大空の影になりたい夜の子の話   作:雪の細道

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13:襲い来る地獄

「もうすぐ1ヶ月か……」

 

桜が攫われて最初の1週間ほどは、いくらか多少の波はあったものの毎日のように次々と実験に連れ出され、20人以上いた子供は4人まで減ってしまっていた。

 

しかしその後しばらくすると計画に何かあったのか、連れ出される頻度はパッタリと途絶えた。

 

ドアの向こう側からわずかに聞こえる話し声から骸の下克上はまだなのだろうと想像はつくものの、依然としていつ来るか分からない恐怖は薄れることを知らない。

 

「(というか、おそらくエストラーネオファミリーの施設だろうなって思っただけで、もしかすると他にも似たような実験施設があってエストラーネオファミリーじゃない可能性もあるのかな?)」

 

自分の見立てた予想に食い違いがある可能性に桜は呆れたような表情でため息を零す。

 

「(自分でなるべく関わらないって決めたくせに、都合のいい時だけ助けに来てほしいなんてずいぶん身勝手だね)」

 

自嘲気味にふっと小さく笑い、この現状が予定調和かのように桜は諦めた。

 

どんな運命になろうと受け入れると、ここに来た時覚悟したはずなのに。

 

待ち構える実験に恐怖し震えたことに桜は自分がまだ生きたいのだとそこで気づく。

 

「そうか……そんな簡単に死ぬわけにはいかないよね。沢田桜として育ててくれたママやパパ、妹として大事にしてくれた綱吉のためにも……何があっても生きて、また会って恩返ししなきゃ」

 

うぅん、と唸りながら寝返りを打った隣の少女からリネンがずれ落ちた。

 

ふふ、と笑いリネンをかけ直す桜の横顔に、天井付近の窓から射し込む月の光が淡く照らす。

 

「あのネックレス、捨てられてないといいなぁ……何とか頑張ってネックレスも探し出さないと」

 

来るべきその時に備え、桜は溶けるように眠りに落ちた。

 

 

──……

───………

────…………

 

 

それから3日目の朝。

 

地獄へと通じる自動ドアが開き、1人の男が右手に引きずった少女を放り込んだ。

 

唇は紫色に変色し綺麗だったアンバーの瞳は薄く濁り、顔面は真っ青に変わり果てていたがその姿は紛れもなくあの嗅覚の良かった少女だった。

 

「そんな……この子まで……」

 

3週間以上も耐え続けた果てに儚く散ってしまった少女に、桜はせめてもと抱き寄せようと手を伸ばした。

 

しかし、そんな願いも虚しく突如現れた大きな手に阻まれてしまう。

 

自身の右手首をがっちりと掴んだ男に桜はまるで見知らぬものを見るかのような目で呆然と見つめる。

 

ついに桜の順番が来てしまったようだ。

 

来いと言わんばかりに肩を脱臼しそうな勢いで引っ張られ、虚ろな目でこちらを見つめる少女の手を握ることはついに叶わなくなった。

 

 

いくつもの角を曲がりいくつもの部屋を通りすぎたあと辿り着いたその部屋は、今までいた部屋とは比べ物にならないほどの異臭が充満していた。

 

周辺の部屋から聞こえる悲鳴と雄叫び、隅に捨てられた欠損死体に桜の鼓動はどくどくと徐々にスピードを上げていく。

 

脳内を埋めつくす恐怖の感情と未だに足りない覚悟が相反し、それはまるで衝撃波のように心身を蝕んでいった。

 

「おめでとう、あなたは特別な子よ」

 

唐突に投げられた聞き馴染みのある日本語に桜はやっとの思いでそちらを見上げる。

 

「とく、べつ……?」

 

声のした方には、プラチナブロンドに深みのある赤い縁の眼鏡をかけた女性が佇んでいた。

 

怪しげに歪められた口元に笑みを浮かべ、女性は白衣を揺らしながら桜の背後からぬるりと顔を寄せる。

 

「そう、特別。今までたくさんの実験をして、それらはほとんど実を結ばなかった。でもそれももう今日で終わり。もう少しすれば、私たちエストラーネオは新たな力を手に入れて神になるのよ!あなたはその生け贄、特別な子として選ばれたの」

 

エストラーネオ、と言った単語すら霞むほどにその狂った目的に、桜はふっと笑みを零す。

 

「神になるなんてバカバカしい。どうせなら潔く悪魔になればいいのに」

 

神などと崇高な精神などはなく、ただ己の欲するがままに突き進み、腹心に悪魔と呼ばれながら白い翼で堕ちたあの白蘭のように。

 

挑発されたのが気に食わなかったのか、それとも理解されなかったのが頭に来たのか。

 

ブスリと容赦なく首筋に刺された注射器に桜は苦痛に顔を歪めた。

 

「口は達者みたいだけど立場が分かってないようね。生け贄は黙って身体を差し出しなさい」

 

「う……あ゙っ」

 

痺れ薬でも入れられたのか体を自分で動かすこともできず、意識を保ったまま桜は手術台の上に寝かされる。

 

麻酔もなく次々と大小様々な針と管を刺され苦痛に視界が歪むものの、暴れ回らないようにするためか両手足を頑丈なベルトで拘束されてしまう。

 

「良い顔をしてきたわね。それよ、それ!痛みと憎しみに満ちたその顔!それでこそ生け贄よ!」

 

楽しげにけたけたと笑う女の顔に、かろうじてまだ動く口で桜はペッと唾を吐き捨てた。

 

「悪いけど、私にはまだ大事な用事があるの。こんな下らない茶番はさっさと終わらせて解放してね」

 

虚勢で煽るように笑った桜に、ぎろりと睨みつけた女がダンッと勢いよく打ちつけるように2回目の注射器を二の腕に突き刺す。

 

そんな2人の様子にも動じることなく、周りは淡々と管やメスを手に桜を見下ろした。

 

「舐めた口利きやがって、クソガキが……!ぶっ殺してやる。サンプルは取れたわ、好きにしていいわよ」

 

その科白を皮切りに、その日から壮絶な実験が開始された。

 

 

ろくな麻酔もされず胴体や四肢には管が繋がれ、果ては頭蓋まで生きたまま切り開き怪しげな薬を入れては、逆に何かを吸い出したりと想像を絶するほどのありとあらゆる手が入れられる。

 

その間、桜はひたすら痛みに耐え悲鳴ひとつ上げず拳を握りしめた。

 

何日何ヶ月と分からないほどに続く耐え難いほどの痛みはやがて慣れに変わり、それは握りしめた拳に滲んだ血も乾ききるほどであった。

 

他の子供に見られないその様子に白衣の大人たちは感嘆の声を上げた。

 

「素晴らしいね……さすがカルラの選んだ子だよ。雄叫びひとつ上げずに耐えるとは、私ならとっくにショック死しているところだ」

 

「本当だな。実験をするのは楽しいが、される側ならひとたまりもないだろうに」

 

親切そうな言葉とは裏腹に、男達はまた新たな注射器を手にする。

 

光を失い虚ろな目で虚空を見つめる桜の隣に男がいくつかの小瓶を置いた。

 

「今までの苦痛と恐怖に見事耐えた君へ、ひとつ贈り物をやろう。見えるかい?」

 

遠くにも近くにも聞こえる不快な声に首をわずかに動かすと、置かれた小瓶には何か文字の書かれたラベルが貼ってあるようだ。

 

「これは1度絶滅しかけたバーバリーライオンと、既にこの世にいないケーブライオンの2つを混ぜた遺伝子薬だ」

 

「ケーブライオンの遺伝子抽出には特に苦労したものだよ。博物館にある化石標本からこっそり骨の一部を盗み出した時は人生で最も冷や冷やしたものだ」

 

HAHAHAと部屋に複数の笑い声が反響する。

 

犯罪に犯罪を重ね、醜く歪んだ顔と倫理観に桜は罵ってやりたい気持ちをぐっと堪えた。

 

「さて、2つ目以降を話すか。隣のこっちはヤギ、その隣がアフリカゾウにこれがハーピーイーグルだ」

 

「これらもなかなかの逸材だが、さっきのライオンに匹敵するほど貴重なのが世界一の猛毒を持った毒蛇とされるインランドタイパンと、毒の中和能力を持つラーテルだ」

 

「いやぁ、この2体を調べた時は歓喜で思わず震えたね。最強の毒と逆にそれを中和できる能力、かけ合わせたら一体どんなことになるんだろうか」

 

愉悦の笑みを浮かべ頭上で楽しげに交わされる会話に桜は思わずため息を零しそうになる。

 

実際は未だ強く残る痛みで呼吸が精一杯だが。

 

あっちが強い、いやこっちの方が強い、と白熱気味に加速する議論に桜はもううんざりだった。

 

「(やるなら早くして欲しいなぁ……何回か痛すぎて意識飛んだから何日経ったのかも分からないや)」

 

「おっといかんいかん、うっかり熱が入ってしまったね。まあそういうわけで、私たちはこの複数ある遺伝子薬を投与して人造キメラを作る予定なんだ」

 

カチャカチャと器具同士の触れ合う音を静かに響かせ、男達は着々と最終段階へと準備を進める。

 

「キメラ、知ってるかい?君くらいの子供だと絵本か何かで読んだこともあるだろう」

 

「頭はライオン、体は羊、尾は蛇という怪物でギリシャ神話ではキマイラとも呼ばれるんだ。そして現代の生物学では一個体の中で別々の親に由来する組織が共に存在する定義でキメラとされる」

 

「まあ定義なんかどうでもいいんだがね。手っ取り早く言えば普通の人間を超える運動能力を持つ人間らしきモノを作る、というだけの話さ」

 

順番に代わる代わる丁寧に説明されるが、今の桜にそれを理解できるほどの余裕はない。

 

かろうじて話が頭に入ってくるというだけで、その肝心の頭すら一部が開頭されてしまっている。

 

外気に晒され意図的に改造を施された脳味噌で果たしてどこまで情報として吸収できているのか、手を下した研究者達すら分かっていないだろう。

 

準備が終わったのか、それらの遺伝子薬を混ぜた注射器を男達が高々と掲げる。

 

「我らが神よ、崇高なるこの実験と生け贄に祝福を与えたまえ。そして我らにその地位を…………アーメン」

 

偽善と狂気に固められた偽物の祈りを捧げ、男達は興奮を露わにその凶器を桜に突き刺した。

 

 

──……

───………

────…………

 

 

「さて、理想の結果が出るまでもう少しだな」

 

「どんな風になるか楽しみだねぇ」

 

「私としては耳と尻尾が生えるくらいがちょうど好みだな」

 

「相変わらずお前のロリコンは気持ち悪いな。まあいい、首の裏に入れる焼きごてを準備しなければ。そうだな、検体ナンバーはChimeraの頭文字から取ってCにして……後ろの番号はどうするか。そういえばそこの棚に……」

 

ブツブツと呟きながら傍にあったガラス棚に近寄り、ぶ厚い辞書のような本や何かの薄く古めいた冊子をいくつか取り出した。

 

真剣な表情で何冊も読み漁るその姿に、周りの男達はやれやれと肩をすくめる。

 

「お前はお前で変な凝り性があるな全く。まあいい好きにしろ」

 

呆れたような声も耳に入らないのか、5分か10分ほどページをめくり熟考を重ねたのち、何かを見つけたようにマーカーでサインをすると満足したように冊子を閉じた。

 

「やっと決まったようだな?一体何を参考に読んでいたんだ?」

 

ロリコン呼ばわりされていた男が問いかけると凝り性らしき男は得意げに口角を上げた。

 

「各国の暗号解読書さ。その中にジャッポーネのあるシステムを使った暗号があってね、パターンに応じた数字を組み合わせて単語を作るというのを採用してみることにしたよ」

 

「ほう?で、どんな数字にするんだ」

 

「単純そうに見えてやや複雑でな、22文字とあまりに長すぎるから少々足して3桁まで短くしたよ」

 

よほどこの実験に思い入れでもあるのか、肝心の質問には答えず暗号に関するルーツや説明などに熱を入れた男に周りはため息を零す。

 

「分かった分かった、だから結局どんな数字にするんだ?早く決めてくれ」

 

「まあそう焦るな……数字は398だよ。これを逆に分解して何の単語にしていたかなどまるで予想も「こっち準備始めるぞ」

 

再び白熱しそうになる男の言葉を遮り、他の男達はどうでもいいと言わんばかりに準備を進めた。

 

戸棚から焼きごてやバーナーを出し手術台の付近に置くと、ロリコン性癖を漏らした男にやや神経質そうな男が眼鏡をかけ直し指で指し示す。

 

「しかし……少々散らかりすぎだろうなこれは。メスとかもう使わんだろ、端に寄せて片付けておけ」

 

「そうだな、焼き印入れる時にまた暴れ回りそうだし」

 

ガラガラとカートを壁際に寄せようと押すが、数歩進んだところで何かに引っかかったようだ。

 

急に止まったカートに首をかしげる男。

 

「ん〜??何に引っかかったんだ……?くそッ!」

 

苛立たしげに無理やり押したところ、反動が強かったのかカートはガシャンと派手に音を立て横倒しになってしまう。

 

メスを始めとした鉗子やピンセットなどをそこらじゅうにばら撒き、男はやれやれと頭を振った。

 

「全く何をしてるんだお前は」

 

「幼女にうつつを抜かしてボーッとしてるんじゃないのか?」

 

ドッとその場に笑い声が響き、その不快極まりない不協和音は深く眠っていた桜の目覚めを呼び起こす。

 

まだかなりの痛みが残るものの実験中の耐え難いほどの痛みに比べたら軽い方なのだろう、うっすらと瞼を開け左右に視線を送る桜に男達がようやく気づいた。

 

「おぉ!目覚めたぞ!」

 

「気分はどうだい?何かこう、爪や牙とか角を生やしたりなんてできるかい?いやできないわけがないだろうよ。拒絶反応の数値もないし、実験は成功してるはずなんだから」

 

ペンライトで眼球を覗き込んだり頭や耳のあたりをまさぐるものの、目に見えるような変化は依然として見られない。

 

毛が生えたり鱗が生えたりといった変化も期待していたようだが、その兆候すらない桜に男達はやがて落胆の表情を浮かべた。

 

「なんということだ……ここまで来て失敗のようだ」

 

「我らがこうして話してる間にも30分は経過したぞ。今まで拒絶反応がなかったから今度こそと思ったのに」

 

「残念でなるまいねえ……いやしかし、こうなっては仕方ないだろう、この子供は破棄してまた新たな人間を調達せねば」

 

「地下で研究してるカルラには何と伝える?そうだ、それに成功した時の血液サンプルを毒薬と引き換えに渡す手筈だっただろう。あのヴィペリーノファミリーが納得すると思うか?」

 

新たに聞く見知らぬマフィアの名前に桜はピクリと眉を動かす。

 

まるで草木の中でジリジリと蛇が獲物を求めて彷徨うように、知らないどこかで何かが蠢く気持ち悪さに焦燥感が募り始めた。

 

「(失敗だからここで殺される?頑張って耐えたのに、今ここで?冗談でしょ)」

 

何も知らないまま家族にも再会できず殺されるなど真っ平御免だ。

 

たとえこの男達が崇める神とやらが許したとしても、理不尽に巻き込まれた桜自身には到底許しようもないことだった。

 

歯がゆい思いで右手を握りしめたその時、不意に研究室内にけたたましく警報音が鳴り響く。

 

「なんだ?何が起きてる?」

 

部屋の壁に設置された内線電話が音を鳴らし1人がそれを取ると、忌々しげに舌打ちを零した。

 

「第5研究室で反乱者が1人出たようだ。全員で至急応援に来いだとさ」

 

「全員で?ガキ1人に呼びすぎだろう」

 

「仕方ないだろう。こういう仕事だ、何があるか分からんしここには1人置いて残った我々で向かおう」

 

「では私が残るとしよう。戻る頃には処分も終わってるだろうよ」

 

「あぁ、任せた」

 

ロリ性癖の男を残し他の男達がバタバタと慌ただしく出ていくと、残された男は桜をちらりと見下ろし恍惚の表情を浮かべた。

 

「さて、君には残念だが死んでもらうとするよ。なに、失敗作だからと言って苦しませるつもりはないさ。むしろ我々に協力してくれた礼として、特別な毒薬で眠るように逝かせてやるとしよう」

 

双頭の蛇と散りばめられた百合を模した紋章の、剥がれかけたラベルの小瓶を取り出しそれを注射器の中に吸い込ませた。

 

一見すると毒薬とは思えない透明な液体は、注射器を伝って流し込まれた二の腕から焼けつくような痛みに変わり皮膚の下を通り全身に巡る。

 

じりじりとした鋭い痛みは、やがてあの実験にも匹敵するほどの激痛へと変わり桜の肉体を蝕む。

 

「ゔっ…あ゙ぁ゙っ……」

 

10分、20分、30分と全身を駆け巡ったその痛みはしばらくして徐々に引いていき、1時間近くが経つ頃には刺された部分の痛みを除き我慢できる程度になりを潜めた。

 

「ん……?なんだ?何故死なない?あのヴィペリーノが作った特別製だぞ。そんな、まさか……!」

 

すぐさまデスクのパソコンに飛びつき、男は画面に映し出されるデータを次々と読み取っていく。

 

「は、ははは!!なんだ!実験は成功してるじゃないか!目に見える変化がないだけで!!なんてことだ!……そうだ、カルラに連絡せねば」

 

内線電話の受話器を取りどこかへ電話をかけると、男は嬉々とした様子で自分の見たものや取れたデータの話をまくし立てるように話した。

 

一通り説明を終え受話器を元に戻し、男は興奮醒めやらぬといった顔で桜を見つめる。

 

「成功の焼き印を入れたいところだが……まあこれはあいつらが戻って来てからでも良さそうだな。せっかくだ、見られてないうちにまずは私の趣味を優先としよう」

 

ようやく全身の感覚が戻り、痛みも残るままやっとの思いで起き上がる桜に、男が鼻息荒々しくゆっくりと近づいてくる。

 

白衣の隙間から見え隠れする下腹部の膨らみに桜はうげぇと顔をしかめた。

 

「そんな顔してどうしたんだい?私は幼女が好きというだけだぞ?そもそも、全裸を晒してる時点で今さら嫌がるなんておかしいじゃないか!」

 

先ほどの電話とは別の興奮を露わにしながら徐々に距離を詰める男に、身の危険を感じ桜は思わず手術台から滑り落ちてしまう。

 

感覚の戻りきらない身体を必死に動かし、這いずるように逃げ惑うが大人と子供の差は歴然だったのだろう。

 

あっという間に部屋の隅に追い詰められた桜は、すぐ目の前にまで迫った男から後ずさるように両手で床をまさぐった。

 

「怖くない……怖くないよ~……?くひひ……」

 

「あ……や、やだ……!」

 

涎を垂らし顔を赤く上気させた男に恐れおののくあまり、桜は後ろ手にひたりと触れた冷たい棒状の何かを握りしめた。

 

手にしたものが何かもろくに見ず、男から顔を背け目を固く閉じたまま”それ”を勢いよく振り切った。

 

手を払いのけさえすればそれで良いと思っていた結果は、ピチャリと床に響かせた水音で反転した。

 

「……あ……?」

 

桜が必死で思わず握りしめたのは、ほんの少し前に男がカートを倒してまき散らしたメスの1本だった。

 

切れ味抜群のそれは手を払い退けるよりも向こう側の、男の首を鮮やかに切り裂いていた。

 

軟骨をも超えて真一文字にぱっくりと割れた首からは、始めは数滴程度からやがて洪水のようにボタボタとあふれ出した鮮血で真っ赤に満たしてしまう。

 

ドサリとその場に倒れ伏した男は呼吸もままならずピクピクと痙攣し、恐怖に震える桜の目の前でやがて静かに事切れた。

 

「殺、した……?私が……こいつを……?」

 

真っ赤な血に濡れた右手のメスと動かなくなった男を交互に見つめ、思わずメスを投げ捨てた。

 

カチャンと音を立て滑るように倒れたカートにメスが当たる。

 

不可抗力とはいえ、見ず知らずの人間を殺してしまったことで桜の目からはボロボロと涙が零れ落ちた。

 

罪悪感で押しつぶされそうになりながら、それでも呼吸を整えるように必死に酸素を取り込み濡れた頬をぬぐう。

 

「殺した……けど、今まで殺された子供たちの数を考えれば……」

 

まるで正当防衛だったかのような言い訳を虚ろな目で呟き、壁に手をつきながらもどうにか立ち上がった。

 

震えが止まらないのか、がくがくと膝を震わせやっと出入口の扉に手をかけふと考え込む。

 

他の男達が出て行ってからすでに1時間以上はすぎた。

 

すぐにでも戻ってくるような口振りだったが、未だに戻ってこないところを見るに、もしや反乱者というのは骸のことではなかろうか。

 

いずれにしても、いつまでもここにいるわけにはいかない。

 

開かれた自動ドアを抜け冷たい廊下に立つと、静まり返ったように物音ひとつしない薄暗い闇が広がっていた。

 

「何も聞こえない……?いや、なんか遠くで……」

 

誰かの喋り声が遠くの方で聞こえることに気づく。

 

それがどれほどの距離なのか掴めず、桜は未だ残る痛みに耐えつつそちらへ進んだ。

 

しばらく歩いた廊下の先で窓を見つけ目線よりやや高い窓枠によじ登ると、格子のついたガラスの向こう側で別棟と思われる建物が目に入った。

 

窓越しに見える向こう側の廊下では、見覚えのある3人の少年が話し込んでいる。

 

話の内容までは分からないものの、その存在が分かったところで桜はふと窓枠から手を離した。

 

あの少年はおそらく予想にあった六道骸だと思われる。

 

しかしその場に行ったところで特に何もできるはずがない。

 

何より、自ら不干渉と定めた己のルールに反してしまう。

 

「やめておくか……なにより、ここまで歩いてきただけで疲れた……」

 

壁にもたれかかりずるずるとその場に座り込むと、頭から血が垂れていたようで検査衣に赤く染みを作っていた。

 

閉じきっていない頭の傷に触れ、ほのかな痛みに顔をしかめるがどうすることもできない。

 

「うっ……だめだ……また痛みが……」

 

拒絶反応か副反応か、どちらとも分からない鈍痛が全身をゆるく巡り、倒れるようにその場にうずくまる。

 

浅い呼吸を繰り返し痛みでボーッとする桜の前に、まるで霧が晴れるように1人の女性が立っていた。

 

「……?だれ……?」

 

横半分の視界に映るのは黒いパンプスのみで、眼球を動かすものの下半身から上がどうにも見えにくい。

 

「これ、ここに置いておくわね。ちゃんと大事にしなさいよ」

 

チャリ、と目の前に置かれたそれは、ここに連れてこられた際に奪われたネックレスだった。

 

「な、んで……」

 

「なんで、って。これは貴女の物でしょう。使う時にないと困るじゃない」

 

もう無くしちゃダメよ、と出血で汚くなっている桜の頭を気にもせず優しく撫でると、その女性は再び霧に包まれるように姿を消した。

 

何が何だか分からぬまま、桜は眠気と痛みでそのまま意識を手放すのだった。

 

 

 

 

___to be continued.




*後書き*
久しぶりの更新です。夢創作オンラインイベントのジュゲムジュゲ夢に参加してみたいなーと思って短編をちまちま書いていたらこちらが疎かになっていました。

短編が出来上がって参加が出来れば、そちらで先行公開の後こちらでも専用ページを作って公開できたらと思っています。
内容的には、原作の時間軸で雲雀さんと桜のifストーリーが1つ、とあるボカロ曲をオマージュパロにした雲雀さんと桜の和風ストーリーと考えています。
まだプロット段階で参加期限までに書き上がるかどうかは分かりませんが()

予定通りになったらこちらでも本編更新と一緒に告知したいと思います。
本日更新分についても批評感想お待ちしておりますのでぜひともよろしくどうぞ。

それではまた次回
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