縢秀星と監視官のとある女性の話。
主人公は常守朱の前任設定です。
恋愛要素なし。独自解釈多め。


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烙印の罪

 どうしても、証明してやりたかった。

 

 

 ***

 

 

 その日、公安局刑事課一係で執行官を勤める彼は、珍しくも朝から上司の機嫌を窺っていた。仏頂面が基本装備の堅物上司は、どれだけその顔を眺めてもご機嫌が不機嫌かなどわからない。狡噛や征陸ならわかるのかもしれないが、残念なことに縢はその特殊技能を会得していなかった。

 

「ねーギノさん、ちょっといい?」

 

 盗み見ていてもわからないのなら、宜野座の機嫌を気にしていても仕方がない。それに執務室(オフィス)にふたりだけのタイミングなんて今しかない。そう判断した縢は、休憩に席を立とうとした宜野座の前にさっと飛び出る。鉄仮面が、わずかに眉を上げた。何だ、と宜野座は言葉少なに問い返す。珍しく下手に出る様子の縢に、疑わし気に目を細めた。

 

「あのさ、来週、ちょ~っとだけ出かけたいんだけど、ついてきてくんない?」

 

 お願い、と両手を合わせて首を傾ける。

 規定上、潜在犯である執行官は、監視官の同行なしに外出をすることができない。そして監視官としては捜査以外で外出を許す理由も特になく、その義務もない。実際、宜野座がそう簡単に許してくれるとも縢は思っていなかった。しかし、外出の理由が理由なだけに、何となく常守には言いにくい。

 おそらく即座に切り捨てようとした宜野座が、その口を開いて一瞬止まる。そのまま少し間をおいて、考えるように視線を動かした。

 

「……その日、俺は別件の予定が入っている。常守に頼め。時間は調整してやる」

「えっ」

「何だ、その顔は」

「……いや、前向きに検討してくれるとは思わなくて」

 

 ひくりと宜野座の眉間に皺が寄る。思わず本音が零れ落ちたその口を、縢はさっとおさえた。えっへへと誤魔化すように笑う。

 眼鏡のブリッジを上げた宜野座は、変わらず冷ややかな表情のまま続けた。

 

「執行官の外出に同行するのは監視官の服務規程だ」

「ははは……ごめんってギノさん」

 

 そして縢は気づく。自分が来週、としか言っていないのに、宜野座が日程をすでに把握していることに。はっと宜野座の顔を見返すが、彼の静かな表情からは何も読み取れなかった。ギノさん、と縢の口が動く。

 それを無視して、宜野座は縢の横を通りぬける。よどみのない足音が、これ以上何も話すことはないと語っていた。自動ドアに吸い込まれたその背を見て、縢は思う。

 

「……意外と、たまーに、甘いんだよなぁ、ギノさんて」

 

 おっとこれを聞かれたら怒鳴られる、とまた縢は口元に手をやる。外出の事情を知らない常守に頼むのはいささか気まずいが、宜野座にああ言われては仕方がない。彼女に頼み込んで何とかするか、と縢は苦笑する。

 少々気恥しくはあるが、「事情」も話してやるか、と縢は思いなおす。きっと、常守も興味深く聞くことだろう。何せ、自分の前任の監視官に関わることなのだから。

 

 

 ***

 

 

 皮肉なほどにいい天気だ、と縢は空を見上げた。

 縢の腕には小さな花束が抱かれている。豪勢で華やかなものではなく、大昔ならその辺の道端に自生していたような花をまとめた質素なもの。今の時代ではかえってそういう花の方が手に入れるのは困難だったが、仕方がない。縢は彼女の好きな花など知らなかったが、少なくとも主張の強すぎる花を好むとは思えなかった。

 

「私、ここで待ってるね」

 

 明らかに気を遣った様子の常守は、運転してきた車の傍でそう言った。その花束と、この目的地。どんな鈍い人間でもある程度の事情は察するというものだ。

 しかし縢はあえていつもの調子でそれを笑い飛ばす。

 

「え~いいの? 俺逃げちゃうかもよ?」

「縢くん、」

「気ィ遣わなくていいからさ、来てよ。ひとりでしんみりとかいう柄でもねーし」

 

 花束を肩にかつぐ縢は、本当にいつも通りの笑顔だった。少なくとも、常守の目にはそう見えた。

 わずかに躊躇ったあと、常守は頷いて足を踏み出す。そして縢もまた、小さく頷き、目的の建物に向けて歩き出した。

 あらゆる科学技術が発達し、そして今日のように晴れ渡った青空のもとにあっても、その建物はどこか陰を孕んでいる。ふたりが足を踏み入れたのは、この時代に宗教というものの残り香をわずかに漂わせる数少ない場所。市民の遺骨が保管される、集団墓地だった。

 

 

 *

 

 

 大昔ならあったという冷たい土の匂いはしない。ドローンによる整備で清潔に整えられているおかげで、墓掃除という概念はすでに消えていた。

 傷一つない墓石の前に、縢はそっと花束を置く。昨年の今日、この墓石の下で眠る彼女は人生を終えた。最期を看取ったのは、縢だった。

 

「今日、命日なんだよ。一周忌ってんだっけ?」

 

 墓石を見つめたまま、縢は口を開いた。

 

糸遊(いとゆう)月乃(つきの)。……一係の元監視官。朱ちゃんの前任だよ」

 

 はっと、常守は目を見開いた。詳細は聞いていないが、一年前に殉職した監視官がいたことは知っている。色相についての研究者であったが、その研究の一環として一時的に監視官の職務に就いていた人物がいたと。もともと監視官の適性もあり非常に優秀な功績をあげていたが、ある事件で追い詰めた犯人の凶弾によって彼女は倒れたという。

 口元に笑みを浮かべつつも、縢の目は少しだけ切なげに伏せられた。

 

「小柄でけっこー可愛い感じの美人なのにこれまたきっつくってさ。ギノさん以上の無表情で、めちゃくちゃ辛辣に毒吐いてくんの。いっけすかねー監視官だと思ってたんだけどさ」

 

 思ってたんだけど、と縢は繰り返す。その次の言葉が、なかなか出てこなかった。

 縢の脳裏に浮かぶ、彼女の姿。いつだって無表情で、ひとを見下すような視線を投げていて、唯一見た笑顔は血濡れのそれだ。縢の手が強く握られたことに、常守は気づいた。

 

「……けど、それだけじゃなかったんだ」

 

 ただの、いけすかない監視官ではなかったのだ。特に、縢にとっては。

 

 

 ***

 

 

「本日付けで配属になりました、糸遊月乃と申します」

 

 にこりともしない氷のような表情に、同じく冷え冷えとした声。お前たちと仲良くする気など欠片もないとでもいいたげの態度だった。執行官を人間扱いしない監視官など珍しくもないが、ここまで露骨な態度の者もなかなかいない。

 

「彼女はもともと研究機関で色相の研究をしていて、そのサンプルデータの収集も兼ねて監視官として勤務することになった。そのため限定的な配属となるが、業務内容は何ら変わりない。今後、一係は糸遊監視官と俺の二人体制で捜査指揮にあたることになる」

 

 宜野座にそう紹介され、糸遊は軽く頭を下げた。

 くせのある髪を背中まで伸ばし、首元でゆるく結っている。小柄な身体に大きな瞳はかわいらしくさえあるはずなのに、その眼差しがすべてを打ち消していた。

 

「もともと監視官の適性もシビュラに認められていたゆえの特例措置です。短い付き合いにはなるでしょうが、よろしくお願いいたします」

 

 そして執行官には一瞥もくれず、彼女は背を向けた。

 あまりに露骨な様子に、執行官たちは互いに目を合わせ、そして肩を竦めてそれぞれのデスクに戻る。人間扱いされないことなど今更だ。しかし唯一縢だけは、彼女に背を向けつつも、その顔をじっと見つめていた。

 

 

 *

 

 

「なんっなわけあの監視官!!」

 

 がつ、と嫌な音をたてて酒瓶がテーブルに叩きつけられる。酒の味を覚えだした年若い後輩に、征陸は苦笑しながら声を掛けた。

 

「おいおいそいつは気に入りの酒なんだ、割らないでくれよ?」

「だってとっつぁん!」

「何だ縢、荒れてるな」

 

 紫煙をくゆらす狡噛にからかうように言われ、縢はまたぎりりと歯を噛みしめる。

 新しい監視官の着任から一週間が経過した。しかしその一週間足らずで、すでに糸遊と縢は犬猿の仲になっていた。

 

「初対面アレだったけど話してみたら印象変わるかと思って話しかけてたのにさ、ずーっとあの調子! 嫌味と毒舌ばっか! 果ては『必要もないのに話しかけないでくれませんか。貴方と違って忙しいの』だよ!?」

 

 絶妙に特徴を捉えた物真似に、思わず征陸と狡噛が噴き出す。

 あれほど冷淡な自己紹介を受けたにも関わらず、縢は隙を見ては糸遊に話しかけていた。そのたびに氷の対応に撃沈し、拗ねてみせてはまた繰り返す。あまりに懲りずに繰り返すので、随分と鋼の神経をしているものだと狡噛はいっそ感心していたのだが、そろそろ縢の堪忍袋も限界だったらしい。糸遊は誰に対しても冷淡な態度で接するが、縢に対しては特に顕著だった。

 

「こっちだって別に仲良くなりたかねーけど、何で俺にだけあんな態度悪いわけ!? 俺が何したってんだよ!!」

「何だ、仲良くなりたいわけじゃなかったのか」

「え?」

「いつになく積極的だったろ、お前」

 

 狡噛の言葉に、ぎくりと縢は肩を揺らす。どうやら一応の自覚はあったらしい。

 縢は人見知りをするタイプではなく、誰に対しても物怖じはしない。しかし、誰とでも仲良くしたがる人間かと言えばそうではない。気に入らない人間に自分から話しかけにいくほど物好きでもなかった。

 その縢が自分からたびたび話しかけに行き、無自覚かもしれないがその顔を時折ぼんやりと眺めている。これは縢にも遅い春が、と思ったりもしていたのだが、どうやら狡噛の邪推であったようだ。図星を指された様子ではあるが、縢の表情にそういった感情は見えない。

 

「べっつに……んなことねえし」

 

 誤魔化すように、手元の酒瓶を景気よく呷る。狡噛は征陸に、これ大丈夫か、と目で語りかけた。苦笑した征陸は、小さく肩をすくめる。そして再び、縢に目線を戻した。

 

「まあ、監視官としちゃ文句なしに優秀なんだがなぁ」

 

 そうひとりごとのように征陸が呟くと、縢はまたぴたりと口をつぐむ。

 

「昨日の捜査、危なかったところを助けられたんだろ?」

 

 縢は答えない。昨日の事件を思い起こした狡噛もまた、言葉を投げる。

 

「糸遊監視官が間に合わなかったらお前、やばかったらしいな」

 

 昨日は、街中で突如として暴れだした男の捕り物が行われていた。直前まで色相に問題がなかったにも関わらず、その一瞬で色相が濁りだし、そして何の前触れもなく近くにいた通行人に襲い掛かった。

 すぐさま一係が急行したものの、犯人はスラム街に逃げこみ、追跡は難航。違法な薬物の摂取により犯人の身体能力は人間の域を超えており、単独犯にも関わらず追跡は数時間に及んだ。

 監視官ふたりの指揮とドローンの配備により犯人を袋小路に追い込むも、その抵抗はすさまじかった。縢が犯人に向けたドミネーターは、三百を優に超える数値を叩き出す。しかし、その引き金を引こうとした一瞬、縢の視界から犯人が消えた。

 縢のドミネーターの下、その懐に一瞬にして移動した犯人。やば、と縢が顔色を変えるより先に、縢の身体が吹っ飛んだ。背後からその横腹を蹴り飛ばした張本人が、ドミネーターの引き金を引く。赤黒いものが、宙を舞った。

 後方で指揮を執っていたはずの、小柄な監視官。その外見から予想も出来ないほど、機敏で、強烈な蹴り。そして、目の前で肉塊を形成しても顔色ひとつ変えないその胆力。監視官としての適性を見せつけるには、十分すぎた。

 

「ちゃんと礼は言ったのか、縢?」

「……言おうとしたんだよ、一応」

 

 からかうように言った狡噛に、縢は唇を尖らせる。その脳裏に浮かぶのは、その直後のこと。痛む脇腹をおさえながら起き上がる縢に、糸遊は変わらず冷たい目線を投げた。

 

『――狩りも満足に出来ない猟犬に、価値ある?』

 

 ぎりり、と縢は奥歯を噛みしめる。

 

『役立たずでも、死なれるのは困るのよ。貴方も貴重な観察対象(サンプル)なんだから』

 

 それを聞いた年長者ふたりはあー……と目をそらす。髪の毛でも逆立てそうな様子の縢に、苦笑を漏らすしかなかった。

 

「素直じゃねえというか何というか、難儀なお嬢さんだな」

「限りなく素直なんじゃねーの? めちゃめちゃ本音言ってる風だったけどォ?」

 

 ふん、と鼻を鳴らした縢は、完全にへそを曲げていた。

 そんな縢から、ゆるやかに立ち上る紫煙に目を移して、狡噛は思う。潜在犯を人間扱いしない人間は、珍しくもない。彼女の言うように、実験動物のように扱う研究者もだ。しかし、それにしては彼女は――。

 

「こらこらお前さん、いい酒をヤケ酒に使うもんじゃねえよ」

「あっとっつぁん!」

 

 さっと征陸が縢の手から酒瓶を奪う。度数の高い酒がまわってきたのか、縢はすでに赤い顔をしていた。もうちっと早く奪うべきだったか、と伸ばされる腕をかわしながら反省する。やれやれと、その寄って来る頭を押し戻した。

 

「その辺にしとけ、明日も仕事だ」

「まだ飲み足りないんだって、」

「駄々をこねるのはガキの証拠だなァ?」

 

 そう言われては、縢もそれ以上言い募るわけにもいかず。まだぶちぶちと文句を垂れながら、縢はふらふらと自室へ戻っていった。

 それを見送った征陸は新しいグラスを出し、手の中の瓶から琥珀を注ぐ。

 

「なあとっつぁん、アンタは糸遊監視官、どう思う?」

「何だコウ、お前さんもあのお嬢さんが気に食わねえか?」

「そうは言ってねえよ。監視官としても文句なしに優秀だ。指揮は的確、今回のことで腕がたつのもわかったし、なんだかんだで俺らの扱いも悪くねえ」

 

 狡噛の脳裏に、彼女のこれまでの言動が浮かぶ。

 

『誰が動けと言ったの、待機の意味もわからないの?』

『意見が欲しければこちらから聞きます。勝手に喋らないで』

 

 なかなかに辛辣で、毒がないと言えば嘘になる。しかし糸遊は、執行官を走らせはしても盾には使わない。出来る限りの安全性を考慮した指揮を行い、執行官を使い捨てることを嫌った。研究が滞るからだと本人は主張しているが、それだけではないように狡噛は感じていた。

 何より、昨日の捜査で彼女が見せた顔。縢が単独で犯人を追い詰めていると聞いたときの、位置的にほかの執行官の援護が間に合わないと報告を受けたときの、彼女の声は。

 

『――待機命令! 私が行きます!』

『糸遊監視官、何を、』

『あの狭い路地を、私より速く進める人間がいますか!?』

 

 そう怒鳴るように言い放って、通信は切れた。そして、あの活躍だ。

 狡噛とて、決して仲が良いわけではない。冷たい言葉や理不尽ともいえる叱責も食らった。それでも、縢のように腹は立たなかった。むしろ、この感情は――同情、だろうか。

 冷たい言葉、その口調。その時のわずかな呼吸の揺らぎと、それに手指の動き。そして時折、伏せられる目線。雑賀ほど精密なプロファイリング能力がなくてもわかる。糸遊月乃はあえて冷淡な態度をとっており、しかもそれに対して罪悪感に近い感情を抱いている。

 

「……随分と、無理をしてるように見えたんでな」

 

 安直な表現をすれば、おそらく糸遊月乃は「やさしい」人間だ。身体的であれ、精神的であれ、ひとを傷つけることをよしとしない。そんな人間が、あえて罪悪感を背負い、冷淡な仮面をかぶっている。罪悪感という感情は、色相の悪化を招く大きな要因のひとつと言われている。色相の研究者ともあろう者が、なぜそのようなリスクを背負うのか。狡噛には、わからなかった。

 狡噛の言葉を聞いて、征陸はふ、と笑みを浮かべる。年の功とでもいうのか、多くのひとを見てきた刑事の勘というのか、若者の虚勢を見抜けない征陸ではなかった。

 

「……なんか、あるんだろうなぁ」

 

 あえて執行官、特に縢に辛く当たる理由。

 もしかしたら、期間限定とはいえ監視官に就いた理由も。

 おそらく彼女には、やらなければならないことがあるのだ。それが何なのかはわからないが、彼女という人間を見ている限り、後ろ暗いものとは思えなかった。そして、そこに見える決意と覚悟というものは今の時代にそぐわず、それでいて好ましい。

 いくらか、その事情は予想できなくもない。だが、それを征陸が口にするのは野暮というものだろう。糸遊が口にしないのなら、征陸はその意志を尊重したかった。

 

「まあ、見守ってやろうや」

 

 随分と年寄り染みたことを言うんだな、と茶化す狡噛に、うるせえ若造、と征陸は酒瓶を放り渡した。

 

 

 ***

 

 

 集団墓地のしんとした空気の中で、縢の声は陽気に響く。

 

「あとで聞いたけど、俺以外のひとたちは皆、糸遊監視官が無理してるの気付いてたんだって。いや俺だって今になりゃわかるけどね? そんときはガキだったからさ」

 

 けらけらといつも通りに縢は笑うが、さすがに常守は苦笑するだけに留めた。

 

「優秀なひとだったんだ。それに、……やさしい」

「……うん」

 

 確かに優秀であったし、そしてきっとやさしかった。今なら縢も、素直にそう思えた。けれどまあ、感情的が過ぎたのはお互い様だ。()()()()()だったのだ、と縢は思っている。

 

「そのまま数か月、ずっとそんな調子でさ。一応俺もおとなになって、自分から関わりに行くのやめたら直球で嫌味言われることは減ったけど、まー仲良くはなれなくて。……ああでも、結構質問には答えてくれたかな。あのひとの専門だった、色相とか犯罪係数とか、捜査の中でそういうのの話題が出たときはいろいろ話してくれた。けっこーそれが面白くてさ」

「へえ?」

「さてここで朱ちゃんにクイズです。犯罪係数って何でしょう?」

 

 唐突に言われて、常守はきょとんと目を丸くする。

 

「……犯罪者になる可能性を表した数値?」

 

 それは、シビュラシステムがサイマティックスキャンによって計測するパラメータ。その個人が犯罪者になる危険性を示した数値。過去のさまざまな犯罪者の思考パターンの蓄積データに基づいた解析だと言われている。

 教科書通りの答えを返した常守に、正解、と縢は笑いかけた。

 

「犯罪者になりそうな奴ほど高い数値を示す。じゃあ、もういっこクイズ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 う、と常守は詰まる。そんなこと、考えたこともなかった。いや、おそらくシビュラの恩恵のもとに生きる多くが、興味も持っていないだろう。統計から得られたデータによる数値であり、その根拠など誰も考えもしない。考えずに済むよう、シビュラシステムが開発されたのだ。

 

「数値はあくまでも数値であり、その数値を読み解くのが研究者なんだって、あのひとはそう言ってた」

 

 シビュラを疑う必要はないけれど、それをより多くのひとに理解できるかたちに直すことはひとにしかできないのだと、彼女は言った。

 

『もちろんその数値は、ありとあらゆる因子をもとに弾き出されている。犯罪誘発因子なんて呼ばれているけれど、それも結局複数の因子を統合的にみることによって計測されているものに過ぎない。だから、言語化できるものには限界があるのは事実よ。だけど、ひとつでも多くの因子を読み解くことができれば、犯罪係数上昇の要因の解明に繋がる』

 

 犯罪係数が上がる要因がわかれば、下げる対策も立てやすい。

 そう言った彼女の声は、ひどく真摯だったと、縢は思い返す。犯罪係数なんて研究してどうすんの、という縢の軽口に毒舌を返すことも忘れて語る彼女は、研究者としての矜持に満ちていた。

 

『色相をクリアに近づける方法はいくつか開発されているけれど、どれも万能ではなく、対象との相性があり得意不得意がある。手当たり次第にカウンセリングだの薬だの使っても効率的でないどころか、逆効果の可能性だってあるわ。より効果的に、そして対象への負担の少ない処置を行うためにも、この研究は必要なのよ』

 

 そう語る彼女は、正直なところ縢には意外に見えた。いつも執行官に辛く当たるくせに、その言葉ではまるで潜在犯を救いたいと思っているように感じられる。犯罪者予備軍の烙印を押されてしまったひとびとを、その境遇から解放したいと言っているようだった。

 そんな彼女に、思わず縢も嫌味を言うのを忘れた。へえ、と相槌を返すと、誰を相手にしているのか思い出した彼女は我に返り、いくつかの言い訳と嫌味を付け足す。その反応は、これが間違いなく彼女の本心だったのだと証明していた。

 

「仕事となると抜けはないけど、意外とそういうとこ抜けてたんだよねーこのひと。詰めが甘いっつーかさぁ。嫌いは嫌いだったけど、そういうとこはちょっと可愛かったかもね。今にして思うとだけど」

「今にして思うと、なの?」

「今にして思うと、だよ。嫌われてんのに好きになりたくねーじゃん」

 

 不貞腐れたように言う縢に、常守は思わず噴き出した。縢くんらしいね、と言葉を漏らすと、絶対褒めてないよねそれ、とくすくすと笑う彼女をじとりと見る。

 

「ごめんごめん。でも、結局縢くんは、糸遊監視官のこと好きだったんでしょう?」

「え」

「こうして、お花を用意するくらいには。……嫌いになりきれなかった、の方が正しい?」

 

 からかう様子でもなく、まっすぐに見つめられた縢は、誤魔化すに誤魔化せず口ごもった。何と言うか、好き、と素直に言うにはあまりにも。

 

「……言っとくけどレンアイとかじゃねーかんな」

「わかってるよ。ひととして好きだったんだね」

「………………」

 

 せめて、からかう様子であったならこちらも存分に茶化せたと言うのに。どこまでも直球な常守は、こういうときに厄介だと縢は思う。同時に、そういう常守だから、こうして素直に話す気になったのだろうとも思った。

 彼女のことが好きだったのか。それとも嫌いだったのか。どちらも違っていて、そしてどちらも合っているような気がする。縢にとって、特別なひと。彼女に対してどういう感情を抱いていたのか、自分でもうまく言葉にできなかった。

 

「……まあ、嫌味言われてももうちょい食い下がって絡んどけばよかったなとは、ちょっと思ってっかな」

「……そっか」

 

 ぽつりと落ちた縢の本音を、常守は緩やかに受け止めた。それはもう、叶わない願い。しかし、願わずにはいられない、願いだった。

 

「……最後まで、詰めの甘いひとだったよ。俺を嫌いな振りを貫き通せば、……」

 

 あんなことになんか、ならなかったのに。

 

 

 ***

 

 

 糸遊がその実力を示したその事件は、犯人死亡により終結したかに見えた。いや、事実として問題なく執行されたと言える。何らかの違法薬物の摂取により色相の悪化、また身体能力の飛躍が起こり、暴走に繋がったとされた。残念なことに違法薬物の流通など今日び珍しくもなく、廃棄区画にでも飛び込んで薬物を入手したのだろうと、そのときはそれ以上の捜査は行われなかった。しかし、事件はそれだけで終わらない。

 その後も同じような事件が四件、続いた。犯罪係数が一気に三百を超える急激な色相の悪化、飛躍的な身体能力の向上、そして正気を失い暴れだす犯人たち。一係はこれらを一連の事件であると判断し、原因の究明にあたっていた。

 

「……どう考えてもさぁ、原因はあのクリニックだよね?」

 

 年齢、性別、経歴、あらゆる点で接点の見えなかった犯人たちを繋ぐキー。それは、色相の悪化をひどく恐れていた犯人たちが頻繁に通っていたという、メンタルケアのクリニックだった。犯人たちには過去に突発的な事件や事故に遭遇した経験があり、サイコハザードに巻き込まれて潜在犯となった過去があった。メンタルケアのセラピーにより社会復帰を果たしたものの、それ以来神経質なほどにメンタルケアに力を入れていたらしい。そして彼らは、足繁く通っていたクリニックのセラピストを妄信していた節があったという。

 

「しかし、彼の色相はクリアだった」

 

 縢の言葉を受けて、宜野座は何度も繰り返した言葉を吐く。

 共通点を見つけて以降、そのクリニックのセラピストには幾度か取り調べを行っていた。セラピストらしい物腰柔らかな態度にそぐわないクリアな色相に、ドミネーターはトリガーをロックする。そのセラピストの彼自身も、事件への関与を否定していた。

 

「色相悪化を招く薬物を患者に渡して色相が濁らねえなんてことは、まあ、ねえわな」

「意図的に渡していたわけでなく、処方する薬を間違えたが故の事故、ということは?」

 

 その場合色相は濁らないのでは、と言った六合塚に、狡噛は首を振る。

 

「いや、仮に違法薬物を処方したのが事故であったとしても、所持していた時点で犯罪係数は跳ねあがるはずだ。さすがにここまでの副作用がある薬が合法的に出回っているとは考えにくいしな」

「そうねぇ……もともと出回っている薬が原因なら、副作用が出ている人間がこんな少人数で済むことはないと思うわ」

 

 紫煙をくゆらせる唐之杜が、物憂げな表情で続けた。でも、と何かに気付いたようにキーボード上で指を躍らせた。

 

「確かこのセラピスト、バックに大きな製薬会社ついてるんでしょ? そっちから流れてきた新薬の実験に患者使ってたって可能性は?」

 

 色相をクリアな状態に近づけるために投薬をするのは一般的なことだ。ゆえにセラピストと製薬会社に繋がりがあること自体は珍しくもないが、このセラピストは製薬会社の社長と血縁があるらしく、薬の開発にも携わっているらしい。

 名推理~、と楽しそうに言う唐之杜に、宜野座は首を振った。

 

「患者をモルモットにして危険のある薬物を処方しているのであれば、やはりそれは犯罪係数上昇の原因になるだろう。再三言うが彼の色相はクリアなんだ」

「セラピストだから自分の色相をクリアに保てる……なーんて都合のいい話がないことくらいわかってますよ冗談ですハイハイ」

 

 ぎろりと冷たい監視官ふたりの視線を受けて縢は両手を上げる。セラピストにできるのはあくまでも対処療法によって色相をクリアに「近づける」「それ以上濁らせない」ようにアドバイスをすることくらいだ。素人より知識はあるだろうが、色相を完全に操ることなど不可能だ。そんなことが可能ならば、とっくにこのシビュラ社会は崩壊している。

 

「糸遊監視官、君の所感は?」

「……そうですね」

 

 じっと黙って資料に目を通していた糸遊は、宜野座の言葉で顔を上げる。

 

「このセラピストについてはまだわかりません。個人的には犯人たちが服用したと思われる薬の効能の方が気になっています」

「……効能?」

「何を目的として精製された薬なのか、ということです。つまり、その薬を精製した人物の目的ですね。ただ暴れさせることが目的ならもっと楽な手段はいくらでもあります」

「……確かにそうだな」

 

 ふむ、と狡噛が考え始めたところで、糸遊はまた何かを調べるように端末をいじりだした。研究者と思しきひとびとのリストが表示されていく。

 

「そしてそれについて、過去に読んだ論文で気になるものが。とりあえずその執筆者を調べて、可能なら話を聞いてみようと思うのですが」

「わかった。では俺は引き続きそのセラピストと製薬会社の方を調べよう。そちらは任せる」

 

 わかりました、と返事をして、糸遊は少し考え込む。いつもと変わらぬ無表情に少し苦みを足して、自分にだけ聞こえるように呟いた。

 

「……どんな研究でも、使いようなのよね」

 

 

 *

 

 

「何度もお時間を頂きまして申し訳ありません」

「とんでもありませんよ」

 

 温和な笑顔、柔らかい物腰、全てを包括するようなその雰囲気は、まさに聖人のようだった。彼の微笑みに、言葉に、どれだけのひとが救われてきたのだろうか。そんな彼を、縢はどこか冷めた目で見る。

 白と柔らかいオレンジで統一されたクリニックで、糸遊と縢は例のセラピストと対峙していた。糸遊は勧められたソファに座り、縢はその後ろに立つ。その縢の手には、すでにシビュラの意志が握られていた。

 

「いつ何時事件が起きるとも限りませんので、やむを得ずドミネーターの携帯を許可しています。どうかお気を悪くなさらないでください」

「当然のことでしょう、こちらこそお気遣いなく。……捜査の方は、いかがですか?」

 

 気遣うような、その様子。しかし今は、ただの嫌味にしか聞こえなかった。決して顔に出すなと言い含められている縢は、その余裕、今に崩れるから覚悟していろと内心だけで舌を出す。

 糸遊は気にした様子もなく、いつも通りの無表情と温度のない声で返した。

 

「実を言うと、進展がありました」

「!」

「今日はその話もさせて頂きたくて」

 

 進展、と聞いた瞬間に顔色が変わった。この反応を見ても、彼の関与はもはや疑い様がない。

 それは、と尋ねる彼に構わず、糸遊は話題を変えた。

 

「話は変わりますが、実を言うと私、色相の……特に色相の変化について研究を行っておりまして」

「は、」

「データ収集の一環として、期間限定で監視官の職についているんです。その研究課程で、色相悪化に悩む多くの方と面会してきましたが、本当に皆さん一生懸命で……根を詰めるのはかえって良くないとお話してもやはり悩んでしまうのでしょうね、頭から色相のことが離れないのだと仰る方が多かったです」

「え、ええ……。個人差はありますが、感受性が強かったり、物事を深く考えてしまう方の色相は変化が大きい傾向がありますね。このクリニックにいらっしゃるのもそういう方が多いです。考えまいと思っても考えてしまう……これは仕方のないことでしょう」

 

 突然の話題転換に驚きつつも、彼は一拍おいていつも通りの調子に戻った。精神的に不安定なひとと接することも多い職業だからなのか、ゆったりと糸遊の言葉に応じてみせる。

 気の毒そうに眉根を下げて、少し困ったように微笑んだ。

 

「だからこそ、そういう方々のお手伝いが出来ればとこうしてセラピストを続けていますが……しかし、やはり難しいと思ってしまうことはありますね。色相の悪化を防ぐ、確実な方法は確立されていませんから」

「ええ。研究に研究を重ねても、いまだ完璧な手法は開発されていない。研究者のひとりとしては頭の痛いところです。……ですが、いろいろな手法が考案されては学会で議論されています。その中には突飛とも思える手法があったりもするのですが、ご存知でしょうか、いつだったか、こう主張した研究者がいるんです」

 

 思考こそが、毒なのだと。

 セラピストの手が、一瞬震えた。

 

「ひとは思考し、想像して日々を生きています。そしてひとによっては、その思考や想像が悪い方へ偏りがちになってしまうことがあります。自分の思考、自分の想像、起きてもいないことや確証のないことで自分を追い込み、色相を曇らせてしまう」

 

 それ自体は、研究によってすでに立証されていた。ひとはその思考・想像から影響を受け、特に言語化など何らかの形に直してしまうとより強くその影響が見られる。これを上手に使えば色相の良化にも繋がるが、当然逆もある。

 色相の悪化に追い込まれた人間は己自身の思考と想像で己を追い込み、自ら色相を濁らせていくという事例は枚挙にいとまがない。

 

「ならば、一時的でも思考能力を低下させれば、色相の悪化を防げるのではないか、と。さすがに暴論が過ぎると学会では一蹴されましたが、当人はその方向で研究を進めていたようです。先日、その研究者とコンタクトを取りました」

 

 その研究者自身は、少々かなり変わり者ではあったが、基本的には善良な人物であったと糸遊は思っている。突飛ではあるが、彼自身は間違いなく色相の悪化を防ぐ手法について真剣に向き合い、研究を重ねていた。敬遠されがちな執行官に対してもごく普通に接し、同行していた縢と六合塚にもお茶を出し、むしろ話をしたがった。彼の色相は、非常に澄んだ色をしていた。

 彼が今も続けているその研究そのものに、罪はない。研究を続ける彼にも、罪はない。どんなものも、使い方次第だ。

 

「話を聞いてみると、ある企業から資金提供を受けて研究を続け、その研究結果をその企業に提出しているとのこと。彼が言うにはまだまだ実用段階には遠いそうですが、途中経過も欠かさず報告しているそうです。資金提供を受けているのだから当たり前のことだと」

 

 そう、それも決して不思議なことではない。あらゆる研究には、どうあがいてもスポンサーが必要だ。国家にしろ、企業にしろ、有益だと思われる研究に資金を提供し、その研究結果を優先的に提供させ、利益を得る。しかし彼の場合、そのスポンサーが問題だった。彼に資金を提供していたのは、このセラピストと繋がりのある製薬会社だったのだ。

 

「重ねて申し上げますが、何ら不思議なことではありません。まだ立証されていない、仮説の段階に過ぎない研究を利用して薬物を精製し、あまつさえ人体への投薬などしていない限りは、ですが」

 

 セラピストの顔色が、徐々に蒼白に近づいていく。

 縢はひとつ息をついて、その右手を上げた。ドミネーターの銃口が、セラピストに向けられる。合成音が、縢に語り掛けた。

 

《犯罪係数アンダー75》

《執行対象ではありません トリガーをロックします》

 

 しかし、彼の色相はクリアなまま。以前に計測したときよりは犯罪係数が上がっているが、いまだ執行対象ではない。()()()()()、と縢は内心で舌打ちをする。

 縢がドミネーターを下ろしたのを見ると、セラピストは勝ち誇った顔をして調子を取り戻した。

 

「もちろんそうでしょう、仮説はあくまでも仮説、立証されていない限り、その薬物の投与なんて危険極まりない。父の会社も、ただ研究の進捗を知りたかっただけでしょう。資金を提供している以上、それを無駄にされるわけにはいきませんからね」

「仰る通りです。ですが念には念をいれまして、少々調べさせていただいております」

 

 失礼、と一言断って、糸遊は手首の通信端末にスイッチを入れた。宜野座の姿が、空中に映し出される。

 

「宜野座監視官、進捗はいかがですか」

『ああ、今ちょうど連絡しようとしていたところだ。違法薬物の精製、人体への投与、その結果の詳細な記録、証拠としては十分すぎるほどだな。製薬会社の社長ならびに精製に関わった研究者たちへの執行も済んでいる』

 

 糸遊と縢がこのクリニックを尋ねると同時に、宜野座と執行官三名は件の製薬会社へと乗り込んでいた。対処が早すぎることをから察するに、おそらく武力で抵抗されたところを返り討ちにしたのだろう。

 さすが仕事が早い、と糸遊が応じると、世辞はいい、と素直でない堅物は眼鏡のブリッジを上げる。

 

『それから、ご本人たっての希望で例の論文の執筆した研究者にその薬のデータを見てもらっている。あ、ちょっと、』

『確か糸遊くんと言ったかねお嬢さん、聞こえるかな?』

「これは博士、先日は貴重なお話をありがとうございました」

 

 通信に割り込んできた白髪が、宜野座の制止も聞かず喋り続ける。

 

『こいつはひどい薬だな。危険も危険、確かに根底には私の研究があるようだが、こんな中途半端に活用されるとは思ってもおらんかった!』

 

 心底心外だと言う様子で、彼はその薬に対する見解をまくし立てる。

 曰く、この薬はヒトの脳を進化前の状態に近づける作用があると。

 

『ひとは自らの不安を形にすることでより己の恐怖を煽り、色相を濁らせる。形にするにもいろいろあるが、特に言語化は影響が大きい。ひとは言語によって思考を行うからな』

 

 であるならば、言語を忘れさせればいい。

 そんな安直な発想がこの薬の原点になっているようだと、彼は鼻で笑った。

 

『確かに私は思考能力を一時的に低下させることが色相悪化を防ぐのに有効であると論文には書いたがね、この薬を作った研究者は、どうも『低下』と『退化』を混同しとる馬鹿者らしい。まず製作者が言語の勉強をやり直すべきだな』

「では、やはり」

『うむ。一言で説明してしまうなら、この薬はヒトの脳が進化の過程で眠らせてきた部分を引きずり出すことによって、ヒトを『退化』させる』

 

 街中で暴れていた犯人たちの様子が糸遊の脳裏に蘇る。

 言語を忘れた彼らは、己に起きた変化に追いつけず、それを言葉に直すこともできないまま混乱して暴れていた。身体能力の向上は、脳の退化により普段使われていない部分を刺激されたことによって起きたオーバーヒートだろう。実際、彼らの異常な運動能力は彼ら自身をも傷つけていた。そしてその「混乱」はかえって色相を悪化させ、暴動を起こした彼らをシビュラは「危険」と判断した。

 本来期待されていた効能、色相の改善と全く反対の結果に繋がってしまった、というわけである。

 

『だが、厄介なのが、どうもこの薬、うっかり適合した人間が出てしまったらしい』

「適合?」

『被験者のなかでひとりだけ、大きな副作用もなく色相が劇的に改善してしまった人間がいる。このデータだけでは詳細はわからんが、この改善は異常だな』

「……ちなみに、その被験者の名前は」

 

 告げられた被験者の名前は、糸遊と縢の目の前に座る彼のもの。やはり、と糸遊は内心で頷き、縢はビンゴ、と口角を上げた。当の本人は、変わらない笑顔を浮かべたまま、脂汗をかいている。

 

『しかしまあ、未完成な薬ではありがちなことだが、服用を繰り返すことでだんだんと効果の持続時間は短くなっとるようだな。もはやジャンキーだ』

「ちなみに持続時間はどれくらいです?」

『そのときのストレスの負荷にもよるが、せいぜいが一時間そこらとデータにはある』

 

 なるほど、と糸遊は頷き、お礼を付け加えて通信を切った。改めて、向かいに座る哀れなジャンキーに顔を向ける。そのまま、背後にいる狼の名を呼んだ。

 

「縢執行官」

「はーい報告しまーす。俺たちがこの部屋に入っておよそ二十分経過してまーす。けど俺たちアポなしで来たし、直前まで別の患者さんのカウンセリング入ってたみたいだから、薬の服用からは結構時間経ってるんじゃないかと思われまーす」

「結構。では……もう少しお話しましょうか」

 

 その薬の効果が、切れるまで。

 そう糸遊が付け加えると、かろうじて笑顔を保っていたその表情が、崩れ出す。顎が震え、頬が痙攣し、もはや健全な人間のしていい顔ではない。

 その顔から目を背けることなく、糸遊は無慈悲に言葉を並べる。

 

「可哀想に、と申し上げましょう。そんな薬に適合してしまったばかりに、こんなことになって」

「な、…………!」

「何といってその薬を処方したんです? 色相悪化に怯えるひとびとに、非合法だから公には出来ないけれど、よく効く薬だから貴方だけに処方します、とでも? 彼らは日頃からこのクリニックに足繁く通ってお金を落としていたんですもの、信奉するセラピストにそう言われたら喜んで服薬したでしょうね」

「っ金などと下品なことは言わないでもらいたい!」

 

 初めて、彼は声を荒げた。ぜい、ぜい、と肩で息をし、指先は震えている。それが単なる興奮なのか、それとも薬が影響しているのか。ドミネーターを構えようとする縢を、糸遊が制する。飼い主がまだ早いと言うならば仕方ないと、縢はまた腕から力を抜いた。

 

「私は彼らを救いたかったのです! 色相の悪化に怯え、犯罪係数の上昇に震え、夜も眠れないと涙を流す彼らを救いたかった! 私も同じ悩みを抱えていたから! だから私を救ってくれたこの薬を渡したんだ! 危険もある薬だと説明して、服用するかは自由だと伝え、それでもなお飲むことを望んだのは彼ら自身だ! 私は悪くない! 私は悪くないんだ!」

「ご心配なく。それを判断するのは私たちではなくシビュラです」

 

 面倒だとでも言いたげに糸遊は切って捨てる。いくら弁明しようと、それが罪かを判断するのはこの社会の秩序を守る、シビュラシステムだ。そこに個人の感情を差しはさむ余地はない。己が無実だと思うのなら、胸を張ってシビュラの判断を待てばいい。

 糸遊が静かにそう告げると、今度はその全身が震えだす。

 

「違う、っ違う、私は犯罪者じゃない、犯罪係数だって、あの薬を飲めば、私はクリアだ、違う、私は、私は、隔離は嫌だ、潜在犯は、あんな、嫌だ、あんなクズどもと、この私が、そんな、」

 

 うわあ、と思わず縢は半歩下がる。

 その瞳にはすでに光はなく、前を見ているようで何も見ていない。思考が毒になると先ほど聞いたばかりだが、こういうことか、と縢は思った。事実よりも己の思考、想像、妄想に囚われ、そして自滅していく。程度が過ぎればこうも病的なのかと、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

「私は健全な市民だ! ゴミどもとは違う!」

「……アンタ、その辺にしとけば? その言葉、これから全部自分に返ってくるんだしさ」

 

 思わずと言ったように縢が口を挟むと、血走った目が縢に向けられる。もはや、常人のそれではなかった。

 

「私をお前たち社会のゴミと一緒にするな!」

「……ええ、一緒にしないで頂きたいわ」

 

 唾を飛ばすその言葉に同意した糸遊に驚き、縢は顔を糸遊に向ける。縢の場所からは糸遊の旋毛しか見えないが、それでもわかった。彼女の、ほとばしるほどの怒りが。

 

「罪を犯した者と、罪を犯す可能性のある者。そこには天と地ほどの差があるのよ。貴方とうちの執行官を一緒にしないでくれる? ……虫唾が走るわ」

 

 怒りを抑え込んだ彼女は、どんな表情をしていたのだろう。彼女の表情を見たセラピストはひ、と引きつった声をあげ、転がる落ちるようにソファから下り、ドアへと走る。タイムアップ、と縢は小さく呟いてドミネーターを向ける。

 

《対象の脅威判定が更新されました》

《執行モード リーサル・エリミネーター》

《慎重に照準を定め 対象を排除してください》

 

 シビュラが彼に下した裁きはエリミネーター。犯罪係数が三百を超える危険人物は、この社会では生存を許されない。

 縢執行官、と低い声で彼女に呼ばれると同時に、縢はその引き金を引いた。

 

「……執行完了、と」

 

 よく磨かれた白い床が、赤く染まる。

 それを無感情な目で確認した縢は、役目を終えたドミネーターを肩に担いだ。

 

「……事件解決?」

「そうなるかしらね」

 

 やれやれと、疲れたように首を振る糸遊。その表情にはもう憤怒の色は見えない。いったいどんな顔で怒りを露わにしていたのか、そのポーカーフェイスからは想像すらできず。縢は何となく残念に思いつつ、その顔を見つめた。

 

「……何?」

 

 いつも通りの無表情、いつも通りの冷たい声。残念、と同時に何となく面白くなって、べっつにィ、と縢は笑ってみせた。先ほどの彼女の言葉を蒸し返したところで、どうせ素直じゃない嫌味が返ってくるだけ。ならばその言葉は大事に自分の中でしまっておこうと、縢はらしくもないことを思った。

 犯罪者と潜在犯を一緒にするなと、そう言ってくれたことが、嬉しかった。

 

「気色悪い」

「ひっでぇ」

 

 これでいいのだと、縢は思う。たとえ嫌われていようが、邪険にされようが、それでも。糸遊との関係はそれでいいのだと。そう縢が思ったそのとき、がちゃんと何か割れる音が響いた。

 音の方に目をやれば、このセラピストの秘書だという女性と、割れたカップ。どうやら話が長引いていると察して、おかわりを用意してくれたらしい。

 彼女は床に散らばる肉片を見て腰を抜かしていた。反射的にやば、と彼女に向けて足が動く。この光景は一般人には刺激が強すぎる。

 

「迂闊に近づか、!」

 

 縢の足が動き、糸遊がそれを制した、そのとき。

 この時代にも、当然銃器は存在する。しかしもちろん一般の人間がもつものではなく、たやすく手に入るものではない。それ故に、縢も油断した。まさかその彼女が、懐から黒光りするそれを取り出すとは、完全な予想外だった。

 そういえば彼女の犯罪係数は見たことがない。そんなことを思いながら、銃口が自分に向けられるのを見た。思考ばかりが有能で、肝心の身体が動いてくれない。自分に向けられた拳銃のトリガーに、指がかけられる。

 撃たれると、そう思ったときに自分の前にあったのは、黒い女性もののスーツだった。

 銃声が響く。縢に痛みはない。自分の目の前にある「誰か」の血が宙を舞う。その身体が、ゆらりと揺れて衝撃を受けとめ、そしてゆっくりと縢の方へと倒れていく。

 その光景を見た縢の口は、勝手に動いていた。

 

「―――姉ちゃん!!」

 

 絶対に、言うつもりのなかった言葉だった。

 

 

 ***

 

 

「―――姉ちゃん!!」

 

 ようやく呪縛の解けた縢は、ドミネーターを構える。躊躇することなくその人差し指に力を込めた。

 血が飛び散り、ひとが肉塊に成り果てることに構いもせず、縢は「姉」に駆け寄った。倒れ伏した彼女から円形に広がるその血だまりが、すでに手遅れであることを示している。

 気に入りのデザイナーズスーツが血で染まることも厭わず、縢はその傍に膝をついた。

 

「きづい、てたの……、」

 

 秀星、と血があふれるその口が言葉を紡いだ。その弱々しい声に、溜まらず縢の声は大きくなる。

 

「気付かねえわけねえだろ!! 名字変えたくらいで誤魔化せると思うなっつの!! ああもう喋んな、今救助を……!」

「い、いから、しゅうせ、」

 

 手首の携帯端末を立ち上げるその腕に、指の形の血がついた。その震える赤い手を、縢が握りなおす。

 

「も、まにあわない、から」

「馬鹿言うな!! 馬鹿、言わないでくれよ……っ!!」

「しゅうせ、」

 

 しゅうちゃん。そう言いなおした彼女の瞳には涙が浮かび、その口角は上がっていた。氷のように表情を動かさなかった彼女が、初めて笑顔と言える表情を浮かべている。それが今このときだということが、より縢の胸を締め付けた。

 通信を通して、怒鳴りつけるように救援を求めた。しかし、縢にもわかっている。この出血量では、もう、間に合わない。

 

「何で、……何で俺を庇うんだよ、俺のことなんて忘れたかったんだろ……!?」

 

 気遣うことも忘れて、徐々に冷たくなるその手を握りしめる。だんだんと強くなる握力は、どこにも行かないでと、そう言っているようだった。

 

 

 ***

 

 

 家族の記憶は、もうほとんど残っていない。

 五歳で潜在犯として隔離されることが決まったときの、呆然とした両親の顔。

 それから、もうひとり。そう、もうひとり、いたのだ。

 

 差し伸べられる、小さな手。

 しゅうちゃん、と呼ぶ、やさしい声。

 抱きしめられたときの、手を繋いでもらったときの、あのぬくもり。

 生意気ばかりのひねくれた弟を、それでもあいしてくれたひと。

 

 忘れたい、忘れたくない、思い出。

 もう会えないと思っていたし、会う気もなかった。

 糸遊月乃。いや、()月乃。

 正真正銘血のつながった、縢秀星の姉だった。

 

 

 ***

 

 

 糸遊が自己紹介をしたときは、どこかで会ったことがあるような気がする、と感じた程度だった。気のせいかと流していたが、彼女に接する度に既視感は消えるどころか募る一方。何となく気持ち悪くて、何気なく彼女の名前を呟いた、そのときだった。

 つきの、と自分の口が動いたとき、その自分の声を聞いたとき、蘇った記憶。幼いころ、まだ外を自由に走り回れたころの思い出。つきの、つきの。言葉を覚えたての頃は両親の真似をしてそう呼んでいたが、母にお姉ちゃんと呼びなさいと躾けられてからは姉ちゃん、と呼んでいた。今まで忘れていた記憶が、連鎖して呼び起こされる。

 糸遊月乃は、縢秀星の実姉である。実のところ、出会って間もないうちに縢はその事実に気付いてた。そして、気付かないふりをすることにした。何故なら、弟に気付いていないはずのない月乃自身が、そのように振舞っていたからだ。

 縢なんて珍しい苗字、しかも月乃は研究者や監視官を務めるほどのエリート。優れた記憶力を保持しているだろう彼女が、実の弟を本気で忘れているとは思い難い。だから縢は判断した。月乃は気付かないふりをしているのだと。もしくは、言葉にしたくもない事実なのだと。縢を、弟として見るつもりはないのだと。

 弟が潜在犯なんて外聞が悪いにもほどがある。施設育ちの縢にはよくわからないが、きっとそのせいで相応の苦労もあっただろう。だから月乃は弟を疎ましく思い、忘れようとしているのだと縢は考えた。征陸と宜野座というよく似た例を見ている限り、その推測は大きく外れてはいまい。腹立たしくはあったが、もともと縢はこの社会(シビュラ)を、市民を嫌っている。今更その理由がひとつ増えたところで、大したことではなかった。

 ならば今までと特に変わらず、監視官と執行官として接すればいい。そう思っていたことを、そのとき縢は心底後悔をしていた。

 

「わすれるなんて、そんなこと、できるわけ、ないでしょう」

「けど……!」

「どんなかおで、あえばいいか、わからなかったの」

 

 潜在犯として、隔離施設で育った弟。

 弟を隔離施設に追いやった社会とシステムに評価され、外の世界で育った姉。

 むしろ、月乃は月乃で恨まれていると思っていた。そうでなければとっくに忘れ去られているものと。

 監視官になることが決まり、自身が部下とする執行官のリストを見たとき、月乃とて心底驚いたのだ。

 

「ひさしぶり、なんて、どんな、かおして」

 

 だから、せめてもの抵抗として、月乃は母方の名字を名乗ったのだ。公私の別、科学者として潜在犯を曇りのない目で見るためなどともっともらしい理由をつけて公安局を納得させ、唯一事情を説明せざるを得なかった宜野座も言いくるめた。

 もともと月乃の監視官としての勤務は一時的なものだ、今だけやりすごせばいい。今だけ、大きくなった弟の傍にいたい、と。月乃は、そう思っていた。

 まさか、気付かれているなんて考えてもいなかった。

 

「わざと、つめたく、してたのにな、」

「やっぱわざとかよ……当たり強すぎてちょっとへこんだんだけど」

「それくらい、しないと、かくせそうに、なくて」

 

 姉弟としての、再会。しかしその時間が短いことに、ふたりは気付いている。いまさらだけど、と小さく笑って、月乃は口を動かした。

 

「おおきく、なったね、……それに、つよく、なった」

「そりゃー俺も二十歳こえたし? 執行官なんてやってりゃ強くなきゃ生き残れねーよ」

「からだも、だけど、こころも、だよ」

 

 姉の言葉に、縢は驚いたように瞬きをする。この時代に心、なんて言葉を使う人間は、何だか珍しいような気がした。しかも、潜在犯に対してその「心」を褒めるようなことを言うなんて。

 

「しゅうちゃ、だって、あなた、……とてもすごい」

 

 息も絶え絶えの状態のまま、月乃は驚いた顔の弟に笑う。そして繰り返した。貴方はすごい、とても立派だと。予想外すぎる言葉に、縢はただただ驚くしかない。潜在犯となってから、こんな言葉をもらったことがあっただろうか。

 

「あんな環境(とこ)で、とじこめられて、それでも、しゅうちゃん、まっすぐで、……じぶんで、かんがえて、えらんで、」

「……んなこと、」

「ある、の」

 

 声は弱くとも、その言葉は強く響いた。月乃の瞳は真剣で、決して身内贔屓からくる言葉ではないことが伝わってくる。月乃の冷たい手が、わずかな力を振り絞るように縢の手を強く握り返した。

 シビュラシステムの管理下において、()()()()()()()()()()()()()()()。安定した生存と引き換えに、ひとは人間性を投げ捨てている。そう月乃は思っていた。一歩間違えば反社会的だと見なされる思想をもっても潜在犯にならなかったのは、それでも社会にシビュラシステムが必要なことを理解していたからなのか、研究の中で多くの潜在犯(サンプル)を見てきたうえの感情に基づかない結論だからなのか、それはわからない。わからないが、運が良かったのは確かだと、月乃は弟を見て思う。

 縢秀星に関わる資料を見た。監視官になって数か月、その人となりを見た。そして思った。弟は、()()()()()()()()()()。自分の目で見て、考えて、判断することを知っていた。シビュラシステムが示す犯罪係数だけに囚われない善悪の判断を、少ない選択肢のなかであっても自分自身の意志で選択することを、己の足で立ってその足で進む生き方を、肌で理解していた。

 前時代的と言われても構わない、それこそがひととして生きることだと、月乃は思う。色相を研究し、シビュラシステムの示す犯罪係数を読み解き、市民(クリアカラー)潜在犯(濁った色)も見てきた月乃が、出した結論だった。

 

「あの、ね、しゅ、ちゃ、あのね、」

 

 だんだんと、月乃の握力が弱まっていく。わずかに瞼がおり、焦点が揺らいできた。姉ちゃん、と縢はまた強く手を握る。

 私はこんな姉だけど、と赤い唇が動いた。ぐっと顎に力をいれ、月乃は言葉を絞り出す。これだけは伝えなければという、その一心だった。

 

「あいしているわ、秀星。あなたがおとうとで、よかった」

 

 月乃は、そうはっきりと言いきった。

 縢の手の中で、その小さな手からすうっと力が抜ける。何も映さない黒い瞳は、硝子玉のように見える。いや、見えていた。縢の視界が、完全に歪んでしまうまでは。

 数分後に遅すぎた救援が来るまで、縢は熱を失っていく姉の身体を強く抱きしめていた。

 

 

 ***

 

 

「事件はそれで終わったけど、このひと……姉貴の話にはもうちょい続きがあってさ」

 

 墓石を見つめたまま、縢は言葉を続ける。

 その脳裏に浮かぶのは、遺品を整理している中で見つかったある研究データ。書きかけの論文にはまだまだ論拠と言えるものが足りなかったが、月乃がどんな研究に取り組んでいたのかを知るには十分だった。

 

「潜在犯が、それ以上色相を濁らせないために……色相を、クリアな状態に持っていくためにどうすればいいか。それから特に、幼少期に色相が濁ってしまった者への対処について。……一言で言うと、隔離なんかして改善するわけねーだろってことを証明したかったっぽい」

「それって……!」

「ああ、……俺のため、なんだろうな」

 

 シビュラシステムが導入されるより遙か昔に、社会から逸脱してしまった者について言及する理論がある。社会からの逸脱、すなわち社会のルールから外れ、罪を犯すこと――これは、行為者の内的な属性でなく、周囲からのラベリング(レッテル貼り)によって生み出されるのだという。つまり、ひとは犯罪者として扱われることによって、犯罪者となり得るのだと。

 月乃の研究は、この理論をもとにして進められていた。曰く、「潜在犯」という称号は、その個人と周囲にとって非常に強力な烙印(スティグマ)である、と。

 

『罪を犯す可能性がある者として扱われることそのものが、何より犯罪係数を高める要因になり得る』

『潜在犯という烙印は、その個人が健康な色相を取り戻す可能性を消し去るものである』

『色相の状態によって生活基準を区分けしてしまう現行のシステムはかえって色相の良化を妨げており、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ともすればそれは、隔離施設へ連行されてしまった弟に何もできなかったことへの贖罪だったのだろう。縢は、宜野座を通して姉が研究者であったときの同僚にこれを送ることにした。決してこのデータを無駄にはしない、と返事をもらっている。

 

「すっげー頭良かったのに、それを潜在犯(おれ)のために使うなんてな。……馬鹿だろ」

「……それ、逆じゃないかな、きっと」

 

 常守も、墓石から目を離さないまま、言葉を挟んだ。顔も知らない自分の前任者に、想いを馳せながら。

 

「きっと、縢くんのためにたくさん勉強したんだよ」

 

 自分の色相が濁ってしまう危険を顧みることなく、知識を身につけ、見識を広げて、研究の道を志したのだと、常守は思う。弟を守れなかった罪悪感を胸に、弟を隔離施設から救い出す方策を探すために。そして、弟と同じ道を辿るひとを、その家族を、ひとりでも減らすために。

 

「……そうなんかな」

「うん、きっと」

 

 何て、家族想いで勇敢なひとだろう。常守はそんなひとの後任になったことの重みを感じつつ、しかしどこか誇らしくも思えた。目尻に浮かんだ涙を、そっと拭う。

 

「素敵なお姉さんだね」

 

 その言葉に、縢は常守に顔を向けた。その顔に涙はなく、いつも通りの笑顔がある。そうだろ、とでも言わんばかりの顔であったが、照れくさいのか言葉はない。

 そしてもう一度視線を墓石にやり、背を向けた。

 

「さ、これで俺の用事おーわり。付き合ってくれてあんがとね」

「もういいの?」

「何言ってんの、長居しすぎたくらいっしょ。あ、ついでにちょっと買い物もいこーよ、今日付き合ってくれたお礼にメシ作ったげる」

「わ、やった!」

 

 縢の腕前を知っている常守は無邪気に喜ぶ。食べたい料理の話になり、あれやこれやと言葉を交わしながら、ふたりは歩き出した。

 縢は姉に手料理を振舞ったことはない。一緒にゲームをしたこともなかったし、姉の好きなものの話を聞いたこともなかった。すべてがもう手遅れだと、縢もよくわかっている。

 死者は蘇らず、過去は変えられない。その事実は幾度となく縢を苛み、その胸に痛みを残した。しかし、それでも。

 弟と、呼んでくれた。

 姉と、呼ぶことができた。

 愛していると、言ってくれた。

 手を握って、抱きしめることができた。

 縢が縢としてあがいてきたこれまでの人生を、肯定してくれた。

 それがどれだけ、縢にとって大きなことであったか。それがどれだけ、喜びであったか。たったそれだけで、「縢秀星」は胸を張って生きていけると思ったのだ。

 集団墓地を出て、青空の下で縢は大きく伸びをする。日光を全身に受け、その温もりを享受した。隔離施設では決して得られなかった心地よさが、縢の心に染みわたる。いつになく晴れやかな気分に浸り、濁った色相もこれで綺麗(クリア)になったらいいのになーなんて、心にもないことを思って、笑った。

 

「じゃ、材料買って帰りますか!」

 

 そして縢秀星は、いつも通りに今日を生きる。

 

 

 ***

 

 

 縢秀星にとって、これが最初で最後の墓参り(姉との再会)であった。

 




一応実際にある理論を参考に書きましたが、そのあたりは完全に素人です。

人間的で、ひねくれ方がまっすぐで、そして生きた彼が好きです。
彼がグソンに放った言葉が本当に好きでした。


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