雨は苦手だ。
ボロ屋の天井に乗せただけの木版を太鼓よろしく遠慮なく雨が打ち鳴らす。ルーンが施されているから、雨漏れの心配はないが、さらに暑くなる頃には嵐が吹き荒れる。そうなる前に新しい屋根を見繕ってこなければいけない。何よりじめじめと、夜闇にねっとりとねぶられるような感覚がいまだ慣れない。
それはシエラも同じだったようで、身体を起こして窓の外をぼんやりと見つめていた。折れた純白の翼は破れたドレスのようにも見えた。
白い一枚布を身体に巻きつけただけの、故郷の伝統衣装にもよく似ている。
目覚めながらにして夢想しているような彼女はなにを見ているのだろうか。
雲の上の城で過ごした、故郷の思い出?
高く遠く、際限ない空を翔けて回ったこと?
あるいは、戦火に身をやつし、世界の有り様を模索した日々?
晴れは嫌い。雨の日の後の青空は特に憎たらしい。
ブーツの底が水を叩く。泥水が跳ねてローブの裾が汚れるのを気にしている暇はない。
ぼうぼうに伸びた雑草が足をくすぐる。
それにしたってどこの誰がこんな僻地に家を拵えたのだろう。家屋と呼ぶにははりぼてもいいところだ。リーンの地底湖のほとりに巣を持つ四本指の小人たちですらこれよりもマシな小屋に住んでいる。
森の奥深くなのが気に入らない。草木は陰気だし虫は毒々しい。景観が美しくない。地上には数えきれないほどの絶景があるというのに、我が家から望める景色が薄暗い洞窟となんら変わりないのは損だ。
緑の天井を抜け出すと陽神の化身が目をギラつかせていた。風が立ち、蝶や花が色気づく。
程なくして廃れた礼拝堂が見えてくる。
入口に立つ戦の神を模した像は、槍は折れ、翼がもげて首から上がない。戦の爪痕というやつだ。まるで巨大な獣に爪痕を刻まれたように抉られている。
もう少し大切に扱ってもいいのにと思うが、その奥に見える町の門もまたアーチが崩れ、二本の柱のようにしか見えない。けして裕福な町でないのはよく知っているから、こんな町はずれのお堂に修繕を手をかける余裕がないのだろう。
急に取り残された気持ちになって、自然と早足になる。
クトリは東方の小さな町の学園に通う学徒であった。
東方の田舎町は、かつては町の北側にそびえる山々のもたらす豊かな恵みと、周りをぐるっと一周のに一日では足りないであろう巨大な湖が美しく、観光に訪れる者も多かった。
神話の時代。神と竜と巨人たちの戦の折に赤竜に蹂躙され、山は一面が燃え上がり、噴火した火山のように灰を撒いた。湖は大半が干上がり、欠けた月みたいになっていた。
戦神であり、天使のおさであるディアナが単身で竜を撃退したことで土地はともかく、そこに住む人々に僅かな安寧をもたらした。
どんな騎士物語や英雄譚を開いたって、必ずと言ってもいいほど竜が出てくる。だからとて、神話の時代にそういった神獣の類いがありふれていたわけではない。真の強者の前にしか竜は現れない。竜とはそういう生き物なのだから。
戦の後の世で、この町に天使信仰が根付いたことは言うまでもない。
昔からこの町に住む大人たちはその経緯をよく知っている。教授が熱を込めてそう語ったのを、クトリは話半分に聞いていた。
教授は続ける。
一方で、西方の地を制したのは天空都市の、翼の軍勢を率いた一人の天使であった。聖文字で勝利を意味する天使である。
彼女は一介の天使でありながら、類稀なる将器と才気を発揮し、忠臣としてディアナが不在の軍をまとめ上げ、西方で活躍した。
だが彼女は敗れた。炎の巨人に翼をもがれ、機械都市に血の雨と天の叫びをもたらし、そこに住まう人々に光輪化をもたらしたのである。これが東西で天使信仰を二分化するきっかけとなった。
機械都市は復興とともに街の上に大きな傘を立てた。月の満ち欠けを気に留めることもなく、夜の闇が空を覆うのを待ってから都市に明かりを灯して生活するようになったという。
やはり、大人たちならば誰でも知っている話だとも言った。
たったの二十年前の出来事だ。
そして今、神々はこの星を去り、恵みの途絶えた世界は緩やかな滅びを迎えている。
――ああ、このまま眠ってしまいたい!
昨晩の雨のせいですっかり寝不足だし、少しばかり舟を漕いだところで咎められるようなこともない。
妙に背中が痒い。ずきずきと、既にないはずのものが痛むことはあっても、こうもこそばゆいのは初めてのことだった。まだ痛むほうがマシだ。汗っかきな自分の体質にも苛立って、ローブの中が蒸れているような気がしてか余計に眠ることは叶わなかった。
講義が終わって、浴場にでも寄っていけたら最高だろうが、人前で肌を晒すのは、やはり気が引けた。
帰り道で、東の空に浮かぶが目に入り、胸の内が曇ったような気がした。
長い、長い道のりを歩いてきた。
出会った人の顔を忘れ、受けた痛みも、流した涙も掠れて、擦り切れていくには十分な時間だ。
羽ばたくことを忘れて、果実がまんまると肥えて自らの重さに耐えかねて落ちてくるのを待つようになったところで、生まれた土地や血筋が変わるようなことはない。
ヒトの輪の中にいたって、結局のところ私の家は、あの天空都市にあるのかもしれない。
ボロ屋の外でシエラは土いじりをしていた。
庭とも森ともつかない場所を石で囲い、土を入れ替える。元あった土をいくつか混ぜ、馴染むまでそれを繰り返す。
どこか楽しそうに笑みを浮かべるシエラの横顔が羨ましくなる。園芸というのは、そんなに楽しいものなのだろうか。
「手伝おうか?」
シエラの翼がピンと揺れる。ネコが尻尾を立てるのによく似ているしぐさだ。
「ううん。もう済んだから。今日は早いのね」
「外は暑いから。ここは涼しいのだけは最高なんだけどね。ねえ、それよりも背中が痒いの。ちょっと見てもらえない」
ボロ屋から少し歩いたところに泉がある。
深い森の泉に人が立ち寄ることはない。二人の少女が一糸まとわぬ姿で水を浴びる光景を目にしたら、きっと手に取ったこともない筆を握る意欲も湧くだろうに。
言うなればここは聖域だった。ヒトの世に根づいた、ヒトの寄り付かぬ地。二人の天使は、いつもここで髪の脂を落とし、垢を擦り、爪の間の泥を取り、身体を白く、清潔に保つ。
「ああ、生えてきているのね。ここだけ毛深い。ちょっと我慢してね」
シエラがえい、と力任せに引き抜く。棒で小突かれたような痛みが肩甲骨の少し内に響く。
「ねえ、抜くならもっと優しくして」
シエラが摘まんでみせたのは、産毛と呼ぶには少し濃い白の、短い、紛れもなく羽毛だ。見ただけでぞっとした。いつか、埋まったはずの二つの輪に孔が空いて、骨が背中を食い破ってくるのではないかと。
「縫合がしっかりしているから、骨までは生えてこないわ。安心して。ドクターの処置は完璧よ。接ぎ目にギプスだってしてあるし。あなたの骨格は翼が生えていたことをほとんど忘れている。あとで剃ってあげるから、私の羽根も整えてちょうだい」
シエラは背中を見せると、折れて半分になった翼をぎこちなく広げた。
「少し大きくなった?」
「そうね。クトリとは違って骨が折れただけで、腱も除いてないし、神経も通っているから。少しずつ元の大きさに戻っていくと思う」
換羽期が近いのか、シエラの羽根は指をかけただけで簡単に抜けた。ただでさえ半分しか翼がないのに、みるみると貧相な枯れ枝のようになっていくのが少し可哀想だった。
「どうして翼がないのに羽毛は生えてくるの?」
「骨の接合部分を念入りに処置しただけだしね。あなたの背中は酷い火傷を負っていたから、毛なんて生えないだろうって高を括っていたのかもしれないわね」
……気の利かない医者だ。
身体は不便だ。なんだって要らぬものまで記録してしまう。拡張してしまう。
強い刺激で簡単に形を変える。ないはずのものが痛むし、あるはずのものをなくしたりする。間違った記録を正すには、それなりの苦労が必要になる。
それは身体があって、内側に心があるせいだとシエラは言う。
心。それは神々のけして知らぬもの。唱えぬもの。関せぬもの。
あの者たちは知っているから。なにを、どうすれば世界がどうなってしまうのか。
だから心なんていう曖昧なものに支配されないのだという。
支配だなんて物言いは間違っている。クトリはそう思っていた。
身体は心と反発する。心とは反対の動作を身体は行える。共鳴だってする。なにかしらの外的要因と接触するときは、心が燻る。見えない火を灯す。
夢と性質がよく似ている。
神様は、夢もまたほとんど見ることがない。
いつかどこかで、上司だった者が寂しげに語ったのを思い出した。
晴れは嫌いだ。
蒼天に坐す天空城なんかには目もくれず、進むべき道の先にある町めがけて、ウィクトリアは今日も地を駆ける。
程なくして、廃れた礼拝堂が見えた。
その入口に立つ天使像は壊れ、今も尚、いびつな形で立ち続け、人々の心に宿る。
クトリは、不意に立ち止まりそれと向き合うと両の手を合わせ、輪を象る。
今、私は心ない者たちが去った、か細い枝木のような世界に立ち、その綻びの輪の中で、それなりに楽しくやっています。
ならば、私があなたに捧ぐ祈りはこれしかないだろう。
輪を模して、貴しと為す。
主なる神。もとい、戦の神――あるいは天使長ダイアナ様。
どうか、二度と私たちの前に現れないでくださいますよう。
心より、お祈り申し上げます。