いつかに英雄の隣にいた誰か   作:幽 

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次はソロモンの話しになります。



王の寵姫

 

王よ、王よ、王よ。

ざわつくような、木の葉の擦れあう音のような、炎の爆ぜる音のような、雷鳴のような、水の滴る音のような、独特な、音と音が混ざり合ったそれが王の居室に響いていた。

 

時刻は丁度、夜明けと日暮れの真ん中、太陽が空の一番上にある時刻のことだ。

女は、王の住まいをまるで己の庭のように悠々と歩いていた。それを咎めるものはなくいっそのこと女は敬意を抱かれているようであった。

女は、王に仕える立場の女にしては、質素な出で立ちであった。動きやすそうなその白の衣服に黒い革で出来た腿まである靴は、どこか兵士というイメージによく似ていた。

 

けれど、女はその衣服など評価の対象にならないほどに美しかった。

黒い、夜のような色の豊かな髪は艶々と輝いている。頭の上部で結い上げられているせいか、まるで黒曜石の王冠の様であった。ややつり上がった猫のような瞳は、くろがねにも似た、硬質さを思わせる白金色だった。

女は、夜の様だった。

静かで、冷たい、夜のような女だった。その、陽の光など知らぬ真白の肌が、滅多に表情を作らぬ氷で作ったかのような顔立ちが、女に温度を感じさせなかった。

ただ、女には二つ、違和感があった。

それは、腰に下げた大剣と、そうして軍人のような硬い皮膚を持った手をしていた。

 

「妃よ。」

 

誰かが、女の地位としての呼び名を言った。

女は、けして、妃というにはあまりにも戦の匂いを纏っていた。

 

 

 

女は、最奥にある王の居室の前で足を止めた。

居室の中では、ざわざわと何かのさえずるような音がした。女は、それにふうとため息を吐き居室の前で声をかける。

 

「・・・・・王よ、よろしいでしょうか?」

 

その声に一瞬の間があった後声が上がる。

 

「構わない。」

 

女は、淡々とした足取りで居室の中に足を踏み入れた。

居室の中は、四方八方に、なにかの気配を感じた。ざわざわと、ざわざわと、何かの唸り声のような、叫び声のような、そんな声であった。

女はそれを気にした風も無く目の前の男を見た。

砂色の髪に、黄金の瞳、褐色の肌をした柔らかな微笑みを浮かべた男だ。

 

「やあ、シェムー。どうしたんだい?」

 

男、ソロモン王は、ゆるりと柔らかな微笑みを浮かべた。シェムーと呼ばれた女はそれに静かに礼をした。

 

「王よ。お時間です。」

 

その言葉に、ソロモンはそうだったねと頷いた。そうして、立ち上がると居室の出入り口に向かって歩いて行く。シェムーはそれに横に逸れた。

ソロモンは、シェムーの隣りまで行くと、

歩みを止めた。

 

「・・・・今日、お前はどうするんだい?」

「王の望む通り。」

 

女は、平坦な声で答えた。ソロモンはそれにふむと頷いた。

 

「好きなようにするといい。思うがままに。」

 

それだけを告げると、ソロモンは政務のために居室から出て行った。

シェムーは少しの間黙り込んでいたが、一度小さくため息を吐くと上を向いた。

 

「王の下僕よ、何を嘆く?」

 

女の言葉に、また、部屋がざわざわと揺れ動く。

王は、嘆きはしない。嘆いてはくれない。何故、何故・・・・・

木の葉の擦れる音のような、風の音のような、炎の爆ぜる音のような、水の滴る音のような、声というよりは、音というのが正しいそれに、女は頷いた。

 

「ああ、分かった。あなた方は、また嘆いているのか。何に嘆いているんだ?」

女の静かな声に、また、ざわざわと見えぬ何かがざわめいた。

 

囁くように、苦しむように、泣いているように声がした。

 

 

魔神たちの嘆きのわけは、国の果てにいるという病に倒れた母と、その子たちの為であった。

シェムーは魔神たちに、すぐにその親子の元へ連れて行くように言った。

シェムーがいった時にはすでに女は事切れていたが、無事であった子どもたちを拾い上げると彼女は自分が経営している孤児院に連れて行った。

その女は、変わり者であった。少なくとも魔神たちはそう思っていた。そうして、彼女と、王以外の者が魔神たちと同じように思っていた。

 

「・・・・子らと共に居たかっただろうな。」

 

女は、表情を変えることも声を荒げることも無かったけれど。それでも、その白銀の瞳から透明な滴を流すのだ。

弔いを終えた母を前に、女は慈しむように子らを撫でるのだ。

その女は、悲しんでいた。嘆いていた。

一人の母の死を嘆いていた。その、嘆き悲しむ声が、その、涙だけが、魔神たちへの子守唄のようにあやすように響いていた。

魔神たちは、その、嘆くような声に、残された幼子たちへの救いの声を聞いて、微睡むように女を見た。

女は、変わり者であった。そうして、王を知る者で、女を知らぬ者はいなかった。

女の名は、シェムー。

守護する者という名を王に授けられた、彼の戦士であり。

そうして、王の最愛とうたわれた妃であった。

 

 

シェムーとは、元はソロモンに与えられた護衛であった。

彼の母が、ソロモンを害されることを恐れて、どこからか引き取って来た子どもであった。どこかの、北からやって来たというすでに滅んだ一族の末裔であった彼女は、その年齢からすれば考えられぬほどの剣の名手であった。

彼女は、侍女として、そうして護衛として、ソロモンの側に居る古参であった。

彼らが大人になった時、周囲の思惑の為か、シェムーはソロモンの妃となり、互いに一番に近しい立場に立つこととなった。

 

 

(・・・・変わらない。)

 

夜のとばりの落ちた寝室にてソロモンは隣りに寝そべる女の頬を撫ぜる。

女は、その印象に正しく、耳をすまさねば聞き逃してしまいそうなほど微かな寝息を立てていた。

ソロモンにとって、女とは、他の人とは違う性質を持っていた

女は、シェムーは、ソロモンに何かを望むということはなかった。いや、望むことはあるにはあったがそれは願いや望みというにはあまりにも細やかなものであった。

 

ソロモンは、よくよく己に仕えるものに対して、褒美を問うことがあった。それは、他の臣下や妃にするのと同じように、熱はなく、一方通行の決まり切ったそれであったが。

皆、ソロモンに多くの事を望んだ。

平和な治世、宝、寵愛、子ども。

皆、最初は恐縮するものの、二度言えば素直に望むものを請うた。

それは、人が望むには当たり前すぎるもので、当たり前のような欲望であった。

けれど、シェムーは、褒美を問うと、幾度言ってもありませんとしか言わなかった。それを無礼と咎められても、彼女は本心から困り切っていた。

そうして、最後には王の御心のままにと放り投げてしまう。人々は、ソロモンに請う様なまなざしを向ける。それは当たり前だ。彼は王なのだから。

 

けれど、シェムーは不思議な目をする。

それは、不思議そうな目だった、なぜだと、疑問を考えている目だった。

それは、あの目は。

そこでソロモンは考えを途切れさせる。

唐突に、ぶつりと切れた思考は彼がわざと途絶えさせたせいだった。

考えたとして、なんだということはない。考えるだけ、無駄なことにソロモンは飽いたように微笑んだ。

 

ソロモンは、寝そべり、肘を立て、頭を支えてシェムーの寝顔を眺めた。するりと解かれた黒髪を自由な片手で弄んだ。

歳を取れば取るほどに女の纏う静謐さは増していく。

ソロモンに与えられた日も十分に人としては静かな女であったが。それでも、まだ、人の中に紛れ込める程度の音を持っていた。

 

(・・・・けれど。)

 

ソロモンは、その髪の一房を己の指にくるりと巻き付けて弄ぶ。

 

(もう、人の中に紛れ込めば、目立ってしまうほどにこれには、音がない。)

 

音がないというよりは、揺らぎがないというのが正解だろう。

シェムーは、他の人のように、怒らない、嘆かない、喜ばない、楽しまない。

感情がないわけではない。ただ、それは雲の合間から差し込む月光のように静かで、ひっそりと差し込み消える。

それ以外特別ところなどない。ソロモンが、気にかけ、対処する理由もない。

けれど、たった一つだけソロモンには気になる部分があった。

 

それは、女の目であった。

女は、ソロモンに、敬愛でもなく、尊敬でもなく、嫉妬でも、怒りでも、畏れでも、情愛でも、信仰でもなく、疑問の目で王を見る。

女の目には、問いかけがあった。なぜ、という言葉があった。

女が何を問いかけているのか、シェムーはそれを口にしたことはない。

ソロモンが、それを問う理由もない。そうして、ソロモンには、それを気にする理由もない。そうであるがゆえに、それは宙ぶらりんのままであった。

ソロモンは、無言で肘を解き、シェムーのことを抱き寄せる。それに、シェムーは、ゆっくりと目を見開いた。ソロモンは、それを宥めるように囁いた。

 

「・・・何でもないよ。」

 

シェムーは、それにそうなのかと納得したのか、ゆっくりと瞼を閉じ、眠ってしまう。

ソロモンは、シェムーを抱きしめたまま、同じように眠りにつく。

シェムーを抱き寄せる理由などない。他の妃を己から抱き寄せることも余りない。けれど、己の寵姫にはこれぐらいするものだろう。そんなことを思って、ソロモンは眠りに落ちた。

 

 

 

シェムーという存在が、ソロモンの寵姫と評価され、扱われるのは理由がある。それはもちろん、彼の閨に呼ばれる頻度が高いことや長い間王を支えていることもある。けれど、何よりの理由が一つあった。

それは、彼女が腰に下げている剣にあった。

それは、ソロモンが示した神の知恵がつまったものであり、抜けば雷を呼ぶ武器であった。

 

シェムーは、男でさえも打ち負かすほどの剣の才を持っていた。ソロモンは、彼女を己の剣とし、そうして最愛の妃として寵愛を欲しいままにしていた。

といっても、ソロモンからすれば、それは別段愛情があるというわけではなかった。理由は、簡素で、ソロモンにとって、シェムーは都合がよかったのだ。

それは、戦士の意味でも、妃の意味でも、シェムーとはソロモンが国を治める意味でも都合がよかったのだ。

ソロモンには、多くのきょうだいがいた。王になろうとした兄を排除した後も彼の座を狙う存在はいた。

ソロモンは、分かりやすく、彼が王としての威光を示すことを望んだ。それには、ソロモン自身では駄目だった。

王とは、従えるものであり、彼自身が力を振るうことはよしとしなかった。

だからと言って、奇跡の力を簡単に託すことも出来ない。

けれど、シェムーは違った。

 

彼女の幾多の未来で、ソロモンを裏切るという行為を見たことはなかった。そうして、彼女は強かった。彼女以上に、その力の象徴として神の力として扱われる雷の力を託すものはいなかった。

そうして、彼女は寵姫としても都合がよかった。

多くの政略結婚をする上で寵愛というものは生まれてしまう。誰が愛されているかというのは、どうしても決まらねば争いは続くのだ。

ソロモンは都合の良い寵姫を欲しがった。

その立場に溺れず、妃たちを統率し、己に良く仕える妃を。

シェムーはどちらをとっても都合がよかった。

 

シェムーは寵姫という立場を持っても出しゃばらず、妃たちの争いに目を光らせ、ソロモンの気を引こうなどということもしない。

彼女は、ソロモンの近しい立場にいた。けれど、彼女はいつだってソロモンの後ろにいる。ソロモンの前に立ち、己の姿を認識させることはない。

女は、夜の様であった。

確かに存在はすれど、当たり前のようにそこにいる影のようであった。

そうだ、ソロモンにとって、シェムーは都合がよかった。

彼の生活に寄り添いすぎた彼女は、どこまでもソロモンのためのものだった。

 

(・・・・・けれど、あの子は私に何か、疑問を持っている。)

 

ソロモンと、シェムーの関係は変わることはない。

ソロモンは、シェムーを使い、彼女もまた、王に仕えるだけだった。

ソロモンは、女の静謐さを気に入っていた。

必要以上の何かをしない女の在り方を気に入っていた。

その女は、共感を求めなかった、ソロモンの心を気にしなかった。

それはある種、ソロモンにとっての安楽であった。

二人の関係は完結していた。ソロモンにとって、彼女だけが、推し量り、見定め続けることをせずとも、傍に置くことが出来る人であった。

それ故に、ソロモンは、その目で必要以上に女を見ることはなかった。

 

だから、ソロモンは、その女の何故という問いかけに満ちた瞳を無視した。それを気にする必要はない。それがどういった意味かと、考えることはあっても。ソロモンは、それを無視した。

考える必要などなかった。考えずとも、対処せずとも、その女は、当たり前のように己のものであるのだと、ソロモンは当たり前のように思っていた。

続いて行くのだと思っていた。

二人の間に子が生まれても、その考えは変わらない。ソロモンの治世が、彼の死によって完結するまで、それは当たり前のように側に居るのだと。

 

 

 

 

 

 

(・・・・・もう、体もろくに動かない。)

 

シェムーという名を貰った女は、寝台に体を横たえていた。己のすぐ近くに死というものが差し迫っているのはまざまざと感じていた。

すでに、彼女も壮年と言って良い年になっていた。息子も大きくなり、自分の生きる時間が確実に減って来ていたことは自覚はしていたのだ。

王に仕えることも出来ずに、無為に時間を進めることはひどく苦痛な事であった。

シェムーは、無意識に、枕元を見る。そこには、彼女が王から預かった雷を呼ぶ剣が置いてあった。ただ、それは、すでに彼女と王の間に生まれた子に託してしまい存在しなかった。

 

それに、シェムーは思わず笑った。

滅多に浮かべることのないそれは、自分の物であるのだと心から言えるものがそれしかなかったためだ。

 

(・・・・いや、私のものだといえるものは、もう一つだけ、あるか。)

 

女は最初、名がなかった。

親がいつ死んだかも記憶にない彼女は名を付けられた覚えもなかった。

ただ、彼女は、人一倍美しく、そうして剣技の才があった。そうであったからこそ彼女は生き残ることが出来たと言ってもいい。

彼女は、神殿に拾われ、そこの隅で無為に生きていた。

 

そこで、ソロモンの母に拾われたのだ。

少女は、己の行き先に興味はなかった。己で、己の末路を決められるほど自分の立場が強くないことも十分に分かっていたためだ。

連れていかれた王の住まいで、少女は、会わされた少年を前に、淡々と礼をした。

少女には、興味がなかった。

王の住まいの豪奢さにも、上等な食事にも、上等な衣服にも、己が仕える美しい少年にも。

少女には、それは己のものでないのだと分かっていた。それを愛でることさえ、空しいのだと分かっていた。

少女は、淡々と、己の役割を遂行した。王子を守り、世話をし、彼の侍女として淡々と役割をこなした。

 

彼女に名がなかった。そのため、名は与えられても、それとて宮の従事という意味のシャマシュという、なおざりなものでしかなかった。

少女は、生きるために生きた。死ぬ理由がないゆえに、生きた。

変わり映えのしない毎日で、ふと、少女は気づいた。

王子の事だ。

少女は、下手をすれば、彼の両親よりもはるかに、少年の側に居た。少年の事しか見ていなかった。それ以外、彼女の役目はなかったのだ。

けれど、毎日、毎日、変わることのないことだ。違和感に気づいたのだ。

王子は喜ばない。

どんな、食事にも、衣服にも、異性にも、知識を前にしても、王子は笑みを浮かべた。それも最初は、そんなものを見飽きているせいかと思っていた。

けれど、すぐにそんなことも違うのだと気づいた。

少女は、たった一人で生きた。それには、関わる人間がどんな存在かを見定めることは絶対的に必要であり、彼女はよくよく人を見る目を持っていた。

その王子は飽きているのではなかった。元より揺らぐこと自体がなかったのだ。その在り方は植物に似ていた。

ただ、ただ、王子はそこにいるだけで。己の在り方を全うしているに過ぎなかった。

 

それに少女は王子の事がひどく気に入った。少女は植物が好きだった。草木が気に入っていた。

彼らは感情というものに振り回されない。人のように自分の感情で意味の分からない行動を取らない、

獣や植物は好きだ。彼らは、付き合い方さえ分かっていれば、自分を傷つけることはないのだから。

少女は、王子が妬ましかった。自分の物をたくさん持っている彼が、ひどく妬ましかった。

けれど、彼の植物のような在り方は、少女にとって安らぎだった。

そうして、少女は毎日が楽しくなった。だって、そうだろう。

少女の主は、人でないのだ。正当な理由さえなければ、己を傷つけることはないのだ。

少女に取って、王子という存在が、自分と同じように世界の爪はじき者になった瞬間だった。

少女は、幸福であった。己のものは何一つなくても、自分を傷つけることのない主の元は、その心に怯える必要のない生活は、少女の幸福であった。

 

けれど、少女は大人になるにつれ、どんどん、どんどんと、王になったソロモンが哀れになった。

彼は、嘆かない、苦しまない、悲しまない。そうして、喜ばない、楽しまない。

王は、男は、ソロモンは、母が死んでも、父が死んでも、嘆かなかった。そう言うものだと言っていた。

 

それが、哀れであった。

父と母は、王のものでなく、子として、ソロモンとしてのものだった。彼だけのものだった。なのに、ソロモンは、それに嘆かない。

他への感情がないというのに、人と共にあるソロモンが哀れであった。何も好きでも嫌いでもないのに生きているソロモンが哀れであった。

それが、性であるのか、誰かにそうされたのか、分からなかったけれど。

少女はそれからソロモンという存在をよくよく見るようになった。

たった一つでもいい。たった一つでもいい。

 

少女は、ソロモンが人である証が欲しかったのだ。

それが、それが、少女の持った憐れみへの、その男を王とする国に住む民としての、精一杯の代価であった。

それだけが、それだけが、少女に取ってようやく王を肯定できる理由であった。

そうして、礼がしたかったのだ。

ソロモンが、少女の持つことが叶わなかった、少女だけの特別をくれた。

戦士としての信頼として、剣を授けてくれた。

たった一人の何かとして、名をくれた。

母として、子をくれた。

何もないままに、生まれ出で、何もないまま生きて、そうして、ようやく少女は、シェムーとしての、自分だけのものを得たのだ。

 

少女は不公平であると思っていたのだ。貰ってばかりでは駄目だと思っていた。

けれど、シェムーに出来ることなど一欠けらだってなく。だから、自分に出来ることを探した。

身勝手だと、無意味と、傲慢だと、それをしてどうなるのだと。

分かっていたのだ。けれど、シェムーは男を人として扱いたかった。

あなたは人だと言いたかった。

 

シェムーはソロモンを愛していたのだ。

 

その無感動さに安らぎを覚えた。何も愛していない男に植物のような静けさを見出した。戦士としての強さに肯定をくれた。子という繋がりをくれた。

少女には何もなかった。だから、たった一つだけ、己の自由になる心を差し出した。

それを彼が理解せずともよかった。全てはシェムーの救われたい心であるのだと分かっていた。

 

愛していた、愛していた。全てを持ちながら、全てに無感情であるからこそ、幸福を祈ることが出来た。植物のようだからこそ、安らぎを覚えた。彼だけが、何も持たぬシェムーという存在が愛し、憐れむことが出来たのだ。

言葉も、微笑みも、ふれあいにも、一度だってそれを匂わすことはなかったけれど。

シェムーは王に感じてほしかったのだ。

喜びを、楽しみを、美しさを、愛おしさを。

その感情が、自分に注がれることがないとしても。

自分は十分に与えられたのだから。

だから、それでよかった。それだけでよかった。

王よ、王よ、王よ、望むものなどないのです。

食事も、居場所も、つながりもある。だから、私は満たされた。

私の探し、掻き集めたあなたの人であるという欠片が、いつか、あなたの人としての礎になるように。

それだけを願います。

 

シェムーは、ぼんやりと意識を彷徨わせる。それに、本当に自分の命が尽きる瞬間がやってきているのだと理解した。

そこに、唐突に、柔らかで、穏やかな声が響き渡る。

 

「・・・・・シェムー。」

 

それに、シェムーは漂わせていた意識を浮上させる。

見開いた瞳に、彼女の愛した男がいた。

 

「・・・王よ。しつ、むは?」

 

「ああ、丁度暇になってね。見舞いをしに来たんだ。」

ソロモンは、そう言って女の寝台に座った。そうして彼女の髪をゆっくりと梳いた。

 

「・・・・体はどうだい?」

「ただ、ひどく、眠いです。」

「そうか。まあ、お前はよく仕えてくれた。休むのもいいだろう。」

 

そう言って、ソロモンは、髪を梳る。そうして囁くように言った。

「なにか、望むものはあるかい?」

それは、昔から、変わることのないそれだった。何も望むことのなかった女のへの、ソロモンが示すことが出来た、たった一つの労わり、臣下への褒美。

シェムーはそれに首を振ろうとしたが、すぐに止めてしまった。

 

「・・・叶うなら、たった一つだけ、問いかけを、お許しください。」

 

それに、ソロモンは少しだけ驚いた顔をした。けれど、すぐに表情を戻して頷いた。シェムーはそれに安堵の笑みを浮かべて囁いた。

 

「問いをさせてください。」

「なんだい?」

「王よ、あなたは、何か、好きなものはございますか?」

「さあ、特に何も。」

 

王は応えた。何の感慨も無く、淡々と答えた。女はそれに頷き、もう一つ問いかけた。

 

「王よ、あなたは、何か、嫌いなものはございますか?」

「さあ、特に何も。」

 

変わらぬその答えに、女は、失望するわけでも、悲しむわけでもなく、納得を持って微笑んだ。

それが、ソロモンには、不思議だった。それは、それは、あまりにも、人として、感情を持つものとして変わっていた。

 

「あなたは、何も、好きでも嫌いでもないのですね。」

「そうだね、私は、王として定められているから。そういうものは、欠けてしまっているんだよ。」

 

そう、やはり感慨も無く、淡々と男は語る。それに、女は微笑んで、頷いた。

 

「王よ、私は、あなたを憐れんでいたのです。」

 

静かな声に、ソロモンは動きを止めた。

憐れみ。それは、人がソロモンに向けるにはあまりにも、不可解な感情だった。少しだけ、目を見開いた男に、女は、淡々と語る。

どんなものにも、心を傾けることのないあなたが、喜ぶことも、悲しむことも、私にさえ許されたそれを、持つことのないあなたが哀れでありました。けれど、今では、こう思うのです。

 

「あなたは、確かに、人であったのです。」

 

柔らかな声で、そう語る女をソロモンは無言で見つめた。

 

「何故?」

「・・・・・あなたは、何の意味も無く、私を見送るために、ここに来たからです。」

「いいや。私は、お前の寵姫としての立場のために来たんだよ。」

 

ソロモンの言葉に、シェムーはもう一度だけ微笑んだ。

 

「・・・・・・あなたを、お慕いしておりました。」

 

植物のように静かで、誰の事も好きにならず、それでもなお誰かのためにあり続けた、自由でないあなたを愛しておりました。

何も、選ぶことの叶わなかった、私と同じ、あなたのことを愛しておりました。

女は、微笑んだ。

夜のように、静かで、音のない微笑み。

シェムーは、そっとソロモンに手を伸ばした。王は、その手をそっと握ってやった。

 

「・・・・王よ。」

 

あなたは確かに、私のことを大事にしてくださったのですよ。

そう言って、そう言った瞬間に、女の手から力が抜け、寝台に落ちた。力なく転がった、腕が、安らかな寝顔のようなそれが、女の命が尽きたことを示していた。

ソロモンは、女の手を握った、己がそれを見つめて滑り落ちた熱を握り込んだ。

 

 

 

女の葬式は、寵姫として相応しいほどに豪奢であり、粛々と進んだ。

そうして、また、当たり前のような日常が戻って来た。

ソロモンの周りで、誰かが泣く。

しくしく、しくしく、泣いていた。

王よ、妃が、なくなりました。王よ、あの優しい女が、死にました。

 

王は変わることなく、それに応える。

 

そうだね。人とは死ぬものだから。

 

それに、その泣き声は、さらにひどくなるが王は気にすることも無い。

いつも、すぐに収まるものだから。けれど、何故か、その泣き声はなかなか収まらない。

 

(・・・・ああ、そうか。いつもは、シェムーが宥めていたからか。)

 

そんな風に、彼女がいなくなったからこそ、増えた手間はあった。けれど、気にすることはない。対処はいくらでも出来た。

ただ、ソロモンは、時折、後ろを振り返ることがあった。

ふと、何かに気づいたように。

けれど、後ろには、誰もいない。いなくなってしまったのだ。当たり前だ。

それに、ソロモンは、何も思わない。思う必要はない。

ただ、そうやって後ろを振り返ることを、彼は止める必要もなかった。

 

 

 




シェムー
ソロモンの最愛と伝わる女。
ただ、本質は、女の在り方がソロモンにとって都合がよく、必要であったためにそう扱われただけであった。
孤児であったが、剣の才のためにソロモンの護衛になった少女。己のものといえるのが心しかなかった、虚ろなる少女。孤児であったころに地獄を見、人を嫌っていた。
数少ない、王として定められた男の本質を察していた。
けれど、それを疎うことなく、それに安寧を見出し、愛していた。
ソロモンの人間性を信じ、彼を贄として繁栄した国を、人を愛すると決めた。
最期には、己の人生に満足していた。ただ、心残りは一つだけ。
愛した男に、人としての在り方を、少しでも信じさせてやれなかったこと。

ソロモン
人として在り方を奪われた王。
シェムーと名付けた少女を最期まで、都合よく扱った。
シェムーという存在を、自分を裏切らぬものとして、見定め、扱った。けれど、一つだけ、男は、何故か必要以上に女の未来を、過去を見なかった。その必要はないのだと斬り捨てていた。
だというのに、何故か、男は女の逝く時間を見、わざわざ見送った。
それは、己に仕えた存在への、義務として労わりだったのか。それとも、別の何かだったのか誰にも分からない。
死ぬ直前まで、己の後ろを振り返ることを止められなかった。

魔神たち
彼らは、王を愛していた。人の憐れさを嘆いてくれなかった王を憎んでいた。
彼らは、妃を愛していた。己たちと共に人への悲しみに沈んでくれる彼女を慕っていた。
たった一人残された、二人の忘れ形見を愛していた。彼を殺した人々に失望した。

ソロモンの息子
シェムーの剣を受け継ぎ、魔術師として逸話も持っている。だた、ソロモンが死んだ後に、剣に宿る奇跡も、神に返してしまった。
一柱、ソロモンをまねて何とか魔神を編み上げた。
王として立つことなく、戦士として生きていたが、最後には王座を奪われることを恐れた王であり兄弟に殺された。
二人を知る者からすれば、どっから生まれたというほど陽気で、音楽を愛していた。

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