んだ。「誰かいないか!」
返事はない。
彼は必死になって呼びかけ続けた。ボネットの声は虚しく霧の中に消えていった。メインマストを挟んで向かいの右舷にいるはずの同僚も、先ほど船首へ消えた船長も、誰もボネットの悲鳴に応えない。ボネットは恐怖を感じた。彼は世界で自分1人だけが生きているような心地になった。
「助けてくれ!」彼は叫んだ。「誰か!」
その時、ボネットは背後から何かが近づいて来ることに気づいた。振り返ると、船体の真横にもう一隻の船が浮いていた。その船はまるで最初からそこにいたかのように静止している。ボネットがジャンプすればデッキに着地できるほどの至近距離だ。
「助けて!」ボネットは藁にもすがる思いで叫んだ。
「大丈夫ですか」
返事があった!
その声の主の姿はまだ霧のせいでよく見えない。だが声から察するに若い女のようだ。「今そちらへ向かいます」
その言葉通り、女はまもなくボネットの正面に姿を現した。彼女は青白いが肉付きの良い顔にウェーブのかかった長い黒髪をしていた。着ている服も白っぽいドレスのような格好をしている。
ボネットは彼女の姿を見てほっとした。少なくとも彼女が人間であることがわかったからだ。
女はボネットに微笑みかけた。
「私はこの船の船長の娘です」彼女は自己紹介した。「あなたのお名前は?」
「ジョン・ボネットです」ボネットは答えた。「あの……あなたは一体どこから来たんですか?」
「ごめんなさい。それは秘密なの」船長の娘と名乗った女はいたずらっぽく笑った。「それより早く船に乗りましょう。ここにいては凍えてしまいますわ。奥でワインを温めてありますのよ。塩漬けのお肉も」
ボネットは彼女が差し出した手を取りかけて、しかし、慌てて引っ込めた。なぜなら彼の目には彼女の手がまるで死人のように映ったからだ。
「どうしたのです?」「いえ……」ボネットは言い淀んだ。彼はこの女の誘いに乗ってはならない気がした。「遠慮なさらないでください」船長の娘はボネットの腕を掴んだ。
ボネットは思わず悲鳴を上げた。その腕はまるで氷を触っているみたいに冷たかった。
「何がご不満が?」娘は心配そうな顔つきでボネットを見つめた。
ボネットは彼女から目を逸らした。「何でもないです」彼は震え声で言った。
「ではこちらに来てくださいな」船長の娘はボネットを引っ張って船に戻ろうとした。
「待ってくれ!」ボネットは抵抗した。そうだ、この女を自分は知っている。ボネットは幼い頃に死んだ元船乗りの祖父の話を思い出した。
それは霧とともに幽霊船に乗って現れる魔女。彼女は1人で見張りをする船員に近づき、巧言令色を使って自分の船に乗せる。そして誘いに乗った愚か者をバラバラにして殺してしまうのだと。ウェーブのかかった黒髪は海藻でできていて、殺した船乗りの骨で作った櫛で梳かすのだと。この恐ろしい魔女の正体こそ、海底の主たる悪霊『デイヴィ・ジョーンズ』の妻。
その名も『マザー・キャリー』!
「離してくれ!」ボネットは大声で叫んだ。
すると突然、視界が真っ暗になった。ボネットはパニックに陥った。何が起こったのか理解できなかった。ただ自分が暗闇の中に閉じ込められたことだけはわかった。
「ああ、落ち着いて、船乗りさん」頭上から声がした。見上げると、耳まで裂けた唇が弧を描き、落ち窪んだ目の上に海藻でできた髪が覆い被さっているのが見えた。
「助けてくれ! 誰か! ああ、神様!」ボネットは必死に腕をふりほどこうともがいた。だが、魔女の腕力は女とは思えないほど強かった。どれほど暴れても彼女は残酷な笑顔を崩すことはなく、ボネットを引っ張り上げた。
とうとうボネットの足が甲板から離れた。ボネットは枯れた喉で叫び続けたが、誰ひとりとして応える者はいなかった。それから間もなくしてボネットの身体は闇に溶け込むように消えてしまった。
夜明けが来た。ケンウェイ号の甲板にボネットの姿はなかった。
John Masefieldの"Mother Carey"という詩にインスピレーションを受けて書きました。
でも詩の要素を盛り込むどころか、逆にあることないこと創作してしまってて申し訳ないって気持ちです。