幼いころ寝物語に聞いた母の言葉を頼りに、一人の男がとある森を訪ねたお話。
形ないものに形を求めた時。
霹靂が空を裂くように、真似事の装いはひび割れた。
外から動物の鳴き声が聞こえる。ビルに囲まれて育った俺には、それが何の声か判別できない。けど多分哺乳類じゃないかと思う。少なくとも鳥類ではないだろう。
「狐かな、狸かな、イタチかな」
無意識に
昔話のように、迷った旅人を化かしてくれやしないかと。
ふらりと電車に乗って故郷だとかいう田舎を訪れたのは、ほんの思い付きであった。
記憶も残らないほど幼いころに過ごしていた場所を故郷と言ってよいのか分からないが、実感が湧かないだけで故郷は故郷なのだろう。その土地を踏んだ瞬間、懐かしいと感じた。
母方の祖父母がかつて住んでいた土地だが、今はその祖父母もいない。そのため何処を訪ねるということもなく、適当に宿をとって鄙びた家屋の客室に寝転がっている。
畳の和室で、イグサの匂いが心地よい。
しばしの休憩ののち、宿の者に「遅くなる」と一言告げて外へ出た。
思い付きで来てみたが……一応、目的のようなものはあるのだ。
【森の中には心を喰らう化け物が住んでいる】
母が寝物語に聞かせてくれた、この言葉だけが脳にこびりついている。
訪れてから土地の人間に訊ねてみたが、どうもそれは本当らしい。何年かに一度。ある森に入り、出てきた者は気がふれて廃人になるというのだ。
ざくざくと枯れ落ちた小枝や葉を踏み鳴らし、整備されていない森の中に踏み入る。
白シャツにネクタイ、スラックスに革靴といった俺の服装はとてもじゃないが森に入るものではないだろう。だが気にせず進む。
(さてさて、どうしようか)
体の中を満たす靄のような不快な感覚は、解消するべきだろうか。それとも綺麗さっぱり終わらせてしまった方が楽だろうか? 化け物に会えなかったら、一応ロープの準備はある。
何気ない言葉だった。
『人の心ってもんが無いのか?』
別段変わった悪口でもないだろう。ただ何故かその時は妙にべったりと耳の奥に張り付いて、次第に頭から離れなくなっていった。これも蒙を開かれた、と言うのだろうか。それまでまったく自分で認識していなかった考えに導かれたのだから。
自分の人生は上手く行っていたように思う。家族に恵まれ友人に恵まれ、恋人、同僚にも上司にも恵まれた。心を育むにはこの上ない環境。自分は満ち足りているのだと……そう、幸福の円の中で己惚れていた。
だがいざ考え始めたら止まらない。形の見えないものがあるかどうか、確証など得られるはずも無いのに。
じっとりと汗がにじむ。外から見たときは静かな森だと思っていたのに、いざ入ってみれば耳鳴りのような蝉しぐれに全身を打たれている有様だ。
もうそんな時期だったか。衣替えもせず冬物、春物を一緒くたにクローゼットに詰め込んでいるような俺にとって、濃すぎる夏の匂いは鮮烈だった。眩暈がするくらいに。
場にそぐわない格好で、地中から蘇った死体のような足取りで森を進む。
ふと、水の音が聞こえた。沢でもあるのだろうか。
飲み水も持たずに出てきたため、体は汗で湿っているのに喉は乾ききっている。……飲むわけではないが、水の音には惹かれた。
顔を洗うくらいなら良いだろうと、水音を目指す。
都会育ちの貧弱な体に鞭打ち、梢から零れる光を踏みながら進めば……途中でぱっと視界が開ける。
息をのんだ。そこには小さな沢どころでない。有名観光地になってもおかしくない幅広の滝が、汗にまみれた俺を出迎えた。
「は」
吐息と声が入り混じったものが吐き出される。
蝉の声程度では到底かき消されるはずもない滝の轟音が、その姿を目にしたところでようやく耳に届く。異常さはすぐに理解できたが、俺の目の前にはもっと分かり易い怪異が座していた。
【きひゃきひゃ】
風船から空気が漏れるような、あるいは金属を尖ったもので長くひっかいたような音。それがどうやら鳴き声であろうことは、"それ"の中心に白い歯と赤い三日月が覗いたことで理解できた。あれは口だ。ならばそこから発せられた音は、声なのだろうと。
パノラマに広がる滝の前、苔むす岩がぽつんとひとつ……水面から顔を出している。その上にはずんぐりとした、あんこがたっぷり入った大福のようなシルエット。口意外は真っ黒で、その正体は判然としない。
いや、俺はそれを知っているのではないか。会いに来たのではないか。
「化け物」
口端をつりあげながら乾いた声を絞り出した。
それを待っていたのか、黒いモノから孔雀が羽を広げるがごとくぶわっと無数の枝に似た何かが広がった。枝は全てこちらに向かっており、あっという間に俺を取り囲む。
何本も何本も絡みついて、細い触手がぞろりと肌を撫でる。感触は枯れた枝に近く、細かな突起が肌に引っかき傷を作っていった。
震える体。本能が目の前のモノを捕食者であると認識している。
だが……ああ。
嗚呼。
「俺にもお前に食ってもらえる心があるってことだよ、なぁ」
腹の底が震える。今度の震えは、歓喜。
ニィと我ながら粘っこい笑みを浮かべると、ぱかりと口をあけて顔に伸びてきた枝をねぶるように食んだ。化け物の動きが一瞬止まる。それを良いことに噛みつけば、じゃりっと錆びた釘でも噛んだみたいな味と食感。
______ 食っていいぞ。だけどその分、俺にもお前を食わせてくれ。
お前の腹には今まで食ってきた心があるんだろう?
そう目で訴えると、口内に含んだ触手が暴れ出す。肉をひっかきながら、頬、鼻、眼球の裏側へと延びてはめちゃくちゃに暴れまわった。
ついには喉の奥。枝が胃にまで達したことも分かったが、そこで俺は初めて気づく。
(こいつ……怯えている)
次に覚えた感情は落胆だった。
そのまませっかく心と認識しかけたものは、ざらざらと崩れ落ちては空虚へと消え去っていく。
なんだ、化け物にも心があるのか。
疑問を覚えてから、多くの考えを巡らせた。
心とは? それに人の心って?
人を人たらしめるものとはなんだろう。もしそれが心の有無であるならばと、答えを求めた。
探って問いかけて語らって、ついには喰らって。
さすがに疲れ果てて、今日で最後にしようと思った。いるかも分からないモノに縋って……それでも駄目なら俺は消えた方がいいと。
体の中が
幸いなことに化け物はいた。しかし突きつけられた事実は求めていたものでなく。
(俺は一体なんなんだ?)
考える頭はある。どういった思考プロセスでどういった感情に繋がるのかもわかる。でもそれはしょせん真似事。
……己の思い込みであると割り切って生きていくのが賢かったのだろうなぁ。形の無いものを理解できない奴なんて、俺以外にも五万といただろうに。でも俺は確証を求めてしまった。そこが間違いの始まりだ。
結果。心を喰らう化け物に食われないことで「心がない証明」を得てしまった。心あるものが人である、という考えすらも崩れ落ちたのだから笑ってしまう。
さっきから何をされているかの感覚はあるのに一切の痛みを感じない。未だ俺の体内を化け物の触手が這いずっているにも関わらず、だ。
おそらく俺はこいつの天敵。なんといったって、こいつが食うべき心が無いのだ。だから食われる感覚もない。干渉されない。
ふいに化け物の体が俺から離れ、差し込まれていた触手がずるずると這い出ていく。
(あーこいつ、逃げようとしているな?)
俺はオエっと胃液を吐き出すと、恋人に指を絡めるように逃げようとする化け物の触手を捕らえた。
「なあなあ、お前には心があるのかい」
「ずるいなぁ、ずるいなぁ。化け物のお前にはあるのに俺にはない」
「なあ、心ってなんだと思う?」
「お前の腹には今まで食った心とやらがあるんだろう? だったらそれを、俺におくれよ。欲しいんだ」
懇願しながら触手を鷲づかみ引き寄せた。化け物の体が弾力のあるゼリーみたいにぶるぶると震えるが、お構いなしにその体に唇を這わせる。
口付けて、ねぶり、食んで、咀嚼。飲み込む。繰り返す。
すると狂いそうになる激痛が体中を蹂躙した。
いいぞ、いいぞ。これは俺にも心が芽生えてきたって事じゃないか? こいつを食って、生まれてきたんだ。
こいつは心を食う化け物。心無いものには干渉できない。でも今俺は痛みを感じている! ならば今度こそ、きっと!
「俺にはぁ! 心が、 あるんだぁ!」
産声のように叫んだ。喉がずたずたにされていたため、およそ人の声には聞こえなかったが。
ああ、気持ちいい。気分がいい!!
喉から溢れ口内を満たす血も、まるで糖蜜のように甘い。
気づけば化け物のほとんどが腹に収まっていた。
(そうかそうか。化け物は食っても死なないのか)
人ならざるモノの長所を見つけた。それに比べて人っていうのはどうもいけない。すぐ動かなくなる。
(ははっ、こりゃあいい)
俺のナカに根を張り巡らせ、もがく化け物が愛おしい。
ああ、また知った。愛しいと思う心を。こいつは俺にたくさんの心をくれる。可愛い奴だ。
根を張れ、蔓延れ。もっともっともっと。
お前を通して俺は、心を知る。
ぼとりと何か湿ったものが落ちる音がした。同時にぶつんと視覚情報が途切れる。
……どうやら眼球が無くなったらしい。
【きひゃ、きひゃ】
ついさっき聞いた音のような声。それが自分の口から聞こえるのは変な気分だ。
もうどこへ行っていいか分からないが、行く必要はないな。俺は満たされている。
俺はひょこひょことした足取りで、新たな住処へ身を潜めた。
数十年後。かつて田舎と称されていた土地も、開発が進み多くの建物が乱立していた。
だがその中でぽつんと取り残されるように、深い森が存在する。禁則地とされたそこに足を踏み入れる者は誰もいない。
禁を犯して森に入った者は、そこで暗い眼窩から植物を生やした男を見るだろう。
【きひゃ、きひゃ】
森には化け物が住むという。
※企画参加作品です。上限4000文字。