Sentimental Graffiti ~ 2nd Prologue ~ 天使の涙   ~ 七瀬 優 ~   作:きさらぎむつみ

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第五章 初夏・手紙

   *

 

 梅雨が明けた。季節はすでに真夏の装いに変わっていた。

 休み前最後の講義を受けたその足で、私は駅前の喫茶店へと向かった。今日は珍しく由紀のほうが待っている。由紀の学校の方が夏休みに入るのが早かったからだ。

「お待たせ、由紀」

 クーラーの程よく効いた店内で、由紀はレポート用紙に何やら書き込んでいた。

「お疲れ、優。早かったね」

「まあね。ところでそれ、どうしたの?」

「休み明けに提出のレポート」

「今から? 大変だね」

 驚く私の言葉に、由紀はペンを持っていないほうの手を左右に振った。

「そうでもないよ。試験明けからやってるから、あと残り半分ってとこだし」

 しれっと言ってのける由紀。

「ははっ、流石だね。由紀ぐらいじゃない、そんな頃からやってるのなんて」

「私がやらなきゃいけないこと後回しにするの嫌いなの、優知ってるでしょ? つまり、そういうこと」

「そうだったね。頭下がっちゃうよ、由紀には」

 由紀はいつもこんな調子。遊びも勉強も、何をするにも一生懸命。しかも人の倍はこなしてしまう。それでいて、そんな自分を他の人には見えないようにいつもしている。

 そんな由紀を表面でしか見られないような大人たち、特に学校の先生達のほとんどは、何であんなにチャラチャラしたのが学年トップの成績なんだ、って思っていたらしい。私の成績もどちらかと言えばいい方だったから、二年の終わり頃から一緒にいることの多かった私と由紀、二人まとめて不思議がられてたって聞いたことがある。

「さぁて、と。今日はこれからどうしよっか?」

 由紀がテーブルの上のレポート用紙や資料を片付けて顔を上げると、にっこり笑ってそう聞いてきた。

 私も由紀に微笑み返す。そうだね、どうしようか?

「のんびりいこうよ。『今日』はまだ半分も残ってるんだし」

「そうだね、優の言うとおりだ。それじゃまずはお昼を食べて、後はそれからだね」

 あはっ、と笑いながらの由紀の言葉に私はこくりと頷いた。

 

 お昼を食べて市街をぶらついて、夕御飯も込みで少し買い物をして。結局そういう一日になった。二人ともシャワーを浴びて、今は私の部屋へ上がってきている。

「じゃ、電気消すね」

「うん。おねがい」

 一瞬部屋が暗くなる。でもすぐに窓の外から差し込む月の白い光が、部屋の中を優しく照らしはじめた。

 まだそれほど高くない月の放つ光は、私の部屋の半分ほどをその輝きで浮かび上がらせている。

「……ねえ、優は休み、どうするの?」

 ベッドで一緒に横になっている由紀が、身体ごとこちらに振り向いて聞いてきた。

「そうだね……、まだ特に決めてないよ」

 私も首から上を由紀のほうへと向けて答える。

「それじゃ丁度いいや。今年は二人でどっか行こうよ。泊まりでさ」

 由紀が嬉しそうに言う。

「……旅行……かぁ……」

 自分自身の呟きに私の心は反応していた。そこにあるのは、未だに重くのしかかっている現実と、私のなかの迷い。

「……ごめん。私、あんまり動きまわりたくないな……」

 小さな声でそう告げた私は、知らずのうちに天井を見上げていた。

「そう、か……。うん、別に謝らなくていいよ。気にしてないし」

「ごめん……ありがと」

 静寂。

 どこからか聞こえる、気の早い夏の夜の虫たちの演奏が、二人のいるこの部屋を静かに包み込んでいた。

「……まだ、想ってるんだ、彼のこと」

 何かとても簡単に壊れてしまうものにそっと触れようとするような、そんな感じのする由紀の言葉が嬉しかった。

「……そうみたいだね」

 まだ、全然吹っ切れてないんだなぁ、私。

「……そのうち行こうね、一緒に」

「うん……そうだね」

 そのうち、か……。

 うん、その時は由紀と一緒にどこかへ行きたいな……。

 

「ふわあぁぁ。……おはよぉ、優」

 由紀が大あくびしてる。可愛い顔が台無しだ。

「おはよう……、って全然早くないよ」

 腕を伸ばして掴んだ目覚まし時計を見たら、すでに十時半を過ぎていた。

「う、んっ……。はあぁぁ、久し振りだよぉ、こんな時間までぐっすり寝たのって」

「私も、かな。何だか身体が自分のじゃないような感じがするよ」

 何度か大きな伸びをしながら私と由紀は、生まれ変わったみたいな自分の身体の感覚を堪能していた。肉体と神経がリンクしていない、何だかとてもむずがゆい感覚。

「こんな風に自然に起きるまで寝てるのって、身体にだけじゃなくて、心にもいいものかもしれないね」

「ほんと、そうかもね。……さて、しっかり目の覚めたところで朝飯にしますかね」

 そう言いながら、由紀は反動を付けてベッドから下り立った。

「由紀ぃ、これじゃもうお昼だよ」

 目覚まし時計を元の場所に起きながら私もベッドから下りる。

「あ~、そうだったっけ。それじゃ、ちょっと早めのランチ。で、何にする?」

 私に比べたら抜群に寝起きがいい由紀に、結局いつもみたいに任せてしまった。由紀は早速昨夜のパスタの残りを温めなおして、手早く食事の支度を終えてしまう。

 私もインスタントのコーンスープをスープ皿に開けて湧いたばかりのお湯を注ぐと、テーブルの方へ持っていく。

 サラダボールにレタスやなんかを入れて、何だかんだで結構にぎやかになったテーブルの上の食事を終えると、今度は私がキッチンに立って後片付けをする。

 食器を片付け終えたところで、由紀が玄関から上がってきた。

「届いてたよ」

 由紀の手には何通かの封筒。

「ありがと。でも、たいしたのは来てなかったでしょ」

 由紀の手からそれらを受け取る私の手。

「うーん……、それは優次第かな。宮下さんからの手紙があるけど」

「えっ……」

「ゴメンね。一番上にあったから見えちゃった」

 由紀が顔の前で手を合わせてペコッと頭を下げる。

「あぁ、それは別に構わないけど……」

 三通のうちダイレクトメールの二つはテーブルの上に置いて、私は高志さんからの手紙を開封した。

 気をつかったのか、由紀はリビングのほうへ行ってしまった。私はキッチンの椅子に腰掛けると封筒から便箋を取り出した。

 シックな雰囲気の封筒と揃いの便箋には高志さんの几帳面そうな印象の文字が丁寧に並んでいた。

 それほど長い文章ではなかった。時節の挨拶が少し、最近お会いしていませんがその後お替わりありませんか、という風な言葉がそれに続いた。

 そして、おそらく本題なのだろう、と思われる文章が手紙の最後を締めていた。

 

『もし出来るのであればもう一度、七瀬さんと会って話しをしたいと思っています。

 来月の八月十二日の夜、初めて出会ったあの場所で、出会ったときと同じ時間にお待ちしています。

                            宮下 高志』

 

 ただの偶然なのかもしれない。そう思いたい心が私のなかにある。

 これが私の運命なのかもしれない。そう思ってしまう心も私のなかにある。

 私にとって特別な日、彼との始まりとなった五年前の八月十二日。

 ううん、今の私にとっては『特別だった日』でしかないのかもしれない。二人で一緒にペルセウス座流星群を見上げた、あの思い出の日は……。

 ……もしも。

 もしも運命を司る神様がいるのなら、私にいったい何を望んでいるのだろう。私はいったいどうしたらいいんだろう。

 八月十二日、今日を数えてもたったの三週間。ただ待つには長すぎる、しかし迷いを断つには余りに短い時間が私には残されている。

 

 便箋を封筒の中にしまいながら、何となくだけど思った。

 多分私は、その日、高志さんに会いにいかないような気がする……。

 

 リビングへ行くと、由紀はテレビで昼前のニュースを見ているところだった。

「何だって? 宮下さん」

 由紀は座っていたソファで反り返って、私のほうを向いた。見慣れたはずの由紀の顔も逆さまに見るとまるで別人のように見える。

「ん? ああ、暑中見舞い。それと、最近会ってませんねって」

「ふぅん……。何だ、つまんない。私はまたてっきり、デートのお誘いでももらったのかと思ったのにぃ」

 言いながら身体をひねって普通の顔に戻った由紀。あ、訂正。由紀は普通の顔なんかじゃ全然なくて、とても面白そうにニヤニヤしている。

「由紀ひょっとして、私で遊んでやれとか思ってるでしょ」

「ちぇっ、バレてたか」

「バレてるよ。まったく……、由紀といると楽しいよ」

「ありがと」

 にっ、と今までとは違う笑顔でそう言って、由紀はテレビへと振り向き直した。

 褒めたんじゃないのにな、と由紀に聞こえるように呟いて(もっとも、由紀も分かっていての会話だけど)、私は手紙を持って自分の部屋へと上がっていった。

 

 由紀が帰って一人になった私は、特に何かをする気も起きず、と言ってもしないといけない何かがあるわけでもなくて、ただ何となくぼぉぅっとしていた。

 それでも、ああ、私も休み明けに提出のレポートあったっけ、やらなくちゃな、までは思い立ったのだけれど、やはり身体は机の前に向かおうとしてはくれなかった。

 そんな私は、ふと何かを思ったのか、本棚から何冊か本を引き抜いていた。それはどれもお気に入りの、もう何度も読み返したものばかりだった。

 引き出した本を抱えて、でもまた元あったように押し入れて。表紙だけ見て、またしまって。うーん、……私、結局何がしたいんだろう?

 私の人指し指は本の背中に次々と触れながら、棚の端へと移ってゆく。

 一冊ずつ、その背に触れる私の指。文庫本も、新書サイズも、ハードカバーの本も。

 そして、棚の一番端にある本の背中に触れて、私の指は止まった。

 私の手がその二回りほど大きなその本を引き出してくる。

 『天使のおくりもの』。

 あの日、私が最後に高志さんと会った日に高志さんから頂いた本を、私はまだ一度も開いていなかった。あの日からしばらくの間、私の心はどうしても落ち付けないでいて、そしてそのまま忘れてしまっていたようだ。

 ううん、ひょっとして忘れようとしていただけなのかもしれない。

 その本を今度は、私は探し出すようにして引き出している。……きっとあの手紙が私にそうさせたのかもしれない……。どうしてなのか、そんな風にも思えてしまう。

 ……。

 私は部屋の床にぺたりと座り込んで、自分の前にその本を置いた。

 幼い頃、絵本を読むときにそうしたようにして……。

 

 

『夜の空にその少女はいた。少女は夜空の星たちの輝きを見て回る、夜の天使だった。

 少女は、いつも見下ろしているまるで星の輝きのような街の灯が、どうしてももっと近くで見てみたくなって、ある日下界へと舞い降りた。

 そこで少女は一人の少年と出会った。

 少女は少年とたくさんの言葉を交わした。

 そうするうちに少女は少年のことをとっても好きになった。

 少年が楽しそうに話しをする時の、とりわけ『夢』を語る時の少年の瞳の輝きが、今まで見たどんな星の光よりも美しく輝いて見えたから。

 少女は夜の来るたびに少年に会いに行き、少年の話す色々なことを聞いた。

 そんなある日、少年は少女に自分が明日遠い街へ行ってしまうことを、少女ともう会えなくなってしまうことを、とても残念そうに話した。

 いつもは輝きに溢れる瞳を曇らせる少年に、少女は優しく微笑みながら応えた。

 そんなことないよ、と。

 少女は少年に約束した。どこに行っても、私がきっと見つけてあげるから。だって、この星のどんな場所にだって『夜』はあるんだもの、と。

 そして少女は少年に近付くと、少年の額に軽く小さく口づけた。

 また会えますように。そう願いを込めて。

 次の夜から、少女は少年を見つけるために下界を眺めてまわった。夜の訪れる街から街へ、次の日もその次の日も少年の姿を探していた。

 そして別れの日から数えて何度目かの夜、少女はついに少年を見つけた。

 少女はすぐに下界へと舞い降りて、少年の前に姿を見せた。そして少年に、また会えたね、と優しくささやいた。

 しかし少年からの返事は無かった。不思議に思った少女はもう一度少年に話しかけた。

 でも、やはり応えてくれなかった。少年にはまるで少女の姿が見えていないかのようで、そして少女の声が聞こえていないかのようだった。

 少女は毎晩少年のところへ行って話しかけた。また会えたよ、また話を聞かせて。

 けれど少年が少女の呼びかけに応えることはなかった。

 ある夜、少女がまた今夜も少年のところへ行こうとしたとき、少女は小高い丘の上に少年の姿を見つけた。少女はすぐにその場所に近付いていって、そして気が付いた。

 その少年が誰かと一緒にその場所に立っていることに。

 少年の横には女の子がいた。少年と女の子は手をつなぎながら星空を見上げていた。

 照れくさそうに、でもとても嬉しそうにしている少年を見て、少女は何故少年に自分の姿が見えなくなってしまったのか分かった。

 少年はその女の子に恋をして、少年にとってその女の子こそが天使になってしまったからだった。もう自分は少年の天使ではなくなってしまったのだ。

 少女は思った。私の方が先だったのに、先に少年のことを好きになったのに。

 悲しくて、切なくて。そして少女の瞳から涙が溢れた。

 少女の頬を伝ってこぼれ落ちた涙は、そのまま夜空を流れる星に変わった。

 どんな星の輝きよりも明るく光り、そして静かに消えていった流れ星。

 その輝きが少年と女の子を優しく照らしだした。

 明るく照らされた少年と女の子を見て、少女は気付いた。少年の隣にいる女の子が自分とそっくりなことに。

 そう、少年の隣にいるのは『人間』の自分だったのだ。

 きっと少年も私の事、好きだったんだ。そう思えることが出来て少女はとても嬉しい気持ちになった。少女の瞳からはぽろぽろと涙がこぼれていた。

 嬉しくて、とても嬉しくて。でも嬉しければ嬉しいほど、とても悲しくて。

 少女の涙は次々と光り輝く流星となって夜空を流れていった。

 その光は少女からの少年への贈り物。

 『私』と幸せになってね、『私』のこと忘れないでね。

 そんな少女の思いの込められた、天使がくれた贈り物。』

 

 

 ベッドに仰向けになり、私は天井を見上げていた。雲の切れ間から差し込む月の光は、私の身体をその淡い白色に染めている。

 思った。少女と少年と女の子の話のことを。

 少女の流した涙は、嬉しくて流したものだったのか、それとも悲しくてのそれだったのか。でも多分、その両方なのだという気がする。

 少年と『私じゃない』私が幸せそうにしているのが嬉しくて、でも少年と一緒にいるのが自分ではなくて『私じゃない』私なのが悲しくて。けれど、今の自分には少年と『私じゃない』私を見守りながら涙することしか出来なくて。

 それでも、流れ星となった自分の涙が夜空を流れていくさまを嬉しそうに見上げている少年と女の子の笑顔に、少女はこの上ない幸せを感じていたのだと思う。

 だってその流れ星はまぎれもなく、少年と女の子へ少女からの、『天使』からの贈り物だったのだから。

 

 彼はどういう思いでこの話を私に教えたかったのだろう。それとも、もう細かい内容までは覚えていなかったのかもしれない。

 でも、もし彼がこの話を覚えていたのだとしたら、一体彼はあの時の流れ星を、そして奇蹟が二人に見せてくれた真冬の流星群を、どんな気持ちで見ていたのだろう。

 彼は、誰の為の涙と感じたのだろうか。

 

 彼の死に涙を流したあの日まで、私は彼の天使でいられたのかな。

 

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