かたん。何かが落ちる音がした。曖昧にぼやけ拡散していた意識が輪郭を得ていく。何をしていたのだったか。霞がかった記憶を探る。寂れた博物館を見つけた覚えがあった。それで、中にはいったような気がする。それからどうしたのか。途切れている。
連続性のない記憶。当たりを見渡せば、先の見えない薄暗い通路が伸びていた。通路にぽつんと所在なさげに佇んでいる椅子に座っていたらしい。周囲には椅子に座って鑑賞する展示物もなく、かといって休憩スペースというには机も他の椅子もない。ただぽつねんと置かれている椅子は、周囲の薄暗さも相まってさみしげに感じられた。
「ありがとね」
自分のために置かれていたような椅子にねぎらいの言葉を口にした。特に意味はないけれど、そういう気分だった。
さてと左右を見る。どちらも先は薄暗い。右か、左か。こだわりはないから利き手側に進む。かつん、かつんと磨かれた床から小気味の良い足音が返ってくる。わずかに輪郭が見える程度の通路を進むと、椅子のあった通路のように少しだけ明るい場所に出た。通路の壁際、腰ほどの高さの台座の上に展示品が鎮座していた。
「無垢」
台座にはめ込まれたプレートにはそう銘打たれている。展示品は綺麗な白い仮面だった。顔をくしゃくしゃにして泣いている仮面は、生の感情を曝け出しているように感じられる。題名の理由はわからないけれど、別段気になるほどでもなかった。
また歩みを再開する。展示品を後に、次へと進む。
かつん、かつん。
「無邪気」
次の展示品は、笑顔の仮面だった。憂いなくにこにことしている仮面からは、幼子の声が聞こえてきそうだった。羨ましい。仮面を手に取り、裏返す。被るには少しばかり小さい仮面に幼少期を思い出す。あの頃にはもどれないと突きつけられているようで残念だった。悩みの無かったあの頃は人生の春休みだったのかもしれない。
かつん、かつん。
「悲痛」
涙を我慢した仮面。噛み締められた唇。閉じられた口の中にはどんな言葉が飲み込まれていたのだろうか。裏面を顔の前にかざす。けれどもこの仮面の吐き出したかった言葉はわからない。きっとそれはこの子にしかわからないのだ。台座に戻した仮面はやはり何も語ってはくれなかった。
かつん、かつん。
「辛酸」
笑顔を浮かべた仮面。けれども無邪気と比べてやや大きい仮面からは、笑い声は聞こえてきそうもなかった。なぜそう感じたのかはわからない。ただ漠然とそう感じた。仮面を手に取り裏返す。表面とは違いくすんで汚れ、細かい傷がついている。指先で傷をなぞる。じくりと胸が傷んだ気がした。
かつん、かつん。
「子」
子と銘打たれた台座には口を閉じ、目元をにこにこと緩めている。けれども一筋の涙が頬にたれている。涙の後を示すかのように、仮面には小さなヒビが入っている。裏面の傷が増えていた。
かつん、かつん。
「迷子」
表情の読み取れない仮面が置かれている。喜怒哀楽のどれでもなく、また他の感情も読み取れない。免許証や履歴書にでも使われてそうな整えられた仮面だった。表面のヒビは広がっていた。触れれば崩れてしまいそうな不安を煽ってくる。手にとって裏面を確認することはしなかった。
かつん。かつん。足取りが緩やかになる。けれど進むことはやめない。仮面を見つけ、題名をみる。そしてまた通路を進む。かつん、かつんと音を刻む。緩やかに、緩やかに。
「ここは」
所在なさ気な椅子が私を出迎えた。通路は気が付かないほどかすかに弧を描いていた。ぐるりと一回り。最初の場所に戻ってきた。
椅子をもう一度見る。椅子の背もたれ、その裏側にプレートがついている。題名は【自分】。不意に顔に手を伸ばした。こつんと硬質な物に触れた。仮面だった。両手をそっと顔に当て、丁寧に仮面を外す。ぼろぼろの仮面が手の上に乗っていた。目の穴は空いていないのに、ずっと視界は通っていた。
目で見ていたのではない。ずっと内心を覗いていた。
ひっくり返し表面を見た仮面。罅だらけの仮面。自分。自分。自分。
面と向かった自分に、親近感は覚えなかった。
自分を見失った。ずっと自分を見てきたはずなのに、振り返り歩んできた暗がりの先のどこにも自分はいない気がする。
だからこれも自分ではない。手からこぼれ落とした仮面は、床とぶつかり砕け散った。罅から分かれるように、散り散りになって散らばっていく自分だったかもしれない欠片。嘆きが聞こえた。嗚咽が漏れていた。啜り泣きが耳についた。
自分を殺して殺して殺して仮面を被ってきた。親に対しては子供の仮面。先生に対しては生徒の仮面。同級生に対しては都合の良い仮面。自分はどこにもいなかった。自分はずっと死んでいた。どうして死んでいた。誰に殺された。
自分で殺した?
違う。心無い言葉に殺された。冗談めかした悪意に殺された。世間体に殺された。いつだって誰かに殺されてきた。
もう一度椅子を見る。【自分】の席。ならば座るべきは自分だ。今、どんな自分が必要だ。どんな自分が欲しいのか。
無垢か。違う。無邪気か。違う。悲痛、辛酸、子や迷子も違う。他にも見てきた仮面でもない。眼下に散らばる先程までの自分でもない。
両手で顔を覆う。指先に力が籠もった。指が動く。自分を、作る。求めた自分を形作る。両手で顔を覆ったまま、すとんと椅子に腰掛ける。うつむいたままの顔から両手が離れる。綺麗に磨かれた床に薄っすらと【自分】が反射した。
「動機ですか。単純なことです。ずっと殺されていたんだから、殺し返して何がいけないんですか?」
問われた疑問に答えを返せば、義憤に満ちた表情が返ってきた。綺麗で真面目な警官の仮面だった。