メジロマックイーンだと思ってスカウトしたら、おばアサマの方でした。 作:風神・雷神
私のトレーナーは、とても明るい人。
私がまだあの人と契約したばかりで、素直になれずにいた頃。どれだけきつい言葉をぶつけてしまっても彼は決して嫌な顔をせず、いつも献身的に私をサポートしてくれていた。
私がレースを1着でゴールすると、まるで自分が勝ったかのように、誰よりも大はしゃぎして喜んでくれた。
その姿があまりにも可笑しくて、不思議とこちらまで、つられて笑ってしまったものだ。
いつからだろう。私が「勝ちたいから勝つ」のではない。メジロ家の栄光のためでもない。ただ、彼が心の底から笑って、喜んでくれる姿が見たくて、私は走るようになっていた。
いつしかそんな日々に、私は心からの充足を感じていた。
ただ、一つだけ、ずっと胸の奥に小さな不安があった。
それは、彼が怒ったり、悲しんで涙を流したりといった「人としての弱さ」を表立って見せるのを、私は一度だって見たことがなかったことだ。
それでも、レースの後に彼が満面の笑顔で出迎えてくれると、そんな不安はいつも、どこかへ消え去ってしまうのであった。
◇
いつも頼りにしていたトレーナーの、あまりの急変ぶりに、アサマはただ困惑していた。
いつもうるさいほど明るく笑顔が絶えない彼だが、人並みに傷つき、悩む人間であるはずだった。
それなのに、今目の前にいる彼は床にしゃがみ込み、体全体をガタガタと激しく震わせている。その背中はあまりにも小さく、弱々しかった。
(もし……もし今回の選択を間違えてしまえば、この人の心の一番大切な何かが、完全に壊れてしまうのではないかしら……)
アサマは、今自分に何が出来るかを必死に考えていた。
テストでいい点が取れなかったり、レースの結果が散々で落ち込んでいる学友を励ますのとは、わけが違う。どれだけ焦っても、いい案が思い浮かばない。
言葉だけで安易に励ます。今の過酷な現状に同情してみせる。
そんな上っ面だけの薄っぺらいものでは、今の彼の心には1ミリも届かず、何の意味も成さないだろう。
アサマが葛藤している間も、時間は残酷に、刻一刻と過ぎていく。
あまり時間をかけてしまえば、彼の精神が持たないことは分かっているのに、どうしても正解にたどり着けない。
(……どうしましょう。どうしましょう! あの人の一番近くにいたはずの私は、何もできないまま、ただ見ていることしか出来ないのですか……!?)
何か、彼を救う方法はないのか。必死に思考を巡らせるあまり、強く瞑った両目には自然と力がこもる。
(何でもいい……! 何か、私にできることは……っ!!)
その時、トレーナーの手を握りしめている、自分の掌に視線が落ちた。
ビシビシと伝わってくる、彼の絶望の震え。
――瞬間。アサマの脳内に、まるで雷に打たれたかのような衝撃が走った。
確証なんてなかった。もしこれで失敗すれば、本当にすべてが終わってしまうかもしれない。
けれどアサマは、迷うことなくその「唯一の方法」へ向かって行動を起こした。
◇
もう、限界だった。
やっと、あの地獄のような死の呪いから解放されるんだと思っていた矢先に、こんなことになってしまった。
すっかり浮かれていた自分自身に猛烈に腹が立つ。
けれど、それほどまでに俺の精神は、とっくに限界を迎えていたのだ。
「失敗すれば、自分が死ぬかもしれない」という恐怖と、孤独に戦い続ける日々。
もう、2周目を生き抜く気力なんて、これっぽっちも残っちゃいない。
これまで俺の心を辛うじて支えていた何かが、始まりの合図であるあの胸の苦しみと一緒に、音を立てて崩れ落ちてしまった。
このまま、いっそのこと死んでしまった方が、どれだけ楽か。
もう、すべてをここで終わらせてしまえば――。
「……あなた。顔を上げて下さい」
すべてを投げ出してしまおうと思いつめていた俺の頭上から、静かな声が降ってきた。
声の主は、アサマだ。
……そういえば、俺は今、アサマの前で泣いているのか。
顔を上げろと言われても、今の自分が情けなくて、どうしても動けない。
担当していたウマ娘の前で、大の大人が、体中を震わせてボロボロと涙を流している。
こんな無様な姿を晒したら、普通なら見捨てられても文句は言えない。
彼女だって、突然こんな未来に巻き込まれて混乱し、自分のことで精一杯なはずなのに。それなのにアサマは、俺を気遣って声をかけてくれている。
そう気付いた瞬間、いよいよ自分自身が惨めに思えてならなかった。
もしかするとアサマは、俺に失望したのではないか。そんな疑念が脳裏をよぎる。
アサマは、俺に何と言うのだろう。
『情けない人』と呆れ果てて見限るか、それともみっともない姿に腹を立てて激昂するのだろうか。
……もう、どうだっていい。すべてをアサマに委ねてしまおう。
「……失望、したよな。俺のことは、もう構わなくていい。……お前は失敗しても死なずに、期限が来れば元の世界へ戻れるはずなんだ。だったら、この理不尽なミッションに付き合う意味なんてない。だから、俺のことは捨ててくれ。……たかが、ウマ娘とトレーナーの関係なんだから、手伝うメリットなんてないだろ。……安心しろ、すぐにお前の前から消えるから。それから……」
惨めさを紛らわすためだけに、心にもない最低な言葉が、次から次へと口から飛び出していく。
「……顔を上げなさい、と言っているのです」
遮るように響いた声は、さっきよりも一段とトーンが下がり、低く冷たい響きを帯びていた。
これは、彼女が少なからず不満や苛立ちを抱えている時の兆候だ。
一体何に対して怒っているのか分からないまま、俺は圧に押されるようにして、ゆっくりと顔を上げた。
旅館から貸し出された浴衣を着たアサマの姿が、視界に映る。
激しく動いたせいだろう、腰回りに巻かれた細い帯はすっかり緩みきっていた。薄手の生地が大きく左右にはだけ、胸元からへその辺りまで浴衣が着崩れ、彼女の眩いほどに白い素肌が露わになっている。
けれど彼女は、そんな破廉恥な状態を全く気にする素振りも見せず、床に這いつくばる俺へと、静かに、ゆっくりと両腕を伸ばした。
頭の後ろに、しなやかな手が回る。
次の瞬間、俺の身体は、彼女の細い体躯へとギュッと力強く抱き寄せられた。
予想だにしていなかった事態に、俺の思考が完全にフリーズする。
その限界寸前の脳の隙間に、耳元から、驚くほど優しく温かい声が滑り込んできた。
「……よく、一人でがんばりましたわね。トレーナーさん」
罵声でもなく、失望の言葉でもなかった。
そんなくだらない心配など、最初からする必要なんてなかったのだと教え込むような、圧倒的な慈愛に満ちた言葉。
張り詰めていた感情が、熱い涙と一緒に一気にあふれ出しそうになるのを、俺は必死に堪える。
「な、何をしてるんだ……やめてくれ。一体、なんだって……っ」
背中に回されたアサマの手が、俺の頭を優しく、ゆっくりと撫でる。
それはまるで、激しい雷に怯えて泣きじゃくる我が子をあやす、母親のような無条件の愛だった。人間のそれよりも少し高いウマ娘の体温が、凍りついていた俺の芯までじんわりと溶かしていく。
「誰にも相談できず、たった一人でここまで耐え抜いてきたのですもの。さぞ、お辛かったでしょう。……でも、もういいのです。もう一人で、抱え込まなくてもよろしいのですよ」
……彼女の言葉を聞きながら、歯を食いしばって必死に涙を堪える。
アサマは愛おしそうに一呼吸置くと、さらに言葉を重ねた。
「そんなにも苦しい状況に置かれていたにも関わらず、今日まで私を支え、導いてくださって……本当に、ありがとうございます」
……必死に、必死に我慢する。
「私の知る限り、あなたはほぼ休みもなく、いつだって私のために全力で働きに来てくださいました。……とっても、えらいですわ」
その言葉に、これまでの数年間の記憶が走馬灯のように駆け巡る。そういえば、俺は彼女の前で、一度だって休もうとしなかった。
……それでも、まだ我慢しようとする俺に、アサマは優しく諭すように言葉を紡ぎ続ける。
「私、あなたの弱音を、今回初めて聞きました。置かれた状況の特殊さは理解していますし、それを表に出さなかったあなたの誇りも、とても立派だと思います。……けれど、溜め込んだままにするのは、心にも体にも良くありませんわ。ですから――これからは気軽に、私に相談してくださいませ。……約束、ですよ?」
「っ……あ、あ、……っ」
失敗した我が子を優しく全肯定し、抱きしめてくれるような、絶対的な安心感。
それに当てられた瞬間、俺の決壊は、あっけなく訪れた。
もう、我慢なんてできなかった。心の底から、言葉ではとても言い表せないほどのドス黒い絶望と、それを溶かす圧倒的な安堵感がこみ上げてくる。
今まで散々、心の一番深い場所に押し込んできたすべての感情が、アサマの温かな言葉に耐えかねて一溢れ出る。
それは、視界のすべてを容赦なく塗り潰してしまうほどの、激しい慟哭となって俺の目から溢れ出していった。
見てくれた兄貴、姉貴、お嬢様方感謝します。