Sentimental Graffiti ~ 2nd Prologue ~ 天使の涙   ~ 七瀬 優 ~   作:きさらぎむつみ

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第一章 春休み・忘却

  *

 

 春休みというのは、短いわりにやらなきゃいけないことは結構あって、落ち着いていられないことが多い。旅行へ行くには中途半端な休みだな、と毎年思っていた。

 でも、今年だけはその忙しさに私は感謝している。少なくても、差し迫った身の回りのことに追いかけ回されてるうちは、彼のことを考えずに済むのだから。

 私は今年から地元の外語短大に通う学生になっていた。両親二人ともがああいう風なので、何となくではあるけど『通訳』のような仕事を目指してみようと思って決めた進路だった。

 自分で言うのも、だけれど、割合と文系は得意だったこともあって、まあ何とか第一志望の学校にごく普通に合格していた。

 今まで通り自宅から通っているから、あまり『新しい生活』みたいな実感は湧いていない。現に今こうしている場所だって、放課後に制服のままでたまに立ち寄っていたサンモールのドーナツ屋さんだったりする。

「……ねぇ、優。優ってば! 聞いてるっ?」

「えっ……ああ、うん。聞いてるよ」

「ほんと? もぉ、最近いっつもだよ。気がつくと優、ぼぉぉっとしてる」

 由紀は首を傾けて目線をあさっての方へと向ける。どうやら今さっきの私らしい、……けど、今の私ってこんなだったのかぁ、と何だか他人事のように見てしまう。

「まぁ、優のは今に始まったことじゃなかったね。いつもそんな感じだし」

「ああっ、それひどいなぁ。それじゃまるで、私はぼぉぉっとしてる時しかないみたいじゃない」

「あれ? そうじゃなかったの?」

「……由紀のコーヒー、お砂糖の追加してあげようか?」

 私が置いてあったシュガーポットを掴むと、由紀はすかさず自分のコーヒーカップに手で蓋をする。

「やぁん、ゴメンゴメン、冗談だって! 甘いコーヒーなんて飲めないよぉ」

 何だか可笑しくて、二人して意味もなく苦笑する。私は両手で抱え込んだシュガーポットを元に戻す。由紀の手も今は食べかけのドーナツを持っている。

「でもさぁ、ほんとに最近の優、少し変だよ。何かあったの?」

 私の顔を覗き込む由紀の表情は、とても真剣だった。

「う……、うん。何もないよ」

「そぉ? ま、ならいいんだけど」

 由紀が、あむ、という擬態語を発しそうな感じでオールドファッションを頬張る。

 食べかけのそれを置いてコーヒーに持ち替えると、今度もやはり、こくっ、という音が聞こえてきそうな可愛らしい飲み方で飲み干した。

「何かあったら、すぐ言ってほしいな。聞いてあげるぐらいしか出来ないけどさ」

「……うん。ありがと、由紀」

 由紀には随分助けられている気がする。でも、私がそういう類のことを言うと、彼女は「何言ってんの、そんなのお互い様だよぉ」と、決まって笑い返すのだ。

 由紀とは高校一年の時以来の付き合いで、こんな私の数少ない友人の一人。

「何だか七瀬さんって、一人でいるとぼーっとしたまんま、どっか行っちゃいそうなんだもん。心配になっちゃってさ」

 どうして私を気に掛けてくれるのか、知り合ってすぐの頃に聞いたことがある。由紀はすまなそうに、ゴメンね、迷惑だった? と訊ね返した後に答えてくれて、その言葉はとてもすんなりと私の心に滲みてきた。

 友達も多く活発型で、いつだって皆の中心にいるような由紀だけど、何故か不思議と私と通じるものがあったようで、よく二人だけで一緒に出掛けていた。

「仲間うちとワイワイやるのも好きなんだけど、多分どっかで気ぃ使ってんのよね、私。知らないうちに結構疲れちゃってるみたい。でも、優と二人だとそういうのって無くってさ。まぁ、優に甘えてて気ぃ使わないだけかもしんないけどね」

 ある時そんな風に言われて、何だかとても心地よかった。私も同じだよ、由紀といると落ち着くよ。何だか、心が休まるんだ。

 そう言った私に向かって、そっかぁ、うちら根っこのほうは、案外似た者かもね、そう応えた由紀の笑顔はとてもあったかくて、私の心を優しく包んでくれたっけ。

 今では別の学校で(由紀は四年制の大学に進んだ)進路も全く違うのに、でもこうしてよく呼び出したり、呼び出されたりして何だかんだでしょっちゅう会ってたりする。

 こういう友達付き合い、私はいいなぁって思う。もっとも、私にはこれほど親しい付き合いをしてきた人って少ないのだけれど、それでもいいなぁって思う。

「ところでさぁ、再来週の月曜だっけ、極大日?」

 突然聞かれたので、何のことだか全然分からなかった。

「あ、ごめん……。えっと……、何?」

「もうっ、またぼぉぉっとしてたぁ。聞いてなかったんでしょ? 次の流星群、確か五月の最初の週だったよね。『みずがめ座』だっけ?」

「……あ、そうか。もうそんな時期だったね。えぇっと……、あれ?」

 今年の極大日っていつだっただろう……。

「あっ、ごめん……。忘れちゃった……」

 由紀の顔が見る間に変わってゆく。私がおそらく初めて見るであろう、今の由紀の真剣な顔は、何だか怒っているみたいに見えてドキリとした。

「優……、ホントにあんた、どうしちゃったの? あんたが星のこと、流星群のこと忘れてるなんて……。おかしい通り越して・・・」

 由紀の瞳には、戸惑いとか心配とか、そういった色々なものがただよっていた。

「何だか、私の知ってる優じゃないみたい……」

 由紀と付き合い始めてたった三年、まだまだ由紀の知らない私だってあると思うよ。そうは思ったけど、流石に言えなかった。でも……、由紀の言うとおりかも知れない。今の私、私って感じがしない。

「うん……そうだね。ちょっと……、どうかしてるね、私」

 言葉にして改めて思う。うん、私のなかの自分自身がぼんやりにじんでいる、例えるとするとそんな感じなのかな。

 由紀の右手が伸びてきて、私の左手と絡む。合わされた手のひらから由紀の温度が伝わって、私を心配してくれている彼女の心まで伝わってくるみたいで、とても温かい。

「……今の優、私のこんな近くにいても、すごい遠くにいるみたいだよ」

「うん……」

「あんまり一人で抱えこんじゃ駄目だよ」

「うん……、ありがと、由紀。でも本当に何でも無いんだ。……まぁ、自分でもよく分からないんだけど」

 由紀は真っ直ぐに私を見つめている。

「だから……、大丈夫だから、心配しないで」

 小さくうなずいた由紀の瞳が、少し寂しそうに見えたのは、私の気のせいだったのだろうか。

 

 由紀の携帯が鳴ったのをきっかけに、私達は店を出てそのまま別れた。連休中にお互いの家にお泊まりに行く、という話が結局うやむやだったのでどうする、と聞くと、「んー、今夜電話するよ。十一時でいい?」ということで落ち着いた。

 特にあてもなくぶらつくことにして、取りあえずは商店街を抜けた。家に帰るにはまだ早いし、帰ったところですることも特別無い。

 相生橋を渡りながら平和記念公園を左に見る。何となく鳩が見たくて、コンビニに寄ってメロンパンを買ってから公園に入る。

 原爆ドームが川向こうに見える公園の、川沿いの歩道の欄干に腰掛けてパンの袋を開けた。少し千切って手のひらで崩して道に蒔き、鳩が訪れるのを待つ。

 程なくして一羽。また一羽とやってきた彼らがパンのかけらをつつきだすのを見て、今度は少し大きめに千切ったものを彼らのほうへと放り投げる。

 いつの間にか私は二十羽、いやそれ以上の鳩に囲まれていて、パンを千切って放り投げて、また千切って放り投げてを繰り返していた。人に懐いているのか、ある一羽なんかは

私の足元で私をじぃっと見上げていて、袋から出す時にこぼれるやつを狙っていたりしていて……、懐いているんじゃなくて、賢いのかな……。

 税込み九十二円のメロンパンの、その全てが彼らのおやつになっていくのを見ながら、私は……まぁ、特に何か考えていた訳ではなく、ただぼぉぉっと鳩のお食事風景を眺めていた。

 気がつくと袋は空で、私は中に残っていたパン屑を振りまいてから、小さく手を振って鳩にさよならした。名残惜しそうにこちらを見ている子もいれば、早々に立ち去っていく子、まだ落ちているのをつついてまわってる子もいたりと、見ていて結構飽きないな、と思う。

 公園を縦断して大通りに出て、たまたま目に入った道路案内板。そこに書かれた地名に懐かしさを覚えて、私の足は西のほうへと踏み出した。

 向かう先は比治山公園。

 道路沿いの並木に沿って幾つもの交差点を過ぎる。橋を渡った先に見える比治山はかなり濃い緑のヴェールに覆われていた。交差点を経て道は、その下をくぐる比治山トンネルへと続いている。

 私は道路から外れて、山を登る遊歩道へと入っていった。トンネルを抜けた向こう側には山頂まで直通の『スカイウォーク』……だったかな、エスカレーターが出来たはずだけど、まあ私が使うことはまず無いように思う。

 遊歩道から車道沿いの歩道に出れば、もう少しで展望台。少し涼しげな夕方の風が木々の間を抜けてそよぎ、揺られる葉のざわめきが耳にとても心地よい。

 久しぶりに訪れたそこは、以前と変わりなく私を迎えてくれた。繁る緑は、敷石の埋め込まれたその上だけぽっかりと開けていて、昼の青空と夕日に焼ける赤い空の混ざった夕暮れ前の空を見せている。来る途中で見上げたときよりも雲が出てきていて、その赤みがかった白も今日の空にはとてもしっくりきている気がする。

 展望台の一番突き出した場所から市内を望む。夜の支度を始めた街が、ひとつまたひとつと明かりを灯しはじめてゆく。

 ひんやりとした空気のゆるやかな流れが、私を優しく包み込む。街の喧騒もここにはほとんど届かない。私のいるこの場所だけ、時間の流れがひどくゆっくりしているかのような、そんな錯覚を起こさせてくれる。

 自分の漂う世界にゆったりとひたる。……ふう。心が深呼吸する。

 ……!

 突然吹き上げてきた風が私の髪をなびかせ、パーカーの裾をはためかせていった。

 乱れた髪を手で梳いて、でもまた吹いてきた風に乱されて、まぁいいか、とあきらめた私の手はそっと下がっていく。

 ……。

 何となく触れた耳の、やはり何となく触れたイヤリングの冷たい感覚が、私の身体の真ん中辺へと伝っていった。

 ……そうだ。ここは……。

 私の内側で甦っていく記憶。

 ……あの日、私は……。

 鮮やかに、けれどもモノクロームなそれは、まるで名画のリバイバルを見るようで。

 そう……、キミと一緒にこうして……。

 ……。

 …………。

 ……あれ。

 ……。

 …………。

 今、私……。

 ……。

 …………。

 あっ……!

 

 また風が吹いた。風は私の身体を突き抜けていって、そして。

 私のなかで何かが欠ける音がした。

 私のなかで何かが凍りつく音がした。

 私のなかで……。

 何かとても大事にしていたものを無くしてしまった、そんな感じがした。

 

 ぽつり。

 鼻の頭にあたったそれは、みるみるうちに敷石を濡らして黒く染めてゆく。

 気付いて見上げた空には、すでに青も赤も白も無くて、その代わりに広がる黒に近い灰色が見渡すかぎりに天を覆っている。

 辺り一面に降り注ぐそれは、私の頬も髪も手も何もかもを濡らしてゆく。

 ……なのに、私の心はひどく乾いていた。

 

 街灯のぼんやりとした光の下を私は歩いていた。次の角を右に曲がれば私の家はもうすぐだ。私の身体は引き寄せられるみたいに家のほうへとその向きを変えた。

 ……誰かいる。

 家の前でパステルカラーの傘を差して立っていたその人物が、私の姿を見つけたのか、こちらの方へと走り寄ってくる。

 由紀だった。

「ちょっと優……、あんた……」

 どうしたんだろう、由紀。何だか私を見て驚いてるみたいだけど……。今の私って、そんなに驚くほどの様子なのかな。

「どうしたのよ、こんなずぶ濡れで!」

 えっ……ずぶ濡れって……。

 言われて気が付いた。雨、降ってたんだ。

 あぁ、そうか……。多分、あの時からずっと……。

「今までどこいってたの? 電話するって言ってあったのに、全然出ないから心配したんだよ。……ねぇ、聞いてるの?」

 由紀の両手が私の肩を揺さぶる。彼女の手から離れた傘は逆さまになって、内側で雨を受け止めている。

 肩に置かれた由紀の手が焼けるように熱い。

「由紀……、濡れるよ」

 彼女の着ている薄い緑色のセーターに濃い緑色の染みが次々と現れてゆく。

「今のあんたにはかなわないわよ……」

 由紀の顔が少し綻んだ。彼女の笑みは、いつも私に温かい。

 私に向けられたその微笑みが、肩を掴む両手が、穏やかな彼女の言葉が、私の内側の深いところへと染みていく。

 ……ありがとう、由紀。

 優しさって、こんなにも人の心を温かくするものなんだね……。

 由紀の優しさ、私の心に心地よく響いてるよ……。

 ……。

「さぁ、身体冷やすとよくないよ。早く家に入ろ、優」

「由…紀……」

 ん? そんな感じで、少しだけ小首を傾げた由紀。どうしたの? そう聞いているみたいに。

 ……。

 私のなかで。由紀の温かさに触れた場所から何かが溢れだしてきて、それはもう自分ではどうすることも出来ないすごい勢いで、それは私の内側を駆けめぐっていた。

 そして、ついにそれは。

「……ゆきぃ……」

 溢れた。

「ゆきぃぃぃぃ……!」

 私の頬を雨とは違う温かなものが流れる。

 由紀が目の前で困惑している。

「ちょっ……と、どうしたの? わかんないよ、言って」

「……わいよ……」

 その言葉は驚くくらいに涙声だった。

「怖いよ……由紀」

 由紀の真摯な眼差しが私を見つめ続けている。

「私、彼のこと少しずつ、少しずつ忘れてってるの……。忘れたくない、忘れなくなんてないのにぃ!」

 由紀がほんのわずか、こくっと頷く。

「でも私、気が付いたの。ずっと覚えてるって思ってたのに、私の身体が記憶してるって思ってたのに……」

 ……。

「……もう思い出せないの。あの日彼が抱きしめてくれた時のぬくもりも、握りあった手のひらの感触も、触れ合った唇の柔らかさも……」

 ……。

「このままじゃ私、彼のこと全部忘れちゃう……。イヤ、そんなの絶対イヤだよ……。もうこれ以上、彼のこと無くしたくない……彼を失って、そのうえ思い出まで無くしてしまうなんて、耐えられないよ……」

 優……。由紀が呟く。

「……私、どんどん彼のこと忘れていく自分が怖いよ……。そのうち、もう彼のことを少しも思い出せなくなっちゃう自分になってく自分が、怖くてしょうがないよ……」

 ……肩を掴む由紀の手にほんの少し力がこもった。

「ねえ、由紀。私、どうすればいいんだろ……。教えてよ……」

 私は何とか頑張って、精一杯の笑顔を由紀に向けた。それが笑顔と呼べたかどうかは分からないけど。

 由紀は微笑みを浮かべたまま、何も言わず、肩に置いた手を背中と頭の後ろへとやって私を包み込むようにして抱き寄せた。

 まるで母さんに抱きしめられているみたいな由紀の抱擁は、どこまでも優しくて、柔らかくて、そして温かい。

「……由紀……ゆきぃぃ……」

 私は由紀の胸元に額を押しつけ、まるで幼いころそうしたように泣きじゃくった。言葉にならない声をあげて、彼女の身体にしがみつくようにして。

 ……吹っ切れた、と思っていたのに。もう彼のことで泣くことは無いだろう、と思えるぐらいに泣いたのに、でも私はこうして泣いている。

 人ってどれだけ泣けるんだろう。もしも決まった量があってその分だけ泣いたら、後は泣かないで済むんだろうか。

 もしそうなら、私はその全部を彼のために使って泣き果たしてしまいたい。

 そうすれば私は、一生悲しいことに出会わないような気がするから。

 悲しいことなんて、彼を亡くしたことだけで十分なのに。

 

 由紀が沸かしてくれたお風呂に入って、私はようやく人並みの温度を取り戻した。

 その間に由紀は有り合わせの材料でエビピラフを作っていた。一緒に食べてから彼女も軽くシャワーを浴びて、今はこうして私のベッドで背中合わせに寝ころがっている。

 由紀のお泊まりはもう何度目だろう。由紀は知り合った頃にはもう一人暮らしをしていて、私もまあ似たようなもので、いつの間にかお互いの家には歯ブラシやらパジャマなんかを置くようになっていた。

 時間は午前二時を回ったところ。私が帰ってきたのは日付が変わってしばらくしてからだったから、かなり永い間街をふらついていたことになる。……ずぶ濡れで、だ。

 雨の降る音で閉ざされたこの部屋は、まるで自分の部屋じゃないみたい。

 多分、私はまだ、この部屋に帰り着いていないんだ。そんな気がする。もしそうなら、私は今いったいどこにいるんだろう。

 こんなとき、一人はさみしい。でも、誰かがいれば……、何とか耐えられると思う。

 ありがとう由紀、いてくれて。

 おやすみ。

 

 やはりというべきなのか、起きたばかりの私の身体はいつもの朝よりもかなり熱っぽくて、私は何となくふらつくだるさを感じていた。

「風邪のひきはじめだね。食べたら薬飲んで、あったかくして寝てな。今日、講義ないんでしょ?」

 身支度を整えながらの由紀に、うん、そうするよ、とだけ答える。

「あたし今日バイト夜からだからさ、夕方また来るね」

「うん、ありがと」

「ん、それじゃ行ってきまぁす」

「行ってらっしゃい」

 それだけ会話して、私はまた一人になった。

 朝食をコーンフレークで済ませてから風邪薬を流し込む。部屋着のTシャツとスパッツに着替え、ちょっと考えて、水色のトレーナーを取り出して袖を通す。ベッドのなかへともぐり込むと、まだちょっとだけ二人の温度が残っていて気持ちいい。

 早く眠ってしまいたい。一人でいると余計なことを考えてしまいそうだ。だから。

 ……。

 でもやっぱり、色々なことを考えてしまう。

 気が付いてしまった、彼のことを忘れはじめている自分に。少しずつ、少しずつ、彼が私のなかから消えていく。あの日、あれほど近くに感じた彼が次第に遠く離れてゆく。

 人は二回死ぬ、って何かで読んだことがある。まずは現実的な死、これが一回目。そしてもう一度、『忘れ去られてゆく』という存在の死。

 彼を失った私が、今度は自分の手で彼を殺そうとしている。

 彼に『忘却』という名の死を与えようとしている。

 ……いやだ、そんなこと。

 ……。

 ……でも。

 もしも全部忘れてしまえたら、このつらい思いは無くなるのかな。

彼のぬくもり、彼の柔らかさ、彼の声、彼の笑顔、彼との思い出、彼の……全て。

 覚えているその全てを忘れてしまえば、全て無かったことになるのだろうか。

 そうだ、忘れてさえしまえれば。

 うん、忘れてしまおう。そうすれば、きっと楽になれる。

 ……。

 忘れたい。

 ……。

 忘れよう。

 …………。

 忘れなきゃ。

 ……………………。

 

 ……本気でそんなこと、思えるわけがないよね。

 

 うさぎはさみしいと死んでしまうという。

 私も死んでしまうかもしれない、さみしくて。

 彼のいないさみしさが、私を殺す。そして彼の元へと導いてくれる。

 もしそうなるのだったら、それもいいかな、と思えてしまう。

 

 会えない人を愛しつづけることが辛いことだったなんて、私、知らなかった。

 

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