「たいへん遅れましたー……」
おずおずと目的地であった部屋に入ると、何故かそこには無表情で固まる家光と九代目の姿があった。
「えーっと……あの……?」
メドゥーサにでも呪われたのかと思うほど微動だにしない二人に思わず声をかけると、唐突に手を伸ばした家光にびよんと頬を左右につねられる。
「桜……生きてるか?幽霊とかじゃないよな?」
「は?」
何言ってんの、とふがふがと口を動かす桜に、九代目も訝しげな目で見つめる。
「いやね、桜ちゃんがザンザスに連れられて部屋に入るのを見たと家光が言っていてね……それが本当ならまさか殺されてるんじゃないかと二人で話していたんだよ」
「あー、はい……確かに拉致られてましたね。まあ色々ありましたけど、特に問題はありませんでしたよ」
お餅のように頬を伸ばされ掴まれた手から何とか逃げ出し、たるんでやしないかとさすりつつ答えると、またも二人は驚きの表情で顔を見合わせた。
「問題ない!?あのザンザスが?」
「気性が荒くて気に食わない人間はことごとくねじ伏せてきたあの荒くれ者のザンザスを?一体どんな手を使ったんだい……?」
信じられないという様子で詰め寄る家光と九代目に思わず物理的に引いてしまう桜。
そう思うのも無理もないだろう、原作においてもその性格の気難しさは随一を誇る。
真実を知る前と言えども、その荒らさと傲慢さで他人を従わせてきた実績があれば、桜のような幼い子どもがひとたまりもないことは誰しもが分かっている。
その難関を突破し、それどころか五体満足の無傷で戻ってくるなど確かに信じられないのも不思議ではない。
「うーん……たまたま機嫌が良かっただけじゃないかな?」
「あいつに機嫌が良いときなんてあるのか?」
やや失礼とも取れる発言を漏らす家光に苦笑するが、一方で九代目は未だ納得のいかない顔だ。
「まあ実際こうして無傷だったんですし、九代目もあまり心配なさらないでください」
気分を落ち着かせようとハーブティーを入れ、桜はソファーに座って二人を促した。
焼けたばかりのスコーンにブルーベリージャムも添えると部屋には香ばしい香りが漂う。
「すまなかったね。少しばかり心配しすぎたようだ」
「いえいえ。私のせいで時間が押してしまいましたし、問題のある御方だったようなので仕方ありません」
「ん、このスコーン美味いな!桜が早朝に焼いてたやつだろ?」
美味しそうに頬張る父に桜は顔を綻ばせる。
「本当?朝早めに起きたかいがあった~!
厨房も借りたんだけどね、イタリア語も順調に覚えてきたから料理長さんとも話せるようになったんだよ」
前世の知識があったおかげで日本でやるはずの義務教育課程を飛ばし、早々にイタリア語を学んでいた桜はメイドや料理長にも積極的に会っていたのだ。
ささやかな修行の成果を報告する桜に、九代目が話題を切り出すように咳払いを零す。
「そのことなんだけどね。桜ちゃん、今どれくらいイタリア語を理解できてるんだい?」
「そうですね……中学生相当の読み書きはだいたいできるようになりました。聞き取りはちょっと苦手ですが」
ややバツが悪そうにハーブティーを啜る桜だが、そんな様子を気にもせず九代目は進捗をまとめたファイルを出した。
「君についてる家庭教師と修行の進み具合を聞いてまとめてるんだがね。正直、このペースならあと一年以内に英語ドイツ語フランス語も導入していいと考えてる。君が良ければ、の話だが……問題なさそうだね」
キラキラとした瞳で食い入るように見つめる桜の顔で、九代目は”愚問だったようだ”と即座に察した。
「外国語覚えるの楽しいからすっごく嬉しい!こういうの繋がりで裏社会でも馴染めそうな私の名前もあったらいいのにね」
ねぇパパ、と隣に座る家光を見上げると呆気に取られたような顔をしている。
「桜ちゃん……君まさか、読心術まで心得ているとかあるのかい?」
「いやいやさすがにそこまでは……何の話です?」
「九代目とな、桜がいずれ裏社会で任務に出る時の名前を考えていたんだよ。日本人としての名前なんか名乗ったら大問題になるからな」
「こんなタイミングバッチリで明かすことになるとは予想外だったがね。候補もいくつかあるんだが見るかい?」
「……!ぜひ!」
九代目がファイルから取り出した紙を受け取り、桜はこれから裏社会で共に背負う名前を慎重に見つめる。
日本でその辺の一般人であれば名前はただ個体を証明するに過ぎない。
しかし裏社会での名前は、実力と責任が伴う。
ボンゴレと聞けば誰もが震え上がるように、殺し屋の名前もまた畏怖されるものだったり見下されたりするものだ。
「(せっかくなら、名前が目標そのものになるようにすればいいかな)」
綺麗に手書きされた多種多様の単語に小さく胸を踊らせ、桜はそっと笑みを浮かべる。
「決めました。この名前にします」
五歳児の愛くるしいその指先が示したその名前は、やがて裏社会で誰もが納得する存在となるのだった。
───***───
桜が散り、季節は巡り再び夏が訪れた。
イタリアの地で迎える夏はこれで二度目だ。
じりじりと肌を焦がす陽射しに目を細めながら、桜はバルコニーでひと時の休憩を満喫していた。
「季節が過ぎるのって早いなぁ……」
手元のココナッツミルクをごくごくと飲み干し、たまに吹いてくる風に心地良さを感じる。
「日本の夏とあんまり変わらないけど、なんだか少し違うような気もするんだよね。なんだっけ……」
空になったコップを見つめながらしばし考え、思い出したように”あ、”と声をあげた。
「そうだ、蝉の声を聞いてない」
気になったことは調べなければ気が済まない性分であるため、すぐさま部屋の片隅に置いていた図鑑を引っ張り出した。
静かな部屋にパラパラと紙をめくる音が小さく響く。
何回か往復した手がやがてぴたりと止まり、桜の目はその目的のページを捉えた。
一分と経たず読み終えると、残念そうに本を閉じ桜はため息をこぼした。
「そもそもヨーロッパに蝉が少ないなんてね。道理で蝉の声を聞かないわけだよ」
日本では四季折々で虫の声や花の種類を楽しめる。
イタリアにも桜があるため、日本と変わりなく季節の変化を感じられると思っていた桜だったが予想はそこまで当たらなかったようだ。
「無いものを残念がっても仕方ないか。気晴らしにちょっと遊びに行こっと」
早く一人前になればその分早く日本にも帰れることだろう。
”遊び”と名のつく個人的な修行をしに、桜はとある部屋へと向かった。
───…………
──……
扉の前に立つと、集中するように中の様子を静かに伺う。
このところ、桜は前にも増して自身の能力を向上させており、聴力で言えば扉一枚隔てた隣の部屋の気配を探ることもできていた。
「呼吸音、衣擦れ、コップを置く音……一人だけだね」
目当ての人物がいつも通りソファーで足を組みふんぞり返っているところをまぶたの裏で再現しながら、控えめに扉を三回ノックする。
しかし、中の人物は返事を返さない。
その代わりかというように、組んでいた足を入れ替える衣擦れの音がささやかに届いた。
”相変わらずだな”、などと思いながら口角を上げる桜。
ギィィ……と軋む音を響かせ扉を開けると、薄暗い空間で赤い双眸がこちらを見据える。
この部屋に訪れるのは五回目だ。
四ヶ月前、春頃に初めてここへ連れてこられ、その後何度か足しげく通っていた。
二回目で桜が自ら訪れた際は、中から返事が無かったために無人だと思い帰ろうとするが、その気配を察したザンザスが自分から声をかけたのだ。
「おい そのまま帰るつもりか」
…………
……
その時の出来事をふと思い出し、桜は苦笑いを浮かべた。
(「まだ真実を知らないとはいえ、それでも”あの”ザンザスが誰かに優しさを向けようとするとはね」)
あの時と同じように、優雅に足を組みソファーに座る彼はやはり何かを忌々しく憎むかのように眉間に深く皺を刻み込んでいる。
「ちゃんと手土産は持ってきただろうな」
昼間にも関わらず閉め切られたカーテンのすき間から太陽の光が差し込み、不機嫌そうな顔のザンザスをうっすらと浮かび上がらせる。
「あ、うん。それでいいって言われたからクッキー持ってきたよ。本当にこんなのでいいの?」
「るせぇ 黙ってそこに置け」
綺麗にラッピングされたクッキーの袋をつまみ上げ、ひとしきり眺めると軽やかな手つきで包装を解き一つを口に放り込んだ。
静けさが横たわる部屋で小さな咀嚼音が響き渡る。
「(すごい、びっくりするくらい似合わない……)」
ファンシーな包みのクッキーを片手にもぐもぐを口を動かすその様は、暗殺部隊のボスには到底似つかわしくない見た目をしていた。
原作で垣間見た過去には、他人に思いをかける様子は一切なく、食事に同席した分家筋の人間でさえ蹴散らす場面がある。
そんな彼がクッキーなどというマフィアとしては全く不釣り合いな食べ物を口にしている。
満足気……とまでは程遠いものの、普段の不機嫌な空気がほんの少し和らいでいるのを肌で感じ取る。
三回目に訪れた際は不機嫌なタイミングだったようで、部屋に入るなり花瓶が飛んできて真横の壁に直撃していたが、その時はザンザスが出生の真実を知ってしまったのではとずいぶん肝を冷やしたものだ。
「……今日はブランデー入りか」
「うん。大人向けの味も良いかなと思って。料理長にものすごい反対されたけど、九代目にあげるからって説得したんだからね」
やれやれ、といった様子で肩をすくめる桜にザンザスは”ハッ”と軽い笑みを浮かべる。
「ここの奴らは余計な世話焼きと心配性が多いからな。嫌ならテメェお得意の能力でも出して威嚇しろ」
嫌味ったらしく言葉を吐き捨てるザンザスだが、桜にはそれがザンザスなりのささやかな労いなのだと感じ取っていた。
「それもいいけどさ。ザン兄、また修行見てくれるんでしょ?」
「チッ……覚えてやがったか」
面倒そうな顔をしながらも渋々と立ち上がるザンザスに、今度は桜が嬉しそうに笑み浮かべた。
三度目に来訪した際、花瓶を投げつけられた後に憤怒の炎を受けそうになった桜だったが、その時の緊張感がたいそう気に入ったようでザンザスにまたやって欲しいと自ら願い出た。
その時のザンザスは虫の居所が悪い気分で、桜の突拍子もない希望にも”頭がイカれたか”とほくそ笑んだものだったが、それが殺し屋になるための修行だと分かった時はさすがのザンザスでも呆気にとられたものだ。
またやってくれ、とせがむ桜にザンザスはその場を凌ぐ程度の気持ちで「気分次第でまた今度」と適当にあしらってしまった。
それがまさか四度目に続き、今回の五度目でも懇願されるのだった。
しっかり断ろうにも、憤怒の炎を突きつけると喜ばせてしまうため威嚇にもならない。
ザンザスは柄にも無く密かに後悔の念を抱いていた。
「ザン兄の炎の色、好きだなぁ……本当に綺麗な色」
魅入られたかのようにうっとりと見つめる桜の表情と言葉が、今まで関わった人間が自身へのご機嫌取りのために繕うものとは全く別なのだと窺えた。
「……うるせぇ。集中しろ」
「ふふ、ありがとう」
徐々に獣へと姿形を変えながらも嬉しげに笑う桜に、ザンザスは言いようのない気持ちに苛立つかのように舌打ちをこぼす。
しかしそれでも、”ザン兄”と許した覚えもない呼び方で慕うこの少女を殺そうとは思わなかった。
こんなものは一時の気の迷いだと、蓋をするようにしまいこんだその感情に十数年経ってから名前がつくとは、この時のザンザスはまだ知る由もない。
桜がこの部屋を訪れてからだいぶ時間が経ったのだろう、閉め切られたカーテンのすき間からオレンジ色の光が差し込む。
昼夜関係なく任務に出かける暗殺部隊とは違い、桜はまだ規則正しい生活を送っている。
時間帯からしてそろそろ夕飯のタイミングと思われる。
「……九代目が呼んでる」
能力を出してる分、鋭くなった桜の聴覚は遠くで話す九代目の声を捉えていた。
「そうかよ。じゃあ今日は終わりだな」
スゥ、と憤怒の炎を消すザンザスに桜は不満げに顔をしかめる。
「残念……また近いうちに来てもいい?」
「来たけりゃ好きにしろ。誰もいねえがな」
「え、なんで?」
「しばらくは長期で夜の任務だ。てめぇはおねんねの時間だろ」
さっきまで炎を出していた右手でそのまま桜の頭を小突くと、ザンザスは飽きたようにソファーへと身を沈めた。
「そっかぁ……昼間だとザン兄寝てるもんね」
しゅんとする桜の様子は本当にザンザスを慕っているのだと分かる。
「チッ。帰ってきたら相手してやる んな顔すんじゃねえよめんどくせぇな」
「ほんとに!?ありがとう!」
ころころと表情を変える桜はまるで子犬のようだ。
帰る時間が迫り部屋を出ようとドアに手をかけ、ふと何となくザンザスの方を振り返る。
「次に会えるとしたら、九月か十月くらいかな……それまで修行もお菓子作りも頑張るね」
聞こえているのかいないのか、返事をしないザンザスにくすりと笑みを浮かべ、桜は再会を心待ちに部屋を後にするのだった。
自分で口にしたその時期が、ちょうどザンザスの運命を変えるタイミングになるとは思いもせず──。
───***───
その夜、桜の元へとある者が訪れていた。
やることを済ませそろそろ寝ようかと準備していたその時、開けていた窓からトンと床を踏む音が小さく響く。
「……ん?」
「にゃーん」
桜が振り返ると、そこにはあの黒猫が優雅に佇んでいた。
「君か。最近見なくなったからもう来ないのかと思ったよ」
最初に会った頃は前世の終わりに見た黒猫と勝手に同一視し、猫に話しかけるには不釣り合いな質問を投げかけたものだったが──……
「はい、どうぞ」
黒猫が何回か訪れる頃には猫用のミルクを密かに用意し、丁重にもてなすくらいには心を許していた。
ひとしきりミルクを堪能した黒猫はぺろりと赤い舌で口周りを舐め、おもむろに桜を見上げた。
「こんな時間に誰か来るとも思えないし……久しぶりに来たってことは何かあるのかな」
黒猫が訪れる時は直後に必ず誰かが来る、というお決まり事があったものだが、時間帯とタイミングからして考えにくい。
不思議に思いながら黒猫を見つめ返すと、紺碧と碧緑のオッドアイは時おり何かを伝えるかのように煌めく。
桜がボンゴレに引き取られ、体調も安定し生活が穏やかなものになるうち黒猫は姿を見せなくなっていた。
何かを暗示するかのように再び現れた黒猫は、果たしてどんなものを引き連れてくるのか。
「にゃー」
手を伸ばし喉元を撫でると、黒猫はゴロゴロと喉を鳴らし気持ちよさそうに目を細めた。
(「いや……これ案外何もないパターンかもしれないな」)
下手に不可思議な体験をしてしまってるせいか、ちょっとでも変わった出来事に意味を見出そうとする自身に桜は呆れるように笑う。
「いくら転生なんて非常識な体験したからって、あれもこれも不思議なことに繋がるわけなんてないよね」
すると、黒猫は唐突に桜の手からするりと離れた。
惜しむように右手を見つめる桜に、黒猫はしばし見つめる。
そして直後。
「……フーっ」
ただ息を吐いただけか、それともため息なのか。
猫らしからぬ行動に桜は呆気に取られた。
「えっ……アレ、ため息……?えっ……?」
苛立たしげに床を尻尾でパシンとひとつ叩くと、黒猫は飽きたように入ってきた窓から外へと帰って行った。
思いもよらない黒猫の一連の行動に、桜はぽかんと佇む。
「何だったの今の……」
撫で方が気に食わなかったのだろうか、と悩みながらもベッドに入る桜に、黒猫の意図は伝わっていなかったのだった。
桜がその意味を何となく知るのはもう少し後のことだ。
___to be continued.