いつかに英雄の隣にいた誰か 作:幽
君は思った以上に、何と言うか人間だね。
そんなことを、己の元マスターであるマリスビリーから言われたとき、ソロモンは、いやすでにロマニ・アーキマンになってしまっていた男は目を見開いた。
それに、ロマニは驚いた。だって、そうじゃないか。
ロマニ・アーキマンはそれこそ赤ん坊に等しかったのだ。人というものに対して、知識は在れど実感を持たないあやふやなものしか抱えていない彼は、まるで、初めて外を見たかのような赤子であった。
そうであるからこそ、ロマニはマリスビリーの言葉に驚いたのだ。
「それは、どういうことだい、マリスビリー。」
その言葉に、彼はすまなそうに謝った。
曰く、不快にさせたならすまないと。
それに、ロマニは即座に否定の意を唱えた。そう言った意味ではないという返事にマリスビリーは頷いた。そうして、少しだけ悩む様な声を出した。
いや、すまない。ただ、君は、思っていた以上に自分というものを熟知していたものだから。
その言葉に、ロマニは黙り込んでしまった。
彼の目の前には、人になってから特に好むようになった甘いものがある。
そうだ、確かに、ロマニ・アーキマンはまるで自覚していたかのようにマリスビリーに甘味を所望した。
ソロモンの意識というのは一言でいうならば平淡である。
他人のへの共感はなく、言ってしまえば常に穏やかなのだ。何となくの、好ましさといえる程度の関係性と、嫌うという名の無関心さ。
そこには、好物なんて明確な価値観が生まれるはずはないのだ。
だというのに、ロマニは無意識に、己は甘いものが好きであると自覚していた。
ロマニは、思わず己の口を覆い、その自覚の理由を自問した。
そこで、フラッシュバックのように、一人の女の微笑みが浮かんだ。
静けさを孕んだ夜のような女の、日差しのような微笑みが、ロマニの中に浮かんだ。
(・・・・王は、甘いものをご所望ですね。本当に、お好きなのですね。)
静かな女がそう言って、己に菓子を差し出した。
(ああ。そうだ、僕は、彼女にそう言われていたんだ。)
女は、そう言った。シェムーは王に好みがあるのだと言った。それが、本当だったのか、誰にだって分からない。けれど、けれど、だ。
確かに、ロマニ・アーキマンにとってそれは好ましい味であった。彼の好ましいものであった。
彼の甘いものが好ましいという価値観であった。
幾年月の果てだろうか。長い、永い、その果てに女が拾った王の人間性の欠片がとある男に手渡された。
ロマニが、その女に意識を向けることはあまりなかった。女が浮かべていた疑問の理由、その答えを得てしまっている時点でそれを気にする理由はなかった、
けれど、時折、女の記憶は、ロマニに囁きかけることがあった。
彼が人になる瞬間に垣間見てしまった、世界の滅びに向けて駆けている最中に女の記憶はまるで風にあおられ開くページのようにくるり、と頭に浮かぶことがあった。
くるり、くるり、くるり。
ページはまるで、ロマニの意思など関係していないように捲られていく。そのページで、女は、笑ったり、泣いたり、怒ったり、その表情は、普段は夜のように静かなのに。時折、雲の合間から顔を出す月のような感情。
それに、ロマニは、ぼんやりと他人事のように美しい女だと思った。
確かに、己の妻であったはずで、他にも美しい女はいたというのにロマニは心からその女を美しいと思った。
(・・・・そう言えば、彼女。いつも、僕の近くにいたんだなあ。)
護衛として、寵姫として、古い馴染みとして、ソロモンの近くには殆ど、その夜のような女がいた。
その、夜のような女のことを思うと不思議と心が休まった。
夜のとばりの中で、温い温度の中で微睡む様な心地になる。
きりきりと、きりきりと、何時かの滅びに追い立てられ、進むことしか出来なかった彼の、ほんの一時の微睡み。
女の囁きはロマニを甘やかす。女の届かぬ感情はロマニを傷つける。女の、最後の言葉が、ロマニの憐れみを誘った。
ソロモンという存在がどんなものか、最期に知りながらそれでも愛と恋の言葉を残して逝った女。
そうして、一度とて、ソロモンに愛を請わなかった女。
それは哀れであった。そうして、ロマニにとって羨ましいほどに人間であった。
ロマニは、そうやって密かに女との記憶を見返すのが楽しみであった。その、微かな安らぎに微睡みを夢見るのが好きだった。
地獄のような日々だった。誰も信用できない、何が必要になるかもわからない。
だから、掻き集めるだけ、掻き集める日々の中で、女の瞬間のように微笑みを思い出すのが好きだった。
ぺらり、ぺらり、己の記憶を捲る。
夜のようだと思っていた。けれど、それは少しだけ違ったのかもしれないと思い始めた。
女を、最初、冬の夜の様だと思っていた。
けれど、シェムーの本質は夏の夜に似ていた。
深く、静かなようで騒めきに満ちた、命を孕んだ夜。生まれるために、それを孕んだ夜。
それは彼女が子を抱いた記憶を見た時以来、強くなったように感じる。
そこでふと、ロマニの中に疑問が浮かぶ。
ソロモンの時は、まるで空気のようにシェムーを扱っていたと自分では思っていたというのに。不思議と記憶の中には、彼女の記録で溢れていた。
一番近しい位置にいたのだから、当たり前だろうが。
それでも、何故か、己はシェムーという存在の事を微々たるものしか知らなかった。
彼女という存在の、過去も未来も殆ど見た覚えはなかった。
何故だろうと、そんな疑問を確かに浮かべていたというのに。何故か、ソロモンは彼女について無視を続けていた。
ロマニの中で、ムクムクと、その女を知りたいという興味が生まれているというのに。知ろうとしなかった、あの時の己を恨みたくなる。
いや、自分は、確かにソロモンであった時も女が何かを疑問に思っていた。
何故だ?
何故、己は、知りたいと思いながら知ろうとしなかった?
思えば、思うほどに、ロマニの中には疑問が生まれる。
彼女について、知りたいと思いながら、必要がないとそのたびに斬り捨てていた己を。
ロマニは、ある時耐えられずに、己の事情を一番に知っていたマリスビリーに聞いてみたのだ。
知りたいと思いながら、目をそらしてしまう感覚を、人は何と呼ぶのだろうか。
ロマニの言葉に、マリスビリーは不思議な話だねと悩む様な仕草をした。
それが、何に向ける感情かは分からないが、それは、まるで。
マリスビリーは、そんな前置きをした後にこう言った。
まるで、恋に怯える少年のようだね。
その言葉に、ロマニは目を大きく見開いた。
恋?恋、だと?
ロマニの口から飛び出たのは、否定の言葉であった。
ああ、だってそうじゃないか。
ソロモンに、共感はなかった。無感情であった。
恋なんてものが生まれるはずがないのだ。
だというのに、そのソロモンが、恋だと?
否定の言葉を受けたマリスビリーは、慌ててロマニを宥めた。
ロマニは、頭を抱えて呻くように言った。
「・・・・・どうして、恋だなんて思ったんだい?」
それに、マリスビリーは己の顎に手を当てた。
いや、すまない。君の言葉は、まるでそれに関心があるという事実を恐れているようであったから。
その言葉に、その、想像にロマニの中で彼女への感情が一度、綺麗にバラバラになった。
それは、まるで完成したと思い込んでいたパズルが、むりやりに押し込めた反動で砕け散る様に似ていた。
ロマニ・アーキマンは、考える。
その、放り出され、砕け散り、未発達な心のままに、走り続ける中、息切れで立ち止まる瞬間に微睡むように考える。
その女が、己にとって何であったかを考える。
ソロモンは、女から目を逸らしていた。
女は、男に何も望まなかった。ただ、そこにいるだけだった。
一度だけ、最後の最期に、叶えることのできない願いを持って女は逝った。
人である、あなた。
今、人である己。
思えば。思えば、己はどうして人になりたいなんてことを願ったのだろうか。
その願いはどこから来たのだろうか。
もしかすれば、もしかすれば、ソロモンであった己は、最期に女の願ったそれを叶えたかったのかもしれない。
けれど、だからといって女に恋なんてしていたのか?
否であるはずなのだ。
ならば、なぜ、己は目を逸らした?
だって、それは、シェムーは、ソロモンにとって日常であったからだ。
繰り返す毎日で、気にすることも無く、忌避する必要もない。ソロモンという存在が、幼子の頃から共に会った女。
(・・・・・そうか、ソロモンにとって彼女は人生の一部だったんだ。)
確かに、ソロモンはシェムーという存在は特別であったのかもしれない。それほどまで、ソロモンの日常の中で、シェムーという存在は近しいものであった。
シェムーが死んでから、ソロモンの生活は確かに不便であった。ソロモンの生活についてよくよく理解していたシェムーの存在は、快適に過ごすという意味では利があった。
確かに、彼女が死んだとき、ソロモンは彼の人生において、何かを喪ったのだろう。
(そういえば、よく後ろを振り返ってたなあ。あの子は、よく、後ろにいたから。)
そんな癖さえも無視していた。そんな癖が出来ても、別に何かしらの事があるわけではなかったのだから。
(・・・・でも、今思えば不思議だなあ。ソロモンだった時の僕は願いを叶える機構のような者だった。なのに、どうして、何も願うことのない彼女を側に置いていたんだろうか。)
そうだ、ソロモンとしての存在意義を彼女は否定する。
もちろん、メリットもあった。けれど、なぜ、己はなにも願わない彼女に、あそこまで関心を払っていたのだろう。
分からなくて、けれども分かりたくて。
ロマニは、帰り道に夜空を見上げるように、女について考えた。
それまでに、ロマニは多くの恋の物語を読んだ。恋とは、何かを理解したくて。
その恋たちは、確かにロマニの中の感情と合致しているものもあり、そうして、己の感情には程遠いように思う。
これは、いったい何だろうか。
持て余した、その感情は、確かにロマニを苛んだが。それでも、彼の居る地獄を忘れさせてくれた。
それでも、分かりなんてしなくて。分からなくても、分かりたくて。
ああ、あなたは、僕にとって何であったのでしょうか?
そう問いかけても、答えてくれた人はもういない。
ロマニは、君は今でも、あのことを考えているのかい。
マリスビリーの言葉に、ロマニは顔をしかめる。
ちょうど、せっかくのお茶会で、どうしてわざわざその話題を出すのだろうか。
それに関しては、ロマニは一欠けらだって触れられたくないことなのだ。
だというのに、それにふれて来るマリスビリーにロマニは不快に思わずにはいられない。
マリスビリーは、それに申し訳なさそうに微笑んだ。
そんなにも怒らないでくれ。ただ、少しだけ気になっていたんだよ。
「・・・・別に気にしないでくれ。これは、結局自分で解決するしかないんだから。」
ロマニは、そう言ってお茶請けのクッキーを口に放り込んだ。
サクサクとしたそれは、バターの匂いが香った程よい甘さをしていた。
それに舌鼓を打ちながら、ロマニはまたシェムーのことを考えた。
これを食べて、あの人はどう思うだろうか。美味しいというのだろうか。そういえば、彼女の好きなものは何だろうか。分からない。ああ、イライラする。こんな、こんな些細な事でさえ、僕にはわからない。
そんなロマニを見つめて、マリスビリーは言葉を選ぶように、呟いた。
私はね。昔の君は、彼女の事を愛していたと思うんだよ。
ロマニは、それに、何も思わず、マリスビリーの方を向いた。
それに、マリスビリーはまるで独り言を言うように、何の気なしに囁いた。
他人のためにあった君が、己のために彼女を扱っていたのなら。それは、彼女へ甘えていたんじゃないのかな。
その言葉に、ロマニの目が見開かれた。
そうだとするのなら、少しエゴイスティックかもしれないけれど。昔の君は、確かにその人を愛していたんじゃないのかい?
静かに、その声が部屋にこだまして。ロマニは、ああ、と呻くように言った。
そこで、ロマニの中で、かちりと何かがはまり込んだように感じた。
ロマニは、マリスビリーの言葉で、ようやく己の感情の全体像というものを掴めた気がした。
そうだ、確かに、彼女はソロモンの特別であったのだ。
彼女は、ソロモンに何も求めなかった。ただ、ただ、彼女はソロモンの行う全てのためにあった。
ソロモンにとって、シェムーとは道具であった。己の好きにしていい、道具であった。
ソロモンは、シェムーに夢見ていたのだ。
己にとって、未完成なものであることを。
ソロモンは、シェムーに求めていたのだ。
定めずにいても良いものを。
ソロモンは、シェムーへの疑問を無視していた。
その答えは、簡単だった。
答えを見つけようとしなければ、ソロモンはずっとシェムーというものに関心を寄せ続けることが出来る。
完成することがなければ、ソロモンはシェムーというものを裁定せずともよかった。
ソロモンは、人を愛していた。そういうものであった。
けれど、そこに感情はなく、全てがそうしなければならなかった。
それでも、ソロモンは、人であるということは、感情というものは、どんなものであるのだろうか。人として生きるとは、どのようなものであろうか。
そんな好奇心だけがあった。
けれど、全ての人はソロモンに願い、求めてしまえば、彼はそれを裁定せねばならなかった。彼の民とは、彼にとってそう言うものであった。そんな中、シェムーだけが違った。
その少女だけが、特別であった。ソロモンの一部であり、ソロモンにとって、いつまでも完成することのない、民でなく、愛用の武器であり、道具であった。
魔神たちとは違った。
己が作ったわけでもなく、人であるというのに、ソロモンの内側に居付いてしまった人。
ソロモンは、愛していたのだ。
確かに、歪でも、人としてなんてお世辞にも言えずとも、シェムーという己にとって都合の良い甘えていい彼女を愛していたのだ。
そうして、その愛は、ロマニという人になった男に渡された瞬間に、恋へと変わった。
彼は、シェムーに夢見てしまったのだ。
彼女ならば、彼女ならば、己という存在を選んでくれるのではないかと。
いつかのように、王でなくて、未来も過去も見えなくて、完璧でなくたって、情けなくたって。
こんな自分を、選んでくれるのではないかと。
だって、だって、そうじゃないか。ロマニは、己に誰かに好かれるような価値があるなんて思っていない。
ロマニの、ロマニの過去は、全て用意されたものだった。全てが、ロマニのものでなかった。
けれど、彼女だけは違ったのだ。彼女だけは、確かに、言葉のままにソロモンという王に全てを捧げたのだ。
何もかも、人生も、貞操も、妻であることも、戦士であることも、母であることも、命も、名も、全て、全て、捧げて、ソロモンという王への感情を示して見せたのだ。
確かに、確かに、その女は、ソロモンを愛していたのだ。
ソロモンに全てを捧げることに、女の愛は完結していたのだ。
そして、ソロモンもまた、シェムーを愛していたのだ。
シェムーという存在に未完成であること求め続けたソロモンの愛は、不変であることに完成していた。
けれど、けれど、ロマニは、ロマニ・アーキマンはその感情に絶望した。
ああ、だって、シェムーの愛したソロモンと、ロマニは違う。ロマニは、ソロモンにはなれない。彼女の愛した男は、どこにもいない。
愛されたと、恋してしまったと知りながら、それでもロマニの恋は成就しない。
彼女は、きっと、ロマニに愛してはくれない。
苦しい、苦しい、苦しい。
きっと、自分を見てくれるだけで幸福になれるのに。きっと、微笑んでくれるだけで叫びだしたいほど嬉しくなれるのに。きっと、触れ合っただけで溶けてしまいそうになれるのに。
彼女は、ロマニを見てはくれないだろう。
きっと、きっと、自分の方が。
狂ってしまいたい。それほどまでに、苦しい。吹き上がってくるような、焦りとも違う、激情。
君を想うだけ幸福で、君の思い出を捲るたびに心が安らいで、君の事を考えるだけで満たされる。
けれど、シェムーの世界にロマニはいない。
どうして、己は人になってしまったのだろうか。どうして、この感情を知ってしまったのだろうか。
知らなければ、幸福であったのだろうか。知らなければ、地獄の縁で落ちていくだけであったのに。
狂おしいほどの、慕情を抱えて、それでもロマニは地獄の中で、女の記憶を捲り続ける。
それでも、まだ、ましだと。
ロマニの思いは成就しないかもしれない。けれど、完結することはない。ロマニの愛した女は、もう、どこにもいないから。きっと、会うことだってないから。会ったとしても、自分が誰かなんて分からないだろうから。
だから、いい。完結しない、破れることのない恋は、さほど悪いものではないだろうと思って。
ソロモン王は、シェムーを愛していた。己のものとして、自分の庇護下にはない定める必要も無い者として愛していた。
苦しかった、それでも、よかった。その苦しみは、その恋は、ロマニだけが得たものだった。ロマニだけの恋だった。
ロマニ・アーキマンは、シェムーに恋してしまった。夢を、見てしまったのだ。もしも、もしも、互いに人として生きれたのなら、子をなし、老い、穏やかに死んで生ける様な、そんな淡い未来を夢見てしまったのだ。
(・・・どうして。)
そう思って、蓋をして、夢を見ることで心を慰め続けたというのに。
海の揺蕩う、オケアノス。
そこで、新緑の髪と瞳を持ったアーチャーのサーヴァントの隣りで、二人の男女が立っていた。
「・・・・・ダビデ王の御子息である、ソロモンの妃でありました。シェムーと申します。セイバーのサーヴァントとして顕界しました。」
「俺は、ライラーって、まあ、隣りの息子で、その隣の孫にあたるんだけど。まあ、お二人だけだとボケオンリーになりそうだから多少ね?クラスはライダー。まあ、よろしくな?」
女は、夜の様であった。
真っ黒な髪に、白銀の月のような瞳をしていた。真白な肌と相まって、夜がそのまま人になったような、ぞっとするほど美しい女であった。
その隣の男は、その女とよく似ていた。
たった一つ違うのは、男の右目。それは、まるで、満月をはめ込んだかのような、黄金色の瞳であった。
女の名は、シェムー。
そうして、男はライラー。夜を意味する、昔のロマニが与えた名だ。
(・・・どうして!)
会いたくなどなかった。それでも、彼女はまた、ロマニと出会おうとしていた。