Sentimental Graffiti ~ 2nd Prologue ~ 天使の涙 ~ 七瀬 優 ~ 作:きさらぎむつみ
*
ゴールデンウィークもすでに半分が終わっている。今年はどこにも行かなかった。というより、私はもうどこにも行けたりしない。帰ってきていないのに、どうやって次の旅へ出発することが出来るだろう。
私の心は未だに何処かをさまよっている。もう二度と帰ってこないかもしれない。
……もういい。それでも……。
手にした受話器を置く。
由紀からだった。店長にどうしてもと頼み込まれて、今日のバイトは夜シフトになってしまった、とのこと。今夜がみずがめ座流星群の極大日なので、二人で一緒に星を見る約束をしていたのだ。
「気にしなくていいよ。明後日ぐらいまで見えるから。バイト頑張ってね」
そうは言ったものの、さて、これからどうしよう。一人で行くことに抵抗は無いのだけれど、今の私には今夜の星降る空を見に行く理由が正直言って見当たらない。
星空には、特に流星群の降る夜には彼との思い出が幾つもある。以前の私にとってそれらはとても大切なものだった。
だが、今となっては、その全てがつらい。
「行かなくても……いいよね。由紀に悪いし……」
まるで自分に納得させているようだったけれど。
私はベッドに大の字に寝ころがった。
春の草むらがシート一枚で天然のベッドに早変わりする。寝ころがるとシート越しの草の感触が背中に心地いい。
大の字になった私の目の前に広がる夜の闇のなかを、一つまた一つと星が流れては消えてゆく。私の瞳に映るのは夜の空の黒、その中を流星の描く白の輝線が横切ってゆく。
結局、私はここにいる。彼と初めて出会った高台で流星群を見上げている。
私は一体何をしたいのだろう。自分でもよく分からない。こんな場所までやって来たりして……。
……ひょっとして。
そうか、そうなのかもしれない。多分、未だに私はそれを望んでいるのだろう。私の内側のどこかで。
そんなこと、ありえないって分かっているはずなのに……。
……。
星空のほうに意識を向ける。
これだけの星が流れる夜空というのは、それだけで充分に神秘的であり、感動を呼び起こしてくれる。少なくても今までの私にとってはそうだった。
なのに、こうして見上げる今夜の星空は、今の私の心に何の感慨ももたらしてはくれないでいる。
その理由が私は自分の内側にあることに気付いている。そう、それなのに私はわざわざここまでやって来て、それを改めて再認識している。
やっぱり、来るべきじゃなかった。何で私、来ちゃったんだろ。
「フッ……」
自嘲気味なその呟きが尚更に私を責めたてる。
帰ろう。もう。
……。
……あれ?
私が立ち上がろうとした時だ。ざわざわっと、茂みを分け入って何かが近づいてくる音が聞こえた。音の大きさからすれば人間のようだけど、もしそうじゃなければ虎とかライオンあたりだ。
音はだんだんと近づいてきて、最後に背の低い茂みを乗り越えてやって来たのは、やはりライオン、ではなくて人間だった。
目が慣れていなかったのか、その人はもう数歩ほど近付いてきてからようやく、自分のことを座った姿勢で訝しげに見ている私の存在に気が付いたようだった。
微かな星の光がぼんやりとその人の姿を浮き立たせる。
男の人だ。
「これは失礼。先客がいらっしゃいましたか」
その男性の丁寧な口調に、私は正直戸惑っていた。
こんな時間にこんな場所へ、一体何の用があって来たのだろう。……もっとも、私が言えた言葉ではないけれど。
「こんばんは。お邪魔でなければ、ここ、よろしいですか?」
「あっ……ええ、どうぞ……」
男性は軽く会釈して、私から少し離れた草の上に腰を降ろした。
この丘というか山というか微妙な場所の頂上の辺り、つまり今まで私が一人でいた場所は、わりと大きめの木が二本立っている以外は雑草がそこそこといった感じで、つまりは晴れた休日にお弁当を広げたり三日月のきれいな夜に星空を見上げたり、といったことにはうってつけの場所だった。その割には人の訪れることなどめったになくて、普段一人でいることの多い私は、よくここで私なりの時間の使い方をして過ごしている。
私がここへ来ているときに人がやって来る、なんてことは今までにも無かったわけじゃない。でも、それはたった一度だけの『偶然』。
……。
もしかして、この人との出会いもあの時のような『偶然』になるのだろうか?
不思議そうに見つめているであろう私の視線に気付いたのか、その男の人は怪訝そうに首を傾げ、そして……微笑んだ。
「どうかしましたか」
「あ、いえ……。あなたも星を見に?」
「はい。思っていたよりも流れるものですから、つい嬉しくて、ね」
微笑みを浮かべて応えるその男性に、私の感覚は好印象を感じた。
(悪い人じゃなさそう……、良かった)
私のこの感覚は、何故か昔から外れたことがない。今回も例外ではなさそうだ。
「そう……ですね。今日はかなり空気が澄んでますから……よく見えますよ」
「ここ数日あまり良い天気では無かったので期待していなかったのですが、今夜は気持ちいいくらい晴れてくれましたから」
「ええ」
感じの良い話し方に、私は自分の感覚の正しさを確信する。
首を傾けて、私は男性の横顔を見る。年は二十代後半かもう少し上、というところか。縁のない眼鏡をかけた端正な顔だちと細い首筋が華奢な印象を与える。短めに切り揃えられた髪や色物のシャツにベストという服装が、見た目の年齢相応の落ち着きを感じさせている。
……。
何だか不思議な感情が私のなかに現れてくる。何だろう、これは。
……デジャ・ヴ。そう、たぶんそうかも知れない。
私は今、この男性にデジャ・ヴを感じている。あの時と同じように。
彼とこの場所で初めて出会った夜のように。
そう『以前から知っている人』と、私が彼に感じたように……。
……。
いや、違う。あの時と同じじゃない。
今、私が目の前の男性に感じているのはデジャ・ヴなんかじゃなくて……、彼。
そう、彼の面影だ。
気付いた自分にハッとなって、私はすぐにその思いを打ち消した。
いくらなんでも出会ったばかりの、見ず知らずの人に『彼』を感じるなんて……。
……やっぱり私、どうかし過ぎてる。
……。
でも。
年代も違うし、顔の造りだって彼とは違っているけれど、この男性をとりまく雰囲気が彼のそれにとても良く似ていることを私の感覚が告げている。
「……何か?」
突然、男性が私の方を向いた。
「あ、いえ……、別に……」
ひどく狼狽してしまった。無性に恥ずかしくて、私はなるべく普通を装って正面へと向き直る。
彼はそんな私を気にする様子もなく、再び星の光が線を描く空へと目を向けた。
「それにしても……綺麗な空ですね」
別にそんなに驚かなくても、と自分で思うぐらい私は男性の言葉にドキッとしていた。その言葉の発し方が、空を見つめるその瞳が、どこがと言うほどには具体的でないけれども、そういった一つ一つがどことなく似ている。
……。
まったく。何考えているんだろう、私は……。
頭のなかが雑然としているのが良く分かる。
どうしてなのか、今一つハッキリしないところがもどかしい。
もう、考えるのはよそう。
でもそれからの私は、どうしても夜空だけに意識を向けることが出来なかった。
気が付けば、東の空はその色を変え、この街に新しい朝を運んでこようとしている。
もうすぐ、古い夜が終わる……。
*
連休中の公演を終えて帰国していた両親が、また慌ただしくヨーロッパへと向かうことになって、私は空港まで二人を見送りに行った。
母の腕にはカーネーションの花束が抱えられている。今朝私が贈ったものだ。
よほど嬉しかったのか、持っていくと言ってきかない母を父は困ったような、でも優しい笑顔でたしなめていた。結局は母に押しきられたのだけども。
二人は今でも、娘の私から見てもお似合いの『恋人』だった。当然、『夫婦』ではあるわけだけど、いい意味で馴れ合わないでいるのだと思う。
そうやっていられることって、実はとっても難しいことだと知っているから、私はそれが出来る二人を尊敬し、敬愛している。
と、同時にちょっと呆れてもいるけれど。
娘の前でいちゃつかなくたって、ねぇ……(笑)。
空港から由紀の携帯に電話をして、駅前の喫茶店で待ち合わせることになった。
先に着いた私はアイスティーとハムサンドを頼み、もう少し遅くなりそうな気配の由紀を遅めのランチを食べながら待つことにする。
街行く人々を眺めながらの食事、というのはあまりしたことがないので結構新鮮かもしれない。それぞれに理由があって先を急ぐ人々を、私はまるで金魚鉢のなかを覗いているような感覚で見ていた。
……私は、今目の前を通り過ぎた人達の一体どれだけと知り合うことが出来るのだろうか? ふと、そんな考えが頭のなかをよぎる。
私が今までに知り合うことの出来た人の数なんてそう多くない。これからだってそれはど急に増えるようなことも無いと思う。そう考えれば、いくら世界の人口が数十億いたところであまり関係のないことなのかも知れない。
何だか、らしくないな、と思う。いくら考えても結論なんて出ない問題なのだから、頭を悩ませていてもしょうがないのに。
今まで生まれてきた、そしてこれからも生まれていく絆を、人とのつながりを私は大事にしていきたい。今の私に導き出せる答えなんてそのぐらいだ。……もっとも、これが全てなのかも知れないけれど。
そんなことを考えているうちに時間は随分と経ってくれていた。
結局由紀が喫茶店のなかへ入ってきたのは、自分で決めた時間をきっかり一時間過ぎてからだった。午前中のバイトが長引いて、その後はなし崩し的に遅くなったらしい。
「ほんとゴメンね。だいぶ待った……よねぇ」
「まあ、少しだけね。でも由紀を待つのは嫌いじゃないから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
私、由紀が頑張ってること知ってるから。そんな由紀を応援していたいから。だから、そんなに謝らなくてもいいよ。思わずそう言ってしまいそうな私がここにいる。
「ありがとう、優」
「ううん、それにこちらこそ御馳走様。だって、私のランチ、由紀のおごりでしょ?〕
「……あんたねぇ……」
まぁしょうがないね、と言いながら向かいに座った由紀が、ウェイトレスを呼んでカフェオレを注文した。
ウェイトレスが置いていったお冷やを由紀は一気に飲み干すと、ふうぅぅっと大きく息を吐き出す。
「お疲れさま。で、このあとどうするの?」
今日の予定は由紀任せだった。
「んと、ねぇ。とりあえず買い物ってとこかな。悪いね、付き合わせちゃうけど」
「全然。私もそろそろ夏物見ておきたかったし」
「そうかぁ、もうそんな時期なんだよねえ」
由紀がトートバッグの中をごそごそとやっている。
「そういえばこの前、安めで感じのいい店見つけたんだ。優も行ってみる?」
システム手帳をバッグから取り出しながら由紀が聞く。
「私は別にかまわないよ。由紀のチェックするお店って、はずれたことないし」
「こらこら、私なんか褒めても何にも出ないよ。……あ、ゴメン。その前に本屋寄るけどいいかな?」
由紀は手帳に挟んであった紙を取り出して、片手で器用に四つ折りにした。おそらくは注文用紙の控えか何かだろう。
「うん。取り寄せ?」
「そ。なっかなか無くってさぁ。行きつけの本屋さんがそういうのマメにやってくれるところでね、ひいきにしてんだ」
由紀が小さく折り畳まれた紙を財布にしまいながら答えてくれた。
「それじゃ、本屋さん、そのあと由紀お勧めの店、ってことでいいのかな?」
「そうだね。それで良ければ。……っと、その前に」
私達のいるテーブルの横で立ち止まったウェイトレスが、由紀の前に温かそうなカフェオレを置いていく。
丸みを帯びた湯気が何だかとても暖かそう。
「私がこれを飲みおわるまで待ってくれる?」
こくん。私は笑顔で頷く。
由紀との絆は、多分ずっと未来でもつながっていてくれる、何故かそんな気がした。
私は由紀の横に並んで歩いていた。二人はサンモールを抜けて、広島駅とは反対の方へと向かっている。
いくつかの通りを横切って路地に入る。片側一車線ずつの通りには歩道が無く、見たかぎりでは信号の無い交差点のほうが多いようだ。道の両側は商店と民家が混在して立ち並び、いかにも“地元の商店街”といった雰囲気を漂わせている。
進むにしたがって商店ばかりが立ち並ぶようになっていた通りを更に進み、おそらくは商店街の端のほうだろう、という辺りの一軒の店先で由紀は立ち止まった。
「ここ?」
「そう」
私の問い掛けに答えると、由紀はそれほど大きくない入り口の引き戸をガラガラッと滑らせて、店の中へと入っていった。
「こんにちはぁ」
「いらっしゃい。……あぁ、石田さんでしたか、こんにちは」
入ってすぐ横のレジに立っていた男性が由紀の声に応えた。
……あれっ? この声、どこかで……。
「どうも、宮下さん。連絡戴いたんで引き取りにきました」
「そろそろいらっしゃる頃だと思っていました。少し待っていてください、今取ってきますから……」
カウンターから出てきた男性が私の視界に入ってきて……、私はその横顔を見てハッとした。
この声、その横顔、……うん、あの時の。
「おや、そちらのお嬢さんは?」
「あ、私の一番仲のいい友達です。優、紹介するね。こちら、この店の御主人で宮下高志さん」
「宮下高志です。初めまして……あれ? あなたは……」
どうやら向こうも私のことを覚えていたらしい。トクンッ、と一回、私の心臓が大きく跳ねた。
「七瀬、優です。先日は、どうも……」
軽く会釈して見上げた目の前の男性は、あの日の夜と同じ穏やかな笑みを浮かべながら私のことを見つめていた。
凪いだ海のような穏やかさと、春の陽射しを思わせる温かさを持った微笑みで。
「こちらこそ、あの時はどうもありがとうございます、七瀬さん」
「あれぇ。何だ、二人とも知り合い?」
「う、うん。この間、ちょっとね……」
……少し気持ちが昂っているな、と自分自身感じていた。それは、突然の再会がそうさせているのか、それとももっと別の何かのせいなのか。
店の奥へと消えていった高志さんは、しばらくすると大きめの本を一冊抱えて戻ってきた。それを由紀に手渡すと、またカウンターの中へと入ってレジの前に再び立った。
由紀は本を開いてパラパラと内容を確認すると、お願いします、と言って高志さんへ向けて本を差し出した。
カバーお付けしますか? はい、お願いします。
趣味の良さが伺える綺麗な包装紙を、慣れた手つきで本に掛けてゆく高志さんの手を、私は何故か何となく眺めていた。
綺麗にカバーの掛けられた本をバッグの中に入れて、由紀は軽く首を傾けながら、いつもありがとうございます、と御礼を言っていた。
いえいえ、こちらこそいつも有り難うございます。見る人をほっと落ち着かせるような笑みを浮かべている高志さんがそこにいた。
「ごめんね優、付き合わせちゃって。さぁ、買い物行こうか」
由紀が私の背中を押すようにして、店の外へと促した。
「それじゃあ、また来まぁす」
由紀が店のなかへと置いていったその言葉に、高志さんはわざわざ引き戸のところまでやって来てからお返しをしてくれた。
「またいつでもどうぞ、石田さん。ああ、七瀬さんも」
トクンッ、とまた一つ、私の鼓動は大きく打たれた。
由紀と一緒に振り返って会釈する。店先に立つ高志さんは、私達に向かって胸の前で小さく手を振っていた。
この世には『運命』へと変わる『偶然』がある。
後に『必然』だったと感じる『偶然』もある。
あの日の出会いは、この日のための、これからのための『偶然』だったのだろうか。
何かが動きはじめる、そんな予感を私は感じていた。