未来、希望、勇気、愛。
全てが虚ろで、
全てが無意味。
さながら形のない概念が器を持った存在。
どこまでも肥大化し、増長し、無限に分岐していくもの。
私にとってそれらは大きすぎた。
とてもじゃないが受け止められなかった。
だから、逃げた。
どこまでも遠くへ逃げた。
目を逸らし続けた。
何も変わらないことがわかっていたから。
それが一番楽だとわかっていたから。
やがて不貞腐れたように川辺に座り、ぼんやりと水の流れを見ていた。
流れる水は、常に変化している。
それでもずっと同じように見える。
変わっているはずなのに、何も変わらないもの。
何も変わらないのに、変わってしまっているもの。
その日も、無為に、無駄に、何かをしているフリをして何もしていないはずだった。
目は一点の光を見つけていた。
どこかの光源を水面が反射したのか。
取るに足らない、光とも呼べない光――。
その光に近付いた。
ささやかで、
こじんまりとして、
今にも消えてしまいそうで、
綺麗だな、と思った。
太陽のように生命の営みを支えるわけでも、舞台のスポットライトのような華美なものとも違う。
それでも私は好きだなと思った。
流れに負けないように、光り続けるそれを好きになった。
私はちょっとだけ、自分のことを好きになった。
それももう、儚い
(や……め……て……)
私はいつどこで、何をしていたのか。
答えは簡単だった。
私は何もしていなかった。
ただ、黒く染まった闇の中で耳を塞ぎ、目を閉じ、心を縛っていた。
そうしなければ、耐えられなかった。
突如、世界に落ち、増殖し、厄災をもたらした存在。
その中に私の意識は捕らわれていた。
人間とは違う生物。
共通の感覚器官などなく、何もわかるはずがない。
だが、私の意識は確かにそこにあった。
私は必死に抗っていた――。
本当か?
私は必死に抗っていた
流れ込んでくる映像はインフラを、人の密集地を、弱きものを確実に標的にしている。
果たして、怪物にそんな知恵があるか?
その知識は誰からのものだ?
無限に情報を取り込み、拡大していくもの。
そのベースとなったものは、誰だ?
最初に、取り込まれたものは――。
悪夢を見ているようだった。
覚めることのない悪夢を。
そして、これこそが私にとっての現実だった。
打ちひしがれたように、少女は呆けるだけだった。
分不相応な夢を持ったからだ。
だから罰が当たったんだ。
私なんかが主人公になるとは、こういうことだったのだ。
世界を巻き込むとは、こういうことだったのだ。
――こんな特別、私は嫌だった。
そうだ、最初から目立つべきではなかったのだ。
隅っこで体育座りをして、輪の中に入るべきではなかったのだ。
昔からそうしてきたはずなのに、なんで今は――。
今? 今って何だ?
(……?)
私の意識はそこで目覚めた。
それはさながら、悪夢の合間に入るまどろみ。
現実か、夢なのか、極めて不明瞭なアレ。
(……動ける)
私は紫王紫。
年齢は最早関係ない。
私は私という存在が嫌いだ。
それだけで、私を定義するには十分だ。
宣言されたことで私の存在は明確になった。
周囲には、何もなかった。
私の体も、なかった。
(……。動きたくない)
今更、どうするというのか。
今、そう、今だ。
入り混じった記憶の中で、最も直近だと判断されたそれが流れ込む。
私と、その子は新しく出てきた怪物に全く歯が立たなかった。
多少、力を与えられたところで、私は私。
つまりは、弱い存在だった。
存在が弱々しく、負けてしまった。
何かが、擦れ、せり上がる。
気付けば周囲に黒い柱が何本も立ち上っていた。
ほら見たことか。
何もする気がないから、何かに踏み荒らされる。
所詮、その程度の人生――。
(嫌だ……怖い……逃げよう……)
さあ、逃げろ逃げろ。
いつも、そうやってきたじゃないか。
柱がゆっくりと溶け、形を変える。
それは悪夢という概念のまま、私を追ってきた。
私は全てから逃げ出した。
何の比喩でもなく、全てから。
どこまで
それすらもわからない。
どっちが前で、後ろで、上で、下なのか。
御守りのように持っていた端末も、その在り処さえわからない。
指は、ずっと虚空を泳いでいるようだった。
私はどうしたいのだろう。
私はどこへ進めばいいのだろう。
愚問だった。
本当にやりたいことなんて、ない。
それが私だった。
ただ、手を差し伸べる、お人好しの誰かを待っていた。
逃げ惑っているだけの、存在。
やがて、私の視界は黒に覆われた。
何もない空白から黒へ。
それは巨大な球体だった。
そう認識した。
かつて、私の一部――。
いや、私自身だったもの。
映像の濁流に呑み込まれる。
建物を、粉砕した。
自然を、蹂躙した。
動物を、咀嚼した。
人間を、――した。
違う!! 私はこんなことを――。
したくない。
したくはなかった、が。
私は全てを拒絶した。
周囲から、何もなくなれば葛藤はなくなるはずだった。
願いは罪だけを残した。
黒い球体に吸い込まれていく。
さながら意識の重力。
無力な
でも、良かった。
今度は間違えない。
今度は――。
何も、考えなければいい。
思考を、放棄すればいい。
なけなしの個性を、捨ててしまえばいい。
そのまま消えてしまえばいい。
私なんて、どうせ私なんて――。
どこにも行き場所がない私なんて――。
『私は今、高校二年生です』
――声が聴こえた気がした。
『進路で悩んでいるのですが、そもそもやりたいこともありません』
――そう、やりたいことなんて何もない、それが私。
『いっそブイチューバーに……なーんちゃって☆ えへへ!!』
――こんな時に何を言ってるのよ。
『――さんはどうしてブイチューバ―になったのですか?』
――誰?
『――さんはどうしてブイチューバ―になったのですか?』
――だから、誰?
『――さんはどうしてブイチューバ―になったのですか?』
――もう、いいってば。
『――さんは』
――たまたま知ったあの人。
――なぜか興味が湧いたあの人。
――個人的には面白いな、と思ったあの人。
『――さんは』
――私の相談に、親身になってくれたあの人。
――毎日、声を聞くのが楽しみになっていたあの人。
――私の隣に、ずっといてくれた、あの人。
『――さんは……』
「桃美ちゃん……」
やっと
その
大切な、その人のことを。
こんな私でも最後にやりたいことができた。
黒い物体を、もはや視界に収まらないそれを見上げた。
私は進んだ。
自分の意志で。
私のやりたいこと、それは――。
「桃美ちゃんを、これ以上、傷つけたくない。だから――」
こいつを少しでも長い時間、封じ込める。
理由がわかならくても、私の
そのために必要なのは、逃げることではなく戦うこと。
無駄なのかもしれない。
無為なのかもしれない。
それでもやってみたいと思った。
やらなくてはいけないと思った。
手には端末が握られていた。
これは御守りではなく武器。
私が
「変身!!!!」
私の体が紫の光に包まれる。
鎧はところどころ、ひび割れたままだった。
剣は錆びたように、光沢を失っていった。
盾は――。
盾だけは治っていた。
戦いは始まった。
意識の外の戦いが。
黒い球体から、触手が伸びた。
そうとしか形容のしようがなかった。
人一人、容易く飲み込んでしまいそうな怪物の触手――。
「――っ!!」
剣を振るう。
まるで磁石が反発するように、私の体が後ろに飛ぶ。
言うまでもなく、敵の方はびくともしていなかった。
それでも――。
「
巨大な触手へと紫の斬撃が飛ぶ。
「
なおも迫る敵に斜め上から衝撃をぶつける。
「
態勢を崩した敵へ、飛び上がり連続で切り込む。
効果は――。
なかった。
「きゃっ!!!!」
触手が私の体を包む。
やがて持ち上げられる力を感じた。
顔だけが出た状態で、私はぐるぐる巻きにされていた。
身動きが取れない。
やっぱり、駄目だった。
(ごめんね、桃美ちゃん。あっさり負けちゃった……。でも、最後に――)
「
紫の光が、触手の隙間から漏れた。
ただ、それだけで終わった。
これが本当に、最後のあがきは終わった。
最後?
本当に、そうか?
剣を振るい、鎧を飛ばした。
後は――。
「盾!!!!」
私の声に応じるように、盾が触手を突き抜けて飛ぶ。
ブーメランのように宙を舞うそれは、旋回すると触手の根元へと一直線に飛んだ。
盾が、回転を速めた。
触手をギリギリと削っていく。
「
盾がそのまま突き抜ける。
首の皮一枚で繋がった状態の根は、自由落下で倒れこもうとしていた。
拘束する力が弱まった。
私は触手を振り払い、地面へ着地した。
盾が手元へと戻っていく。
(ありがとう。よくやってくれたわ……)
盾をゆっくりとさする。
どこまで粘れるかはわからない。
それでも、まだ頑張りたい。
もう一度、黒い球体の本体を見た。
(……!!!!)
触手は、無数に増えていた。
否、それは周囲を覆い、黒で埋め尽くそうとしていた。
私の周りを、それらが取り囲んでいく。
意識が塗りつぶされていく。
(今度こそ……本当に……)
私はずっと拒絶してきた。
世界が私を拒絶したのではない。
私が世界を拒絶していた。
それでも最後に、願うことがあるならば――。
(桃美ちゃんに迷惑をかけないように、どこか遠くへ――)
少女の願いだけを置いて、空間が染まっていく。
黒い球体は、際限なく肥大化していった。
隣接した
――さよなら、
私の意識は、そこで闇に落ちた。