Sentimental Graffiti ~ 2nd Prologue ~ 天使の涙   ~ 七瀬 優 ~   作:きさらぎむつみ

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第三章 梅雨・懐古

  *

 

「わざわざ御連絡、有り難うございます」

「それではお近くにお寄りの際にでもいらしてください。お待ちしております」

 電話越しの高志さんの声が、私の耳に心地良い響きをあたえてくれる。

 それでは、失礼いたします。そう言って高志さんは受話器を置いた。電話回線を伝わって届いたツンッ、という音を聞いて、私も受話器を置く。

 再会から数日後、私は学校帰りにあの『宮下書店』を訪ねた。講義に必要な専門書と、他にもう一冊を取り寄せてもらう注文をお願いすると、高志さんはあの優しい笑顔で、お任せください、と応えてくれた。

 そして今、学校へ向かう支度の最中だった私に高志さんからの電話が掛かってきたのだった。

 今日の講義の時間表を見る。夕方まで入っているけれど、閉店前には何とか間に合いそうだ。急いで必要な本ではないけれども、預けたままというのはあまり好きじゃない。

 時計を見る。あまりのんびりとしていられる時間ではなくなっていた。飲みかけのダージリンを飲み干してティーカップを流しに片付けると、私は二階の部屋へ戻ってデイバッグを背負った。

 午後に来る通いの家政婦さんへのメモをテーブルの上に置いて戸締りを確認して、私はいつものスニーカーを履いて玄関を開けた。

 朝というには遅い時間の、五月の強い陽射しが私の瞳に突然飛び込む。思わず目を細めて手をかざしながらも、終わりの近付いた春を感じた私の心は少し弾んでいた。

 

「それではこれでよろしいですね」

「はい、ありがとうございます」

 取り寄せてもらった専門書を確認して、私は本を高志さんへと手渡した。以前見た時と同じように、高志さんの手が慣れた手つきでその本へも綺麗なカバーを掛けてくれる。

 代金と引換に渡されたその本を収めてから、私はバッグを背負いなおした。

「もう片方は、まだしばらくかかりますか?」

 私と高志さんとでは頭ひとつ分くらいの身長差がある。必然的に私が見上げるような恰好になった。

「いえ、先程届きましたよ。まだ包みを解いていなかったもので……申し訳ありませんが少しお待ちいただけますか」

「あ、いえ、全然。私こそ無理言ってしまって」

 大好きな海外の名作が一昨年、別の作家の手によって続編が出版された。日本語版は出回っていたのだけれど、どうしても原書版が欲しくて思い切って高志さんに……いや『宮下書店』にお願いしたのだ。

「これですね。『Le petit prince retrouve』Jean-Pierre Davidts 」

「あ、はい」

 店の奥へ行って問屋から送られた段ボールを開けてきた高志さんが、それだけ別に包まれた一冊を持って戻ってきた。高志さんは丁寧に包みを開いて本を取り出し、待ち焦がれていた私にそれを手渡した。

 受け取った本をパラパラとめくるうち、まるで幼いころの友人に再会したような何とも言えない温かさが込み上げてきた。

 ふと、知らずのうちに本を抱きしめている自分に気が付いた。当然見られている。恥ずかしさに顔を上げられないままで、私は高志さんに本を渡した。

「……あ、あの、カバーお願いします」

「はい」

 高志さんがいつもよりも更に優しそうに微笑んだ気配を感じて、私は尚更気恥ずかしくなってしまった。

 トゥルルルルルッ、トゥルルルルルッ。

「電話のようですね、済みません」

 カバーを折り畳んでいた手を止めて、高志さんはカウンターを出て店の奥へと姿を消した。

 手持ち無沙汰の私、何となく店内を見て回り始めた。

 以前来たときにも思った事だけど、この店はとても雰囲気がいい。店のなかは明る過ぎず暗過ぎず、立ち並ぶ本棚にはとても整然と本が並べられている。扉が閉められるとまるで嘘みたいなほど静かな空間になるところも、実は密かに気に入っている。

 文庫のコーナーは出版社ごとに、更に作家ごとに丁寧に並んでいる。作家の名前が入った仕切り板も挟まれていてとても見つけやすい。そういえば最近、読んでなかったなぁと思いかえす。ここしばらくの間、そういう気分になれなかったからだろう。

 ふと、視線が棚の下段のほうで止まる。豊かな色使いが楽しげな温かい雰囲気に包まれた本の集団がそこにあった。絵本、童話のコーナーだ。

 あ、そうか。子供の目線の位置なんだ。

 少し屈み込むようにして一冊、目に留まった本を引き出す。

 本を開く。柔らかな温もりに彩られた世界がそこにある。

 いつか幼い頃に見たような、そんなノスタルジックな気分にさせてくれる童話だった。彼らの醸しだす優しさに、私は包み込まれたかのような感覚をうける。

 次に引き出した童話の表紙を見て、正確にはそこに描かれたイラストを見て、私の内側で記憶が甦り始めた。

 それは五つのとんがり帽子を持つお星様に腰掛けて、花の束を抱えた天使のイラスト……。そう、天使だ……。

 ……。

 私の手が表紙をめくり、題名の書かれたページをめくる。

 一枚めくる……。

 もう一枚……。

 またもう一枚……。

 だが、あの日彼が話していた内容とは違っているようで、私は静かに本を閉じた。

 まあ、そうそうそんな偶然には出会わないよね……。

 そう心にもないことを思いながら、私は本を元あったところへと差し込んだ。

「お待たせしました」

 丁度、電話を終えた高志さんが店の奥から私の側へとやってくるところだった。

「絵本や童話も置いてあるんですね」

「幼稚園や保育所が近いので、よく保母さんがいらっしゃるんですよ。それで」

 あのお店、お客さんの要望なんかを一番に考えてくれるみたいなのよ。そう由紀が言っていたのを思い出した。多分保母さんたちも助かっているんじゃないかな。二冊見ただけ

の私がそう思えるほど、この店はとても感じのいい品ぞろえをしている。

「申し訳ありませんね。すぐにカバーをお掛けしますから……」

 カウンターへと戻った高志さんは手際よくカバーを掛けて、私が財布からお金を出すときにはすでに、またいつもの優しい笑みを浮かべて私を見つめていた。

「有り難うございました」

「ありがとうございます」

 御礼を言いながら、高志さんの両手が差し出す愛しい旧友を私は両手で受け取った。

 ……どうしよう。

 私のなかで生まれた一つの想い。瞬く間に大きくなってゆくそれを、私は精一杯押し止めていたのだけれども……。

 ……何かの啓示なのかもしれない。

 この瞬間この場所で、それが私のなかに生まれたのは、実はごく自然なことだったのではないかと思えてならなかった。

「どうか、なさいましたか?」

 様子のおかしい私を見るに見かねたのか、高志さんがいつもよりもう少し優しい感じのする声で問いかけてきた。

 ……うん。よし。

「あ、あの……」

 高志さんを見上げながら私は呟く。何故だか必要以上にドキドキしている私の様子に、他ならぬ私自身が一番驚いた。

 高志さんが少し屈み込んで、その目線を私と同じ高さにする。つられて自然と降りる私の目線。いつもはエプロンが見える私の顔の正面の位置に高志さんの顔がある。初めてのことだった。

 そんな高志さんの自然さが、いつの間にか私の胸の辺りをキュッと締めつけている。

 ……感じたのは、ほんのわずかばかりの苦しさ。

「あの……、探していただきたい本があるんです。よろしいでしょうか?」

 私はやっとの思いで、その言葉を口にした。

 

  *

 

 世界全ての音が何段階もボリュームを下げられたみたいに、周囲はしんと静まり返っている。だが耳を澄まし目を凝らせば、その静寂は灰色の空からもたらされた昨夜より降り続く雨のせいだと気が付くだろう。

 この乳白色の空気に煙る静けさに包まれた世界に一組の花が咲いていた。

 パステルカラーの水玉模様と、赤に細いピンクのラインが入った二つの花。由紀と私のそれぞれの傘は上下に、左右に揺れながら石畳の緩い坂を上っていた。

 私達は今までの上り坂から左に折れて平坦な細い道に入り、もう一度折れて小道をしばらく歩き、そして立ち止まった。

 石田、と彫られた御影石の前で。

 由紀は片手にもっていた木桶を置くと、周りに落ちていた枯れ葉や紙くずを拾いはじめる。辺りをだいたい片付けると木桶の水で手をゆすぎ、リーバイスのポケットからハンカチを取り出して水気を拭った。

 ショルダーバッグから縦に長い箱を取り出した由紀は、その中のお線香の束を二つ引き抜いて箱を閉じる。お線香の束を私が受け取ると、今度は箱と入れ代わりにマッチ箱を取り出して、一本シュッと擦ってから私の手の二束の先に揺らめく炎をかざした。

 一瞬の間のあと、お線香の物哀しい香りが辺りに漂う。

 由紀は私からその束を受け取って、墓石の窪みにそれを横置きする。

 私は傘を持つ手が一緒に持っていた花束を由紀に渡して、花を挿す器に溜まった雨水を脇にこぼして桶の水を杓ですくい入れた。

 束を二つに分けた由紀が花を挿して、私達は墓石に向かい手を合わせた。

 …………。

 由紀の両親のお墓参りは今年で二度目。昨年私が学校をエスケープしていた時にお寺へ向かう由紀と偶然会ったことがきっかけになった。

 小学校六年生の秋、修学旅行に出ていた由紀を残して二人は帰らぬ人となった。無謀運転の車に追突されての事故だったと由紀は教えてくれた。

 その後、由紀は叔父夫婦に引き取られて中学に通い、高校入学を期に一人暮らしを始めたのだという。

 知らなかった。普段の由紀からは想像もできない過去にそう言うと、そりゃそうだよ、誰にも言ってないもん、という返事が戻ってきた。

 でもね、優には知っておいて欲しかったんだ、私のこと。いつか聞いてもらおうって、結構前から思ってたんだ。

 由紀のその言葉に、私は応える術を持たなかった。やっとの思いで口から出た言葉は、ごくありふれたものだった。

 ありがとう。

 私の横で由紀は涙を流していた。泣くのではなくて、ただ流していた。人間って、嬉しくっても泣くんだねぇ、なんて笑顔で言いながら。

 そのうち私もつられて涙を流していた。本当だ、悲しくないのに泣いたりすることもあるんだね。そう由紀に言えた私の顔も、多分微笑んでいたんだと思う。

 二人の流した涙が、私と由紀の間の最後の壁を溶かしたような気がした。多分、由紀もそう思ってくれている、って思えた。

 その日を境に私達は今まで以上の友達になれた気がする。由紀が私の親友に、私が由紀の親友になった日だった。

「母さん、自分の生まれた六月が好きだったんだ。だから結婚する時どうしてもジューンブライドにこだわったんだって。父さんにわがまま言って」

 過去に浸っていた私を現在に引き戻したのは由紀の声。由紀は私のほうへは振り向かずに、その視線は墓石を見つめたままでいた。

「幼稚園の頃だったかなぁ、私、母さんに聞いたの。何で好きなの? 雨降りばっかりでお外で遊べないよ、つまんないよ、って。そしたら母さん、笑顔でこう言ったの。『由紀ちゃん、晴れの日は楽しいでしょ? 雪の日も楽しいでしょ? それじゃ、雨の日も曇りの日も楽しくなったら、一年中楽しくなれちゃうわよ』」

 由紀の横顔が少し綻んだ。

「『晴れの日だって雨の日だって、いつだって楽しいことはいっぱいあるの。ただ、みんながそれに気付かないだけ。毎日そういう小さな楽しいこと、たくさん見つけていけた人が幸せになれるよ』って」

 話し続ける由紀の顔も何だか幸せそうに見えた。

「それじゃあ、今ママは幸せ? って私聞いたの。……母さん、すごく優しい笑顔で嬉しそうに言ったんだ。『もちろん幸せよ。だってママには、とっても優しいパパと、こんなに可愛い由紀ちゃんがいるんですもの』。その時私を抱きしめた母さん、すごくあったかかったな……」

 多分、由紀ってお母さん似なんだな。根拠なんか全然ないけど、そう思った。

「母さんと父さん、すごく仲良かったんだよ。もっとも、死ぬときまで一緒じゃなくたっていいと思うんだけどね」

 由紀は振り向くと、私に向かって微笑んだ。

「今日は二人の二十回目の結婚記念日なんだ。お祝いするの。ケーキ、食べに行こ!」

 うん。笑顔で言葉を返す私。

 由紀がどうして命日ではなく結婚記念日にお墓参りをするのか、何だか分かるような気がした。

 

 どうしたら由紀みたいになれるんだろう。大事な人を、それも血の繋がった両親を二人いっぺんに失ったのに、それでも由紀は二人のことを思い出す時、笑顔になれる。

 私は……まだ駄目だ。彼を思い出すことはとても簡単だけど、その思い出たちはやがて今の私が抱える悲しみに直結してしまう。つまり、彼が側にいないこと、彼に二度と会えないこと、彼はもういないんだということに……。

 彼を亡くしたその虚無感に襲われて、私は私が分からなくなっていく。いっそ狂えてしまえるなら、全ての記憶を失うことが出来るなら、と幾度となく思った。そしてその度に私は、自分のなかに『彼のことを忘れたくない』と強く思う気持ちがあることに気付かされてしまう。

 ……いつかは笑顔で思い出すことが出来るようになれるのかな。由紀みたいに。

 

「由紀は……強いね」

 どこか遠いところを見つめたまま、由紀の小さな頭がわずかに傾いた。

「さあ、どうだろうね? ……ウフッ」

 由紀は、ほんの少しだけ悲しそうに、だけど優しそうに微笑んでいた。

 

   *

 

 突然の呼び出し音に、私は電話のあるリビングへ急いだ。

 時間は午後十時、お風呂上がりでパジャマに着替えたばかり。私は濡れた髪を拭くのもそこそこに、受話器を手にして耳に当てた。

 由紀からかな。

「夜分失礼致します。宮下と申しますが、七瀬さんの御宅でしょうか?」

 違った、高志さんだ。

 電話の向こう側で車の通り過ぎる音が聞こえる。どうやら外から掛けているみたい。

「はい、七瀬ですが」

「優さんは、御在宅でしょうか?」

「私です。今晩は、宮下さん」

「今晩は、七瀬さん」

 ……こんな時間に何だろう?

「あの……、何でしょうか?」

「申し訳ありません、突然。なるべく早くお知らせしたかったので」

 高志さんは一呼吸間を置いた。そういえば高志さん、少し息が上がっているように聞こえる。

「お願いされていた本が、見つかりましたよ」

 それが以前高志さんにお願いした天使の絵本のことを言っているのだと気付くのに、さして時間はかからなかった。

 

 昨日までのぐずついた空とはうってかわって、今日は朝から梅雨の晴れ間の陽射しが心地よく降り注いでいる。今日いっぱいこの天気は続くというから、絶好の洗濯日和になりそうだ。

 そんな訳で、私は午前中の内に洗濯物を一通り出し終えてしまうと、ハーブ類の植えてあるプランターからミントの葉を二枚ちぎってきた。丁度キッチンからは、お湯が沸いたことを一生懸命に知らせてくれているやかんの声が聞こえる。

ミントのほのかな香りがティーカップから立ちのぼる。温かなその香りを深呼吸するようにして味わうと、身体の内側が癒されていく、ヒーリングされている時の独特な感覚が全身に広がってゆく。

「ふぅ……」

 ふと見た時計の短い針は、11と12の間にあった。待ち合わせの時間までにはまだ充分過ぎる時間がある。二時に広島駅前だから、一時頃に家を出れば丁度いいだろう。

 ……そう、待ち合わせ。今日の午後に会う、という約束を高志さんとしていた。

 私が頼んだ、題名はおろか内容すら分からない本を、高志さんは何処をどう探したのか見つけてきてくれたのだった。

 けれど、それでは明日お店の方へお伺いします、という私の言葉の後には、申し訳ありません、明日はお休みなんですよ、という高志さんの申し訳なさそうな声が続いた。

 そうですか、それでは……、と私が言葉を紡いだその時、受話器の向こうの高志さんはいつもと変わらない優しげな口調で言ったのだ。

「明日の午後はお暇ですか? もし七瀬さんさえよろしければ、どこか外で待ち合わせませんか?」

 あまりに唐突だったので、何と言っていいのか分からなかった。

「え、……あっ、はぁ……」

 確かそんな気の抜けた自分でも良く分からない返事を返したような気がする。

「ちょっと待ってもらえますか。予定調べますから」

 高志さんの、ええ、どうぞ、という言葉を聞いて受話器をスタンドの上に置いた。流れ始めた『イッツ・ア・スモールワールド』を聞きながら、私は身体のなかに中途半端に溜まってしまった息を大きく吐き出した。自分の鼓動がやけに早いリズムをとっていることに気が付いたのは、その時だった。

 スケジュールを見なくても予定が空いているのは分かっていた。けれどお店が開いている時に私が行けば済むわけで、わざわざ待ち合わせてまで、とも思う。それに、その本をそこまでして早急に見たいと思っているわけではないのだから。

 高志さんの言葉の意図が全くわからなかった。ただ、書店の店主として客に品物を渡そうとしている、というのとは多分違うなとは思った。

 もしかして。ふっと一つの思考が頭に浮かぶ。

 私、誘われたのかな。

 ……。

「はぁぁぁ……」

 自分自身に呆れてため息を吐く。やれやれ、我ながら自惚れもいいところ。

 再び受話器を耳に当てる。電話の向こう側から夜の街特有の喧騒が聞こえてきた。

「宮下さん……、あの、私は構いませんけど、せっかくのお休みの日によろしいんでしょうか?」

「ええ。……実を言うと、私のほうで七瀬さんにお願いしたいことがあるんです」

「えっ、あの……、私に、ですか?」

「はい。あっ、御心配なさらずに。大したことではありませんから」

「あ、はぁ……」

「それでは明日の午後二時に、広島駅の南口改札前で。よろしいですか?」

「はい。二時に南口ですね」

 約策を交わして、二人ともが「おやすみなさい」の言葉の後に電話を切った。

 特に何をするでもなかった週末に、いつの間にか予定が出来てしまった。それも、ほんの幾つかの言葉を交わしただけで。

 胸を打つリズムがいまだに早いことに、今更ながら気付く。

 私は何を感じているのだろう。

 高志さんは多分何かの用事があって、そのついでにというつもりなのだろう。それに、ただ本を受け取りに行くだけのことで、何も深く考える必要はないのに、と思った。

 ……そう、深く考える必要の無いことなのに。

 なのに、何で私は深く考えてしまうのだろう……。

 ……。

 また考えてる。まったく……。

 口を着けたティーカップから緩やかに香るミントが、私のざわめいていた心を少しずつ落ち着かせてゆく。

「……フッ、らしくないな、私……」

 ほんの少し笑みを浮かべて、呟いてみる。そうすることで何だか本当に、自分がとても自分らしくなく思えてきてしまって、少し困った。失敗したかもしれない。

 ティーカップをトレイの上に戻して、ふぅぅぅ、息を吐く。私の内側に漂っているもやもやしたものも、それで吹き飛んでしまえばいいのになぁ、と思う。

「……さ、てと」

 ソファから立ち上がった私はトレイに載せたティーセットをキッチンへ片付けると、二階の部屋へ上がって出掛ける支度を始めた。

 昼は冷蔵庫の中の物で適当に済まそう。そう思いながら着ていく服を見繕っている私のなかに、何だか少し浮ついているみたいだね、と語りかけてくる自分がいた。

 そう、なのかな……?

 

 人の流れと共に電車を降りる。定期券で自動改札を抜けて、私は左手首の時計に視線を向ける。13時54分。予定通り、時間前に着いた。私は腕時計から視線を上げると、その視界の中に高志さんの姿を探す。

 南口改札を出た正面には高志さんの立つ姿は無かった。

 時間にルーズそうには見えない高志さんの姿を思い出して、違う場所にいるのかも知れない、そう考えてターミナルの前まで歩いてゆく。

 そういえば、この場所でこんな風に人を探すのも久し振りだ。東京から来る彼と待ち合わせる為に何度も訪れたこの『広島駅の改札口』。改札を出た少し先の壁によりかかって待っている彼に、決まっていつも「ゴメン、待たせたかな?」と聞いた私。

 彼の「ううん、今来たところだよ。元気そうだね、優」という言葉が聞きたくて。

 そう、確かあの壁だったっけ……。

 ……。

 あっ……。

 ……うそっ、彼がいる。そんな……まさか……。

 幻なのか、現実なのか分からない。……でも、あの場所に彼がいる。

 私の足が立ちすくむ。たった一歩前へ踏み出すことすら出来ないでいる。

 お願い動いて、私の足。

 あそこに彼がいるの。ねえ、お願い。早く彼のところへ行きたいの。

 世界の全てが色を無くして、彼と彼の立っている場所だけが私の眼に色を持って映る。一面に広がる白と黒だけの世界で、そこだけが切り取られたかのように存在する色彩。その鮮やかな光を求める私の心が、ようやく一歩自分の身体をその場所へと近づけた。

 ……。

 不意に、世界の全てが彩りを取り戻す。

 私の耳に街の雑踏が甦る。音すら消え失せた色のない世界から帰ってきた私の思考が、少しのあいだ混乱していた。

 え……。

 ……あれ?

 私の視界にはいつもの街がある。そして私の見つめるあの場所には彼が……いや、彼はいなくて、でも代わりに彼でない誰かのよりかかって立っている姿を見つけた。

 あ。

 そこには高志さんが立っていた。記憶のなかの彼と同じ場所で同じようにして。

 ……今のは、何?

 ……。

 もしかして、私はまた感じてしまったのかもしれない。高志さんに彼の面影を。

 何故? それほど彼に似ているところなんて無いように思えるけれど。

 ……。

 やっぱり私、らしくない。何やってるんだろ。

 心のもやを振り払い、私は高志さんのいるほうへと歩いていく。時間は……あ、駅前のデジタル表示の時計が今、私の見ている前でちょうど14時に代わった。

「こんにちは、宮下さん。お待たせしてしまいましたか?」

 すぐ横に立つ私に気が付いて、高志さんが読んでいた文庫本をパタッと閉じた。いつもの微笑みを浮かべて、高志さんがこちらを向く。

「こんにちは、七瀬さん。私も今来たところですから」

 その言葉と笑顔が、またほんの少しだけ彼を思い出させる。

 胸の奥で感じる、ほんのわずかな痛み。つきん、と響く重苦しさ。

 私はそれをすぐに振り払って、平静を装って高志さんの顔を見上げる。

「あの……、どうしてここで待っていたんですか?」

 思い切って聞いてみよう、そう思ったのかどうか自分でもよく分からない。けれど、気が付いた時には既に私の口は言葉を発していた。

 自分でも変な質問だな、と思う。ここで待ち合わせていたのだから、高志さんがここにいても別に不思議ではないのに。でも、何故この壁に寄り掛かって私を待っていたのか、おそらく私はそれが知りたいのだろう。

「あ……ああ。ここに立っていたら駅から目立つと思ったのですが……。分かりづらかったですか?」

 とても済まなそうな苦笑いをする高志さんに、私はふるふるっと首を横に振った。

「いえ、すぐ分かりました。ありがとうございます」

 ……彼と同じだった。最初の待ち合わせの時、彼は私にこう聞いた。

「ねえ、優。僕のこと、すぐに見つかった?」

 うん。でもどうして? そう彼に尋ねると、何だか悪戯が成功した小さな子供みたいな笑顔で答えてくれた。

「良かった。あそこなら優が駅から出てきた時、目立つんじゃないかと思ったんだ」

 それじゃ、これからもここへ来たときはあそこで待ってるから。そんな彼の言葉に「そうだね、そうしてもらえると助かるかな。探す手間も省けるしね」と応えた私。

 まだあの頃の私は、久し振りに会えた彼に懐かしさを感じて胸をいっぱいにさせていたなぁ、と思い返す。……そう、私がまだ彼に『男性』を意識するほどの特別な感情を抱いていなかった頃だった。

 ……。

 私は彼の記憶を心の奥底のほうへと片付けると、目の前の高志さんへ目を向けた。

 高志さんは片手で持っていた鞄を開けて文庫本をその中へ滑らせると、今度は入れ替わりに『宮下書店』の紙袋をそこから取り出した。中に本が入っているのだろう、口のところが折り曲げられテープで止められている。

「これだと思います、お探しの本」

 高志さんがその紙袋を私に向けて差し出した。

「ありがうございます。……あの、それ、おいくらなんでしょうか?」

「ああ、そのことなんですが……お譲り致します」

「え?」

 少し区切ってからの高志さんの言葉に、私は驚いた。

「実はその本、かなり以前に絶版になっていたんです。ですが、運良く私の知人が持っていたので、訳を話したら、そういう方になら譲っても構わない、と。ですから、ぜひ七瀬さんに貰って戴きたいんです」

「あの、でもそれでは何だか……」

「その方が、きっとこの本も喜ぶと思います」

「あ……はぁ……」

「これからは七瀬さん、あなたが大事にしてあげて下さい」

 少し戸惑って、でもその好意を私は素直に受けることにした。

「……はい、それでは戴きます。大事にします」

 私は高志さんからその袋を受け取ると、破れないように気を付けながらそぉっとテープを剥がす。袋の口を開き中から本を取り出すと、私はその表紙を見た。

 『天使のおくりもの』。

 可愛らしい天使の女の子が、彼女の腕に余るほどの大きさの星を大事そうに抱えながら三日月に腰掛けて脚を投げ出している、そんな繊細で優しいタッチのイラストが描かれた表紙に、私は何故か確信めいたものを感じていた。

「きっとこの本だ」と。

 私が本を開くことなく紙袋へしまうのを怪訝な面持ちで見ていた高志さんに、私は表紙を眺めて知らずのうちに浮かべていた微笑みのまま、高志さんを見上げた。

「どうかしましたか?」

「あ、いえ、その……確認なさらないでよろしいのですか?」

 少し慌てた風なその言い方が何だかいつもの高志さんらしくない感じがして、私はいけないなと思いつつもついクスッと笑ってしまった。

「あぁ、家に帰ってから落ち着いてゆっくり見よう、と思ったんです。それに……」

 『らしくない』高志さんに、こんな感じの高志さんもいいな、と私まで『らしくない』ことを思いながら言葉を続けた。

「それに、探していたのはこの本で間違いないって、何故かそう思えるんです」

 いつもの感じに戻った高志さんが、いつもの微笑みを私に向けた。

「そうですか。七瀬さんがそう思われるのなら、多分そうなのでしょう」

 私は背中のバッグを下ろして紙袋をしまいこむと、再び背負いなおして高志さんのほうへと向いた。

 さて、もう二時を過ぎたんですよね、と呟いた高志さんが、いつもとはちょっと違う感じのする笑顔を私に見せる。

 どこか誰かを思いださせるその笑顔に、私の内側は軽い痛みを感じていた。

「では、良ければ私にしばらく付き合ってもらえますか?」

「あ、はい。……でも、私でお役に立てるかどうかわかりませんよ」

「ああ、それなら大丈夫です。多分、行けば納得してもらえると思いますけれど」

 それでは行きましょうか、と促す高志さんの横に並んで歩く。高志さんは駅のそばのショッピングタウンへ向かうと、そのまま中へと入ってゆく。私もそのすぐ横を、時々は二、三歩ほど遅れて高志さんに付いてゆく。そんな時、少しだけ振り向いて私を確認している高志さんのその仕草が、また私に誰かを思いださせるような気がした。

 いや、多分気のせいなのだろう。もう、そう思うことにした。

 

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