岸辺露伴は走らない   作:ボンゴレパスタ

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お久しぶりです


岸辺露伴は戻らない13

忍れど 色に出でにけり わが恋は

物や思ふと 人の問ふまで

 

惨憺たる気分だった。

 

昨日は一睡もできなかった。

 

目を閉じれば、彼の顔が浮かぶ。別のことを考えようとすればするほど、意識はかえって引き戻されてしまう。寝返りを打つたびに軋むベッドの音が、ひどく耳障りだった。

 

窓の外が白み始める頃には、もう眠ることを諦めていた。

 

昨晩は何も食べていない。それなのに、胃は雑巾を絞るようにきつく縮こまり、胃酸とともに嫌な吐き気が込み上げてくる。喉の奥に何かがつかえているようで、唾を飲み込むことさえ億劫だった。

 

タイシンの憂鬱は、ここ数日で確実に彼女の健康を蝕んでいた。

 

ベッドから這い出るように身体を起こす。隣ではスーパークリークが穏やかな寝息を立てていた。規則正しく上下する布団を横目に、タイシンはなるべく物音を立てないように身支度を整えた。

 

ジャージを羽織り、部屋を出る。机の上に置きっぱなしになっていたスマートフォンに一瞬だけ目を向けたが、手に取ることはしなかった。

 

画面を開いたところで、何かが変わるわけでもない。

そう自分に言い聞かせ、彼女は部屋を出た。

 

普段、ウマ娘たちが騒々しく生活を営むトレセン学園の寮も、この時間ばかりは静まり返っている。

 

廊下に足音が響く。遠くで空調の低い唸りが聞こえるほかには、何の音もしない。食堂へと続く通路にも、窓の向こうの中庭にも、人影はなかった。

 

あれほど賑やかな場所が、たった数時間、眠りについているだけで、まるで世界の終わりを迎えたかのような顔をする。

 

タイシンはこの時間が退屈で、そして何より大好きだった。

 

誰も自分を見ていない。

誰も自分に何も求めていない。

 

誰かの期待に応える必要も、誰かの言葉を深読みする必要もない。ここでは、ただ自分の脚で走っていればよかった。

 

彼女はランニングシューズに履き替え、ジャージのファスナーを首元まで引き上げる。

 

扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。

 

二月の朝は、まるで鞭を打つような寒さで身体を打ちつける。

 

肺に吸い込んだ空気が、内側から身体を冷やしていく。吐き出された息は白く濁り、薄闇のなかで、ほんの一瞬だけ生まれた命のように浮かんでは消えた。

 

タイシンは軽く屈伸をし、足首を回す。いつもの準備運動。いつものランニングシューズ。いつものグラウンド。

 

何も変わっていない。

何も変わっていないはずなのに。

 

「……っ、は」

 

小さく息を吐き、彼女は走り出した。

最初はゆっくりと、身体を温めるように。

 

土を踏みしめるたび、靴底から確かな感触が返ってくる。冷え切った空気が頬を刺し、髪の隙間を風が抜けていく。

 

一歩、また一歩。

 

いつもなら、それでよかった。

 

走っている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。過去にまとわりつかれたあのノイズも、自分自身に向けられた嫌悪も、誰かの何気ない言葉に潜む棘も。すべて脚の動きに変えて、後ろへ置き去りにしてしまえばよかった。

 

走ることは、タイシンにとって逃避であると同時に、抵抗でもあった。

 

考えたところでどうにもならないことがある。悩んだところで、変えられないものがある。

 

ならば、せめて走ろう。

自分の脚で、自分の力で、前へ進もう。

そうしている限り、自分はまだ何者かでいられる気がした。

 

なのに、どうしてだろう。

 

いくら脚を動かしても、いくら息を切らしても、あの人のことが頭から離れない。

 

笑った顔。

自分を呼ぶ声。

何でもない会話のなかで、ふと見せる仕草。

 

ひとつひとつは、きっと彼にとって何の変哲もないものだ。

 

けれど、タイシンにとっては違った。

 

何気なく投げかけられた言葉を、夜になってから何度も思い返してしまう。少しだけ長く目が合ったことに、勝手な意味を見出してしまう。優しくされれば嬉しくて、他の誰かにも同じように優しくしているのを見れば、胸の奥がひどくざわついた。

 

こんなの、自分らしくない。

わかっている。わかっているのに。

 

胸の奥に沈めたはずの感情は、息をするたびに形を変えて浮かび上がってくる。

 

好きだ。

確かに、彼のことが好きだった。大好きだった。

 

アタシ以外が彼の隣に立つことなど、到底考えたくない。

そんなことを考える自分が、ひどく醜いものに思えた。

 

彼が誰を好きになろうと、誰と笑い合おうと、それは彼の自由だ。自分にその権利がないことくらい、嫌というほどわかっている。

 

それでも、想像するだけで胸が痛んだ。

 

彼の隣にいるのが自分ではなかったら。

彼が自分の知らない誰かに、今まで自分に向けてくれたような笑顔を向けたら。

その人の名前を、何のためらいもなく口にするようになったら。

 

そんな未来を思い浮かべるたび、心臓のあたりを冷たい指で掴まれるような気がした。

 

ただ、それと同じくらいに。

 

彼とのこの生活が。

この距離感が。

 

何よりも大事だと思っていた。

 

くだらない話をして、時には言い合いになって、何でもない顔で隣に立つ。明日も、明後日も、その先も。今までと同じように彼と顔を合わせて、同じ時間を過ごす。

 

それだけでよかった。

 

いや、本当は、それだけでよかったことにしたかった。

自分の気持ちを伝えてしまえば、何かが変わるかもしれない。

 

彼が困った顔をするかもしれない。

今までのように接してくれなくなるかもしれない。

気を遣わせて、遠慮させて、最後には隣にいることすら許されなくなるかもしれない。

 

そんなことになるくらいなら、何も言わないほうがいい。

 

胸の奥に押し込めて、何もなかったふりをしていればいい。

この気持ちは、アタシひとりのものでいい。

 

叶わぬ恋だとわかっていた。

 

傷つけたくなかった。

傷つきたくなかった。

 

それだけのことだった。それだけのことなのに。

 

「……なんでさ」

 

誰に向けたものでもない言葉が、白い息に混じってこぼれた。

 

目の奥が熱い。

 

寒さのせいだと、そう思いたかった。

 

頬を伝うものが何なのか、確かめる必要なんてなかった。どうせ、誰も見ていない。こんな時間に、こんな場所で、誰かに見られるはずもない。

 

だから、泣いたって構わない。

 

そう思った途端、余計に涙が止まらなくなった。

 

視界が滲む。目の前の景色が歪み、走路の白線がぼやけていく。

 

タイシンは乱暴に目元を拭った。

 

泣くな。

 

こんなことで。たかが恋ひとつで。

自分に言い聞かせるように、彼女はさらに速度を上げた。

 

地面を蹴る音が大きくなる。呼吸が荒くなる。肺が焼けるように痛み、喉の奥がひりついた。

 

もっと速く。もっと、もっと。

 

走っていれば、いつかこの感情を振り切れるはずだった。

いつもそうしてきたのだから。

 

けれど、脚を速めれば速めるほど、思考はかえって鮮明になっていった。

 

彼の声が聞こえる。

彼の笑顔が浮かぶ。

彼の隣に立つ自分を想像してしまう。

 

そして、その想像を自分自身の手で打ち消す。

 

叶うはずがない。叶えてはいけない。

 

そんなことを繰り返すうちに、走ることと考えることの境目が曖昧になっていった。

 

呼吸のリズムが狂う。脚が思うように動かない。

 

それでも止まれなかった。

 

止まってしまえば、すべてを認めなければならない気がした。

 

自分がどれほど彼を好きなのか。

どれほど彼を欲しがっているのか。

そして、その願いを叶えることよりも、今ある関係を失うことのほうが怖いのだということを。

 

「っ、あ……!」

 

足先が地面を捉え損ねた。

 

身体が大きく傾き、視界が一瞬、空を向く。

次の瞬間、鈍い衝撃が膝と掌を襲った。

 

どう、と身体が地面に倒れる音が、朝のグラウンドに静かに響いた。

 

しばらく、動けなかった。

 

掌に芝の切れ端がつき、膝にじんじんとした痛みが広がっていく。呼吸だけが、取り残されたように荒く続いている。

 

空は薄い灰色だった。

 

夜と朝の境目にある、どちらともつかない色。

タイシンは地面に手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。

 

何をやっているんだろう、アタシは。

 

こんなところで転んで。

こんなことで泣いて。

こんなにも、どうしようもなくなって。

 

自分の脚で走ることさえ、ままならなくなっている。

 

惨めだった。腹が立った。

誰かに助けてほしいわけじゃない。慰めてほしいわけでもない。

 

ただ、どうにかしたかった。

 

この胸の奥にあるものを、どうにかしてしまいたかった。

 

どうすればいい。

 

どうすれば。

 

何度考えても、答えは出てこない。

 

思考は相変わらず、足元に絡まったままだった。立ち上がろうとすればするほど、見えない何かに足を取られる。

 

そのとき、不意にひとつの記憶が脳裏をよぎった。

 

白衣。

薬品の匂い。

机の上に並べられた、得体の知れない器具。

 

そして、いかにも愉快そうな顔で笑う、あのウマ娘。

 

「いやはや、調合を間違えてしまった」

 

それは、ある日のことだった。

 

トレーニングを終えたタイシンが部屋に戻ろうとしたところ、廊下の向こうからアグネスタキオンに呼び止められたのだ。

 

例によって、実験に付き合ってほしいという話だった。

 

タキオンがチームに加入してからというもの、タイシンは時折、彼女の実験を手伝わされていた。

断ってもよかったのだが、タキオンは断ったところで諦めるような性格ではない。結局、適当なところで折れて、助手とも呼べない助手役を引き受けることになる。

 

その日もそうだった。

 

研究室に入るなり、鼻をつく薬品の匂いがした。机の上には、大小さまざまなフラスコや試験管が並んでいる。見慣れた光景だ。見慣れた光景ではあるが、だからといって安心できるわけではない。

 

「またくだらない薬でも作って……」

 

タイシンは呆れたように呟いた。

 

どうせ、身体が光るだとか、耳が妙に大きくなるだとか、そういう珍妙な効用の産物だろう。

 

以前、実験の手伝いをしたときには、丸一日、妙な音が聞こえるという薬を試されそうになったこともある。もちろん、全力で拒否した。

 

タキオンはそんな彼女の反応を気にも留めず、机の上を忙しなく動き回っていた。

 

「おやおや、そう邪険にしないでくれたまえ。君の協力があればこそ、研究は一歩前進するのだからねぇ」

 

「はいはい。で、今日は何?」

 

「ふむ。それがだね……」

 

珍しく、タキオンの言葉が歯切れ悪く途切れた。

 

タイシンは眉をひそめる。

 

「……何よ」

 

「いやはや、実は少々、調合に手違いがあってね」

 

その口ぶりに、タイシンは嫌な予感を覚えた。

タキオンが失敗を認めること自体は、さほど珍しいことではない。彼女の研究は常に試行錯誤の連続であり、実験の失敗など日常茶飯事だ。

 

ただし、問題なのはその失敗の規模である。

机の端に置かれたフラスコの中で、透明な液体が微かに揺れていた。

 

「……また変なもん作ったの?」

 

「変なものとは失敬な。これは本来、非常に画期的な薬になるはずだったのだよ。しかし、ほんの些細な計算違いによって――」

 

「要するに失敗したんでしょ」

 

「……まあ、そうとも言えるねぇ」

 

タイシンは溜息をついた。

そして、机の上に置かれたフラスコをひょいと掴み上げた。

 

顔の前に持ち上げ、光に透かす。液体は無色透明で、見たところ何の変哲もない。軽く振ってみても、泡ひとつ立たなかった。

 

「これ?」

 

「やめたまえ!」

 

鋭い声が飛んできた。

 

タイシンは思わず手を止めた。

振り返ると、タキオンがこちらへ手を伸ばしている。普段の飄々とした態度からは想像もつかないほど、焦った表情だった。

 

彼女はタイシンの手からフラスコをひったくると、慎重に机の上へ戻した。

 

「……何、急に」

 

「実は調合を誤ってしまってね。非常に毒性の強い薬品を作ってしまったんだ」

 

「は?」

 

「間違っても触ったり、飲んだりしないでくれたまえ。いやあ、危ないところだった」

 

タキオンはそう言って、いつものように笑った。

だが、その笑みの奥には、普段とは違う緊張がわずかに残っていた。

 

 

 

 

――そうだ。

 

タイシンは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……そうだ」

 

声にならないほど小さな呟きが、誰もいないグラウンドに落ちた。

 

ひとつの考えが、胸の奥に浮かび上がっていた。

 

それは、あまりにもバカな考えだった。

 

考えた瞬間に、自分が何をしようとしているのか、わかってしまうような。

 

けれど、一度浮かび上がった考えは、どれほど否定しても消えてくれなかった。

 

どうせ、またループするんでしょ?

 

タキオンの薬は、何かをやり直すための魔法ではない。彼女自身、そんなことを言っていたわけではない。そもそも、どんな作用があるのかさえ、今の自分にはわからない。

 

それでも。それでも、もし。

もし、何かが変わるのなら。

 

もし、一度だけでも、今の自分から抜け出せるのなら。

もし、この気持ちを抱えたままではない自分になれるのなら。

 

タイシンは、きつく唇を噛んだ。

 

バカなことを考えるな。

そんなことをして、何になる。

 

彼を傷つけたくないのではなかったのか。

自分だって、傷つきたくないのではなかったのか。

 

そうやって自分を責めるたびに、胸の奥で別の声が叫ぶ。

じゃあ、どうすればいい。

 

彼がいつか別の誰かを選ぶ日を待っていればいいのか。

そのときも、何でもない顔をして、おめでとう、とでも言えばいいのか。

 

そんなのは嫌だった。

嫌に決まっている。

 

けれど、彼を失うことも、同じくらい嫌だった。

 

どちらを選んでも、何かを失う。

何も選ばなければ、いつか自分自身が擦り切れてしまう。

 

どうしようもなかった。

 

タイシンは、地面についた掌を見つめた。

指先が、小さく震えている。

 

寒さのせいだろうか。

それとも。

 

「……なんで、こんな」

 

言葉の続きは出てこなかった。

 

ただ、ひとつだけ確かなことがあった。

このままでは、もう耐えられない。

 

わかっている。こんなのは、間違っている。

そんなことは、わかっている。それでも、止まれないのだ。

 

ゆっくりと脚に力を入れて立ち上がる。

タイシンの脚はフラフラと、でも確実に実験室へと向かっていた。

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