ゆっくりだったか、唐突だったか。
そんなことさえ分からないまま桜の意識は覚醒した。
しかしまぶたが開けられるような目覚めではない。
桜のいるところは人肌ほどの温かさを持ったぬるま湯の中で、ただ冬場の猫のように丸くなりながらたゆたっていた。
遠いのか近いのか、どこからか規則的な心拍音が聞こえている。
一定の速さで体内を刻むその音を感じとりながら桜は脳内で様々な思考を巡らせていた。
自分は家に帰る途中だったはずではないのか?ここはどこで今はいつなんだろうか?
あの黒猫と赤い月夜はなんだったんだろうか?
自分の母親は心配していないだろうか?
直前まで連絡のやり取りをしていた親友はどうしているだろう?
疑問は次々とあふれ脳内を満たし、それは明確な答えを見出せぬままかき消えていった。
時間を指し示す物が無いため、どれ程の時を費やしどれ程の時が流れたのか知る術は全く無い。
今の桜にとって、時間が分からないというのは最も不幸であり、また幸せでもあった。
とにかく時間を気にする日本人は大人に近づいても大人になっても、常に時間に追われ時間を気にしながら生活している。
通勤などで使用する電車でひとたび運転を止めるような事案が発生しようものなら、駅のあらゆるところから舌打ちが聞こえるほどだろう。
それほどまでに時間という概念は生活する上で絶対的に必要不可欠だった。
その「時間」が分からなくなり、この状況を一刻も早くどうにかしたい桜には、もどかしさを募らせる原因となるのは必然である。
しかしその必要であるはずのものとは裏腹に、束縛や足かせでもあった時間から解放され安心したのは紛れもなく自身の心が感じた証拠でもあった。
桜の焦る心に安定と平穏をもたらしたのはそれだけではない。
不定期に襲う眠気と規則的な心拍音で桜は幾度となく深い眠りに堕ちていたが、回を重ねるごとに焦燥と不安を帯びた心は落ち着きを取り戻していった。
それは一種の諦めかもしれない。
しかしどうにもならない状況で早急に答えを求めても結局何かが変わることなどまるで無かった。
ただその時が来るまで自分はここにいればいいのだと、半ば無理矢理のようにひとり納得した。
数えられぬほどの眠りと覚醒を何度も繰り返し、強張った体をほぐすように寝返りを打つのを暇つぶしに脳内で数えたのち、ついに変化が訪れる。
地震のように足元から重みのある振動が伝わり、釣り上げられるように体が上に移動し始めた。
自分を包み込む壁がまるで生き物のようにうねりながら脈打ち、だんだん足元から締めつけるように収縮し始めるその変化に、桜は言いようのない不安と小さな希望を胸に抱いた。
頭の割れるようなこの痛みに耐えれば、きっと何かが分かる。
そんなことをひたすらに信じ、桜はただ目蓋から通して見えるほのかな光だけを目指して苦しく狭い道を突き進んだ。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
長かっただろうか、短かっただろうか。
時間の長さはやはり分からなかった。
しかし今の桜が理解したのは、ついさっきまで自身がいた場所は一人の女性の胎内だったということだった。
そしてたった今耳にした、特定の状況下でしか聞かないその台詞。
喉の奥から湧き出るこの鳴き声は誰のものだろう。
己の耳を澄ませても、それは赤ん坊が発する声だった。
けれど何をどう聞いてもそれはどことなく悲しみを帯びた泣き声でもあった。
たった一つの疑問に答えてくれる人はいない。
張り裂けそうな悲しみと絶望に応えてくれる人もいない。
何も知らないこの世界で、ひとりぼっちだと思いたくないがために手を伸ばした。
虚しく空を切るだけだったはずの左手を握ったのは誰だろうか。
温かく大きな手で頭を撫でてくれるのは誰だろうか。
その心地良さの名前を知るのはもうしばらく先のことである。
__to be continued