Sentimental Graffiti ~ 2nd Prologue ~ 天使の涙 ~ 七瀬 優 ~ 作:きさらぎむつみ
*
そして。
結局、三週間はあっと言う間に過ぎてしまった。
今日は八月十二日、それもあと数分で終わってしまう。なのに私はそんな頃になった今でもまだ、今夜どうするのかを決めることが出来ずにいた。
だからなのか、心が落ち付けないでいる。時間がせまるにつれて次第にひどくなっているように感じるのは、会いに行かない、という決意と呼ぶにはあまりに強くないそれに対して、私の心のどこかではそうしたくないと思っているからなのかもしれない。
……。
時計はそんな私の心を察することもなく、自らの役目を果たそうとしている。
そして、三本の針は一瞬だけ重なると、日付の替わったことを私に示してくれた。
とうとう何も決められないまま、私はこの夜を迎えてしまった。
突然、玄関のチャイムが鳴る。こんな時間に誰かと思えば。
「やっぱり居たか。こんばんは、優」
由紀だ。こんな時間に連絡も無しに来るなんて初めてだけど。
私は玄関を出て、由紀のいる門のところまで足早に下りてゆく。
「どうしたの、急に。今日はバイト入ってるって言ってたじゃない」
「店長に頼んで、今日はもう上がりにしてもらったの」
その口調が普段の由紀とちょっとだけ違うような気がした。
「あ、そうなんだ……ってでも、どうして―――」
「私のことはどうだっていいの。それよりも、優。あんた、どうして家にいるの? 今日は八月十二日なんだよ。……もう十三日だけど」
「ああ、……うん、分かってる。今日が何日かぐらい私だって知ってるよ」
「だったら、今日からじゃなかったの? ペルセウス座流星群が綺麗に見えるのって」
「うん……、そうだね……」
「じゃあ、どうして見に行かないのよ」
……。
突然、会話は途切れた。
「……別にいいじゃない。ただ、何となく今日は行きたくないんだ……」
どうしてだろう。由紀の顔を、目を見て話すことが出来ない。
「それに、ほら。随分雲が出ているし、ね。今年はあまり期待出来そうにないよ……」
由紀の方を向けないまま、私は夜空を見上げた。黒のなかにいくつもの大きな白い塊が浮かぶ。かなり低いところを流れているのだろう。
「あ、そう……。まあ、優がそれでいいならいいよ……」
そういうつもりの言葉ではないと分かっているのに、何故か由紀の言葉は私の胸の辺りに突き刺さってしまう。
そして、それに対して返す言葉を見つけられずにいる私……。
黙り込んでしまった私に、由紀は続けた。
「でもさぁ、優は今夜、それとは他に用事があるんじゃなかったの?」
「あっ、あれ……、私そんなこと由紀に言ったかな? 別に今夜は何も……」
「嘘。宮下さんに、会いませんかって手紙、もらってるくせに」
!
「どうして由紀が知ってるの? 私、何にも―――」
由紀の顔が曇る。その表情はとても申し訳無さそうで、ほんの少しのあいだ由紀は私から目線をそらす。でもすぐに、由紀はまた顔を起こしてしっかりと私を見据えた。
「黙っててごめん。宮下さんに、相談されてたんだよ、優のこと」
「え……」
どういうこと……?
「何があったかは詳しく聞いてないし、聞くつもりもない。ただ、宮下さんすごく気にしてた。七瀬さんを傷つけてしまうようなことを言ってしまった、って」
「そう……」
さっきから全然由紀の顔をまともに見れないでいる。
……そうだったんだ、あの日のことを……。
「優はどうなの?」
「え……」
「宮下さんの言葉で傷つくようなことがあったの?」
「それは、その……」
……。
私のなかで、あの日の夜の私の感情がよみがえっていく。由紀は静かに私の答えを待ってくれていた。
「……ううん、そんなこと全然ない……。宮下さんは、何にも悪くない……。……私が、悪いんだよ。……そう、全部、私が……」
「……聞かせてもらえるかな? ……もちろん、聞いていいなら、だけど」
横目で盗み見た由紀の顔はとても真剣で、それでいて不安そうな表情で、でも私のことを心配してくれてるってことが伝わってくる、そんな感じだった。
「……フッ、まいったな、由紀には。……そうだね、由紀になら話してもいいのかな」
でもやっぱり由紀の顔は見れず、私は夜空を見上げながら話を続けた。
「ううん、そうじゃない……。私……、たぶん由紀に聞いてほしいって思ってる……」
私はあの日のことを思い返しながら、由紀に話しはじめた。私が高志さんに『彼』を感じてしまったことを。
「ほんと、自分でもよく分からないんだ。でも、私は宮下さんのちょっとした言葉の雰囲気や、ほんの些細な仕種とかに『彼』を感じてしまっていた……。もちろん、最初は自分でも驚いてた。何でだろう、って不思議に思ってた。ひょっとして、もしかして宮下さんのことを好きになったのかな、って思ったりもしたんだ……」
振り返って、今日初めて由紀の顔をまともに見ることが出来て、良かった、そう私は思った。きっと、話を始めたことで私の心が落ち着きを取り戻した証拠なんだろう。
「……でもね、あの日気が付いたんだ。私は宮下さんを好きになったんでも、宮下さんが彼の面影を持っているんでもない。ただ、私は……」
言葉が詰まる。そうと思ってはいたけれど、でもまだ一度も言葉にしていなかったことを私は言おうとしている……。
「私は……」
言ってしまえば、そう思っていたことを認めるようで言いたくなくて。でも、由紀には私が思っていたこと、ちゃんと聞いてほしくって……。
「私は宮下さんのこと、『彼』の代わりにしようとしてただけだったんだよ……」
……やっと言えた。
あの日私が思ったこと、やっと言葉にすることが出来た……。
私の心が吐き出した言葉は、堰を切ったように続いていった。
「私……分かったんだ……。彼が亡くなって、もう二度と会えない人になってしまって、私は寂しくて……。そんな時、彼と出会った時と同じような出会いをした宮下さんに、私は彼を無理矢理重ね合わせていただけなんだって……」
多分、私は誰でも良かったのかもしれない。私の心に空いた穴を、私の心から欠けてしまった『彼』という部分を塞いでくれる存在でさえあれば。
「きっと私は、誰かに側にいてほしかっただけなんだよ……」
由紀にやっと聞こえるくらいの私の声は、知らないうちにかすれた声になっていた。俯いた私の目から温かな雫がこぼれ落ちる。それはやけにゆっくりと地面に向かって落ちていくように感じられた。
寂しさに負けてしまった自分がとても情けなくて。そんな自分の行動が高志さんに心配をかけていたことがとても許せなくて。
……!
ふわぁっ。
涙を流す私を、とても温かな柔らかさが包み込んだ。由紀が私を後ろから優しく抱きしめてくれる、その感覚だった。
「……優らしいなぁ、そういうの。一人で悩んで、苦しんで……」
由紀の声が少しうわずっているように聞こえる。
……もしかして由紀、泣いてるの?
「もっと早く聞かせてほしかったよ……。確かに、私に打ち明けたって解決なんかしないけどさ、でも、やっぱり一人で悩んでいるよりはずっといいと思うし……。私、もしもそうさせてくれるんだったら、優と一緒に考えたかったな……」
やっぱりそうみたい。由紀の腕、少し震えてる……。
「ねえ……、そんなに私って頼りないのかなぁ……。実は私、結構自分では優に一番近い友達だって思ってたんだけど……、でも自分が思ってるほど私は優の近くにいないのかもしれないね……」
「由紀……」
私、由紀にまで心配かけてる。
「ごめん、そんなつもり、全然ないんだ。……ただ、このことはどうしても自分で答えを見つけなきゃいけないって、そんな気がして……」
「うん……分かってる。……私の方こそごめん。変なこと言ったね。忘れて」
「ううん、ありがとう、由紀。心配してくれて」
私の胸の辺りで重ね合わせられている由紀の手に、私はそっと自分の手を重ねながらそう呟いた。
私達二人はそうしてしばらくの間、お互いの温もりの心地好さを感じていた。
私のこと、こんなにも思ってくれる人が、友達がすぐそばにいたんだね。私、そんなことにも気付かないくらい、心が乱れていたんだ……。
「ねえ、優……」
由紀の言葉が優しく響く。
「私さぁ、思うんだ。今の優、やっぱり宮下さんに会うべきだよ」
「え……」
「今の優の思ってること、それって宮下さんに伝えなくちゃいけないと思う」
「……でも」
「だってそうしないと、宮下さんはいつまでも優のこと誤解したままになっちゃうよ。優はそれでもいいの?」
「……」
私はどう思っているんだろう。
「大丈夫だよ、宮下さんなら。きっと、優の気持ち、分かってくれる」
「……」
私の心は何を求めているんだろう。
「打ち明けてみなよ。優のことも、優の彼だった人のことも……」
「……私……」
私に、私なんかにいったい何が出来るんだろう。
「無理だよ……、私には出来ない……。今はまだ、彼のことを笑顔で話せるようになんてなれない……。私は、由紀みたいに強くなれないよ……」
「優……」
由紀の腕が、身体が今までよりもっとぎゅっと私を抱きしめてくる。
「……優は、勘違いしてるよ」
まるで母親が子供をなだめるみたいな、そんな優しい感じのする由紀の言葉。
「優は私のこと、強いって思ってるみたいだけど、それは間違い。私はどうしようもないくらい弱いんだよ……」
その言葉に感じたのは、後ろにいる由紀からの、まるで出会ったことのない人のような雰囲気。
でもすぐに気が付いた。ああ、そうか。多分、今こうして私を抱きしめてくれているのは私が初めて出会う、今まで知らないでいた『由紀』なんだ。
なぜかは分からない、でもすごく自然にそう思えた。
「優は多分、私が両親亡くして、でも今じゃそのことも普通に話せて、まるで何もなかった風に気楽そうにやってる、そんな私を『強い』って思っているんだろうけど」
うん、そうなんだけど。言葉の代わりに小さくうなづく。
「……違うの。私はね、そうすることしか出来なかったの……。そうやってお母さんとお父さんが死んじゃった悲しさ、ひとりぼっちになっちゃった寂しさを紛らわせて、忘れようとすることしか選べなかったのよ……」
……。
「一人でいると寂しくて、お母さんやお父さんに会えないってこと思い出しちゃって、あれからすぐの私、いつも泣いてた……。でも、泣いてばっかじゃ叔父さんたちに心配かけちゃうの分かってたから、ちゃんとしようって、泣かないようにしようって思って、あの頃の私なりに頑張ってみたんだ……」
「……」
私は何も言わず、いや、何も言えずに、ただ黙って由紀の言葉を聞いていた。
「それからの私、いっぱい友達作った。みんなで遊んだり、勉強したり、どっか行ったりしてさ。そうしてれば楽しかったし、寂しくなんかなかったしね。叔父さんたちも私のこと、まるで自分の本当の子供みたいに可愛がってくれたしさ……」
由紀の声が今までよりももっと涙声に聞こえる気がする。
今の私、きっと由紀に一番辛い話をさせちゃってるんだね……。ごめんね。
「そばに誰かがいて笑ってたり、話しかけてくれたり、そうやってしてれば寂しくなんかないんだって、悲しいことも忘れてしまえるんだって思ってた……。でも、でもね……、駄目だったんだ……」
由紀の唇が動くたびに紡ぎだされるその言葉を、私はしっかりと受け止めていた。
ううん、多分それだけじゃない。今の私は、由紀が倒れないように、この場に崩れてしまわないように支えていないといけないんだ。身体を、それに私に開いてくれているその心も……。
「いくら友達が増えたって、どんなに皆と一緒に遊んでたって、時間が来たらさよなら、帰るときには一人になっちゃう。どんなに叔父さんや叔母さんが可愛がってくれても、二人は私の両親じゃない、結局何にも変わらない……」
私の後ろで由紀が震えている。さっきまで大きな温かさでもって私を包み込んでくれていた由紀が、今ではとても頼りなさげに私の背中にしがみついていた。
「失敗だった……。やっぱり思い出しちゃうんだよ。……ううん、もっとひどくなっちゃった。……夢に見るんだ、お母さんとお父さんの死ぬところ。事故でめちゃめちゃになった車の中に二人がいて、私はどうにかして助けようってドアを引いたりガラスを割ろうとしたりするんだけど、全然どうにもなんなくって。で、私はお母さんに聞くの。ねえ、どうすればいいの、どうしたらお母さんとお父さんを助けられるの、って。でもね、お母さんは応えてくれなくって、その代わり何度も何度も繰り返して、こう言うの。『由紀ちゃん、ごめんね。ごめんね』って……。そこでいつも私、思わず『母さん』って叫んで、その声で目を覚ましちゃうんだ。気付くと全身汗びっしょりで、心臓も破裂しそうなくらいばくばくいってて、それに涙もどうしようもないくらい溢れてきてて……」
……私が初めて出会う由紀は、とても寂しがりやで泣き虫だった。
きっといつもは、自分の足でしっかりと立ってなくちゃって思ってる由紀が、こんな由紀を支えてくれているから、だから普段の由紀は無理にでも笑って頑張っていられるんだね……。
「おかしいよね。二人が死んだところなんて私見てないのに。自分で分かってるんだよ、夢のなかで、これは夢なんだって。でもいつも同じ。助けようとして、でも助けられなくて、思わず叫んでそして目を覚まして―――。その度に私は思い知らされるんだ、私はひとりぼっちなんだってことを……」
「由紀……」
たまらなくって、思わず由紀の名を呟いていた。
『孤独』。
彼との最初の別れに私が感じた、突き刺すような心の痛み。
同じ痛みを、由紀も感じていたんだ。
私は由紀の手に重ね合わせている自分の手にほんの少し強く力を込めた。由紀から伝わってくる温もりを、今度は私から由紀へ伝えたい、そう思ったから。
「でもね、ある時を境に私、ほんとにちょっとずつなんだけど『そうじゃない』って思えるようになっていけたんだ。そう、高校に入ってすぐの頃にね。……そのきっかけはね、優、あなたと出会ったことなんだよ」
「えっ……」
ちょっと悪戯っぽく聞こえた由紀の言葉に、驚きとそして戸惑いを隠せなかった。
由紀が手を解いて背中から離れる。何となく由紀がそのまま離れていってしまいそうに思えて、私は急いで後ろを振り向いた。……よかった、ちゃんといた。
私の前に立っていた由紀は、少し赤くなった瞳を潤ませていて、でもその顔には微笑みを浮かべながら、しっかりと私を見つめていた。
私が……きっかけ……?
「どうして、って顔してる。でも本当なんだよ。私はね、七瀬優って人と出会って、今の自分になるきっかけを手に入れることが出来たんだ……」
どういう意味なんだろう、そんな風に不思議そうにしている私に優しく微笑んだ後、由紀は再び話しはじめた。
「私達が出会って、友達になって、しばらくして優はいろんなことを、私に話してくれたよね。もちろん、思い出の人のことも。
『初めて出会えた心の触れ合える人との別れ、さみしくなかったって言ったら嘘になっちゃうけど……、でも何故かは分からないけれど彼とはまた、いつかどこかで会える気がするんだ。そう思えるからなのかな、今ではもうそんなにさみしく感じない……』
私ね、それを聞いて思ったんだ。ああ、この人はすごいなって。とっても強い人なんだなって……」
由紀の瞳が私を見つめている。
「だって貴女は、『七瀬優』は、私や他の人には出来ないことを、『さみしさ』と一緒にいるってことを出来る人だったんだから……」
その瞳から溢れた涙が由紀の頬を伝っていくのを、私の瞳は見つめていた。
「……『さみしさ』と、一緒にいる……?」
由紀の言葉の意味に少し戸惑い、繰り返してみた。
「そう……、私はそれが出来なかったんだ……。『さみしさ』から離れようって、どこか遠くへやってしまおうって、そういう風にしか思ってなかった……。でもね、そうすればするほど、『さみしさ』は私を追いかけてきた。一生懸命振り払っても結局追いつかれちゃって……、その度に私、もっと大きな『さみしさ』を感じさせられていた……」
最後のほうはかなりかすれてしまっている由紀の言葉。
由紀の顎がゆっくりと持ち上がって、空を見上げる。それはきっと、もうこれ以上涙がこぼれないように。少し昔の歌にそう歌われているように。
私も天を仰ぐ。一面に広がった白い雲は、今ではもう完全に夜空の黒を覆い隠してしまっていた。
「でも、優は違った。『さみしさ』から離れようとなんてしてなかった。ちゃんと『さみしい』って感じて、だけどその『さみしさ』はまた出会うときの『嬉しさ』に変わるって信じていて、……そしてその通りになったんだよね……」
……違うよ、由紀。
私は、別に信じていたわけじゃない。ただ、そう思いたかっただけ……。そうなったらいいなって、思っていたかっただけ……。
夜空から視線を落とす。そこには私をしっかりと見据える、それでいてとても優しげなまなざしを向けている由紀がいた。
「……私は、そんな貴女の、そういう『心の強さ』っていうところに、その時すごく憧れたの。いいなぁ、私もなりたいなぁ、って」
由紀が私に近付く。
「いつか、私もそういう風な人になれたらいいなぁ、って……」
由紀は両腕を広げ、そして私を抱きしめた。私たちの身長はそれほど変わらない。由紀の頭は私の左肩の上に静かに置かれた。
「私は貴女みたいになりたい、優のように強くなりたいって、前からずっと思っていたんだよ……」
「由紀……」
私の声に由紀は、私を抱きしめるその両腕に更に力を込めた。私の身体をぎゅっと抱きしめた。
……。
私、何にも分かっちゃいなかったんだ。
私は由紀のこと、結構知ってるつもりでいた。そのくせ私は、まだ由紀に見せてない私がいっぱいあるんだ、なんて思ってた。
でも、私は由紀のこと、まだ全然知らなかったんだね。それどころか、ひょっとしたら由紀のほうが『七瀬優』って人のこと、私よりも知っているのかも知れないね。
「……あ、ありがとう、由紀。私のこと、そんな風に思ってくれて。……嬉しいよ。嬉しいけど、でも……」
私は……。
「私は由紀が思っているような人じゃないよ、って言おうとしてる?」
左耳だけに聞こえるような由紀のささやき声。
「いいの。今言ったことは、ぜぇんぶ私が勝手に思ってることなんだから。優が本当にそういう人かどうかなんて、私に分かるわけないじゃない」
少し悪戯っぽい感じでくすっと由紀が笑った。
「でもね、今でもこれだけはハッキリ言える。私にそう思わせるきっかけをくれたのは、七瀬優、貴女だったってこと」
由紀の言葉に、私は素直にありがとう、と心のなかで呟いた。
私は抱きしめられている身体を少しだけ動かして、肘から先で由紀の腰の辺りを受け止め、抱きしめた。ありがとう、の代わりに。
「……ごめんね、私ったら勝手に優に憧れたりなんかして……」
「ううん、別に気にしないよ。……それに、そんな風に見られていたってことは、きっと私にとって嬉しいことだと思うし……」
「うん……そう言ってくれると、私も嬉しいよ……。ありがと……」
ううん、私のほうこそ、本当にありがとう。
「ねえ、優……。私、勝手ついでに言いたいことがあるんだけど、聞いてもらえる?」
「……いいよ。何?」
抱きしめあっている私たち。その由紀の胸から私の胸へ、その鼓動が力強く伝わってきていた。多分私の胸から由紀の胸へも。
由紀の静かな息づかいが耳のすぐ近くで聞こえる。
「今の優、私の憧れた優じゃないよ」
ドクンッ。
二人の鼓動がちょうど一緒にそのリズムを刻んだのに驚いて、私はほんの少しだけ身体を強張らせた。
「ね、私ってほんと自分勝手でしょ」
小さく頭を左右に振った。
「でも、由紀にはそう見えているんだね、今の私……」
「うん……。だって、今の優はとっても大事なことを忘れてるんだもん」
「……そう、なの?」
由紀の見ている私って、いったいどんななんだろう。
「そうだよ……」
由紀が腕を広げて私から離れる。私の目の前に立つ由紀の瞳にはまだ少しだけ光るものが残っていたけれど、でもその顔には普段の優しい笑顔が戻っていた。
「優は知ってるはずだよ。自分の本当の気持ちを伝えたい人に届けることの大切さを」
……。
…………。
………………。
「そうでしょ……ね?」
……そうだ、忘れてた……。あの日、由紀が教えてくれた大切なことを。
あれは確か、二月も終わり近い頃。まだ冷たい風のなかにほんの少しだけど春の匂いを感じるようになった、良く晴れた日の学校の屋上。
放課後、私がそこからの景色をただ何となく眺めているところに、いつの間にか由紀は隣に来ていて、私と同じように冬の街並みを眺めていた。
でも私は、景色なんて全然見ていなかった。
何かを考えているようで、でも何一つ考えられないでいた。
あの日の私、自分でもどうしようもないくらい心が乱れていた。今ならそれがとても良く分かるけれど、その時の私は何で自分がこんなにも落ち付けないでいるのか不思議でならなかった。
彼と一緒に見上げた真冬の流星群。
それは私にとってたった一つの願いで、そしてその奇蹟は起きた……。
その時思った。もう、これ以上何もいらないって。たくさんの思い出と、もっとたくさんの優しさを彼は私にくれたから……。だからもう、私から彼を解放してあげよう、私は彼との思い出だけで十分だから、って。
その夜を最後に、私は彼と二度と会わないって決めた。
……そう、自分で決めたはずだった。
けれど日が経つにつれて、私の心は次第に落ち着かなくなっていった。
もう一度会いたい。
もっと一緒にいたい。
キミのことが好きなんだ。そんな私のわがままな気持ちを、せつない想いを彼に伝えたい、キミに知って欲しい……。
私の内側にあって、でもどこへも向かえないでいる想いに、私自身がひどくかき乱されていた……。
どれほどそうしていたのだろう。
ふと由紀のほうへ向いた私に気付いたのか、由紀もゆっくりと私のほうを振り向いて、そして言った。
「今の優みたいに自分の気持ちを誤魔化してばかりいると、そのうち本当の自分の気持ちが分からなくなっちゃうよ」
由紀には彼とのこと、そのほとんどを聞いてもらっていた。もう彼とは会わないって決めた、ということも。
「優はもっと、自分の気持ちに素直になっていいと思う。彼のことを好きだって気持ちを優は私のわがままだ、なんて言うけど、でもそれが優の本当の気持ちなんでしょ? だったら一度くらい、彼にその気持ちを思いきりぶつけてみなよ」
その言葉に戸惑う私に由紀は続けた。
「……もしも優のそんなわがままを彼がちゃんと受け止めてくれる人だとしたら、優はその人ときっと幸せになれる。そう私は思うんだけどな……」
二人のあいだを風が駆け抜けた。それはすぐ近くまで来ている春を感じさせる、冷たいけれど、でも暖かな風。
私の内側を駆け抜けていった由紀の言葉に、私はそんな春の風に似た暖かさを感じていた。
由紀の心の温かさ、それは決して目に見えることのないものだけど、でも確かに私の心に触れていって、そして私の気持ちを穏やかにしてくれた。そんな不思議な力を、由紀の言葉は持っていた。
ううん、そうじゃない。きっと言葉は、いつだってそういう力を持っているんだ。
思いが再会を、奇蹟を呼び起こすのと同じように……。
「由紀……」
私のなかで何かが目覚める。それを由紀に伝えたいのに、どうしてもうまく言葉にならない。溢れさせてしまいたいのに、でもそれが出来ないもどかしさ。
「あ、あの……、私……」
「うん、分かってる……。でも、優? その言葉を言う相手は、私じゃないでしょ?」
由紀が優しく微笑んだ。また私のなかを暖かな風が通り抜けてゆく。
……。
「あ、……そう、そうだよね。何やってるんだろうね、私」
由紀の真似をしてちょっと微笑んでみる。思っていたより自然にそれが出来て、私は少し嬉しくなった。
由紀はとびきりの笑顔で、もう一つ私に教えてくれた。
「どんなに想ってもそれだけじゃ相手には伝わらないよ。だから言葉にしなきゃ。そうしないと、いつまで経っても優の想いは伝わらないんだからね」
目を覚ました私の気持ちは、由紀の言葉を受け止めてどんどん大きくなってゆく。彼にこれ以上迷惑をかけたくない、そんな風に思う気持ちより、自分の気持ちを伝えたいという想いの方が。
そう、だから……。
私はその想いを手紙に託した。
『どうしても、もう一度キミに会いたい。
逢って、キミに伝えなくちゃいけないことがあるから。
出来れば逢いに来てほしい。
あの思い出の高台で待ってるから』と。
そして……彼は、逢いに来てくれた。
私は彼に想いを伝え、……彼は私に応えてくれたのだ。
「僕も君のことが、優のことが好きなんだ……」、と。
……あの日の言葉が私のなかに甦る。それはまるで、今まで頑であった蕾が時を経て次第に綻んでいく時のような、そんな柔らかみのある温かな感覚で……。
あ……あれ? この感じ。
……。
あたたかい。
……。
ううん、あついくらい。
だけど……。
そうだ、この感じ……、この温もり……。これは……。
今の私にはとても抱えていられない熱さを持つその感覚を、でも何故か私はひどく懐かしい感じのするものに思っていた。
いや、それは当然のことなのかもしれない。
だってこれは、私の求めていたもの。
忘れてしまいそうで、けれど忘れたくなんかなくて、なのにしっかりと抱きしめていようとすればするほど、その両腕からすり抜けていこうとする、大切なもの。
……でも、そうじゃなかった。
私、無くしたりなんかしてなかった。忘れてなんかいなかった。
いつだって『それ』はちゃんと私のなかにあったんだ……。
ただ、私がそれを見失っていただけ。哀しみという霧に閉ざされて、見つけることが出来ずにいただけなんだ。
そう、私は……変わってなんていなかった。
彼を愛した『七瀬優』の、そのままでいたんだ……。
「……優? 大丈夫」
とてもすぐ近くから由紀の声。
由紀は覗き込むようにしながら、私の瞳を見つめている。
「え……、あっ、うん……」
「……また、泣いてる」
溢れた雫が頬を伝い落ちていった。
「ごめん、優。私……」
「……あっ、違うよ、由紀。これ、由紀のせいじゃないよ」
私は慌てて涙のあとを指先で拭う。
「あぁ……でも、由紀のおかげなのかもしれない、私が泣けたのは……」
「え?」
由紀がちょっと困った感じの疑問形の顔をする。
「私、無くしてなかったよ、彼のこと。忘れちゃったかもって思ってたけど、今でもちゃんと私のなかにあるってこと、由紀の言葉が気付かせてくれたんだ。それで、あぁよかったって思ったら気が緩んじゃったみたいで、勝手に泣けてきちゃっただけ……」
「……そうなんだ、よかった……。ホントよかったね、優」
「うん、ありがと。由紀のおかげ……」
私は“ありがとう”の気持ちを込めた微笑みを由紀に向ける。
「ううん、私は何にもしてないって。そうやって何かをきっかけに、自分のなかを見つめて気付くことが出来るのって、やっぱり優自身の強さなんだなって私は思うよ」
由紀はそう言いながら、でもやっぱり優しく微笑んだ。
「……でも、よかったね、忘れてなくて……」
「うん……」
自然と腕が誰かを抱きしめるみたいに胸の前で交差する。
いや、みたいに、じゃなくて確かに今、私は何かをこの胸に抱いている。
それはきっと私の想い。
私が彼のことを愛しく想う、その気持ち。
私のなかで生まれ、彼が受けとめてくれた、彼への愛。
そして多分もう一つ、私への想い。
彼が私のことを大事に想ってくれていた、その気持ち。
彼のなかで生まれ、あの日私が受けとめた、彼の愛。
一つに混じり合う二つの愛が、私のなかで優しい温もりを奏でている。
私のなかが満たされていく。
きっと満たされつづけるんだ、これからもずっと。彼と私の想いが私のなかにあるかぎり。
「由紀。人を愛する気持ちって温かいものなんだね」
「……うん、私もそう思う……」
「でも、愛される気持ちはもっと温かいものなんだね」
「……へぇ、そんなに温かい?」
「うん、……熱過ぎて、火傷しそうだよ……」
「……いいな、優は。そんなに彼に愛されていたなんて、うらやましいな……」
そうか……きっとそうなんだね。私はこんなにも彼に愛されていたんだ。
例えそれが、わずかな時の間だったとしても……。
伝えた気持ち、伝えられた気持ち。
それはきっといつまでも心に残るものなんだろうね。
いつまでも変わらず、きっと永遠に……。
「ねえ、由紀? 私……」
もうずいぶん前から私は気付いていた。ちゃんと形にして伝えなくちゃいけない気持ちが私のなかに生まれたことを。
「私はちゃんと伝えることが出来るかな? 自分の気持ちを、宮下さんに……」
「……優になら、きっと出来るはずだよ。彼に自分の気持ちを伝えたこと、思い出した今の優になら、ね」
由紀が私を見つめる瞳の力強さに、私はそれだけで勇気づけられたような気がする。
「大丈夫、宮下さんなら分かってくれるよ。優の気持ち、優が何を思ったのか、どう感じたのか、全部……」
由紀が私の肩に手を置いた。由紀から伝わる温もりはいつだって私に優しい。
「さあ。宮下さん、もう待ってるよ。早く行ってきな」
「うん」
由紀の手に押されるようにして私は歩きだし、そして小走りに駆けはじめた。
少し坂になった道を駆け上がりながら、私は背中に由紀を感じた。それは多分、彼女が私に送ってくれる“がんばって”という気持ちの温かさなんだろう。
ありがとう、由紀。がんばるね。
人気のない夜の住宅街の交差点を左に曲がり、気付くと私は駆け足で約束の場所へと向かっていた。
走りながら見上げた空は、未だ白い雲に覆いつくされていた。
それは本来の夜空の黒と重なり、灰色の壁に包み込まれた世界を作りだしている。
星たちの光なんてとても届きそうには思えない。
でも……何故だろう、今の私には確信がある。
夜明け前には必ずこの雲は晴れて、絶対星空が見える、と。
それはきっと、この空がさっきまでの私の心のように思えるからなのかもしれない。だから私の心から雲が晴れたように、同じようにこの空からも雲は晴れる、そう私には思えるのだろう。
そして、見上げる空に現れた天使が溢れさせる“ありがとう”と“さようなら”と、そして“好きだよ”の想いの込められた涙が、幾つもの光の軌跡となってこの世界に降り注ぐ様を、私は心の底から見たいと思っているのだ。
まるで奇蹟のようなあの美しい星空を。