いつかに英雄の隣にいた誰か 作:幽
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目覚めたとき、老いた男がいた。
あの日、あの時、滝の底に、自分を置いていった男がいた。
「セバスティアーナ。」
静かな声がした。静かな声が、己の名前を呼んだ。
それ以外のことは、何も覚えていない。覚えていないけれど、それでよかった。
訪れることはないのだと、諦めた奇跡が自分に訪れた。それだけでよかった。
こつこつと、廊下を歩く。
モランはちらりと、摩天楼が広がる窓を見た。そうして、ガラスに反射した自分を見た。
深い緑の軍服に、目深に被った軍帽。帽子から零れる癖のない茶色の髪は、おかっぱにすとんと切りそろえられている。そうして、腰に付けられた無機質な拳銃だけが鈍く光っていた。
別段、違和感はない。
その行動を女々しいと取るか、それとも上司への接見として一応の礼儀とするか。
詮無きことだと彼女は息を吐き、部屋に入る。
「失礼します。」
「ああ。来たのかい?」
特別熱のない、下手をすれば冷たくさえ感じる声だった。けれど、モランは特別感慨もなく、その老人に歩み寄る。
銀に光る髪はオールバックになっており、皺に囲まれた目には確かな知性が垣間見える。
「はい、ロード。」
「じゃあ、今日も待機だ。時々、シェイクスピアの様子見をしてくれればいい。」
モランはそれに少しだけ、後ろ手に組んだ手を強く握り込んだ。
ああ、今日も、自分にはなんの役割も与えられない。
この新宿に召喚され、己が主と対峙したとき、モランの心は表現が出来ない。だって、ずっと会いたかった、未練の局地と言える存在にまた再会出来たのだ。
モランは己の襟を正し、己の仕事をその老人から賜ろうとした。
けれど、モリアーティから告げられた言葉は残酷だった。
「・・・今のところ、お前の仕事はない。」
新宿、そこで行われるモリアーティの仕事に、モランの役割は存在しなかった。
元々、モランはサーヴァントになるにはあまりにも物語が足りないのだ。彼女が召喚されたのは、モリアーティに誘発された本当に偶然のことだ。
アサシンとしての役割は、他の英霊に奪われ、彼女は急遽とある幻霊を足されたことで形を保っている。
なにも、モリアーティはモランに命じてくれない。
ただ、日がな一日、シェイクスピアのことを報告するか、モリアーティの側に侍り、彼の望んだとおりお茶を入れたりだとか雑務にふける。
モランは、そこまで頭作業が得意ではない。暗殺をこなすために、それ相応の立ち回りは可能だが、己の主のような策略などはあまり向かない。
彼は、モランが雑務するところを眺めるぐらいで、後は、他に召喚されたサーヴァントに指示を出したりだとか、それぐらいだ。
モランは、モリアーティが何をしようとしているのか知らない。
別段、それはいい。仕事の本筋を教えられず、自分のすべきことしか把握できないことはあった。だから、それについて不満はない。
不満は、ないのだ。
(なのに・・・・)
モリアーティは軍帽の上から己の頭を押さえる。
不満はない。己の主はいつだって、きっと、自分のことを上手く使ってくれるはずだ。
自分にはきっと役割があるはずなのだ。
けれど、ひどい違和感が腹の中でのたうち回る。
何か、何かを見落としている。何かを、自分は理解していない。
己の主が、ようやく、目の前のいるのに。
ここから出て行かなければいけないと、そう思わずにはいられないのだ。
「大佐?」
モランは、廊下を歩いているとき、その声に振り返った。そこには、自分にとって何よりもなじみ深い存在が立っていた。
それに、腹に抱えた違和感が爆発した。
モランは、目の前の経つ銀髪の老人にためらいなく銃を引き抜き、向けた。
「なんの・・・・」
「黙れ!あの方の姿は取るなと、何度言えば気が済むのだ!?」
叩きつけられうようなそれに、目の前の老人の姿はかき消え、現れたのは黒い髪の美丈夫だった。それは、けらけらと楽しそうに笑った。
「おー怖いねえ。」
その男はひらひらとモランに手を振る。それにモランは憎々しげに顔をしかめた。
「・・・私の前で、くだらないことをするな。」
「そりゃあ、ひでえことしたのは事実だろ?だけどなあ、そんなに嫌わなくてもいいじゃないか?」
嫌う?
それに、モランは憎悪を込めた目で目の前のアサシンを睨む。
そうだ、アサシン、アサシン、暗殺者。
本来ならば、己に与えられるべきものだった名を冠する男。
それを、憎まずして、何を憎めというのだろうか?
(今度こそ・・・!)
そうだ、今度こそ、遂行できるはずだったのだ。
あの人を守ること。あの人の盾になること。あの人の、切り札になることを。
あの人に、おいていかれない、末路。
なのに、なのに。なのになのになのに!!
ぎちりと、モランは努めて無表情に、けれど、憎悪をたぎらせた瞳で目の前の男を見る。
「・・・用がないのなら失礼しよう。」
「いやあ、用がないわけでもねえんだけどねえ。」
「なんだ?」
モランの目をのぞき込み、青燕は何か、焦点の合わない瞳をしている。
「いや、なんでもないさ!」
けらけらと笑う男にモランは憎々しげににらみ付けて、モランはその場を去る。けして、その男に気を許さずに。
歩みながら、モランは考える。男は、いったい何を望んで自分に声をかけたのか。
(・・・いや、幻霊を入れたせいで、そこそこ感性が狂ったという話であるし。あれも、それと同類か。)
モランは小さくため息を吐き、その場を後にした。
今は、ただ、暴れ出す違和感が腹の内をのたうち回っていた。
(大丈夫、大丈夫。私は、あの方の言う通りに、ただ、すべきことをすればいい。)
「・・・・ところで、モリアーティ。一つ、聞きたいことがある。」
ホームズと、ジェームズ・モリアーティが邂逅し、ある程度の話をした後、最後にと付け加えるように問いかけた。
「・・・・セバスチャン・モラン大佐を覚えているか?」
「モラン大佐?」
藤丸立香はホームズのそれにオウム返しをした。その言葉に、モリアーティはぴくりと眉を動かした。
「・・・・私が、私であることに関して記憶は大分抜け落ちているが。それはイエスでありノー、さ。」
「モラン大佐って、モリアーティ教授の部下の?」
「・・・・ああ、彼の部下であり、彼の右腕的存在さ。」
ホークスのそれにマシュ・キリエライトが興奮したように声を荒げた。
『モラン大佐!彼も、この新宿に!?』
「ああ、いた。あちらのモリアーティの側にね。それで、聞きたいことがある。君にとって、モラン大佐のことを覚えていなくても。君の所感を教えて欲しい。」
「まあ、それぐらいなら構わないが。」
モリアーティのそれに、ホームズの問いかけを放り投げた。
「己の右腕に何も命じず、己の側に置き続ける理由は何か、わかるかい?」
その言葉に、モリアーティはいぶかしげな顔をした。悩むように口をつぐんだ後、頷いた。
「私は、モラン大佐、という存在に覚えはないけれどね。だが、自分の右腕としている存在を温存しているのなら、考えられるのは一つだけ。」
何か、最後にさせたいことがあるんじゃないのかね?
「・・・・ホームズは、モラン大佐のこと、どう思うの?」
少女の言葉にホームズは何か、思い悩むような仕草をした。どう答えるか、そんなことを悩むような仕草だ。
「・・・・わからない。ただ、最後に何をさせるのか、それを考えなくてはね。君はどう思う?」
「うーん、私は、そこまで詳しくないからなあ。ホームズは、モラン大佐のことはどれぐらい知ってるの?」
「おや、そちらの話を聞くのかい?モリアーティではなく?」
「ええっと。あの人のことは、目の前にいる人が今は全てだから。モラン大佐は、どうなのかなって。そう言えば、マシュはどう思う?」
立香のそれに、マシュは少しだけ思い悩むような仕草をした。
『・・・・モラン大佐は、モリアーティ教授と同じように殆ど描写のない存在です。ある一方で、モリアーティ教授に雇われていると言われ、もう一方ではモリアーティ教授が雇われていると言われるように。その他には、狙撃やカードゲームの名手である話など。ただ、一貫して、彼はモリアーティ教授の右腕と言われています。』
「・・・・そうだね、モラン大佐のことも、殆ど語られていない。ただ、一つ訂正をするのなら、モリアーティとモラン大佐の間には、金銭的なやりとりは殆ど関係が無かっただろう。」
「と、いうと?」
「彼らは、ある意味で純粋な感情で繋がっていたという話だ。少なくとも、モラン大佐の方はね。」
その言葉にホームズはやはり、思い悩むような仕草をした。
「・・・・まるで、一つの弾丸のような、そんな人間だったかね。」
「弾丸?」
「己を打ち出した主の命ずる目的に、真っ直ぐに飛んでいく。どこにいくかなんてどうだっていいというように。それこそ、自分がどうなるのかなんてどうだっていいというように。だからこそ。」
言葉を切ったホームズのそれに、立香はどうしたのだろうとその顔を見つめる。
「だからこそ?」
「・・・・いや、だからこそ、主を亡くした後はなかなかに暴れたという話だね。ただ、モリアーティが何かを企んでいるというのならそこにモラン大佐のことは関係ないんだよ。モリアーティが望むことに、モラン大佐は逆らわない。それ以上でも、以下でもないと言う話だ。」
(そうだ、モラン大佐が何を考えているのかは関係ない。)
脳裏には、幼い子どものような顔で泣きわめく、葡萄色の瞳をした女が浮んで消えた。
全てが、惨めだった。
己の唯一だった女のために狂った歌い手。己が分からなくなった無頼漢。憎しみに全てを塗りつぶされた獣。
全てが消えていく。けれど、自分は、とても、羨ましくて仕方が無い。
ここから出てはいけない。
戦力は、すでにアーチャーだけであり、敵であるカルデア側たちはこちらに責めてくるだろう。
モランはようやくかと己の主の元に向かった。けれど、老人は淡々と冷たく言った。
「お前は私室から何があっても出てはいけない。」
何かが、色あせる。何かが、潰える。
けれど、モラン大佐は、その命にあらがう術がない。だから、モランは静かに顔をうつむかせた。
「・・・はい、了解しました。」
簡素な部屋だ。簡素で、けれど、どこか懐かしい。
そこは、自分にとって慣れ親しんだ英国の家具などが置かれている。
そこは、モランが何の仕事もないときに居座るための待機部屋だ。
がんと、けたたましい。
モランには分かる。血と、悪辣さと、闇の中を生きたそれは、確実にこの建物の中で戦闘が起こっていることが分かった。
けれど、ぐらぐらと揺れる。
あの人の命に、逆らって良いのか?
けれど、それと同時に、腹の中でぐるぐると己の主人を渦巻く違和感がのたうち回る。
命令だ、そうだ、命令なのだ。
だから、ここで、自分は。
その時、声がした。いいや、それは、自分への問いかけだ。
また、お前は、おめおめと己の主人を見捨てるのか?
「・・・・違う。」
ふらふらと立ち上がる。全てが、自分の外側で起こった。仕方が無い、それをあの人が望むから。
でも、今は、今だけは。
「いかないと・・・・!」
モランはそのまま飛ぶように走り出した。
かんと、甲高い音と共に己の近くにいた巌窟王によって防がれたことで自分が撃たれそうになったことを立香は初めて理解した。
丁度、シェイクスピアとアンデルセンによって紡ぎ上げられた探偵達を引き連れて、モリアーティと戦っているときのことだ。
「何者だ!?」
「・・・・やはり、そう簡単には殺せないか。」
そう言って躍り出てきた存在に、皆の視線が向かう。そこにいたのは、軍服を着た細身の人間だった。
肩で切りそろえられた鳶色の髪はさらさらと揺れており、ひどく涼しげだ。女にしては背が高く、男にしては小柄なそれはモリアーティを守るように彼を背中に庇う。斜めに切りそろえられた前髪からは、ぎらぎらと刺すような葡萄色の瞳が立香のことを睨んでいた。
かっちりと着込んだ軍服のせいで体つきは分からないが、それでも軍人にしては細身な印象を受けた。
怒気と憎悪に塗れたそれは、自分たちを睨む。そんな存在にモリアーティが叫ぶ。
「モラン!」
「・・・・ロード。」
「何故命令を無視した!?」
その怒号は、それこそ、立香でさえも怯える。何か、理性やなにやら無駄なものをそぎ落とした純粋な怒気だった。
「私はお前に下がっていろと命じたはずだ!さっさとこの場から下がれ!」
立香は困惑する。現状、確かにモリアーティは有利ではあるはずだ。けれど、現状、味方が多いに越したことはないはずだ。
何をそんなに焦るのだ?
『・・・・まさか、モラン大佐に、何か重要な役割が?』
「・・・違う。」
モニター越しに聞こえる声に、立香は違うと、理解するように言った。そうして、彼女は覚悟するように巌窟王に言った。
「やるよ。」
それに巌窟王は高らかに笑った。
「この場で、どこに逃げろというのですか!?」
モランは必死に叫ぶ。
ああ、やめて。また、置いていかないで。また、あなたの死体を前に惨めな犬を産むというのですか?
「暴くものが、あなたのことを囲んでいる!ならば、ここで、貴方の敵を殺す私がいなくてどうするというのですか!?」
「モラン!」
「嫌です!嫌です!絶対に、嫌だ!もう、置いていかれたくない!」
叫ぶようなそれに、モリアーティは、とても、なんだか、ひどく驚いた顔をした。モランはそれに気づくことなく、立香たちを見る。
初めて相まみえる、自分の敵であるはずの存在。ずっと、かごの鳥でしかない自分には初対面で、それ以上でも以下でもない。
けれど、それが、主の敵であるというのなら。
モランはそのまま戦いの中に飛び込んだ。
再開された戦いの中で、モランは水を得た魚のように動き回る。
「今度こそ、私は、私の願いを遂行する!あなたの願いではなく!私の願いで!私はこの弾丸を放つまで!」
「モラン!」
叫ぶ声がする。本来なら、不意打ちでそのマスターに叩き込めばよかったのだろう。
けれど、じぶんは迷ってしまった。
マスターを殺せばよかったのだ。あの時、その場にいた人間は一人だけだった。
それを、殺せばよかった。
けれど、躊躇してしまった。だって、それは、探偵で無かったものだから。
自分が殺したかったものではなかったから。
けれど、今は違う。何より、自分のそれが、あのマントの男に勝てるか分からない。
ならば、と。モランは自分が殺したい存在に銃口を向ける。
照準を定める、引き金に指をかける。
「これなるは只一撃、必殺にして必中たる、一つの弾丸!己が宿敵を屠るもの!」
モランの拳銃から一つの弾丸が飛び出しだ、それと同時に、真っ直ぐとシェイクスピアに吸い込まれていく。
それと同時に、がちゃんと何かが壊れる音と共に、周りにいた影が半分、ごっそりと減っていく。
「やった!ははははははははははははははっはあははは!ざまあみろ!今度こそ、私が!あんなことにならないように!私が!」
願いの成就、すがすがしさ、嬉しくて、モランは消えた探偵達に笑った。普段は、そんな油断などあるはずがないのに。
なのに、その時は、妙な高揚感で隙を見せてしまったのだ。
「・・・・だが、貴様はここで終わりだ!」
猛る復讐者が自分に手を振り上げているのが分かった。
自分が、解けていくのが分かる。
(・・・・くろまくを、あばかれたから。)
不意を突かれてそのまま地面に叩きつけられた後、モランはモリアーティのトリックを、あのマスターに暴かれたことを理解した。だからこそ、だ。
モリアーティが、英霊までモランの格を上げるために混ぜられた幻霊がどんどん抜けていく。
故に、思考がおぼろげになっていく。はっきりとした感覚もない。けれど、モランは解ける体を引きずって、もう、おぼろげになった五感を必死に研ぎ澄ませて己の主の元に向かう。
(・・・・ま、もらないと。こん、ど、こそ。まもって、あのひとを。わたしの、ねがい。)
這いずり、モランはモリアーティの足下までたどり着く。そうして、彼を庇うために立ち上がろうとする。けれど、もう、そんな力は残っていない。
(かば、わないと。このひとを、
「・・・・もういい。」
鈍くなり、カルデア側の声も曖昧な中、それでも己の主の声だけはしっかりと認識できた。
足下に座り込んだ自分の頭を、誰かが撫でてくれる。もう、おぼろげな視界の中、微かに香るコロンが誰のものなのか分かった。
「・・・ろーど。」
「存外、悪くない気分だ。だから、もういい。」
もう、モランを構築する全てが解けて消えていく。
満足?本当に?あなたは、今、満足しているの?そうか、それはよかった。そうであるのなら、私は、今回、何も出来ず、何も望まれなかった。そのために、何も知りはしないけれど。あなたがそうであるのなら、嬉しい。
あの日、自分たちは、とても中途半端に全てが終わってしまったから。
「いや、お前の役割はあった。だが、そこまで持って行けない私の落ち度だ。」
そうだったのですか?それは、よかった。もう、私のことなどいらないのかと、そう思っていたから。そうであるのなら、ああ、よかった。私は、まだ必要なのですね。
よかったと、胸の奥にあった不安が薄れていく気がした。そうして、それでもと、モランは必死にモリアーティの服の裾を掴む。
ならば余計に、貴方を守らなければ。今度こそ、無事に、貴方を逃がさなければ。
けれど、モランは、目の前のそれを守らねばと言う願いだけのために踏ん張って己の主に縋る。
その仕草に、モリアーティはいぶかしげな声を漏らした。
「・・・・・そんなに、お前は願いが叶わなかったことが未練か?」
己の主のあきれた声がする。それは、なんだろうか。
遠いいつか、自分に手を差し出した、あの時の、声。
触れてはいけないものだった。それは、いつか、きっと全てを壊すのに。それでも、その声は自分にとって何よりも救いだった。あの時と、同じ声。
願い、自分の願い?
「あなたを、まもる。ねがい、わたしの。もう、ひとりで、いかないで。わたしを、おいて、いかないで・・・・・」
体が軋む。気持ち悪い。もう、何もかも分からない。けれど、それでも、一つだけ、息を呑むような音の後、また、あの時と同じ声で己の主が言った。
「いいや、守ったさ。だから、もういい。探偵はいない。私はまだ立っている。だから、もういいんだ。」
それにモランはああと、まるで、幼い子どものような顔で笑った。
そうか!そうか!よかった!なんだ、今度はやれたじゃないか。あの時、愚かで、情けない犬の名前を挽回だ!今度こそ、主人を守れない駄犬ではなくて、ちゃんと、貴方を守った忠犬に。
にこにこと、モランは、理性も何もかも薄れて心のままににこにこと幼く笑って己の主人に見上げた。
「ああ、よかった!ろーど、こんどは、こんどは、あなたはいきて。おいて、いかれない。よかった。」
あーあ、とそれは、笑って。
ばらりと夢のように砕けて消えた。
「・・・・・一つだけ、聞いてもいい?」
何気ないような言葉で、立香はおそらくもう消えるはずのモリアーティに問いかけをした。
一人の女が消えた。戦いの中ではだけた服のせいで、隠された部分が見えたとき、皆は初めてそれが女であることを理解したのだ。
「ああ、君は私の問いに答えてくれた。その礼だよ。」
「あなたの弾丸に貫かれるはずだったのは、本当に私だったの?」
モリアーティはそれにゆっくりと、目の前の少女のことを見る。
なあ、あれは、あのままでいいのかい?
それは、多くのものを取り込んだ故に狂った無頼漢の言葉だった。それは、出自のせいか、モランのことをひどく気にしていた。
あんたにとって、あれがどんな意味か分からないが。言葉ぐらいはかけてやってもいいんじゃないのか?あんたの弾丸に貫かれるのは、きっと。
その問いかけにモリアーティはにっこりと微笑んだ。
初めて会ったとき、自分に向けた笑みをそっくりのそれ。
「当たり前さ。」
その言葉と同時にモリアーティの姿は光の粒子になって消えていく。それに立香はあーあと苦笑するように肩をすくめた。
『・・・・・あれは。』
マシュの言葉に立香は笑う。
「そう言うんなら、そうなんじゃないのかな?」
「己の心を吐露するというのは。まあ、ヴィランには難しいでしょうね!」
シェイクスピアの言葉の後に、アンデルセンがあきれたように吐き捨てた。
「はあ、つまらん!悪党と右腕の間に芽生える感情だと!?手垢の付いた概念だな!」
「ですが、使い古されているからこそ、皆が熱狂するのかと?」
「はっ!だとしても、己の右腕を失うことを怖れて籠の鳥にするなど。意外性というものがないな!」
「・・・・たぶん、違うと思うよ。」
シェイクスピアとアンデルセンの言葉を遮るように立香が口を開いた。その言葉に、アンデルセンが顔をしかめた。
それに、同意するようにジャンヌ・オルタが口を開く。
「確かにね。」
「おやおや、何か、分かることがあるので?」
「・・・・私は、魔女ですが。ああいう、正道を行かない存在にはある程度理解は出来るのですよ。あの老いた男の真相などわかりませんが。ただ、あれはやはり、どこまでも悪辣でしょう。ならば、只単に守るだけ、なんて生ぬるい理由なんてあり得ないわ。」
憎々しげに吐き捨てたジャンヌ・オルタのそれに立香は同意するように頷いた。
あの時、モランが戦いに飛び込んできたとき、モリアーティが浮かべた表情。
それは、記憶をなくしたモリアーティが立香に向けた、あの心細そうな表情そのままで。
「私たちが知らないことも、多分、たくさんあったんじゃないのかな?」
きっと、モラン大佐の役割も自分たちが知るのは蛇足でしかない。
それでいいのだ。きっと、悪辣たる男の本音なんてその程度で。
「・・・・・お前は、本当に変わらないね。」
あきれた声でモリアーティは目の前のそれを見る。それは、とても曖昧で、ぼやけている。
当たり前だ。
セバスチャン・モラン大佐は、確かに有名だ。けれど、英霊とされるものとしてはあまりにも格が劣る。
それでも、目の前のそれはモリアーティという存在が召喚されると同時に、連れられるように召喚された。
ああ、それに、モリアーティはあきれた。
ああ、お前は、どうしてそうも、と考える。
それは、ずっと追いかける。モリアーティのことを、彼こそが、その物語の始まりであるのだから仕方が無いが。
モランは、にこにこと笑っている。本来ならば、すぐに消える存在を無理矢理に世界に縫い付けるために幻霊と混ぜたためか意識が混濁していた。記憶することも、思考することも出来ないのだろう。
それはまるで赤子が母を慕うように、モリアーティの近くに居続ける。
「・・・・さて、お前にも幻霊を縫い付けてなんとかするしかないかね。いつまでもそれでは困るんだよ。」
ただ、今回の計画には丁度良い。ここまで馴染んだ、己の右腕がいれば計画はもっとスムーズに進むだろう。
そう思い、モリアーティは自分を只にこにこと見つめる存在に視線をやる。
そうしていれば、モリアーティはなんとなく考える。
何せ、それはいつでも鉄仮面を被ったかのようで、淡々としていて、そんな風ににこやかに、幼く笑うのを見るのはそう多くなかったはずだ。
何故、これはそんなにも自分を慕うのだろうか?
今でさえ、それが、自分に好意を持っているのは疑う必要さえない。
けれど、モリアーティは考える。だからといって、モリアーティを慕う理由も見えてこない。
モリアーティは、ただの気まぐれで、モランの父を殺した。
けれど、証拠もないとは言え、その後はモランは自由に生きてもよかったはずだ。それでもモランはそうしなかった。
モリアーティの手を取った。
それは、確かに善人ではなかったが、さりとて悪辣に生きることを好んでいたわけではなかった。
だから、何故だろうと、普段ならば考えもしないようなことを考える。
「モラン。」
それに、まるで子どものように地面に座り込んでいたモランは何?と問いかけるようにモリアーティを見上げた。そうして、犬のようにモリアーティの前に行き着く。
変わらないそれは嬉しそうにモリアーティの膝に頭を乗せる。その様は、まさしく、犬のようで。
モリアーティはその頭に静かに問いかけた。
きっと、覚えていないだろうと、そんなことを考えて問いかける。
「お前は、どうして、そんなにも私に頭を垂れることをよしとするんだい?」
それにモランはきょとんとした顔をした後、穏やかな顔で答えた。
「・・・・あなたは、わたしのせかいをこわしてくれたから。」
それは、とつとつと、拙い言葉で語る。
知っていますか?世界が壊れるときは、とても怖くて、とても寂しくて、とても苦しくて、そうして。
「とても、すがすがしくて、うつくしいのですよ。あなたは、それを、わたしにみせてくれたから。」
だからと、それは笑う。
いつかに、モリアーティは、ただの悪意と気まぐれで、それの生きた世界を壊した。どうやって生きていくか、どうやって人生を積み上げるか。
その全てを壊してなお、それは、その瞬間が美しいと言うのなら。
「お前は、私が思うよりもずっと、悪辣の才があったのかもしれないな!」
けらけらと笑うモリアーティに、モランは何が嬉しいのか同じようににこにこと微笑む。
それにモリアーティはそれのことを抱きしめるように体を屈めて、その背中に手を回す。
そうして、まるで無垢な少年がいたずらの計画を囁くような仕草で。
「セバスティアーナ。お前に、世界の終わりを見せてあげるよ。」
それは、誰も知らない。
モランでさえも覚えていない、とある男の、ただの蛇足。正義の味方たちの知らない、悪役達の幕間の話。
それが、モリアーティの決めたモランの役割だった。
セバスティアーナ・モラン
新宿ではほとんど出番はなく、最後の最期で追い上げをした女。
差分の殆どが鉄仮面であるが、主の前ではひどく幼い顔で笑う。
星の終わりには興味は無かったし、彼女は只、主を奪った探偵を殺せればよかったし、主が生き残ればそれでよかった。
願いは成就された。それで十分満足している。
モリアーティ教授
それを救ったことも事実だし、重用したのも事実だが、そこまで懐かれる理由もあんまりぴんと来ていなかった。ただ、それが自分の前だけで見せる顔は気に入っていた。
だから、それの願いを叶えてやってもいいと思った。ここまで、散々に仕えた存在への代価として。
それは、彼の目的とはまったく関係はないが、付け足しても別段支障は無い。だから、付け足した。ただの蛇足だった。
ホームズ
モランの幼い笑みを見るとなんだか一瞬動きを止める。