両片想いですけど結ばれないし恋愛要素薄いので、幸せになるとか救いがある、みたいな要素もないので苦手そうな方は読まないほうがいいタイプのものになっているかもしれません、すみません…!
樋口アイドルになってくれてありがとう…ほんまありがとう…あとpSSR実装おめでとうございます。
※あらすじの注意をお読みください※
「やらないの?アイドル」
購買部の前にある自販機、そこに並ぶ他のものよりもたくさん量は入っているのに値段は同じお得な紙パックのミルクティー。
突き立てたストローからそれを吸い、「今日はうちくるの?」みたいな気軽さで幼馴染の今後の人生を決めそうな事について聞いてきた様子に、きっと自分がアイドルになる事もこのノリだったのだろうと予想がついて胸の中にあるコップにどろりと濁ったものが流れ込んで溜まっていく。
既に透がアイドルになるという噂は燃え始めた小さな火種くらいには育っていて、「浅倉さん、アイドルになるんだって」「綺麗だもんね」「透は向いてなくない?性格がねぇ」――色々な下らない声は耳に入ってくるし、わざと私の耳に入るように噂をしている下衆が多いのも分かっている。何か一言、幼馴染からほしいのだろうが、正直、どうでもいい。
そう、どうでもいい。
彼女は私に相談なくアイドルになり今までの私たち、周り、人生、色々なものを変えると決めた。勝手な決定、それにひどく苛立っている自分を認めるまでに一晩眠れない夜が必要で、そしてそこからは何もかもが早かった。
隣の家に住むだけの他人に相談する義務なんてない。スカウトをされたのは初めてではないのに、今このタイミングでなぜアイドルになってもいいと思えたか幼馴染に語る必要はない。私たちの傍にずっといる為の努力も透には要らない。
理解したから、彼女を諦める決心をする為の時間はそんなに要らなくて、悪徳事務所が透を騙していやしないかと心配になって駆け込む脚を止める事も容易かった。容易かったと、思う。
「何で。アイドルやるのは浅倉でしょ」
「うん。だから、樋口もやるのかなって」
「冗談。勘違いしてるみたいじゃん」
「勘違い?」
「……浅倉は綺麗だから上手くいくよ」
「樋口も」
「はっ……なんか、変な会話。なになにちゃんのほうが私よりかわいいよ、みたいな。浅倉とする事になるとか思わなかった」
「本気なんだけどなぁ」
「そう。でも、私はやらない。一人か……もしくは雛菜とやって」
――その言葉に私は頷けなかった。
理解ができなかったからだ。絶対樋口はついてきてくれると信じていたのに樋口はあっさり私から離れる選択をして、だからこれから先は樋口が私の傍にいない。
幼馴染と早い段階で離れてしまう人生を選択したのだと私は理解して、だけど、樋口がいないこれから先の見通しがまるでたたない。
漫画を開けば剣を握る勇者がいて魔王を倒す、やたらモテる冴えない男がそのせいで苦労する、虐められている女の子が超人になる……自分がそんな存在になったらと漫画を読んで夢想する人もいるかもしれないが、実際にそれが我が身に起きると信じる人は少ないと思う。
つまり、そういう事だった。
要するに私は「雛菜とやって」と突き放された瞬間、学校生活に加えてアイドル活動をするだけという生活になると自分の今後に予想をつけていてそれは間違っていると理解できたのだった。そもそも行動に伴う変化についてほぼ考えていなかった。
学校に行く。授業を受けたり寝たり。帰る。樋口がよくいる。ごはん食べる。ばいばい。お風呂。勉強。寝る。
この生活に一つ新しく加わるだけじゃない。一つ削られる。学校から家に帰るまでの間にアイドル活動が加わる。そして帰っても樋口はいない。休日も減るだろう。アイドルの私が食い潰す。やっと理解できた。
どちらかと言えば気は短めな彼女なので過去にもイラだった様子でこんな受け答えをされた事はある。だけど樋口の今回のこれはそういう一過性の感情じゃないと何となく感じた。
実際雛菜はアイドルをやりたがった。しかし私と雛菜だと売り出し方に悩むのでお互いソロでやろうというプロデューサーの言葉に心底つまらなさそうな顔をして、せっかく事務所に入れる事になったのにそれをさっさと辞退して樋口を不機嫌にしていた。
樋口は私たちにセットでアイドルをしてほしかったのだろうか。分からなかった。樋口の事が分かった事なんて一度としてない。彼女は言葉少なで自分をいつも伝えてくれない。
探ろうとして右に立つ。左を見る。いつの間にか褐色の髪は重く顔の右半分をいつも隠すようになっていた。彼女の顔が見えない。
私から見えないのだから樋口からも見えないはずだが、そもそも彼女の双眸はこちらに向いてはいなくて、だから見えなくて困った事なんてないんだろう。私が樋口を理解できないように樋口も私を理解していなかったし、理解する気もない。
それが良いと思われているだろう事が分かってしまって、たぶん人生ではじめて「死ぬほど辛い」なんてありふれた言葉の重さを知った。結局幼馴染の為にアイドルの私は死なないのに。
私が人の言葉の意味が噛み砕けないのも反応が薄いのもいつもの事だ。そんな私に違和感を持たなかった彼女は私を置いて彼女はチャイムの音に反応して自分の教室へと歩を進めてしまうし、私も自分の教室に戻り、会話は終わる。
「今度ショッピングモールでミニライブやるんだ。きてよ」
「時間あればね」
「小糸ちゃんと雛菜、きてくれるよ」
「高二二人と一緒にしないで。高三の夏休みなんて勉強で埋まってる」
「あはは、私は勉強せずに踊ってるのに」
「踊りながら勉強して」
「無理でしょ」
「そうじゃなくて……とにかく、行けたら行く」
「それこないやつ」
「まぁね」
相変わらず透はアイドルを続けている。
透自身か世の中か、どちらかがアイドルの浅倉透に飽きてしまって彼女が死ぬのは半年後くらいで――厳密には飽きられる程周りの気をひいていくなんて思っていなかった――とにかく、透は私の日々の中に還ってくると未練がましく信じていた。
しかし彼女は時好に投じたアイドルになりつつある。ときたまプロデューサーらしい男に家に送られてきていて、それを見かけた同級生が援助交際だとか噂をたてていたので睨んで黙らせた事もある。
ほら、ろくな事にならない。私が近くにいないと、ろくな事にならない。
そう信じたかったのは私だけで、ライブステージの上の彼女は今まで見た事くらい美しかった。
何か欠落しているからこそ完成している、無機質を感じさせる彼女の美しさは既に至高で、だからこそ手を伸ばしてしまう人が街灯に集る羽虫のように集まっては勝手に焼け死んでいく。
そんなのは違った。
やりたい事を見つけた彼女はキラキラと色とりどりの輝きを纏う楽しそうな少女だった。知らない女の顔をした透は遠いのに触れさせてくれそうな優しさを柔和な笑顔で誤認させてくるから嫌で堪らない。
澄んだ声はよく通る。美しく咲む顔は輝いている。すらりと伸びた手足が視線を絡めとって踊る。
私は熱意で煌々と燃える街灯を見上げる焼け死んだ羽虫だった。
間奏のダンスの最中に首をまわして観客を見る。サービス性ある素晴らしいアイドルと目が合ったと勘違いした男が数人照れ臭そうに手を振っていて酷く滑稽。
実際に目があった雛菜は一人だけ持っている青色のサイリウムを元気に振りまわして小糸に隣から宥められている。そんな三人のやり取りを二階から眺めて、少し笑う。アイドルとファンの関係になっても間柄は良好らしい。私と違って。
「いた」
間奏の間に樋口を探したのはどうせ自分がこう呟くと分かっていたから。
最前列にきてくれている二人は私の口の動きを見て「あ」みたいな顔をした後、小糸ちゃんは俯いて、雛菜はサイリウムを大きく振ってくる。小糸ちゃんは今度はそれを止めない。
絶対にきてくれると信じていたのに実際私を待っていたのは二人だった。その他何人か待ってくれているファンの人たちがいて、全員顔を覚えていたから「また会いにきてくれたんだ」と微笑めば三人くらい少し泣いたのには驚いた。
それが喜びからくる涙だと知っている。ありがたいし、そんな風に想ってくれる方がいるのは贅沢な事だと教えてもらった。納得している。
樋口はそうじゃなかった。
ショッピングモールの二階から私を見下ろす樋口の顔は目が合った瞬間ひきつっていく。
一階のステージ前にはほとんど人はいないのに、わざわざ遠いそこから私を見ていた理由は分からない。
分からないから教えてほしい。いつも言葉を待っている。
だけど話すのが得意でも好きでもない事を知っているから。話したくないならゆっくりでいいと言葉をいつも待っていた。
無理なく彼女のペースで話し始めてくれればいい。だってまだ傍にいてくれているんだから。
「この前きてくれてたね。ありがと」
「数学一区切りついたから」
「本当?教えて」
「嫌。自分で手一杯。ていうか浅倉受験するの」
「するよ。芸能人も通ってる大学だって」
「……アイドル活動に支障でない?」
「むしろそれくらいでいいって。一気に露出するよりは地道にがいいってプロデューサーが言ってた。勉強がんばれって」
「へぇ。優しいね」
「だから、数学も現国も英語もそれ以外も教えてほしい」
「私の事だけで手一杯なんだってば。予備校でも行けば?」
「それはちょっと」
「適当すぎ」
数学の解を求めるよりも透に話しかけられた際の最適解を探す方が難しい。ある意味国語の勉強になるかもしれない。
問一。彼女は今、何を考えて私に「ありがと」と言ったでしょうか。答、ありがとうなんて思っていない。二階で見ていた理由を聞きたくて話しかけてきた。
問二。ではそれを聞かれた時、私は何と答えればよいのでしょうか。答、「行かないって言った手前ちょっと気まずかった」とか、何とか、気まずかった方向で。
案の定透は目が合った瞬間に帰っていった私について聞いてきたので、勉強よりも熱心に考えて用意した答えを淡々と舌に乗せて放り捨てた。
それを必死に拾ってくれる透は納得なんてできていないという顔をしている。本当に変わった、きっといい方向に。
前の透なら私の本音を引きずり出そうなんてしなかっただろうに。面と向かって接そうとしてくれている誠意が伝わってくるから、正直、息苦しい。
透がアイドルになって以来私たちは以前のようにはいかなくなった。彼女が多忙なので三人で気遣ったのもあるが、それにしたって私は透に寄らない。
いい機会だからそうしているだけなのに。透には私が要らない、なんていうと拗ねているようだが、違う。
私に透は要らない。彼女がアイドルになってからの時間はそれを噛み砕いて飲み込む為の時間。
まだまだかかりそうだけれど、大丈夫、これが普通なんだ。今までの私たちが異常だったのだと理解まではできているのだからあとは慣れるだけ。
新しい趣味を見つけたらそれに没頭してしまって、その趣味に出会うまでの自分の生き方を忘れてしまう人もいるらしい。例えば新しいソーシャルゲームにハマった人が通勤時間そればかりするようになったから、以前はどのようにつまらない時間を潰していたか忘れるように。
問三。これから二人の距離は遠くなりますが、どうやって自分の気持ちをやり過ごせばいいでしょうか。答、 。
この解答さえ頭に書き込めれば、あるいは。
「いいライブだったぞ透……!最高だった!!」
「ふふ、なんでプロデューサーが泣いてるの」
「だって、だってこんな……あぁだから飾りまだ取らない!」
「あ、忘れてた」
「変わらないな、透は」
「変わったよ。変わっていくし。のぼるんでしょ?二人で。まだまだ足りないのくらいわかるよ」
「……透……や、やめてくれ……本気で泣いちゃうから……」
「いいよ、泣いて。あ、飾りつけた後で」
本気で洟を鳴らしはじめて周りに笑われてるプロデューサーを見て、私も笑う。私の成功を親と同じくらい喜んでくれる人は、今やこの世で一番信頼できる傍にいる人。
音楽番組の収録で今まで立った事がないような大きな舞台に立ってのパフォーマンス。数年前を思い返せば想像もできないくらい煌びやかなステージで私だって高揚している。
優しいこの人は私以上に喜んでくれているのくらい、飾りを付けてくれる震える指先から、赤い顔から、普段と違う立ち方からだって伝わっている。
興奮で普段より少し滑舌の悪い喋り方で、突然「透、実はな、ファンレター貰ってるんだ」と嬉しそうな顔で話題を振ってくるから疑問符が浮かぶ。収録も終わっていないのに、なぜ今?
饒舌な彼がなぜか説明もせずに涙で濡れた顔をしわくちゃにしながらシンプルな何も書かれていない白封筒を手渡してくれる。
封筒に入ってはいるが何も書かれていないという事はきっと彼に直接手渡された私宛てのファンレターなのだろう。何だろう、二十歳の誕生日は三ヶ月は前だし、出演おめでとうみたいな内容なら既に収録は始まっているし……彼が急いで渡さなくてはいけない特別な一通に思い当たりがない。
中にあるファンレターを読んでいく。
綺麗な文字だった。きっと女性。小さめな文字が書いている女性の控え目であろう性格を想起させ、また読みやすい文章は頭の良さと気遣いを感じさせる。
しかしなぜ彼がこれを嬉しそうに私に渡してくれたのかまるで分からなかった。
どちらかと言えば彼は、私のアイドルとしての過程を淡々と分析してファンなのかも疑わしい感想をところどころ辛辣につけたファンレターを嫌がるのではないかというか……よく渡してきたな、とすら思った。中身は見ているだろうに。
誰に宛てたものなのかも書いていない。私宛てではないのでは?いや、彼はそんな凡ミスしないだろう。とっておきのサプライズみたいな顔して渡してきていたし。
きょとんとした私の顔を見て、ニコニコと笑って見守っていてくれた彼から笑みと涙がひいていく。「なぁ、透」、呼んでくる声が震えていて、さすがに異常事態だと察した。その異常は私に起きているらしい。
でも何も分からない。言ってくれなきゃ分からない。不安そうな視線をしっかり受け止めて、目で頼み込む。言ってほしい、と。
プロデューサーは一瞬言葉を詰まらせて、目線を落として、また私を見て、言った。「樋口さんの事、忘れてたんだな」。
何を言っているのか、やはり分からなかった。私が樋口の事を忘れた事なんて一日だってない。常に考えていたとは言えないけれどずっと想っているのに。
手紙の文字は綺麗で、高校の頃の樋口はこんな文字、いや、大人になって字が綺麗になったんだ、昔、いや、こんな、あれ、――あれ?でも内容だって樋口っぽくない。樋口は私を応援してくれていたけどそれをこんな風に照れもせず表せるような子じゃない。
だからそんな内容と文字だけで分かるような関係を期待されて「忘れたんだ」と驚いたような視線を向けないでほしい。これじゃ分からなくて当然なんだから。
名前だって書いていな、……いや、書いてある。一番最後にきちんと、貸してもらっていた教科書の裏表紙に書いてあったのと同じ見慣れていた文字で「樋口円香」と。
先程のその名前を確認していたはずの私の目はその文字を大切な名前だと認識していなくて、プロデューサーは、だから声を震わせたのだと理解して、呼吸が浅くなった。
――ずいぶんと高いところまで彼ときた。空が近い。きっとがんばれば雲にだってもう手は届く。その代わり一緒に育ってきた草や土の匂いは遠くなっていていつの間にか全部忘れてしまっていた。
封筒の中にファンレターを戻して控え室に戻る私に「大丈夫か?」と聞いてくれる声が不快で、子どもみたいに「次の出番まで待つだけだから」と刺々しく叫んでしまったから八つ当たりされたプロデューサーがまた悲しそうな顔をした――そう思って八つ当たりを謝ろうとしたのに、悲しむ理由は違うと分かった。
プロデューサーが何に悲しみながら私を見ているかすら三年程で分かるようになっているのに、何で見ていてほしい幼馴染の名前も分からなくなってしまったんだろう。
「え、円香って浅倉透の幼馴染なの!?」
「声大きい。はぁ……だから話したくなかったのに」
「サイン貰ってよサイン!」
「売るんでしょ」
「えっ。い、や、ファンだよ……?」
「前気取ってそうで嫌いって言ってたじゃん」
「あぁ~忘れて!ごめん幼馴染とか知らなかったからさぁ!」
「いいよ、別に。ていうか、ただの幼馴染なんて芸能人からすれば有象無象みたいなものでしょ」
「学校一緒だったん?」
「実家が隣」
「それ『ただの幼馴染』ですませるのさすがだよね。円香節って感じ」
「多忙な芸能人じゃん、あっち。私だって実家あんま帰れないんだし、あっちなんて更に帰ってないでしょ」
「ほら気取ってるじゃん、浅倉透!」
「……擁護する訳じゃないけど、あの人テレビで見るままだよ。天然素材であれだったから。口下手なだけ」
「でもそれって昔の話じゃん?今はどうかな~」
それもそうだな、と味噌汁をすすりながらあの整った顔を脳裏に浮かべる。
大学卒業後に入社して以来付き合いのあるこの同期は少し雛菜に似ていて、まとわりつかれて鬱陶しいと思う反面、振り回してくれる人といるのは気楽だった。私はどうやら自覚以上に雛菜が好きだったらしいと社会に出てあまり会えなくなって気付いた。近くにいるときは傍にいるのが当たり前で、好きとか嫌いとかあえて考える事なんてなかったのに離れてからやっと分かる事があるなんて難儀だ。
今は恐らく浅倉は変わってしまっている。少なくとももう私の事を忘れていると確信がある。二十歳の頃だったろうか。浅倉の家にきていた彼女のプロデューサーを見つけて、ずっと浅倉宛てに書いて出せなかった手紙を白封筒に入れて配達をお願いした事がある。
彼はそれはもう嬉しそうに破顔して「絶対届けるよ。透も喜ぶな!」と言ってくれたが、他人に「透」なんて呼ばないでほしくてイライラしたのできちんと届けるよう念押しだけしてさっさと踵を返した。
返信を期待していた自分を否定できない。私は彼女の特別だという自負があったから。
傲慢であると自分を嗤ったのはそれから大分経つ半年後の事だった。
何かあった訳ではない。何もなかった。だからやっと理解した。彼女を私の特別にする事をやめたのに、私だけ彼女の特別でいられるわけがない。
電話番号を変えた。契約更新時にそのまま継続するよりも解約してしまって、MNPを使わず他社と新規契約する方が携帯代が安くなったから。それだけ。
連絡用アプリのIDを変えた。大学で知り合った男が毎日しつこく連絡をしてきたから。それだけ。
実家を出た。職場の近くに住んだ方が都合がいい。それだけ。
浅倉は一度も連絡をよこしてこなかった。だから私も連絡をしなかった。それだけ。
小糸と雛菜とも今はたまに連絡をする程度で、そもそも皆社会人になってしまえば予定が合わないし、自分の予定にあう人脈を各々築く。そうして疎遠になっていく。浅倉とはそのタイミング少し早く訪れただけだった。
昔自分に出した問題への答えは見つかっている。
問三。これから二人の距離は遠くなりますが、どうやって自分の気持ちをやり過ごせばいいでしょうか。
答、やり過ごす必要なんてない、彼女の顔も忘れます。
テレビに映る芸能人、浅倉透を追う事はなくなった。雑誌の表紙を飾る涼やかな顔を見て胸を高鳴らせて、いけないものを見てしまったように目を逸らす事もなくなった。
浅倉はよくテレビや雑誌の中で微笑んでいる。私の記憶の中の浅倉も、だいたい微笑んでいる。
綺麗な顔によく似合う……きっとどんなメイクでも似合うんだろうが、濃いメイクを施して登校してきていて、いつも綺麗なタンブラーで水を飲んで、人に話しかけられればキリっと頼れる顔して返事をする高校生だった。
ここ数ヶ月は思い返す浅倉の思い出はこんな感じ。いわゆる夢の中の神の視点で、彼女の周りに私はいない。そんな風に現実と乖離を始めた記憶とそれを受け入れている自分を認めたとき、やっと私は彼女を諦めきれたのだと自分を褒めてあげられた。
そもそもこの記憶が間違いなのかどうかすら、もう私には判断がつかない。
「ストーカーっぽいよね、これ」
「……何でいるの」
「何でって、待ってたから。樋口」
「何で家……あー親か……何で待ってるの……」
ストーカー役を演じた事はないがドラマでストーカーに付きまとわれる会社員を演じた事はある。今は、というか現実は逆で、私がストーカーのようになってしまっていて少しおもしろい。
意外と樋口が帰ってくるのが遅かったので、この間抜けなストーカーはすっかり体が冷えてしまった。正直質問に答える前に家にあげてほしい。腕時計で時間は二十一時をまわっている事を確認するが、つまり三時間くらいここにずっといる計算になる。そりゃ、いくら厚着をしていても乾燥に晒され続けた露出している顔などはピリピリ痛んできてもしかたない。ずっと立ってた脚も痛いし。
彼女が住んでいるらしいマンションは二十七の女性一人暮らしにしては立派で、きっと高給な仕事に就いているのだろうと簡単に想像がついたが、その分心配になってしまう。
ストレスを溜め込みやすいのにちゃんと発散できているんだろうか。私は話してほしい事をゆっくり話してくれればいいと寄り添っていたけれど、無理やり嫌な事、喋らされていないかな、とか。
とにかく家にあげてほしい。寒い。目でそう訴えるが目線を逸らされてしまって、ただ、樋口なら言わなくても通じている筈なのできっとあげてくれると思う。
「会いたかったから?」
「何で疑問形」
「もー。何で何でって、質問多い」
「何で私が怒……あ」
「ふふ。また質問。いいよ。一つずつ答えるね」
ひゅ、ひゅ、喉から掠れた音が逃げる。何もかもが理解できないのがただ怖くて、呼吸が浅い。
テレビや雑誌で見るのとはまるで違う、まるで子どものように純真そうな笑顔でこちらを見ながら浅倉透が笑っていた。
つい昼間に同僚からサインを貰ってほしいと頼まれた芸能人が自分の住んでいるマンションの下に立っていて、明らかに浅倉透目当てで何台か車も停まっていて、彼女が尾行されているのは素人目にもすぐ分かったので出会って早速帰ってほしいという願いしかない。
それだけだ。ほぼ十年ぶりに会った幼馴染に帰ってほしい理由なんて、パパラッチが怖いというものだけ。
尾行に気付いていないのだろうか。あんなに勘が鋭そうな顔をしているのに。
「あー、いいです、答えなくて。尾けられてるようですし帰ったほうがいいんじゃないですか」
「え、家上げてくれないの」
「は?図々しい……」
「え。だめ?」
「えぇ……だめに決まってますけど……?」
「昔勝手に私の部屋にあがってきてたのに」
「子どもの頃の話しないでよ」
「思い出話するのもいいかなって」
「そんな話する時間ないでしょ。浅倉さん忙しいんじゃないの」
ひゅ、と、喉から掠れた息がもれた。「浅倉さん」と呼ばれた。まるで芸能人に――他人に会ったような、そんな。
「……樋口、」
「何」
「…………私の事、忘れてる?」
「いや、さすがに知ってる。テレビ観てるし」
「違う、知ってるかじゃなくて……そうじゃなくて…………、」
恐ろしいものを見る目で私を見てきたが、浅倉透のがよっぽど怖かった。人生ではじめて透を怖いと思って、――いや、違う。私はほぼいつも透が怖かった。怖かったというと大袈裟になってしまうが自分とは違う存在に対する畏怖のようなものを抱えていて、ほぼ十年ぶりに会ってその感覚を再認識しただけだった。
だから自宅の前だというのに踵を返し、心を許している同期の家めがけて走り出した。
「『深夜の密会 浅倉透が泥酔で謎の美女に持ち帰られた瞬間』――何だこのニュース。透の事信頼してるけど撮られるのは気をつけてくれ」
「え、私持ち帰られてたんだ、あれ。前から女の子が好きって噂たてられてたし、そんな見出しにされたのかな」
「透」
「あ、ごめんね。えっとね、それ、樋口。酔ってないし深夜でもないよ」
「樋口さん……会ったのか」
「会えたよ。私のこと『浅倉さん』だって。友だちとは絶対『浅倉透』呼びだと思うんだけど、どう思う?私の前だけじゃない?『浅倉さん』」
「……大丈夫か?」
「うん。樋口の顔憶えてた。樋口もすぐ私が分かって……でも私の事たまに見てるからで、テレビとか雑誌に出てなきゃ分からなかったんだろうなって。気付けちゃった」
「そっか……ごめんな。俺が透をスカウト……いや。それこそごめん……俺は謝れない」
「ふふっ。ありがと。ごちゃごちゃしちゃう。プロデューサーに今の私、否定されたら」
「謎の美女なんて陳腐な表現だけど、確かに樋口さん、綺麗だな。白黒印刷でも分かるよ」
「うん。昔より今のほうが顔は好きかも。昔から好きだったけどさ」
「……透」
「また会いに行くよ。信頼、裏切るかな」
「まさか。何度でも行ってきてくれ、尾行には気を付けてな」
無糖のコーヒーにフレッシュだけ入れて、少し赤くなった目を細めて笑ってくれる。彼の泣き虫はずっと治らない。
彼の予想通り、あの日「浅倉さん」と呼ばれた私は大丈夫なんかじゃなかった。
私の動揺はそれはもうすごかった。頭の中に誰かが手を突っ込んできて、脳みそ掻き回されたような錯覚。突然走り出した樋口の背中を追う余裕なんてまるでなくて、そのままうずくまってあろうことか泣きじゃくった。外であんなに、子どもでも引くんじゃないかってくらい泣いたのは人生ではじめてだった。
樋口はやっぱり優しくて、引き返して「ちょっと、え、何……」とすごく懐かしい声と掌の温もりを頭にくれて、私は彼女の手を欲しいままに掴んだ。同じようにしゃがんでくれたから、そのまま目の前でたっぷり十分は泣いた。たぶんプロデューサーの泣き虫がうつったんだと思う。
このまま放っておけないと家の中に入れてくれようと腕を引かれてマンションに入るところがすっぱ抜かれて私は謎の美女にお持ち帰りをされた事にネットニュースではなっている。
実際は家にあがってはいないのに。あんな目で見つめられるのは怖い。あんなに見たかった瞳が怖くてしかたなかったから私は逃げた。
――そういえば樋口はあんな顔だった。癖のある褐色の髪で顔のラインを半分隠して、眠そうな重い二重の目蓋でアメトリンみたいな瞳を隠して、小さな口に言葉を隠して、そうだ、あんな人だった。
私は彼女からの言葉を待っていた。何か言いたい事があるのだろうし、一緒にいる時間の先に在る彼女のタイミングならばそれは伝えてもらえると信じていた。
そんなものは、そんなものたちはもうどこにもなかった。
また樋口の元に足が向いたとして、それは私が樋口を諦める為に必要な時間となるんだろう。
(――なんで好きだったんだっけ)