メジロマックイーンだと思ってスカウトしたら、おばアサマの方でした。 作:風神・雷神
「……以上で、この現代の学園についての基本的な説明は終わりだ。何か質問はあるかい? 青島トレーナー君」
中央トレセン学園で長年、新人トレーナーたちの指導や校内案内を担当してきた初老のベテランは、今年もその役目を全うすべく、目の前に立つ青年――今年からここでペンを執る、青島という男に穏やかに尋ねた。
「いえ。特にはありません。ありがとうございます」
「そうか。それなら良かった。……ほかに何か言い忘れたことはあったかのう。ああ、一応、君もすでに知っているとは思うが……」
何気なく始まった初老の男の「補足」に耳を傾けていた青島は、しかし、直後に告げられた予期せぬ内容に心臓を射抜かれ、凄まじい形相で聞き返してしまった。
「――っ、今のお話……本当、ですか……!? 支給された書類や規約には、そのような記述は一切……!」
「確かに、公式の書類には書かれておらんよ。だがこれは言わば、中央に勤めるトレーナーたちの間では『暗黙の絶対ルール』として知られておる常識なのだ。……当然、君たち新人もその例外ではないよ」
「……っ」
アサマと別れ、一人でトレーナーとしての初日の事務手続きを熟していた矢先、先輩から叩きつけられたその内容は、青島にとって文字通りの死刑宣告に等しかった。
流石の彼も、この「現代のトレセン学園の歪み」に関しては完全にノーマークだった。
彼がかつて命懸けで駆け抜けたあのトレセン学園も、60年という歳月が流れているのだ。当時には存在しなかった最新の解析機材、豪華なトレーニング設備、科学的にアップデートされた育成理論。挙げればキリがないほど進化していたが、それに伴い、学園内の「決まり事」や「所属のルール」もまた、残酷なまでに姿を変えていた。
そして不幸にも、その変わってしまった現代のルールが、いま確実に、青島の首元へと牙を剥こうとしていたのだ。
「これは……とんでもないことになったぞ……っ」
事務室を出た青島の顔は土気色に青ざめ、額からは滝のような冷や汗がだらだらと流れ落ちていた。
◇
一方、メジロアサマは、頭の片隅で「トップアイドルを目指す」と彼と約束したあの前夜の恥ずかしいやり取りを思い出しながら、広大なターフコースの芝の上をゆっくりと歩いていた。
そのあまりにも甘酸っぱい記憶のせいで、緊迫したレース前だというのに、アサマの口元は自然と緩み、にやけそうになってしまうのを必死に堪えていた。
最初は『痴女の集まり』などと断固拒否していたアイドルという存在も、愛する彼から「美人で綺麗でスタイル抜群だから、絶対に日本一になれる」と大真面目に褒め殺された今となっては、彼女にとって「何が何でも死守し、成立させるべき最高の大目標」へと華麗に変貌を遂げていた。
そんなアサマは、昭和のそれとはデザインも生地の吸汗性もまるで違う、現代の紺色の体操服に身を包み、ウマ娘専用のスパイクシューズでパッパと芝の感触を確かめる。
朝方に軽く学園の説明を受け、クラス内での形ばかりの自己紹介を終えた今、舞台はいよいよ、数多のスカウトトレーナーたちが新ウマ娘たちの実力や才能を見定める『選抜レース』の瞬間を迎えようとしていた。
向かう先のゲートには、すでにいくつかの影が入り始めている。それを見た瞬間、アサマの不届きな雑念は一瞬で霧散し、その双眸は勝負師のそれへと一色に染まった。
アサマは現在、神のペナルティを避けるために「メジロ」の名を公式には名乗っていない。だが、名乗らずとも、その身体に流れる血は紛れもない最高峰のそれだ。メジロの看板に、そして自分を信じて命を預けてくれている青島に、決して恥じない走りをする。彼女は静かに、魂の底でそう誓った。
アサマのすぐ隣のゲートに、今回の選抜レースを走るウマ娘たちが次々と揃っていく。
ガシャリ、とゲートの扉が閉まったその瞬間。アサマの胸を襲ったのは、緊張などではなく、奇妙なまでの「懐かしさ」だった。
彼女の主観としては、つい数日前まで天皇賞を走り、現役としてターフを爆走していたはずなのだ。それなのに、まるで気が遠くなるほど長い眠りから目覚め、久方ぶりに大地を駆けるような――そんな、今まで経験したことのない神秘的な感覚に一瞬だけ戸惑う。
だが、そんな違和感は、ファンファーレの残響とともに一瞬で吹き飛んだ。
ドクン、と本能の奥底から湧き上がる「走りたい」という圧倒的な欲望が、彼女の全身の細胞を瞬く間に支配していく。
今の彼女のコンディションは、文字通りの『絶好調』。
そして何より――この現代の、有象無象の新人たちが集まる選抜レースにおいて、歴史に名を残したあの「メジロアサマ」に勝てるウマ娘など、最初から一人として存在し得なかった。
ゲートが開いた瞬間、勝負は決していた。
アサマがこの現代の世界にやってきて初めて走ったそのレースの結果は、他を一切寄せ付けない、圧倒的な『3馬身差』の大勝利。文字通りの独走状態で、悠々と1着のゴール板を駆け抜けてみせたのだ。
「……ふぅ。良い走りができましたわね」
アサマ自身も納得のいくレースができたことに満足し、尾の先を嬉しそうにパタパタと左右に揺らしながら、軽やかな足取りでターフコースを後にする。
だが、そんな異次元の実力を見せつけた謎の美少女ウマ娘を、周囲の人間が放っておくはずがなかった。
まるで強力な磁石に吸い寄せられるかのように、スタンド裏に引き上げてきたアサマの元へ、無数のスカウトトレーナーたちが血相を変えて押し寄せ、一瞬で彼女の周囲を包囲した。彼ら、彼女らは、アサマという至高の才能を前にして、己の理想や、夢や、欲望を、ありったけの言葉に変えて一斉に捲し立てる。
ある者は、彼女の圧倒的な勝利の才能を、己の戦績のために手に入れようと。
ある者は、彼女をプロデュースすれば、将来的に莫大な富と名声が手に入ると確信して。
ある者は、そのあまりにも神々しい美貌に一目で魅了され、完全なる下心でこの高嶺の花を自分の所有物にしたいと願って。
しかし――そんな強欲な大人たちの濁った声など、アサマの耳にはただの一片も届いていなかった。
周囲から見れば、非の打ち所がない完璧な気品を纏った「どこぞの超名門の令嬢」にしか見えないアサマは、群がるトレーナーたちの勧誘を冷徹に、かつ一言で一刀両断して全て撥ね退けた。そして、自分の荷物を置いておいたベンチへと優雅に移動すると、荷物を綺麗にまとめ、その場に静かに腰を下ろした。
アサマは、待っていた。
必ずここへ自分を迎えに来てくれる、世界にただ一人の「自分のトレーナー」がやってくるのを、ただ静かに、凛として待ち続けていた。
しかし、彼女の頑なな心の内など知る由もない一部の諦めの悪いトレーナーたちが、未だに彼女を自陣営に引き込もうと、しつこく必死の説得を続けてくる。
あくまでも一切の聞く耳を持たない態度を崩さないアサマに対し、ついに一人の男が痺れを切らした。その身勝手で強欲な指先が、あろうことかアサマの華奢な肩へと伸びる。
ピキッ、とアサマのウマ耳が不快そうに逆立った、その時。
「――アサマ!」
遠くから、聞き馴染んだ、誰よりも大好きな彼の声が響いた。
その瞬間、アサマは弾かれたようにベンチから立ち上がると、荷物を抱え、言い寄る男たちに見向きもせず、声の主の元へと小走りで駆け寄っていった。
一瞬前までの、氷山のように冷たかった態度からのあまりの急変ぶりに、取り残されたスカウトたちは呆然と立ち尽くす。彼らが視線の先を追いかけると、そこには、アサマにとっての唯一無二の存在である、あの地味なスーツ姿の青年が息を切らせて立っていた。
アサマが嬉しそうに駆け寄ると、青島はひどく申し訳なさそうな顔で口を開いた。
「すまん、アサマ……! ちょっと、洒落にならないトラブルに巻き込まれて遅くなった」
必死に頭を下げる青島に対し、アサマはこれ以上ないほどの満面のひまわりのような笑顔で答える。
「いいえ、全然問題ありませんわ! あなたに怪我がないのであれば、いくらでも待ちます。……それにしても、その『トラブル』というのは大丈夫なのですか?」
「……いや。正直、あんまり大丈夫じゃないかもしれない」
青島の、いつになく暗く、深刻な言い回しに、アサマの胸の奥に冷たい不安が過った。
「一体……何があったのですか?」
その問いかけに、青島は少しの間きつく目を閉じ、頭の中で彼女に伝えるべき最も残酷な事実を整理した。そして、周囲に聞こえないよう、声のトーンを極限まで落として告げた。
「……もしかすると、俺は……お前の『担当トレーナー』になることが、規約上、できないかもしれないんだ」
「――え?」
契約を交わすはずだった彼の口から飛び出した、最悪の拒絶。
それを鼓膜に捉えた瞬間、アサマの思考は完全に停止し、彼女の世界の時間が一瞬にして凍りついた。
そして――次の瞬間。
全身を激しい戦慄が駆け抜け、抑えきれない感情の濁流が、彼女の喉を突き破って爆発した。
「ぜんっっっぜん、大丈夫じゃありませんわーーーーーーーーーーーッッッ!?!?!?」
その地鳴りのような悲鳴は、広大な中央トレセン学園の敷地中、すべての校舎にまでビリビリと響き渡るほどの凄まじい音量だったという。
◇
「いったい、何がどうなったらそんな事態になるのですか!? 私を騙したのですか!? はぐらかさずに、一字一句、正確に説明してくださいましーーーーっ!!」
「わ、分かった! 分かったからアサマ! 首、首元から手を離してくれ……っ! 喉が、喉が締まって話せな……っ!」
「っ!? し、失礼いたしましたわ……っ! 私としたことが、あまりにも冷静さを欠いておりました。……す、すみません」
「ゲホッ、ゴホッ! ……まあ、家で話してた計画とこれじゃ、パニックになるのも無理はない。それよりもだな……」
青島の必死の懇願で我に返ったアサマは、大慌てで両手を離すと、自分のせいで無惨にクシャクシャに乱れてしまった彼のシャツの襟元やネクタイを、顔を真っ赤にしながら不器用な手つきで整え、サッと一歩後ろへ下がった。
何はともあれ、まずは彼がそんな絶望的な表情を浮かべている「理由」を聞くことが最優先。アサマはゴクリと息を呑み、再び彼に尋ねようとした。
「ええ。分かっていますわ。では、早速その理由とやらを伺ってもよろし――」
「おい! そこの君ぃ!!」
だが、アサマが核心に触れようとしたまさにその瞬間、真横から極めて不躾で不快な横槍が突っ込んできた。
声の主は、先ほどまでベンチ前でアサマを熱心に口説き落とそうとし、拒絶されていた、身なりの良い小太りの男性トレーナーだった。
「急に横から入ってきて、人の獲物をかっ攫うような真似をしないでいただきたいね、全く! そこにいる彼女は今、この私と将来についての有意義な話をしていたんだ。部外者の妨害行為は、速やかにやめてくれないかね?」
男は、アサマが自分に見せた氷のような態度と、この地味な新人(青島)に見せたあまりにも激しい感情のギャップに猛烈に腹を立てていたのだろう。今、胸の内に渦巻く苛立ちをぶつけるように、両手を大げさに広げて自身の正当性を周囲にアピールし始めた。
そんな男の醜い主張を聞きながら、青島は(……この人、アサマの知り合いか?)と怪訝な目線を送るが、アサマはこれ以上ないほど冷ややかな目で首を左右に激しく振った。
「……であるからして、私には彼女と対話する絶対の権利があるのだよ。新人くん、ちゃんと順番というルールを守りたまえ。全く、最近の若い奴は礼儀がなっていないな」
「……は?」
男の戯言など完全に聞き流していたアサマだったが、最後の、愛する彼(青島)への明確な侮辱を孕んだ発言を耳にした瞬間――彼女の胸の奥で、恐ろしい何かがブツリと音を立てて切れた。
「さあ、アサマちゃん、といったかね? こんな無礼な男は放っておいて、これから学園のカフェテリアで、美味しいお紅茶でも飲みながらゆっくりと我がチームの待遇についてお話ししようじゃないか――」
「あ、いや。彼女は――」
男の誘いに対し、青島が危険を察して割って入ろうとしたが、アサマはすかさず彼の手を優しく制した。
これ以上、こんな浅ましい人間の相手など1秒たりともしたくはなかったが――ここでこの不届き者を言葉の刃で叩き切らなければ、メジロアサマの気が、どうしても収まらなかったのだ。
アサマはゆっくりと男の方を振り返ると、完璧に形の整った、しかし極限まで冷え切った『営業用の笑顔』を浮かべて言い放った。
「先ほど、そちらからいただいた勧誘の件は、すべて一言残らずお断りしたはずです。耳に障害でもおありですか? 私は、あなたのような方の下品なお誘いなど、天地がひっくり返っても受けるつもりはありませんわ。――それと」
言葉を重ねるごとに、彼女の仮面の笑顔は完全に消失していった。
代わりに、その双眸からは、かつて昭和の時代に数々のライバルを恐怖に陥れた、あの『怪物の鋭利な眼光』がギロリと男へと向けられる。周囲の空気が、一瞬でピキピキと凍りついていく。
「彼の何一つを知りもしない底浅いあなたが、私の、私のかけがえのないトレーナーを侮辱するような発言を……二度としないでいただけますかしら? 万死に値しますわよ。……それから、これは極めて個人的な嫌悪ですが。気安く私の名を呼ばないでいただけます? 正直に申し上げて、虫唾が走るほど不快ですので。――では、私たちはこれで失礼いたしますわ」
冷たく、しかし一切の反論を許さない絶対的な威厳とともに言い捨てると、アサマは青島の手を力強く、しかし愛おしそうに握りしめ、驚く彼を引いてその場から堂々と歩き去っていった。
「あ、あ、……え……?」
初対面の女子生徒から放たれた、国家元首並みの圧倒的な覇気と罵倒を喰らった小太りの男は、完全に腰を抜かしたように口をポカンと開けて硬直するしかなかった。そして、その一部始終を目撃していた周囲のトレーナーたちもまた、あまりのメジロアサマの苛烈な美しさと強さに、ただただ唖然と息を呑むばかりであった。
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