忍れど 色に出でにけり わが恋は
物や思ふと 人の問ふまで
惨憺たる気分だった。
昨日は一睡もできなかった。
目を閉じれば、彼の顔が浮かぶ。別のことを考えようとすればするほど、意識はかえって引き戻されてしまう。寝返りを打つたびに軋むベッドの音が、ひどく耳障りだった。
窓の外が白み始める頃には、もう眠ることを諦めていた。
昨晩は何も食べていない。それなのに、胃は雑巾を絞るようにきつく縮こまり、胃酸とともに嫌な吐き気が込み上げてくる。喉の奥に何かがつかえているようで、唾を飲み込むことさえ億劫だった。
タイシンの憂鬱は、ここ数日で確実に彼女の健康を蝕んでいた。
ベッドから這い出るように身体を起こす。隣ではスーパークリークが穏やかな寝息を立てていた。規則正しく上下する布団を横目に、タイシンはなるべく物音を立てないように身支度を整えた。
ジャージを羽織り、部屋を出る。机の上に置きっぱなしになっていたスマートフォンに一瞬だけ目を向けたが、手に取ることはしなかった。
画面を開いたところで、何かが変わるわけでもない。
そう自分に言い聞かせ、彼女は部屋を出た。
普段、ウマ娘たちが騒々しく生活を営むトレセン学園の寮も、この時間ばかりは静まり返っている。
廊下に足音が響く。遠くで空調の低い唸りが聞こえるほかには、何の音もしない。食堂へと続く通路にも、窓の向こうの中庭にも、人影はなかった。
あれほど賑やかな場所が、たった数時間、眠りについているだけで、まるで世界の終わりを迎えたかのような顔をする。
タイシンはこの時間が退屈で、そして何より大好きだった。
誰も自分を見ていない。
誰も自分に何も求めていない。
誰かの期待に応える必要も、誰かの言葉を深読みする必要もない。ここでは、ただ自分の脚で走っていればよかった。
彼女はランニングシューズに履き替え、ジャージのファスナーを首元まで引き上げる。
扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
二月の朝は、まるで鞭を打つような寒さで身体を打ちつける。
肺に吸い込んだ空気が、内側から身体を冷やしていく。吐き出された息は白く濁り、薄闇のなかで、ほんの一瞬だけ生まれた命のように浮かんでは消えた。
タイシンは軽く屈伸をし、足首を回す。いつもの準備運動。いつものランニングシューズ。いつものグラウンド。
何も変わっていない。
何も変わっていないはずなのに。
「……っ、は」
小さく息を吐き、彼女は走り出した。
最初はゆっくりと、身体を温めるように。
土を踏みしめるたび、靴底から確かな感触が返ってくる。冷え切った空気が頬を刺し、髪の隙間を風が抜けていく。
一歩、また一歩。
いつもなら、それでよかった。
走っている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。過去にまとわりつかれたあのノイズも、自分自身に向けられた嫌悪も、誰かの何気ない言葉に潜む棘も。すべて脚の動きに変えて、後ろへ置き去りにしてしまえばよかった。
走ることは、タイシンにとって逃避であると同時に、抵抗でもあった。
考えたところでどうにもならないことがある。悩んだところで、変えられないものがある。
ならば、せめて走ろう。
自分の脚で、自分の力で、前へ進もう。
そうしている限り、自分はまだ何者かでいられる気がした。
なのに、どうしてだろう。
いくら脚を動かしても、いくら息を切らしても、あの人のことが頭から離れない。
笑った顔。
自分を呼ぶ声。
何でもない会話のなかで、ふと見せる仕草。
ひとつひとつは、きっと彼にとって何の変哲もないものだ。
けれど、タイシンにとっては違った。
何気なく投げかけられた言葉を、夜になってから何度も思い返してしまう。少しだけ長く目が合ったことに、勝手な意味を見出してしまう。優しくされれば嬉しくて、他の誰かにも同じように優しくしているのを見れば、胸の奥がひどくざわついた。
こんなの、自分らしくない。
わかっている。わかっているのに。
胸の奥に沈めたはずの感情は、息をするたびに形を変えて浮かび上がってくる。
好きだ。
確かに、彼のことが好きだった。大好きだった。
アタシ以外が彼の隣に立つことなど、到底考えたくない。
そんなことを考える自分が、ひどく醜いものに思えた。
彼が誰を好きになろうと、誰と笑い合おうと、それは彼の自由だ。自分にその権利がないことくらい、嫌というほどわかっている。
それでも、想像するだけで胸が痛んだ。
彼の隣にいるのが自分ではなかったら。
彼が自分の知らない誰かに、今まで自分に向けてくれたような笑顔を向けたら。
その人の名前を、何のためらいもなく口にするようになったら。
そんな未来を思い浮かべるたび、心臓のあたりを冷たい指で掴まれるような気がした。
ただ、それと同じくらいに。
彼とのこの生活が。
この距離感が。
何よりも大事だと思っていた。
くだらない話をして、時には言い合いになって、何でもない顔で隣に立つ。明日も、明後日も、その先も。今までと同じように彼と顔を合わせて、同じ時間を過ごす。
それだけでよかった。
いや、本当は、それだけでよかったことにしたかった。
自分の気持ちを伝えてしまえば、何かが変わるかもしれない。
彼が困った顔をするかもしれない。
今までのように接してくれなくなるかもしれない。
気を遣わせて、遠慮させて、最後には隣にいることすら許されなくなるかもしれない。
そんなことになるくらいなら、何も言わないほうがいい。
胸の奥に押し込めて、何もなかったふりをしていればいい。
この気持ちは、アタシひとりのものでいい。
叶わぬ恋だとわかっていた。
傷つけたくなかった。
傷つきたくなかった。
それだけのことだった。それだけのことなのに。
「……なんでさ」
誰に向けたものでもない言葉が、白い息に混じってこぼれた。
目の奥が熱い。
寒さのせいだと、そう思いたかった。
頬を伝うものが何なのか、確かめる必要なんてなかった。どうせ、誰も見ていない。こんな時間に、こんな場所で、誰かに見られるはずもない。
だから、泣いたって構わない。
そう思った途端、余計に涙が止まらなくなった。
視界が滲む。目の前の景色が歪み、走路の白線がぼやけていく。
タイシンは乱暴に目元を拭った。
泣くな。
こんなことで。たかが恋ひとつで。
自分に言い聞かせるように、彼女はさらに速度を上げた。
地面を蹴る音が大きくなる。呼吸が荒くなる。肺が焼けるように痛み、喉の奥がひりついた。
もっと速く。もっと、もっと。
走っていれば、いつかこの感情を振り切れるはずだった。
いつもそうしてきたのだから。
けれど、脚を速めれば速めるほど、思考はかえって鮮明になっていった。
彼の声が聞こえる。
彼の笑顔が浮かぶ。
彼の隣に立つ自分を想像してしまう。
そして、その想像を自分自身の手で打ち消す。
叶うはずがない。叶えてはいけない。
そんなことを繰り返すうちに、走ることと考えることの境目が曖昧になっていった。
呼吸のリズムが狂う。脚が思うように動かない。
それでも止まれなかった。
止まってしまえば、すべてを認めなければならない気がした。
自分がどれほど彼を好きなのか。
どれほど彼を欲しがっているのか。
そして、その願いを叶えることよりも、今ある関係を失うことのほうが怖いのだということを。
「っ、あ……!」
足先が地面を捉え損ねた。
身体が大きく傾き、視界が一瞬、空を向く。
次の瞬間、鈍い衝撃が膝と掌を襲った。
どう、と身体が地面に倒れる音が、朝のグラウンドに静かに響いた。
しばらく、動けなかった。
掌に芝の切れ端がつき、膝にじんじんとした痛みが広がっていく。呼吸だけが、取り残されたように荒く続いている。
空は薄い灰色だった。
夜と朝の境目にある、どちらともつかない色。
タイシンは地面に手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。
何をやっているんだろう、アタシは。
こんなところで転んで。
こんなことで泣いて。
こんなにも、どうしようもなくなって。
自分の脚で走ることさえ、ままならなくなっている。
惨めだった。腹が立った。
誰かに助けてほしいわけじゃない。慰めてほしいわけでもない。
ただ、どうにかしたかった。
この胸の奥にあるものを、どうにかしてしまいたかった。
どうすればいい。
どうすれば。
何度考えても、答えは出てこない。
思考は相変わらず、足元に絡まったままだった。立ち上がろうとすればするほど、見えない何かに足を取られる。
そのとき、不意にひとつの記憶が脳裏をよぎった。
白衣。
薬品の匂い。
机の上に並べられた、得体の知れない器具。
そして、いかにも愉快そうな顔で笑う、あのウマ娘。
「いやはや、調合を間違えてしまった」
それは、ある日のことだった。
トレーニングを終えたタイシンが部屋に戻ろうとしたところ、廊下の向こうからアグネスタキオンに呼び止められたのだ。
例によって、実験に付き合ってほしいという話だった。
タキオンがチームに加入してからというもの、タイシンは時折、彼女の実験を手伝わされていた。
断ってもよかったのだが、タキオンは断ったところで諦めるような性格ではない。結局、適当なところで折れて、助手とも呼べない助手役を引き受けることになる。
その日もそうだった。
研究室に入るなり、鼻をつく薬品の匂いがした。机の上には、大小さまざまなフラスコや試験管が並んでいる。見慣れた光景だ。見慣れた光景ではあるが、だからといって安心できるわけではない。
「またくだらない薬でも作って……」
タイシンは呆れたように呟いた。
どうせ、身体が光るだとか、耳が妙に大きくなるだとか、そういう珍妙な効用の産物だろう。
以前、実験の手伝いをしたときには、丸一日、妙な音が聞こえるという薬を試されそうになったこともある。もちろん、全力で拒否した。
タキオンはそんな彼女の反応を気にも留めず、机の上を忙しなく動き回っていた。
「おやおや、そう邪険にしないでくれたまえ。君の協力があればこそ、研究は一歩前進するのだからねぇ」
「はいはい。で、今日は何?」
「ふむ。それがだね……」
珍しく、タキオンの言葉が歯切れ悪く途切れた。
タイシンは眉をひそめる。
「……何よ」
「いやはや、実は少々、調合に手違いがあってね」
その口ぶりに、タイシンは嫌な予感を覚えた。
タキオンが失敗を認めること自体は、さほど珍しいことではない。彼女の研究は常に試行錯誤の連続であり、実験の失敗など日常茶飯事だ。
ただし、問題なのはその失敗の規模である。
机の端に置かれたフラスコの中で、透明な液体が微かに揺れていた。
「……また変なもん作ったの?」
「変なものとは失敬な。これは本来、非常に画期的な薬になるはずだったのだよ。しかし、ほんの些細な計算違いによって――」
「要するに失敗したんでしょ」
「……まあ、そうとも言えるねぇ」
タイシンは溜息をついた。
そして、机の上に置かれたフラスコをひょいと掴み上げた。
顔の前に持ち上げ、光に透かす。液体は無色透明で、見たところ何の変哲もない。軽く振ってみても、泡ひとつ立たなかった。
「これ?」
「やめたまえ!」
鋭い声が飛んできた。
タイシンは思わず手を止めた。
振り返ると、タキオンがこちらへ手を伸ばしている。普段の飄々とした態度からは想像もつかないほど、焦った表情だった。
彼女はタイシンの手からフラスコをひったくると、慎重に机の上へ戻した。
「……何、急に」
「実は調合を誤ってしまってね。非常に毒性の強い薬品を作ってしまったんだ」
「は?」
「間違っても触ったり、飲んだりしないでくれたまえ。いやあ、危ないところだった」
タキオンはそう言って、いつものように笑った。
だが、その笑みの奥には、普段とは違う緊張がわずかに残っていた。
――そうだ。
タイシンは、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうだ」
声にならないほど小さな呟きが、誰もいないグラウンドに落ちた。
ひとつの考えが、胸の奥に浮かび上がっていた。
それは、あまりにもバカな考えだった。
考えた瞬間に、自分が何をしようとしているのか、わかってしまうような。
けれど、一度浮かび上がった考えは、どれほど否定しても消えてくれなかった。
どうせ、またループするんでしょ?
タキオンの薬は、何かをやり直すための魔法ではない。彼女自身、そんなことを言っていたわけではない。そもそも、どんな作用があるのかさえ、今の自分にはわからない。
それでも。それでも、もし。
もし、何かが変わるのなら。
もし、一度だけでも、今の自分から抜け出せるのなら。
もし、この気持ちを抱えたままではない自分になれるのなら。
タイシンは、きつく唇を噛んだ。
バカなことを考えるな。
そんなことをして、何になる。
彼を傷つけたくないのではなかったのか。
自分だって、傷つきたくないのではなかったのか。
そうやって自分を責めるたびに、胸の奥で別の声が叫ぶ。
じゃあ、どうすればいい。
彼がいつか別の誰かを選ぶ日を待っていればいいのか。
そのときも、何でもない顔をして、おめでとう、とでも言えばいいのか。
そんなのは嫌だった。
嫌に決まっている。
けれど、彼を失うことも、同じくらい嫌だった。
どちらを選んでも、何かを失う。
何も選ばなければ、いつか自分自身が擦り切れてしまう。
どうしようもなかった。
タイシンは、地面についた掌を見つめた。
指先が、小さく震えている。
寒さのせいだろうか。
それとも。
「……なんで、こんな」
言葉の続きは出てこなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
このままでは、もう耐えられない。
わかっている。こんなのは、間違っている。
そんなことは、わかっている。それでも、止まれないのだ。
ゆっくりと脚に力を入れて立ち上がる。
タイシンの脚はフラフラと、でも確実に実験室へと向かっていた。