Sentimental Graffiti ~ 2nd Prologue ~ 天使の涙 ~ 七瀬 優 ~ 作:きさらぎむつみ
*
「あの……、ここ、ですか?」
「ええ、そうですよ」
午後の授業の無い土曜日だからだろうか、周りには女子高生の黄色い声が溢れている。まぁ、ついこの前までは私だって彼女たちと同じ女子高生だったわけだけど、何だかそう見えないから不思議なものだ。
高志さんの後を付いて入ったところは、何とショッピングタウンの二階にあるケーキハウスだった。女子高生で溢れているのも無理はない。彼女に連れられてきたのか何人かの男の人もいるにはいるが、皆何となく肩身が狭そうに見える。
ウェイトレスに案内されて窓際の席に着く。高志さんがメニューをちらっと見ただけで紅茶とケーキのセットを頼むと、同じでいいですか? と私に聞いてきた。私が頷くのを
見て、それを二つ、とウェイトレスに付け加える。ケーキは高志さんがアップルタルト、私は本日の日替わりメニューになっているストロベリーシフォンに決めた。
コップの水を一口飲んでから、高志さんが私に話しかけてきた。
「助かりました。こういう店に男一人ではさすがに入りづらかったものですから」
「あぁ、やっぱりそうなんですか、男の人って」
「さあ、多分大抵の男性はそうだと思いますよ。それにしても、今日はまだ結構混んでますね。お昼のケーキバイキングが終わってる時間だからもう少し空いていると思ったんですけど」
「へぇ……、随分とお詳しいんですね」
「あ、いや……、ははは……」
また『らしくない』高志さんになっていた。恥ずかしそうにというか、照れくさそうにというかそんな風にしている。
「甘いもの、お好きなんですか」
「ええ、以前はよく連れ立って来ていたんですけど」
「……女性の方と、ですね?」
さっきから私、少し意地悪かなぁ、とちょっとだけ思った。それでも案の定というか、やはりというか、予想どおりの答えが高志さんから返ってきた。
「あ……ええ、まあそうです」
とても困った感じの照れくさそうな顔付きが、いつもの高志さん『らしくない』とは思うけれども、でもやっぱり『高志さんらしい』感じがした。
ワゴンを携えてやってきたウェイトレスが二つのティーカップをソーサーと一緒にテーブルの上に置くと、ティーポットから丁寧に紅茶を注ぎ入れた。ふわっと白い湯気とともにセイロンの温かそうな香りが広がってゆく。
お替わり分の中身が残されたティーポットをテーブルに置いてウェイトレスが去ってゆく。私は高志さんに促されて目の前に置かれたティーカップを手にとった。
柔らかそうな湯気を上げるティーカップの中身は、宝石の琥珀を思い出させる綺麗な色をしていた。私はもう片方の手も添えて口元へ持っていくと、その琥珀色を口のなかへと導いていった。
「……おいしい……」
自分の家で普通に入れるのとはどうしてこんなに違うのか、と思うぐらいに違う紅茶の味に、私は思わずそう呟いていた。紅茶に関しては結構凝っているつもりなのだけれど、到底こんな香りも味も出せないなぁ、と思う。
「そうでしょう。ここ、とてもおいしい紅茶を入れるんです」
私の驚く様子を嬉しそうに見つめながら、ここはケーキだけでなく紅茶もとても美味しいんです、と高志さんは教えてくれた。
高志さんも左手にティーカップを持つと口元までゆっくりとした動きで持ちあげる。少しの間立ちのぼる香りを楽しんでから、静かに口をつけて味わっていた。
……。
その左手で鈍い輝きを放つそれが、不意に私の目に留まった。
薬指の根元でくすんだ銀色に光る金属製のリング。……そう、それは高志さんと高志さんが愛する人との絆の証だ。
……。
また、胸の奥を痛みがかけぬけた。
カチッとソーサーの上にティーカップを置いた私の右手が、自然と自分の胸元に近付いてゆく。そこにあるのは彼が私を愛してくれた証、あの天使のペンダントだ。
静かに触れたそれは、金属の持つ硬さと私の肌から受け取った温かさを私の指へと伝えてきた。
これは私にとってのエンゲージリング、彼との絆の証だ。だから私はあの日以来、このペンダントを肌身離さず付けることにしている。
「どうかしましたか?」
高志さんの声にはっとする。また、ぼぉぉっとしていたみたいだ。こんなだからよく由紀にからかわれたりするんだろうな。
「あ、何でもないです。ごめんなさい」
慌てて取り繕ったのがあからさまだな、と自分でも思った。けれど高志さんは気にしないでくれたようで、そうですか、と言ってまた紅茶を口元へと運んだ。
またウェイトレスがやってきて、今度はケーキをテーブルの上へ置いていった。それではどうぞごゆっくり、と笑顔で仕事をこなして彼女はまた厨房のほうへと戻ってゆく。
シフォンケーキの端っこをフォークで一口の大きさに切り崩す。口の中へ運ぶと苺の酸味と甘味が口のなかいっぱいに広がって、何とも言えない喜びみたいなものを感じる。
さすがは高志さんのおすすめのお店、ケーキもやはりその辺のお店とは格段に違う美味しさだ。
「どうですか?」
「ええ、とても美味しいです」
「そうですか。良かった……」
タルトを食べる手を休めて高志さんが嬉しそうに微笑んだ。何だかこっちまで訳もなく嬉しくなってしまうような微笑みだ。こういう笑顔の素敵な人って、いいなぁと思う。
そういえば、彼もとてもいい感じのする笑顔を私に向けてくれたっけ……。
……。
あぁ……。また彼のことを思い出してぼぉぉっとしそうになっている。いったい今日はどうしたというんだろう、私は……。
私はまた一口シフォンケーキを口にする。……ふう、美味しいものを食べていると何故か他のことって考えたりしなくなるから、今の私にはちょうどいいのかもしれない。
そうこうするうちに二人ともケーキを食べ終わって、私は空になった二人のティーカップにお替わりを注いだ。
セイロンティーの芳しい香りを味わいながら、私は天井から床までの大きなガラスに隔てられた向こう側の世界を何となく眺めていた。
こういう落ち着いた雰囲気の中にいると、例えばこうして街を行く人々の姿を見下ろしていても、どこかもっと遠い場所の出来事のように思えてしまう。
店内の喧騒も人が減ったのか、先程よりは随分と静かになっていた。両手で持つティーカップから伝わる温もりが、私の心を穏やかにしてゆく。
「……以前から、七瀬さんをここへお連れしようと思っていたんです」
「えっ……?」
不意にかけられた言葉に、私は高志さんの方を向いた。
いつもと変わらない、いや、いつもよりも優しい笑顔の高志さんが私の前にいた。
「そう、だったんですか……」
「……やっぱり、おかしいですか?」
「いえ、そんなことはないと思います。でも……」
「でも?」
少し迷ったけど、私はその先を続けた。
「これだとまるで、デートしているみたいに見られませんか?」
「あ、ああ……。ははっ、そうかもしれませんね」
笑って誤魔化している高志さん。こんな高志さんを見るのも多分初めて。今日の私は、普段本屋で働いている時とは違う高志さんをもう何度も見ている。
「実際、七瀬さんと私は周りの人にどう見られているんでしょうね」
「さぁ……、どうでしょう……」
真先に思いついたお決まりの言葉はあえて言わず、私は次に思いついた方の言葉を言ってみた。
「……そう、ですね。例えば『歳の離れた兄妹』とか……」
高志さんの口が、感心したような声を発する。
「ああ、なるほど……。確かに、それならあまり不自然ではないでしょうね」
「もっと不自然でないのもあります」
ティーカップを取ろうとしていた高志さんの手が止まる。
「『女子高生とその援助交際の相手』……」
「あ……、それはちょっと勘弁してもらいたいですね」
「私もです」
二人とも苦笑い。
私はざわめく心を落ち着かせるため、セイロンティーを少しだけ口の中へとこぼす。
「もしかすると……人によっては恋人同士に見えるのかもしれませんね……」
……。
その言葉はまるで穏やかな水面に投げ込まれた小石のように、私の心を大きく波立たせた。波紋の広がるさまは、そのまま私自身の揺らぐ心を表しているかのよう。
「あっ、御免なさい。変な意味に取らないで下さい。謝ります」
私の沈黙を否定と受け取ったのか、高志さんがすぐにそんな言葉をかけてくれた。
「いえ……、そうじゃないんです。……ただ、ちょっとびっくりしちゃって……」
突然だったこともそうなのだけど、何だか心のうちを見透かされたような、そんな気がして尚更のことだったから。なぜって、私が最初に思いついたことも……そう、つまり二人とも同じことを考えたわけだ。
「そうですか。……済みません、七瀬さんの気持ちも考えずに……」
何だかとても気にかけてくれているようで、こちらまで恐縮してしまう。
「ほんと、大丈夫ですから。あまり気になさらないで下さい」
高志さんのそんな様子まで、知らないうちに私のなかで彼の面影へと結びつく。
そうか……、多分私の目の前にいる『宮下高志』という人物は、私の知る『彼』にとてもよく似ているのだ。だからこそ、こんなにも高志さんに『彼』を感じてしまうことがあるのだろう。
世界には自分と瓜二つな人間が三人いるというぐらいだから、雰囲気のとてもよく似ている人なら、もっと多くいるのだろうし。
いつの間にか私のなかには、高志さんに彼を感じることが当たり前のように思える感情が存在していた。
不思議だな、と思う。最初は高志さんにそういう風に感じることに戸惑い、驚いていたはずなのに。今では、もっと高志さんのなかにある彼を感じとりたいとさえ、私は思い始めている気がする。
何故なのだろう、よく分からない……。
けれど……、それでもいい。今はまだ、もう少しこの心地良さを感じていたい気がするから……。だから、今は自分の内側よりも、目の前の高志さんに目を向けていたい。
そう自分の心に一応の結論付けをして、私はティーカップを持つ手を口元から下ろした高志さんを見た。
窓の外を眺めていた高志さんの顔がこちらを向く。その優しげな微笑みを見ている私のなかに浮かんだ問いを、やっぱり今日の私は意地悪だな、と思いつつも尋ねてみた。
「でも、もしそういう風に見られていると思われるのでしたら、私が一緒にいてよろしいのですか? 誰か知り合いの方に見られたりしたら、宮下さん困りませんか?」
「あ……、と言うと?」
高志さんは不思議そうに聞き返す。
ひょっとして、男の人ってこういうことにはあまり気が回らないのだろうか。
「奥さんに知られたら、怒られますよ、ってことです」
……?
そのままの意味で言ったつもりの私の言葉に、何故か高志さんは固まっていた。
また先程のように笑って誤魔化す高志さんを予想していた私は、その意外な反応に心がざわめいていた。私、何か気に障るようなことを言ってしまったのかもしれない、どうしよう……。
一瞬の沈黙に私と高志さんは飲み込まれる……。
だが、すぐに高志さんはいつもの穏やかな笑みをその顔に浮かべると、独り言を呟くように、でも私には聞こえるように言った。
「……そう、ですね。そうかも知れません……」
今までに見たことのない優しい微笑みの高志さんの瞳が私を見ている。私はその瞳に引き寄せられるようにして高志さんを見つめ返していた。
良かった……、怒ったわけじゃないみたい……。
高志さんの微笑みが私の心を落ち着かせてゆく。私の顔も自然と微笑んでゆく。
……。
…………?
…………!
その落ち着きが私に気付かせたのかもしれない。
高志さんの瞳が見つめているのは私ではないということに。
いや、少し違う……。今、目の前の高志さんの瞳に映っているのは確かに私の姿なのだけれども、でも高志さんはどこかずっと遠くを、私を通り越したそのもっと先を見つめている、私は高志さんの瞳にそう感じてしまうのだ。
その瞳が見つめる先にいる人物はおそらく……うん、多分そうなのだろう。何故、私を通してその人を見ているのかまでは分からないけれど。
高志さん自身は気付いていないのかな。自分が目の前の相手ではなく、その先にいる誰かを見ている、ということに。
……。
私の心の中に……何だろう、吹雪が吹き荒れているような感覚がわき起こる。
でもそれは、私のことを見てくれていない高志さんへではなく、私自身に向かって吹きつけているものだった。
高志さんのその瞳が気付かせてくれた、今の自分の本当の心。
そうか……私も同じだったんだ……、今の高志さんと……。
「……私、帰ります」
突然立ち上がった私に、高志さんの笑顔が驚きの表情に彩られる。
「えっ。どうかなさっ―――」
「ごめんなさい……失礼します」
高志さんのかけてくれた言葉を振り切るようにして、私は頭を下げてバッグを掴むと足早に店を飛び出していた。
階段を駆け降りて、交差点へと向かう。信号が丁度、赤から青になった。私は背中に二階の窓からの高志さんの視線を感じながら、駅へと向かう人の流れのなかへ紛れ込む。
振り向いたらだめ、私は何度も自分に言い聞かせていた。
もし、もう一度でも高志さんに彼を感じてしまったら、今抑えているものを抑えきる自信が私にはなかったから……。
高志さんに彼の面影を感じることがある。高志さんの仕種や言葉、その表情が私に彼を思い出させることがある。私はそう思っていた。
……でも、そうじゃなかった。私自身、そう感じたいと望んでいたんだ。
私は高志さんに彼の代わりを求めようとしていたんだ。多分、彼のいない寂しさから逃れるために。
まったく……何をやっているんだろう、私……。
……自分があまりに情けなくて、そして許せなかった。
……。
未だに私、彼の死という事実を真正面から受け止められないでいるみたい。あれからもう三ヵ月もたつっていうのに……。
…………。
……そう、まだ三ヵ月しかたっていないのに、私は高志さんに運命を感じ、その優しさに甘えて、心惹かれはじめてさえいたのだ。
馬鹿みたい……。ううん、馬鹿だよ、私。
こんな私、ちっとも私じゃない。本当の私、いったいどこに行っちゃったんだろう。
彼を愛していた私。彼に愛されていた私。たったの三ヵ月で、私はそのどちらも失ってしまったのかもしれない。
もう戻れないのかな、本当の私に。一度無くしてしまったら、もうそれを取り戻すことは出来ないのかな。
これから私は何になってしまうんだろう。愛する彼を失った私? それとも、愛してくれる彼を失った私? それとも、もっと別の私?
ずっと彼だけを愛していたいと思っていたのに、でも今の私はその想いさえも失いかけているみたい。そうなったら私、一体誰を好きになったらいいんだろう。
本当の私じゃない今ではもう、自分だって好きでなんかいないのに……。
気が付くとそこは広電宮島駅、終点だった。
考え事をしていて乗り過ごすなんてことはいつものことだから、別にどうということはないのだけれど。でも、さすがに今日みたいなときは自分自身に少し幻滅してみたりもする。
駅の改札を抜ける。見上げた空はもう夕暮れの赤に彩られはじめていた。
「フッ……ほんと、らしくないよ、今の私……」
自分だけに聞こえるようにそう呟いてから、私は家に向かって歩きはじめた。
……でも、『今の私らしい私』っていったいどんな私なんだろう?
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それ以来、私は高志さんに会わないようにしていた。といっても、『宮下書店』に行かないようにしただけのことだけど。
あの日、わざと街をうろついて夜遅く帰宅した私を待っていたのは、留守電に入れられた高志さんからのメッセージだった。テープには、高志さんがとても済まなそうに、自分
の不用意な発言が私を不愉快にさせてしまったことを謝罪する言葉が残されていた。
その声を聞くうちに次第に大きくなっていく心苦しさ。私は全身が締めつけられるような感覚に襲われた。
高志さんは全然悪くない。謝る必要なんか少しもないのに。
悪いのは私の方。謝らなくちゃいけないのは弱くて自分勝手な私のはずなのに。
……すぐ謝りたかった。でも、高志さんの声を今聞いたら、自分がどうなってしまうのか何となく分かっていたから、電話はできなかった。
だから私は、高志さんに手紙を書いた。その中で私は今日の自分の失礼な振る舞いを謝って、そして悪い感じに取られないように気を付けて手紙の最後をこう締めた。
『宮下さんがとても素敵な方なので、そんな宮下さんに甘えてしまう自分が嫌なので、会わないようにしたいんです。
色々ありがとうございました。
さようなら』