メジロマックイーンだと思ってスカウトしたら、おばアサマの方でした。 作:風神・雷神
【場所・トレセン学園内 中庭】
青島トレーナーが突如として拉致されてから、数分が経過した。
「……随分と遅いですわね、あの人」
アサマは手元に抱えていたスクールバッグから最新のスマートフォンを取り出し、画面に表示された時刻を確認する。
同時に、彼から何かメッセージが入っていないかも確認してみるが、ホーム画面の通知欄は静まり返ったままだ。
ザワリ、とアサマの心の奥底で、冷たい不穏な感覚が鎌首をもたげた。
(……おかしいですわ。あの人が飲み物を買うだけで、ここまで時間をかけるはずがありません)
元来、連絡はできる限り最速で返すと生真面目に宣言していた彼だ。こちらから送ったメッセージに既読すらつかない現状は、あまりにも不自然極まりない。
この中庭のベンチから、彼が向かった自動販売機までの距離を考えれば、往復しても5分とかからないはずだ。明らかに時間がかかりすぎている現状に、アサマの胸中の不安は、みるみるうちに巨大な疑念へと膨れ上がっていく。
そして、過去に一度理不尽な事態(神によるタイムスリップ)を経験しているアサマは、極端な一つの結論へと瞬時にたどり着いてしまった。
「――まさか、誘拐(拉致)……!!?? い、いいえ、ですが……いくらなんでも、これほど白昼堂々と、国家最高峰のセキュリティを誇るこのトレセン学園の敷地内で、そんな暴挙が許されるはずが……っ」
アサマは一人、静まり返った中庭で立ち尽くし、必死に思考を巡らせる。
(とにかく、今は圧倒的に情報が少なすぎますわ。何か……何か手がかりになるようなものは……っ!!)
焦燥に駆られながら周囲を見回したその時、彼女はふと、ある異変に気がついた。
ここから少し離れた場所、中庭の木陰にある古びた切り株の上に、一人のウマ娘がポツンと腰掛けている姿を。
学園の制服を着たその少女は、アサマが更衣室に入っていた間も、ずっとあの場所にいたはずだ。
(もしかしたら……私が席を外していた短い時間に、何が起きたのかを目撃しているかもしれませんわね)
アサマは一縷の望みをかけ、その俯いたウマ娘の元へと、静かに、しかし確かな足取りで向かうのだった。
◇
ライスシャワーは、切り株の上で小さく身体を丸め、ただじっと俯いていた。
「はぁ……っ」
前を向く気力すら湧かず、自慢のウマ耳はペタンと元気なく左右に垂れ下がり、涙線が緩み続ける足元へと視線を落とす。
「やっぱり、ライスは……もう、レースなんて走らない方が、いいのかな……」
ライスの大きな瞳から、彼女の意志とは無関係に、大粒の涙がボロボロと溢れ出して止まらない。
必死に奥歯を噛み締めて堪えようとしても、悲しい感情の濁流は思ったように制御できず、今の自分にできることは、その涙が頬を伝って地面に落ちるのを隠すために、ただひたすらに下を向き続けることだけだった。
レースで勝つたびに、周囲に巻き起こる冷ややかな空気。
自分が1着のゴール板を駆け抜けた瞬間に聞こえてくるのは、祝福の歓声などではなく、地を這うような罵声と、笑顔とはかけ離れた妬ましさと憎悪に満ちた観客たちの視線。
本当は、走る自分の姿を通じて、誰かに希望や元気を分け与えられるような、そんなウマ娘になりたかったのに。現実は、勝てば勝つほど周囲を失望させ、不幸にしてしまう『邪魔者』でしかなかった。
そんな自分に対する烈しい嫌気と絶望。ライスは、今の自分自身のことが、世界で一番大嫌いだった。
「みんなを不幸にするくらいなら……ライスは……ライスはもう……っ」
「――あの。少々、よろしいかしら?」
「わあぁぁぁぁーーーーっっっ!?」
突如として頭上から降ってきた凛とした美しい声に、ライスシャワーは心臓が止まるかと思うほど驚き、短い悲鳴を上げて飛び上がった。
そして、極度の対人恐怖と自己嫌悪から、自分がまた何か他人に迷惑をかけてしまったのではないかと無意識に思い込み、相手の顔を確認するよりも先に、謝罪の言葉が口から飛び出していた。
「ご、ごめんなさい……っ! ら、ライス、何か悪いことしちゃったなら、すぐに謝るから……っ! だから、叩かないで……っ!」
「……落ち着きなさい。別に私は、貴女に謝罪を求めて声をかけたわけではありませんわ。ただ、少々お尋ねしたいことがあるだけです。ですから――まずはその顔を上げてくださいな」
今まで一度も聞いたことのない、しかし、ガラス細工のように張り詰めた気品を孕んだ声音。
言われた通りにライスが恐る恐るゆっくりと顔を上げると、そこには、見たこともないほど美しい、見慣れないウマ娘が佇んでいた。
名前も知らない、正真正銘の初対面の相手。それなのに、ライスは彼女の姿を見た瞬間、なぜだか胸の奥の血が微かに震えるような、初めて会った気がしない不思議な感覚を覚えた。
そして、その圧倒的な風格に気圧されたライスの口からは、本音がそのまま言葉となって漏れ出していた。
「……綺麗」
「……はい?」
予想だにしていなかったストレートな言葉に、アサマは聞き間違いかと思い、名門の令嬢らしからぬ様子でわずかに戸惑いの表情を浮かべた。
その反応を見て、ライスは自分がとんでもなく不躾な口を利いてしまったのだと自覚し、一瞬で顔を真っ赤に染めて頭を下げた。
「きゅ、急にヘンなこと言ってごめんなさい……っ! その、すごく綺麗な人だったから、つい……っ。ライスなんかがそんなこと言ったら、失礼だよね……っ」
シュンと激しくウマ耳を伏せて俯いてしまったライスを見つめ、アサマの表情がふわりと和らいだ。彼女は慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべ、穏やかに応じる。
「いいえ。そんなことはありませんわ。淑女からの純粋なお褒めの言葉、謹んで感謝いたします。……それと、これを」
そう言うと、アサマは自身のスクールバッグから、アイロンがピシッと当てられた上質なハンカチを取り出し、ライスへと優しく手渡した。
「あ、あの……っ」
動揺しながらもそれを受け取ったライスだったが、ふと我に返り、こんな綺麗なハンカチで自分の汚い涙や鼻水を拭ってしまえば、彼女の持ち物を台無しにしてしまうという強い忌避感から、その場で固まってしまう。
そんなライスの内面を見抜いたように、アサマは静かに言葉を重ねた。
「乙女たるもの、そう簡単に人前で涙を流して弱みを見せてはいけませんわ。それは、もっと然るべき時――本当に大切な相手の前だけで見せるものです。ですから、遠慮せずに使いなさいな」
「は、はい……っ! あ、あ、ありがとう……ございます……っ」
ライスは胸を打たれながら、渡されたハンカチで、濡れた目元を丁寧に、そっと拭った。
「では……。いいえ、まずは礼儀として自己紹介から始めましょう。私はアサマと申します。貴女のお名前を伺ってもよろしいかしら?」
「わ、わたしは、ライスシャワー……です」
「ええ、ライスさん。では、こちらが本来の用件を切り出す前に……一つ、どうして貴女がそんな場所で一人、泣いていらっしゃったのか、理由を伺っても?」
アサマの真っ直ぐな問いかけに、ライスはすぐには言葉を返せず、気まずそうに黙り込んでしまった。
「もしや、学園の不届き者に、悪質な嫌がらせでも受けたのですか?」
「ち、違うの……っ! 誰も悪くないの。ラ、ライスはただ……っ」
ぽつり、ぽつりと、ライスシャワーは自身の胸の内にある「呪い」を吐き出した。
自分が全力で走ってレースに勝っても、誰も笑顔になってくれないこと。自分が1着を獲った瞬間に響き渡るのが歓声ではなく、憎悪の罵声ばかりであること。走る姿で誰かに希望を与えたいのに、走れば走るほど周囲を不幸にしてしまう自分への、底知れない恐怖と嫌悪。
ライスは、今まで誰にも言えずに溜め込んでいた致命的な悩みを、出会ったばかりのアサマに向けて、堰を切ったように打ち明けた。
「ラ、ライス……ライスが走ると、周りのみんなを不幸にしちゃうから。だから、もうライスは……これ以上レースを走らない方がいいのかなって……っ」
「……なるほど。事情は、大体把握いたしましたわ」
ライスの悲痛な告白を静かに聞き届けたアサマは、ふぅ、と小さく息を吐くと、一転して、その双眸に名門メジロの始祖としての峻烈な光を宿した。
「では――一つだけ、厳しく言わせていただきますわ」
「え?」
「いい加減にしなさい、この大馬鹿者が!!」
「は、はひぃぃぃっ!?」
中庭に響き渡ったアサマの容赦のない一喝に、ライスの背筋は文字通り戦慄でピンと直立し、喉からは情けない変な悲鳴が飛び出した。
しかしアサマは、怯えるライスにお構いなしに、畳み掛けるように言葉の刃を突き動かす。
「さっきから黙って聞いていれば、勝たなければ良かった、ですって!? いいですか、ライスさん。貴女が今口にしたその甘えは、貴女に負けて泥をすすり、涙を飲んだすべての敗者たちへの、最大級の侮辱とも言える暴論ですわよ!」
「べ、別にライスは、そんな、そんなつもりじゃ……っ」
「レースとは、互いの人生と魂を賭けてぶつかり合う、神聖にして真剣勝負の舞台! 勝者がいれば、当然その裏には無数の敗者が生まれます。勝つか負けるか、それだけの極めてシンプルで、残酷な世界ですわ。……それが、血の滲むような努力の末に勝利を掴み取った『勝者』の取るべき態度ですか!? 勝者であるならば、敗者の悔しさと涙をその背にすべて背負い、もっと堂々と、ドンと胸を張るのが最低限の礼儀というものです!」
「じゃあ……じゃあ、どうすればいいの……っ? どうすれば、ライスは……皆に認めてもらえるの……っ?」
涙目で縋るように問いかけるライスに、アサマは至極当然のように、凛とした声で言い放った。
「そんなもの、簡単ですわ。――貴女に敗れていったウマ娘たちが、心の底から『誇りに思えるほどの怪物』に、貴女がなればいいだけのことです」
「誇れる、怪物……?」
「そうです。周囲の観客や敗者たちに、不満を言う隙すら与えないほどの圧倒的な走りで、勝利を重ねるのです。『私は、あの絶対王者のライスシャワーに負けたのだ』と、周囲に自慢させてしまうくらいにね。そうすれば、貴女を取り巻く世界の反応など、一瞬で手のひらを返したように変わるはずですわ」
そんな大それた存在に、自分のような弱虫が本当になれるのだろうかと不安になり、ライスはまた弱気に見つめ直した。
「ラ、ライス……なれるかな。そんな、みんなが納得しちゃうような、凄いウマ娘に……」
「なれるかなれないか、などという腑抜けた話をしているのではありません。――なるのです! 貴女だけの、気高く誇り高い走りで、世界のすべてをねじ伏せるのですわ! それが、貴女に打倒されていったライバルたちへの、唯一の誠意ですもの」
正直、ライスは今までの人生で、そんな考え方を一度もしたことがなかった。
自分が悪者として退くのではなく、誰もがひれ伏す圧倒的な存在になって、敗者を祝福へと変えるという逆転の発想。
ライスの目の前を覆っていた深い闇の中に、いま、一筋の強烈で目も眩むような希望の光が差し込み、彼女の心を暖かく照らし出した。
「ラ、ライス……頑張ってみる。死ぬ気で、もっと走ってみるね! あ、ありがとう……本当にありがとう、アサマさん!」
「いいえ。私の方こそ、少々熱くなってしまい申し訳ありませんわ。私とて、偉そうなことを言えた身ではないのですが……貴女の心の霧を晴らす一助になれたのなら、幸いです」
アサマはお淑やかに微笑むと、ハッと本来の目的を思い出し、ライスに向けて尋ねた。
「おっと、本題を忘れるところでしたわ。ライスさん、少し前、あそこのベンチに座っていた地味なスーツ姿の男性を見かけませんでしたかしら? 私の……その、大切な担当トレーナーなのですが、飲み物を買いに行ったきり、一向に戻ってこられないのです」
ライスは記憶を遡らせると、数分前に目撃した、あまりにも衝撃的で常軌を逸した「事件」の光景が、即座に脳裏にフラッシュバックした。
「あ! それなら、ライス、ハッキリと見たよ! さっき、ゴールドシップさんとか、チームスピカの覆面を被った人たちが、大人の男の人を麻袋に詰めて担いで走っていってたの! 多分だけど、その人がアサマさんの探してるトレーナーさんだと思う……! スピカの部室がある、あっちの古い特設小屋の方へ向かって行ったよ!」
ライスは小さな人差し指で、中庭のさらに奥、スピカの部室がある方向をまっすぐに指し示した。
ライスの口から飛び出した「ゴールドシップ」というそのウマ娘の名、そして「麻袋で拉致された」という最悪の事実を聞いた瞬間。
ピキッ、とアサマのウマ耳が、今度は不快感と怒りで激しく跳ね上がった。
「ゴールドシップ……。そして、チームスピカ。……そう、あの方々の仕業、ですか……」
その瞬間、アサマの美しい表情から、一切の光が静かに消失していった。
◇
【ライスシャワー視点】
誇り高い、ウマ娘。
まだ、具体的に何をすればいいのかは分からないけれど。
勝者としての心構えからなら、ライス、今すぐここで変われるよね。
いつか、ライスを呪うすべての人々に、本物の希望を与えられるような、そんな凄いウマ娘に――。
それにしても、アサマさんって本当に不思議な人。
お初にお目にかかったはずなのに、なぜだか初めて会った気が全くしなくて……それどころか、不思議と、学園の先輩であるメジロマックイーンさんの気配を思い出してしまった。
佇まいや、名門としての重厚な雰囲気がどこか似ているのかな……。
でも、アサマさんの名前に『メジロ』とは付いていなかったから、きっと私の勘違い、偶然だよね。
……よし! ライス、決めた!
この感謝を、もう一度アサマさんにちゃんと伝えて――。
「アサマさん。ライス、もう絶対に泣かな……ひ、ひぃぃぃぃっっっ!?!?!?」
驚きのあまり、ライスの喉から今日一番の情けない悲鳴が飛び出した。
何故なら、つい一瞬前まで聖母のように優しく自分を包み込んでくれていたはずのアサマさんから、ぬくもりというぬくもりが完全に消失し――ただそこにいるだけで、周囲の大気がパキパキと凍りついていくような、凄まじい極低温の精神圧(オーラ)が立ち上っていたからだ。
「……フフッ。なるほど、よく分かりましたわ。まさか学園にやってきて早々、ここまで真っ正面から、私の地雷を踏み抜いてケンカを売ってくる不届き者がいようとは……。いいでしょう、その売られた喧嘩、私自らの手で正面から叩き潰して差し上げますわ」
アサマの唇は、完璧に美しく弧を描いて笑っていた。
だが――その双眸の奥だけは、完全に地獄の底のように冷え切っており、これっぽっちも、本当に1ミリも笑っていなかった。
その言葉が自分に向けられたものではないと分かっていても、もし万が一にでも自分に放たれていたら、恐怖でその場で心臓が止まっていたのではないかと、ライスの細い足はガタガタと激しく竦み上がる。
昨日、カフェで一緒の席に座った私の、可愛い可愛い孫のマックイーンが、所属するチームが、今度は私のトレーナーさんを白昼堂々、麻袋に詰めて誘拐した。――アサマの脳内では、最悪の精度で「スピカによるトレーナー略奪戦争」のゴングが鳴り響いていたのだ。
「ライスさん、有益な情報を教えてくださって感謝いたします。……では、私はこれにて失礼いたしますわね?」
引き止める隙すら与えず、背後からドス黒い炎のような圧倒的な覇気を文字通り「身に纏い」ながら、アサマは静かに、しかし地響きが聞こえそうなほどのプレッシャーとともに、スピカの部室へと歩を進めていく。
切り株に取り残されたライスシャワーは、もう泣かないと誓ったが、さっきまでとは明らかに違ったどす黒いオーラを纏い静かに怒っているアサマの姿を見て、その誓いも虚しく目から涙が溢れていた。
「助けて、お姉さま……。」
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