いつかに英雄の隣にいた誰か   作:幽 

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ニトクリスの話しになります、こちらはこれだけになります。


隼を助ける風を望んだ
風の贖罪


昔、ひどく、不思議な願いを抱いた男を彼女は知っていた。

普段は、静かで、日陰の中で遠い場所を見つめている様な男が珍しく饒舌になっていたせいか、その記憶だけが強烈なものになって残っている。

後にも先にも、その男がそこまで饒舌になったのは、その一度だけで。

死ぬ間際まで、男は、いつだって静かに微笑んでいたのを、ニトクリスは覚えている。

 

 

ニトクリスは、太陽が一番上にやってくる時間が、一日の中で何よりも苦手だった。

それに比べて、彼女の兄は、その時間が何よりも好きであった。

その理由は、その時間が二人の勉強の時間に当てられており、その師に当たる人がニトクリスは心の底から苦手だったのだ。

 

「・・・・・こんにちは、両方。」

「ああ、カマル、今日も頼むぞ。」

「はい、ニトクリス様も、どうぞ。」

 

そう言って、己を席へと促す男、カマルを見上げてニトクリスはそれに従った。

兄と彼女が席に座るのを確認すると、カマルはゆったりとした口調で話し始める。

「・・・はい、では、昨日の続きから話させていただきます。」

ニトクリスは、カマルの声に居心地が悪そうに体を揺すった。

彼女は、昔から、カマルの静かな、その賢しい瞳が苦手だった。

 

 

 

カマルという男は、元よりニトクリスにとって従兄に当たる存在だった。母親同士が姉妹である彼は、王宮でも評判になるほどの秀才であった。ニトクリスと、次期ファラオとなる彼女の兄の教育係に抜擢されたのも、血筋がはっきりしているだけでなく、その秀才ぶりのためでもあった。

ニトクリスとは十ほど年が離れた従兄が、会った時から苦手であった。

 

その、澄んだ賢い者特有の見透かすような目が苦手であった。事実、カマルは、ニトクリスの考えていること、といってもお腹が空いているとか遊びたいとなどの簡単なこと、を彼はあっさりと看破して見せた。

ニトクリスの兄は、表立ってはいなかったが、そんな従兄を尊敬し、信頼していた。そのためか、カマルを怖がるニトクリスを叱ることもあったため、余計に彼女は彼を苦手であった。

従兄と言っても、母親似のニトクリスと父親似のカマルでは、一目見ても血の繋がりは感じなかったろうが。

その似ていない彼の容姿が、ニトクリスの苦手意識を増させてもいた。

太陽のような黄金の髪に、青空のような瞳の彼は、太陽神に連なる王家の者に相応しいものだった。

それに比べて、ニトクリスの髪は、澄んだ菫色。まるで、夜に属するその髪が彼女はあまり好きではなかった。

 

けれど、確かに彼の教え方は上手く、師としては彼ほどの相応しい者はいなかったろう。

それでも、やはりニトクリスは彼のことが一等に苦手であった。

いつも、どこか人からは離れた場所で、柔らかな微笑みを浮かべている男が、ニトクリスはどうしても苦手だったのだ。

 

 

そんなニトクリスが、カマルのことが苦手であるという旨を兄弟に言うと、彼らは心の底から不思議そうに顔をされることが多々あった。

兄弟たちからすれば、声を荒げることも無く、丁寧に物事を教えてくれるカマルは他の教師よりも格段に人気のある師だった。

それに、その日のニトクリスは、むきになり兄弟たちと悉く喧嘩をした。拗ねてしまった彼女は兄弟たちに背を向けて、王宮を走り出してしまった。

 

 

その時、ニトクリスは怒っていた。例えるなら、ぷんすかとでも付いていそうな怒り方をしていた。まだ、ぎりぎり年齢は十にも満たしていない少女の怒り方は、本人が知れば怒りだすだろうが愛らしいことこの上なかった。

 

「・・・・兄上も、皆も、分かっていないのです。」

 

ニトクリスは、ぷんぷんとまろい頬に空気をため、ぷくりと怒っていた。

彼女からすれば、怒ることも無く、いつも笑っている彼が何かを企んでいるのでは疑っていたのだ。だというのに、そんなニトクリスの心配を、兄弟たちは杞憂というのだ。

これを怒らずにしてどうするのだろうか。

ニトクリスは誰にも見つからない様に、王宮の隅の日陰で膝を抱えていた。

そろそろ、日が沈みそうで、夕日の赤い光が新たに世界を包みかけていた。けれど、怒りの収まらないニトクリスは兄弟たちの元に帰る機会を逃してしまっていた。

そんな時、ニトクリスの真上から声がした。

 

「ニトクリス様?」

 

聞き覚えのあるその声に、恐る恐る上を見上げると、そこには一番に会いたくなかった男が立っていた。

 

「・・・・・兄君たちがお探しになられていましたよ?」

「あ・・・・・えっと・・・・・」

 

固まってしまった彼女を前に、カマルは困ったように微笑みを浮かべた。

カマルは未だ少年の域を出ないとはいえ、ニトクリスからすれば巨人のような体格差がある。カマルはそれを察したのか、ニトクリスの横に屈みこんだ。

 

「どうされたんですか?」

「関係ないです。」

 

つん、と顎を引いてカマルから顔を逸らした。カマルは、それに、苦笑する。

 

「皆さん、心配されておられましたよ。一緒に行きませんか?」

「いや!」

 

嫌いなカマルがやってきたためか、余計に意固地になったニトクリスはいやいやと首を振る。それにカマルは困ったように首を傾げて、どうしましょうかとニトクリスの隣に座った。

 

(・・・・どうして隣に座るんですか!)

 

ニトクリスはそう思いつつ、隣りに視線を向ける。

赤い夕陽の光が、カマルの金の髪に当たり、きらきらと、きらきらと、輝いていた。それが、あんまりにも綺麗で。まるで、太陽がそこにいるようで。

ニトクリスは自分の髪をくるりと指に巻き付けた。

美しい黄金の髪に比べれば、色も暗い。そんなニトクリスの心境を知ってか知らずか、カマルは彼女に微笑んだ。

 

「ニトクリス様の髪は、美しいですね。私は、その色が一等に好きなのですよ。」

 

その言葉は、ニトクリスの機嫌を何よりも損ねた。

ぎろりと、少女の涙の溜まった瞳に睨まれて、カマルはおろおろと困ったように顔をしかめた。

 

「なんですか!嫌味ですか!?」

「え、え?」

「確かに、あなたのような綺麗な色の髪ではないですか、そんなにも馬鹿にされる覚えなどないですよ!!」

 

立ち上がり、自分を見下げるニトクリスにカマルは驚いたような顔をする。怒り狂う彼女に、カマルは納得したように頷いて、苦笑交じりに立ち上がった。また自分との間に絶対的な身長差が生まれ、ニトクリスは怯えた様に肩を震わせた。

カマルは申し訳なさそうに背を屈めてニトクリスに手を指し延ばした。

不審そうにその手と顔を交互に見るニトクリスにカマルは言った。

 

「こちらへ来てください。」

 

それに、ニトクリスは恐る恐る手を伸ばした。カマルは、外にニトクリスを誘うと、日が暮れかけた空を指さした。

その方向を見ると、丁度、夕日の赤と夜の藍が混ざり合った境があった。

 

「ほら、あれですよ。ニトクリス様の色です。」

 

ニトクリスは、自分の髪によく似た黄昏を目にした。

カマルはそれを見つめるニトクリスの隣りに屈みこみ、柔らかな声で話し始めた。

 

「・・・・私はね、ニトクリス様。あの境の色が一等に好きなのです。太陽が眠る時間と、太陽が目覚める時間にしか見えない、あの色が、一等に好きなんです。」

 

カマルはそう言って、ニトクリスの髪を一房掬いあげた。

 

「ニトクリス様の髪と瞳は、本当に、一等美しいと思いますよ。」

 

微笑んで、細められた空色の瞳と、揺れた夕日に染まる黄金の髪、穏やかな微笑みを浮かべた美しい顔。

ただ、ただ、ニトクリスの瞳には、それだけが広がって。

美しい記憶として、彼女の中に刻み込まれた。

 

 

 

けれど、それからニトクリスがカマルに会うことは殆どなかった。

何故か、急に教育係を下ろされて、違う人間になってしまった。やってきた人間は、悪い人ではないようだったが、良い人でもなく、教師としてそこそこといったところだった。

ニトクリスと兄弟たちから離されたのも、カマル自体が優秀な研究者であり、医者としての研究に時間を取らせるためのものであるらしく、ニトクリスたちもさほど心配等もしていなかった。

ただ、確かに滅多に会えなくなってはいた。

ニトクリスにとっては、あの夕焼けの記憶と共に、そのまま遠い人として扱われていた。

いや、ニトクリスにとって幼いころの淡い思い出でしかなく、すっかり忘れそうにさえなっていたのだ。

あの日までは。

 

 

 

それは、突然だった。次代のファラオになるはずであったニトクリスの兄が死んだ。いや、死んだのではなく、殺された。

宴の席にて、兄の呷った杯に毒が混入されていたのだ。

宴に出ていたニトクリスもそれを見ていた。兄の手から滑り落ちた杯、零れて散らばった酒、崩れ落ちる兄の体。

全てを、覚えている。宴の騒然とした最中、まるで記憶は飛んでいて、気づいた時には私室に放り込まれていた。

それが、全ての始まりだった。

一人ずつ、一人ずつ、兄弟たちは減り、そうして、最後にニトクリスだけが残った。

 

兄弟たちの死は、病死や事故として処理された。

ニトクリスを、臣下である存在たちに祭り上げられた。

その頃には、彼女もすっかりと自分と兄弟たちがどのように扱われていたのかを理解していた。

 

憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!!!

 

赦すものか、赦してなるものか!

 

兄弟たちを殺しつくした全ての存在を、けして

赦すものか。絶対に、絶対に、いつか、殺してやる!

 

それが、彼女の生きる意味だった。それが、彼女の生きるよすがだった。

そうして、次代が決まるまでの中継ぎとして、彼女はファラオになった。殆ど権限などはない、名だけの、傀儡の王として。

そんな時、ニトクリスはカマルと再会した。己の結婚相手として。

王族が立て続けに死ぬという厄事に、ファラオの婚姻という祭事で民草の不安を和らげるため。そして、その子を次の傀儡とするための婚姻であった。

 

その相手にカマルという存在が選ばれたのは、王族の血を引いていることと、学者肌で在り下手な野心を持っていないという条件の下であった。それに加えて、ニトクリスが妙齢の少女という点を担って、見目麗しい男を与えて置けばいいという思惑もあったようだった。

 

 

「・・・・・お久しぶりです。」

 

婚姻の儀を終えた後、カマルは人気のなくなった寝室で恭しくニトクリスに礼をした。

 

「・・・・・ええ、そうですね。」

 

ニトクリスは、拒否することのできなかった己が夫を苦々しく見つめた。

 

「お前とは、兄上や弟たちの葬儀以来ですね。」

「ええ。ご兄弟をお助けできず、申し訳ありません。不幸なことに。」

 

平淡な声と共に、頭を下げたままの彼に、ニトクリスは吹き上がった怒りのままに、枕元の机に置かれた杯を投げつけた。

からんと、当たりはしなかったそれが床に転がる。

カマルは黙り込んだまま、頭を下げたままだった。

 

「どの口が、それを言うのですか!兄上たちが殺されたことなど、公然の事実でしょう!?」

 

ぜえぜえと、荒い息を吐きながらニトクリスは、自分の行動が悪手であると後悔する。もしも、この男が逆臣たちに自分の心境を話せば、復讐が難しくなってしまう。

焦るニトクリスの心境を察したのか、カマルはゆっくりと顔を上げて、彼女のいる寝台にゆっくりと近づいた。

ニトクリスは、今が婚姻の後であること、そして、自分たちが男女であるという事実、自分が圧倒的に弱い立場であることを思い出す。

かたり、と音がしてカマルが寝台の上に乗る。近づいてくるカマルに、ニトクリスは体を強張らせて、分かりやすいほどに顔を恐怖に染める。

けれど、予想していた衝撃などは来ず、カマルは何故かニトクリスの手をそっと握っていた。

カマルは、まるで跪くようにその手を両手で握った。

それが、なぜか、幼いころに、彼と黄昏を見つめていた時のことを思い出す。

 

「・・・・・・・ニトクリス様、憎いですか?」

「え?」

「あいつらが、憎いですか?」

 

静かな声は、ニトクリスだけに聞こえる様なささやかな声だった。ニトクリスは恐る恐る、その瞳を見上げた。

空色の瞳は、凪いだように静かであったが、その根底に残る怒りが、ニトクリスには理解できた。

ニトクリスは、それに、頷いてしまった。頷いて、それをカマルだけが聞き届けた。カマルはそれに、頷いた。

 

そして、ニトクリスの甲に額を押し付けて、願うように言葉を紡いだ。

 

「ニトクリス様、美しき女王よ、若きファラオよ。この身を全てあなたに捧げ、その復讐のための手足となりましょう。彼らの苦痛を、彼らの悲鳴を、彼らの懇願を、彼らの絶望を、あなたに捧げると誓いましょう。」

 

ニトクリスは、茫然とその言葉を聞いていた。そして、ゆっくりと顔を上げた彼は、真っ直ぐな瞳でニトクリスを貫いた。

 

「あなたは、ただ、一言だけでいい。赦すと、そう、言ってください。」

 

それは懇願だった、それは願いだった、それは悲鳴だった、それは、流すことの叶わなかった涙だった。

 

分かってしまったから。

 

きっと、きっと、この男は、ニトクリスの兄弟たちが死ぬ度に枯れんばかりに涙を流し続けていたのだろうと、そう、ほんの一瞬でも思ってしまったのだ。

だから、ニトクリスは、頷いてしまったのだ。その時、その通りに、ただ、その懇願を。

 

 

 

カマルは、また、表向きは夫として、裏ではニトクリスの共犯で在り、教師として振る舞った。

ニトクリスが復讐を終えた後に、良き王になれる様にと、カマルは寝台に身を寄せて二人っきりで授業をした。

ニトクリスは、カマルが己に協力しようと、夫になろうと、そして閨を共にしようとも、男を信頼しきれていなかった。

いや、ニトクリスにとって、王宮の全てが信用できることではなかった。

一人だった、誰も助けてはくれなかった、その末に、ニトクリスの愛した人たちは死んでしまった。

それでも、ニトクリスは、その時間が一等に好きであった。その瞬間だけは、ニトクリスは安心して、昔のように、兄の背に隠れていてもよかった日々を思い出させてくれたから。

 

ニトクリスは、その男をどうすればいいのか分からなかった。

信頼してもいないのに、それでも、男しか寄る辺が無く、ずるずると続いたそれは、男の一方的な献身により、成り立っていた。

一度として、夫として扱うことも無く、そこには主従関係があるだけだった。

 

カマルは彼女の足りない部分を補い、二人で復讐者として、そして、ニトクリスの兄弟たちを殺したのが誰かを知るために、二人で王宮の中を駆け巡った。

下手に出、情報を集めた。

時には、ニトクリスの怒りが爆発しそうになっても、カマルが必死に抑え込み、なだめすかし、受け止めた。

ニトクリスには分かっていた。その男がいるからこそ、この歪な日々が成り立っているのだと。

 

ニトクリスは、カマルのことを信用は出来ずとも、心を傾けてしまっていた。

唯一自分の味方であり、幼いころの淡い思い出は、ニトクリスの狂おしいまでの渇望を刺激した。

きっと、目の前の男は、そんな思い出なんて忘れてしまっているだろうが。

それでも、その弱さを押し出すことは出来なかった。

彼女は、己がファラオであるのだという強烈な矜持を持っていたせいだった。

ある時、ニトクリスは、閨の中で、問うたことがあった。

 

なぜ、己に味方するのか。

 

「・・・・・それは、どういう意味でしょうか?」

「恍けなくでください。私にもわかっています。私に加勢したとして、旨味など少しもないと。あやつらに加勢していたほうが、ずっとおいしい思いは出来るでしょうに。なぜ、私に味方するのですか?」

 

カマルは、少しの間黙り込んだ後に、掠れた声で呟いた。

 

「御髪に触れても?」

 

掠れた男の声が、思った以上に近い場所から聞こえて、自分が男と寝台に横たわっているのだと実感する。

けれど、ここで嫌がる素振りをするのは、どこか優位ではない自分の立場が揺らぐ気がした。精一杯の虚勢を込めて、赦します、と告げた。

男は、それに、ニトクリスの髪をゆっくりと梳いた。

するりするりと、髪だけでなく、自分の体の線までなぞられている様で、ニトクリスはぞくりと背筋を震わせた。

 

「・・・・・あなたの兄君は、とても賢い御子でした。」

 

それを口切に、カマルはニトクリスの兄弟たちの思い出話を、一人、一人、丁寧に語っていく。

ニトクリスも知らない思い出話があり、彼女は思わず聞き入った。

珍しく饒舌な男を不思議に思いながら、ニトクリスは髪を梳くその手も心地が良く、いつの間にか眠りの縁をうつらうつらと迷い込む。

それに気づいたらしいカマルは、少しの間くすくすと笑いながら、ニトクリスの最後の意識にそろりと言葉を放り込んだ。

 

「・・・・ニトクリス様、私はね、仕えるのだと願った方々を殺した者たちが憎いのです。ですが、それ以上に私は、風になりたかったのです。あなたの兄君の風に、そして、あなたの風になりたかったのです。」

 

その言葉の意味を、ニトクリスは理解しなかった。よく、分からなかった。

ただ、ひどく、意味のある言葉に聞こえた。

 

 

そのまま、二人は共犯者として、夫婦として過ごし、とうとう復讐すべき人間たちが誰なのかを知ることが出来た。

復讐に対して、二人は、決めていたことがあった。

下手に逃すことなどあってはならないと、相手等は一網打尽にすることだった。

そのため、方法を決めている時に、まずいことが起こった。

それは、逆臣たちの数人が、カマルに対して脅しをかけてきたのだ。

復讐のことを表ざたにしたくなければ、ニトクリスの身を差し出す様にと囁いて来たのだ。

 

カマルは、それをニトクリスに告げることなく、一人で処理することを決めた。

短い間であったが、ニトクリスには必要なことを教えて尽くしていた。

ならば、己の身にどんなことがあっても安心であったためだ。

脅してきた逆臣たちを宴に誘い、彼らの飲む酒に毒を仕込んだ。逆臣たちはもちろん、暗殺を畏れ、カマルにその酒を飲む様に言った。

カマルは、それを、微笑んで飲み干した。

そして、堂々と言った。

 

「どうぞ、この美酒を味わいください。」

 

安心しきった逆臣たちは、その酒を飲みほした。そして、血を吐き出して絶命した。

その酒を飲んだカマルも同じように。

 

何も知らなかったニトクリスの茫然とした様子に、生き残った逆臣たちは、彼女が無関係と勘違いし、さらに復讐が容易い事態へと至った。

 

 

茫然とするニトクリスに、一人の奴隷が、カマルからの伝言を持って現れた。

そこには、カマルの持っていた逆臣たちの情報と、そして、少なくない贖罪について記されていた。

曰く、カマルの作りだしてしまった毒が、ニトクリスの兄弟たちの暗殺に使われたこと、それを後から知ったが共犯として扱われていたこと、その立場を使い情報を集めていたこと。そして、それを黙っていたこと。

 

おそらく、これを先に話してしまえば、あなたは私を信用せず、復讐を遂げるのは難しくなる。そのために、どうしても言い出せませんでした。

いえ、違います。私は、それを告げ、あなたに嫌われることが一等に恐ろしかったのです。もうしわけ、ございません。

貴方との日々は、まさしく、蜜のように甘く、そして、地獄のような日々でした。

幸福でした、どうしようもなく、私は、幸福になってはいけないのに。

仕えるのだと、願っていたあの子を殺されたとき、私は何を以てもあいつらを殺すのだと誓いました。

幸福になってはいけないと、そう分かっていながら、どうしようもなく、幸福だったのです。

あなたは、私を信じてはくれませんでした。けれど、閨を共にする、あの時の熱だけが、あなたの微笑みが、私にとっての絶対なる褒美であったのです。

私は、黄泉の国で罰を受けることでしょう。それでも、これだけは信じてください。

夜明けの髪と瞳の姫よ、ファラオよ、あなたをお慕いしておりました。どうか、私のいない後も、どうか幸福で。

 

 

それには、数多の罪悪と、そして、ニトクリスへの微かな慕情。

ニトクリスは、それを知った後、自分がどんな顔をしていたのか、分からなかった。

それを裏切りとすればいいのか、それを赦せばいいのか、わからなかった。

ただ、最後の、夜明けの髪と瞳に、男がニトクリスを覚えていたのだと理解した。

ニトクリスは、彼女らしく、泣きわめかなかった。

ただ、静かに、静かに、涙を流した。

 

カマル、カマル、カマル、幾度も、その名を呼んだ。

そうすれば、己に甘い男が、どこからか、ひょっこりと顔を出すのではと思えて。

 

お前は、いったいどんな思いで私の側に居たのですか?

きっと、きっと、死んでしまいたかったのでしょう。だって、そんなにも慕っていたニトクリスの兄弟たちを、いつか仕えるのだと願っていた神を、彼は間接的に殺してしまったのだ。

それは、どんな地獄であったのだろうか、それは、どんな罪悪の日々であっただろうか。

 

(カマル・・・・・)

 

愚かな私の共犯者よ。

私は、お前を信頼していなかった、信じ切ることは出来なかった。けれど、そんな私の隣りで、お前は地獄を生きていたのですね。

私との日々を幸福と言いながら、その幸福に多大な罪悪を抱いていたのですね。

愚かな人、馬鹿な人、それを、その真実を告げられたとして、どうして、お前を憎むことが出来たのでしょうか。

だって、私には、お前しかいなかったのに。だって、お前だけが、共に怒りを共有してくれたのに。

カマル、カマル、お前は確かに私たち王族に、忠誠を見せたのですね。

その死を持って、お前は、あなたは、私に忠誠を、示したのですね。

いいでしょう、いいでしょう。

 

ニトクリスは、薄く、泣き笑いのような表情を浮かべた。

 

いいでしょう、カマル。お前を、私の夫として認めましょう。私へのその感情を赦しましょう。

一方的で、身勝手な、私を愛した、無口な人よ。

 

 

そして、ニトクリスは、毒を飲んで死んだ。それでよかった、それしかなかった。逆臣たちは皆死にはしても、その状態から王権を立て直すことも難しいだろう。それなら、ニトクリスがいない方が、まだ立て直しが出来るだろうと。

自分は、永遠の国に行けないだろう。けれど、もしかしたら、あの、身勝手な男と同じところにいけはしないかと、一瞬でも思ってしまった。

叶うなら、一緒に死にたかった。

 

 

 

 

 

 

 

カマルは、毒の入った酒の注がれた杯を見る。

それに、彼は笑う。

だって、これは、カマルの忠誠の証だった。だって、これは、カマルのニトクリスへの献身の証だった。

 

カマルの人生とは、ファラオに仕えることが前提に置かれたものだった。

だから、己を磨いた、だから、己を叩き上げた。

次期、ファラオになる人の教育係に馴れたことがどれだけ誇らしかったろう。

医療の研究に精をだすために、それを外された問いも、いつか、彼らの役に立つならばという思いの為だった。

 

そうして、カマルの仕えるはずだった人たちは死んでしまった。殺された。

だから、カマルは、たった一人残ったニトクリスへの献身をよすがに生きた。

遠い昔、自分を美しいというように見つめた、彼にとって一等に美しかった夜明けの髪と、瞳を持つお姫様。

 

カマルにとって、何歳も離れた彼女は、高嶺の花であり、そして何もかもを詰め込んだ崇高な少女だった。

望んでもいなかったのに、彼女の夫になってしまった時、嬉しくないと言えば嘘になる。

 

だって、だって、その美しい少女の隣りに立つなんて、夢のまた夢だったのに。

だから、きっと、それだけが、自分への褒美だった、自分への唯一の光だった。

太陽のなくなった世界でなんて生きていけない。

だから、その少女が、唯一残った、太陽だった。

毒の入った杯を、カマルは微笑んで飲み干した。

 

焼けつくような痛みと苦しさ、せり上がって来る鉄臭いそれを、彼は気力だけで耐えて、そして逆臣たちを罠に嵌めた。

倒れ込み、途絶えていく意識の中で、彼にとって太陽が、民草を照らす光になる未来を思う。

叶うなら、一緒に生きていたかった。

 

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