いわゆるトラ転もののトラックの運転手側のお話です。

※Twitterからの転載です

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友達の「トラ転もので一番かわいそうなの運転手でしょ」という言葉から連想して書いたものです。かわいそうな人間しかいません。


哀れな命を女神はすくう

 錆びた階段が鈍い音を立てる。今にもへし折れそうな鉄板は、まるで私そのもののようだ。だから、案外折れないのかもしれない。そういうところにも辟易する。辺りは真っ暗だ。

 あばら屋のような私の住処は、身分証の必要はなく、しかしその見窄らしさには不釣り合いの家賃を吸い取られる蟻地獄のような場所だった。ここに来る者はみな、ここにしか居場所がない。私のように。視界はひどく真っ暗だ。

 機能していない鍵穴に、壊れたドアノブ。ガムテープで補強された頼りない一枚の板は、もはやその姿を覆い尽くされてちっとも見えやしない。私を責め立てる赤い線が、暗がりの中のただ一つのしるべだ。

 電気などつきようもない暗闇で、ゴミ箱を漁って手に入れた飯を口に押し込む。私にはもう、何もない。涙も枯れ果て、金も底を尽き、友は消えて、家族は縁を絶った。

 私が何をしたというのだろう。

 真面目だけが取り柄の、冴えない私の、いったい何が、世間は気に食わぬと吠え続けるのか。

 五年経った。五年耐えた。それを僅かな時間だと彼らは詰るのだ。

『私たちの愛する娘が奪われた時間は、そんなものじゃ済まない!』

 涙をたずさえて、私がなくした涙をたずさえて、取り返せないのだと喚く。

 奇遇なことだ。あなた方の愛する娘も、私の目の前に飛び出してきた愚かな娘も、私の時間を奪い続けている。死してなお、私の人生を蝕む。

 いったいどちらが死神なのだと、そんな言葉もとっくに枯れた。

 

 惨めな私の人生は、掃き溜めのような住処に打ち捨てられてなお、弔われることすらなかったと言う。

 

「それはなんとも哀れなことだよ、きみ」

 私にその事実を告げた美しいと形容するのが正しいその人は、なおも重ねて私のことを哀れだと言って、これまた美しく笑った。

 侮蔑と嘲りしか含まないそれは、おそらく、激昂を示すのにふさわしい振る舞いだった。しかし、私に湧き上がってきたのは、すとんと落ちてきたのは実に収まりの良い同意だけだった。

 そうだろうとも。私は哀れで哀れで、哀れなだけの存在だとも。

「そんな存在を、すくってやるのがわたしのさがよ。哀れなきみよ、憎たらしい女の顔は覚えているかな」

 明るく見通しのよい交差点。掠れようとも読み取るのになんら煩わしさのない真っ直ぐに引かれた白線。決まった通りに明滅を繰り返す三色と、それをしかと守る私と、いとも容易く破る、憎い、女の顔。

 トラックのライトに晒された驚愕の顔、苦痛に歪む顔、苦悶のまま固まった顔、肉塊にくっついたままの惨たらしく憎たらしく忌々しい! あの女! その顔を!

 覚えているとも。覚えているとも! 私の全てをぐしゃぐしゃに轢き殺していったあの無責任な女の顔を、忘れたいと思って生きてきたのだ。

「ならばよいのだ。その女、生まれ変わってどこぞで楽しく暮らしておるよ。きみのことなど、きっと覚えておらぬだろうなぁ」

 一等美しく笑ったその人は、私をすくって下さる神だという。

 さあさ、さあさ。差し出された手を私は取った。私の中には、たった一つ明確な怒りだけが残されている。

 

 女はすぐに見つかった。遠目から見ただけだったが、よく笑いよく喋る快活そうな印象を受ける女であった。記憶の中とはまるで違う顔で、しかし、神に言われていた通りにすぐに理解した。なるほど、こういうことなのか。強い感情が、あちらの中身を透けて見せつけてくるようだった。

 私は皮肉なことにまた荷運びの仕事をしていて、女の嫁ぎ先の貴族の屋敷に幾度となく足を運ぶこととなった。ありがたくもあり、不愉快なことでもある。女が私に他意のないねぎらいの言葉を向けてくる時なんかは、特に。

 屋敷の人間は──女性特有なのだろうか、大層な噂好きであった。数度も顔を合わせた頃には聞かずともあれやこれやと話をしたがった。舌を動かしていないと死んでしまうのかもしれない。

 その者、貴族屋敷のメイドの女性は、女がここに嫁ぐまでの紆余曲折を身振り手振りを交えて語らった。

 以前はそれはもう名前を出すのも憚られるほどの手のつけられない悪女であった。ある日突然、人が変わったように善人になられたが、ちっとも誰も信じやしない。当時婚約者であった皇太子殿下も例に漏れず、むしろあまりの変わりように裏があると信じてやまずに婚約をお取り消しになったほどだった。

 そうしてご実家からも見捨てられ放り出され、一人の侍従と共に呆けていたところをここの主人がお救いになった。同情であったし、偽善であったし、別の狙いもあったことだった。しかしそれでも、二人は恋に落ち愛を育み添い遂げたのだ。

「まるで小説のようなお話じゃあないか」

「小説よりも甘美なお話しよ、私も奥さまが来ていただいて本当によかったと思うわ」

 そうして締め括られた話の終わりには、たしかに、私の頭の中にもあの善人であるだろう顔の女がちらついた。そうしてその陰に隠れた死相を思い出し、枯れ果てた涙を思い出し、湧き上がってしまった怒りを飲み込んだ。腹の中には、ずっとこの重しが煮えたぎっている。

 

 屋敷の中ではすっかり善人として地位を固めているらしい女のことを、市井の人々はほとんど忘れてしまっているようだった。それもそうだろう。貴族といえど爵位は下から二番目、民草を食い荒らすわけではないので悪人ではないが、還元するものも大して持たない、空気のような立場の方々のお話だ。

 自らに災いをもたらさない者に、人は関心を寄せないものだ。まるで中世のようなこの世界に余裕はない。しかし何故か、近しくもない誰かに災禍を撒く者に、異様なほどに正義の刃を突き立てたがる者もいる。私に石を投げつけた人々のように。

 その証拠に、善人である女のことを何も覚えておらぬ人々も、皇太子殿下に捨てられた悪女のことはよく覚えていた。

 高飛車で、貴族学校でもよく揉め事を起こしていて、社交会でも煙たがられていたようで、とうとう誰にも招待されなくなったのに、厚かましくも呼ばれずとも押しかけて、やっぱり一悶着を起こしては鼻をつままれる。

 悪人というよりは単なる嫌な人という印象を受ける噂話は、全てが伝聞でできていた。市井にはなんら害を及ぼさない、空気が読めないだけの貴族のお嬢様は過剰なほどに嫌われている。やはり、人のさがというものは恐ろしい。

「その貴族様、今はどこにいるか知っているかい?」

 お優しい貴族様に拾ってもらったんだとさ。社交会には興味がないようで、贅沢もしないが人目を避けて屋敷の中で暮らしてるって話だそうだ。

「羨ましいなぁ。私たちもゆったり暮らしたいものだ。そう思わないか?」

「あれだけ国中を騒がせておいていいご身分だぜ」

 ケッと吐き捨てて、その人は連れと去って行った。よく通る声で稀代の悪女さまの話を撒き散らして、許せないと同意を求めて大股で歩く。いったい何が許せないのか、是非とも私に教示して欲しいものだ。その浅薄な正義感とやらは、私の怨嗟よりも強固なのだろうか。

 

 お得意様である屋敷のメイドは日に日に気落ちしていった。最近、どこからともなく石が投げ込まれるのだという。ずいぶんと短絡的な手段に走るものだと驚いたが、仕方のない話でもある。ここにはインターネットも電話もなければ、文字の読み書きができる者も限られているからだ。

 害意のない貴族に、わかりやすい手段で強く出る。そうしてお優しく、また影響力も権力もない貴族は寛大な心で許すように振る舞う。それは悪手だと気付くこともなく。沈黙は肯定となり、肯定は増長を許す。

 私の住処が正義感という名の悪意に彩られたように、屋敷は立派な市民たちにより瞬く間に姿を変えて行った。目に見えて荒れていき、見かねた貴族が暴漢にほど近い人々を捕縛し、警邏の者に引き渡し、それにより人々は荒れ狂い、犯罪者は貴族の奥方であると喚き散らした。

 それを許すほどの寛容さは貴族にはなく、聞き流すだけの冷静さもすでに残ってはいなかった。貴族に対する侮辱は大きな罪に問われる。命をもって償えと差し迫られ、奪われた誰かにもまた家族がいるなどとも考えずに、町全体が荒れていった。もう誰も、目的など忘れていることだろう。そんなものはなから持ち合わせていないのだ。安っぽい善人だという自負に酔っているだけ、それだけ。それだけで、簡単に人は死ぬ。

 

 屋敷は潰された。貴族は女を置いて逃げたらしい。とんだお笑い種に、錆び付いていた口角が吊り上がる。すまない、すまないと妻に謝るしかなかった私のように、あの女は貴族に頭を垂れたのだろうか。それとも、ごめんなさいと、涙を流して別れを惜しんでくれた娘のように、情が残っていたりしたのだろうか。興味もない。

 すっかり哀れなだけの女になった奥方に、それでも人々の心は満たされない。私がなんの弔いも受けなかったように、その命をみっともなく蹂躙してもなお、彼らは赦しなど与えない。歪な正義のもとに、贖罪など果たされない。

 髪を乱され、服を裂かれ、血を流し、涙を流して静かに土に這う女。透けて見える死相、決して見れなかった許しを乞う顔を、私は目に焼き付ける。ずくずくと痛むような、じわじわと熱を持つような、形容し難い興奮を覚え、そして、女の傍らに同じく蹲る誰かに気づく。

 それは、女の侍従だった。話にしか聞いたことがなかったその人の顔を、私は初めて見た。透けて見えた顔は驚きに歪み、そうして私に助けを求めた。

「おとうさん」

 

 極悪人と呼ばれた男がいた。そこら中の家に火を放ち、すれ違う人の顔に拳を叩き込み、斧で頭を割り、鎌で首を刈り、逃げ惑う女たちを連れ去り、逃げた先で首を括って、笑いながら死んだという。

 真面目な男だったと仕事仲間は言った。物静かな男だったと行きつけの店の女将は言った。それでも、男は間違いなく狂人のような振る舞いをして、市井の人々の気持ちを削いだ。

「哀れなことだとも」

 連れ去られた女たちは気が触れたのか、廃人のようになり教会に引き取られた。不幸な事件は語り継がれ、そうしてまた忘れ去られていった。

「また誰かをすくってやろうとも」

 掬い取られ放り出された哀れな誰かは、今日も記憶から消えていく。


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